家に帰りたい狩りゲー転移

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6章

(27)現実逃避

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 薄明の塔の麓は、上空の戦場と打って変わって静まり返っていた。降り続けていた雹は霙へと変わり、しとしとと瓦礫の山を濡らしていく。

 里の上空では、煌々と溶岩に照らされるマガツヒが泳いでいる。ツクモはそれを見上げながら、壊れた蛇口のように涙を流し続けた。

 跪いた彼女の膝の上には、左腕を失ったアンリがぐったりと横たわっていた。残った右腕を両手で握りしめても、アンリは一向に握り返そうとしない。瀕死の身体で三度も菌糸能力を使ったせいで、彼はいよいよ死のうとしていた。

 菌糸能力は生命エネルギーにも等しい。身体が限界を迎えているのに能力を行使すれば、文字通り魂を削ることになる。

 ツクモの『回帰』は時間を巻き戻すことはできても、壊れてしまったものは治せない。落下するリンゴを落下させ続けることはできても、地面に落ちたという結果が出てしまったら、もう戻せないのだ。

 今のアンリの魂は、ひび割れたコップから滲み出る水滴のようなものだった。ツクモの『回帰』は、ひび割れの上にガムテープを貼り付けた応急処置でしかない。コップを治さなければ、たとえ中身の水が戻ってきても、ひび割れが悪化して最悪の結果を招くことになる。

「誰か……助けて、ください……もう誰も、死なないで……」

 迫り上がる感情を抑え切れず、ツクモの口からはぽろぽろと勝手に言葉が紡がれた。

 ツクモは、誰かのために祈り続けるのは慣れていなかった。ずっと一人で戦ってきたから、助けを求める方法が分からない。浦敷博士から貰った自我データの中をいくら検索しても、この場に適した回答を見つけ出すことはできなかった。

「う……うぅ……」

 涙と嗚咽が止まらない。猛烈な不安で、感情の底が抜けてしまいそうだった。

 不意に、後ろから温もりを感じた。驚いて振り返ると、崩れた外壁の向こうから青白い光が近づいてくる。距離が縮まるほどに、ツクモの弱々しかった『回帰』が力を取り戻し始め、アンリの傷もじんわりと塞がり始めた。

「あ……ああ!」
「ツクモちゃん!」

 現れたのは、リョーホと同郷である旧人類の女性、宇田芸初美うたげはつみだった。後ろからも藍空研大を始め、他の旧人類たちが真っ青になって駆け上ってくる。

 五人の旧人類たちは、ボロ雑巾のようなアンリの姿を見て愕然とした。すぐに手が伸ばされ、ツクモ共々、五人分の『雷光』の光に包まれる。

 底をつきかけていたツクモの菌糸能力が緩やかに満たされていくのを感じる。みぞれに濡れて冷え切った身体に血が巡り、どっと両目から溢れる涙が増えた。

「もう大丈夫だからね」
「っ、はい……」

 ツクモは何度も深呼吸をして、アンリの治療の妨げにならぬよう、慎重に『回帰』を緩めていった。

 器の中身を入れ替えるように、『回帰』の比率が段々と『雷光』へ傾いていく。だが、アンリの崩れた傷口からは、新しい骨や肉が再生することはなかった。

「腕が……生えてこない……!」
「五人がかりなのに何故だ。力は十分に足りてるはずだろう!」

 動揺する旧人類たちに、ツクモは針を刺されたように胸が痛んだ。思わず顔を歪めてしまいながら、ツクモは躊躇いがちに声を絞り出す。

「この傷は、ダアトに付けられたものです。おそらく、再生するための組織まで融解してしまい、手足がことにされているのでしょう」
「そんな……じゃあアンリの腕も足も、一生このままってこと……?」
「……生きているだけで儲け物、とは言えない傷だな」

 宇田芸と元軍人の古噺武涛こばなしむとうが、悲痛な面持ちで目を伏せる。

 やがて、アンリのえぐれていた傷口は丸く窄まり、滑らかな皮膚で上から覆いつくされた。抉れていた左大腿部も、醜い凹みを残しながらも完璧に塞がった。

 そのときになってようやく、アンリの穏やかな呼吸音が聞こえた。顔色は悪いが、確かに上下する胸元を見て一同は安安堵のため息を漏らす。

 研大はツクモを労うように肩を叩くと、他の旧人類を見渡しながら立ち上がった。

「アンリはもう大丈夫。皆、次の負傷者を――」

『――――――――ッッッ!!!!』
 
 突如、今までとは明らかに違う悲痛な絶叫が轟いた。ツクモはバネのように飛び上がりながら、勢いよく空を仰ぎ見る。

 そこでは、マガツヒが激しく身を捩りながら、何度もハウラの結界に身体をぶつける姿があった。これまで大勢の狩人に攻撃されても平然としていたというのに、尋常ではない苦しみ方だ。

 レオハニーが何かしたのか、と全員の視線が溶岩の噴出口へと集まる。しかし、この距離からでは辛うじて彼女の背中が見えるだけで、何があったのかまでは読み取れなかった。

 ふと、マガツヒの長い首が山なりに捻れ、がぱりと顎が上を向く。

「見て! マガツヒの口から何かが――」

 風に吹かれた雪のような、小さな白が吐き出される。それは空中で何度も回転し、翼を広げて不恰好に羽ばたいた。

「なんだ、あのドラゴンは……」

 仮想世界でドラゴンの研究をしていた旧人類の一人が、肝が抜けたような声を漏らした。その外見は、NoDたちがかき集めたドラゴンのデータベースにすら、欠片も載っていなかったからだ。

 謎のドラゴンは、胴体に反してやけに翼が大きかった。か細い腕の中には、巨大な黒い宝石が抱えられている。飛びにくいだろうに、長い尻尾を巻き付けてまで宝石を放そうとしない。その異様な姿に、ツクモたちはしばし思考を停止した。

「お、追いかけよう!」

 宇田芸がはっとして声を張り上げると、研大は弾かれたように走り出した。ツクモもアンリを連れて立ち上がったが、途中で武涛が代わりに担いでくれた。

「俺達は負傷者を探しに行くから!」

 残りの旧人類二人は口早に言い残し、エラムラの中心を指差した。

 二人が向かわんとするエラムラの中心部では、空から戦いを終えた狩人たちが降りてくるところだった。その中には気絶して仲間に担がれている者もちらほら見える。旧人類たちは人命救助のために戻ってきたのだから、狩人たちを無視するわけにもいかないだろう。

「頼んだぞ」
「ああ!」

 互いに短くやり取りを終え、ツクモたち三人は研大を急いで追いかけた。

「ねぇ、マガツヒは討伐されたってことでいいのかな!?」
「おそらくはな。だがさっきのドラゴンがマガツヒの一部だとしたら放っておくわけにはいかない。復活の芽はできるだけ潰しておかなくては」

 宇田芸と武涛の会話を聞きながら、ツクモは思考を巡らせる。

 マガツヒは出現率も少ない分、その生態は謎に包まれている。マガツヒの調査を行ったNoDもほとんどが帰還を果たせず、討伐に向かい、生き残った狩人も数えるほどしかいない。

 今回の被害が最小限に収まったのは、マガツヒがまだ完全体ではなかっただけのことだ。もしあのままマガツヒがハウラの結界を破っていたら。際限なく巨大化していたら、周囲の土地から菌糸が奪われ、脱出したエラムラの民も一時間以内に死に絶えていただろう。

 武涛の推測通り、あの白いドラゴンがマガツヒの一部ならば、それを起点として再び災厄が起きてもおかしくはない。

 だが、ツクモはあのドラゴンを一目見た瞬間、言い知れぬ不安で胸がざわついた。その感覚は、偽物のロッシュの正体を暴こうとしていた時と酷似していた。

 知ってはいけない気がする。触れてはいけないのかもしれない。そんな思いが何度もツクモの足を鈍らせるが、迷いなく先頭を走り続ける研大に突き動かされた。

 ダアトによって薙ぎ払われたエラムラの山を下り、なぎ倒された木々を超え、ラビルナ貝高原へと駆け上がる。

 美しいパリュム草が敷き詰められていたはずのラビルナ貝高原は、見るも無惨に散らされていた。強風でほとんどの花弁が薙ぎ倒され、螺鈿模様の美しい岩肌に醜い傷が入っている。ゴモリーによる無差別攻撃は、エラムラから程遠い高原まで到達していたようだ。

「見つけた……」

 宇田芸が息を乱しながら呟く。荒れ果てた花畑の中心に、一人で佇む研大の背中があった。

 研大の視線の先には、件の白いドラゴンが四つん這いで蹲っていた。花びらを失ったパリュム草に身体を埋めるようにしながら、ドラゴンは首をもたげて牙を剥いている。雪の結晶を押し固めたような鱗は、所々に深い青が混ざって晴れ空を連想させた。分厚い翼の先端には小さな爪が生えそろい、三本指で地面を掴みながら身体を支えている。

 白いドラゴンは、研大を睨みつけたまま威嚇に徹していた。ドラゴンよりも一回り小さな研大に、いつまで経っても襲い掛かろうともしない。かといって飛び去ろうとする様子もなかった。

「ネフィリム……ではなさそうだね」

 武涛の呟きに研大が小さく頷く。

「あれ」

 ドラゴンを刺激しないよう、研大の右手が緩慢にとある場所を指し示す。

 その先には、ドラゴンの翼で隠された巨大な黒い宝石があった。地面に横たえられたそれはちょうど人間がすっぽり入りそうな大きさで、内側に閉じ込められたシルエットが灰色に浮かび上がっていた。

「あの黒い物体の中に、リョーホがいる」
「え、じゃあ、あの黒いのがマガツヒの一部ってこと? ならこのドラゴンは一体……」

 宇田芸が困惑しながら一歩近づくと、ドラゴンの唸り声が強くなった。今にも噛みつかれそうな迫力に、宇田芸はびくりとその場に硬直してしまう。

 その時、武涛に背負われていたアンリが小さく身じろぎをした。亜麻色のまつ毛が細かく震え、持ち上がった瞼の奥から緑色の瞳が現れる。

「アンリ、目が覚めたんですね!」

 ツクモが側に駆け寄ると、アンリは重そうに頭を持ち上げた。そしてツクモの肩越しに白いドラゴンを見つけ、ぼんやりと言葉を紡いだ。

「……エ、トロ」

 ツクモは、その単語の意味を正確に理解してしまった。薄々、その可能性は頭の片隅に浮かんでいた。だが、エトロの幼馴染である兄貴分が口にしたことで、それは明確な現実感を伴って、ツクモの精神を抉り取った。

 見たくない。

 頭の中で叫んでも、ツクモは使命感に駆られてドラゴンの方を振り返った。

 青い目も、雪のような鱗も、華奢な腕も、彼女の端正な面影がある。クラゲのように柔らかそうな青白い髪も、長い尾を飾る体毛へと作り変わっていた。

 急に全身から力が抜け、ツクモは膝からぺたりと崩れ落ちてしまった。

「え……あれが……エトロちゃん……なの
……?」

 宇田芸が口を押さえながら呟き、何かに気付いたように研大を凝視する。ドラゴンに追いついても手出しをせず、静観し続けていた研大は、とっくの昔にあれが何者なのか気づいていたのだろう。

「……降ろしてくれ」

 背負われていたアンリから、意外にも力強い声が絞り出される。

 武涛が無言で片膝をつけば、アンリは左足を引き摺りながらドラゴンの元へと歩き出した。

「アンリ、危険だ! 殺されるぞ!」
「構わない……!」

 研大の制止の声を振り払い、アンリは誘われるように進んでいく。

「エトロ……言葉は分かるか。意識はあるのか。完全にドラゴンになった訳じゃないんだろう」
『グルルルル……ッ!』

 アンリが近づくほどに、ドラゴンの威嚇が激しくなる。眉間に刻まれた深い皺は鬼のようで、沈んだ眼窩は爛々とした光を放っていた。とても理性ある状態とは言えなかった。

 だが、アンリは歩みを止めようとしない。

「お前はそう簡単にドラゴンに負ける奴じゃない。身体が変わっても、魂が捻じ曲げられても、お前はエトロだ」
『ギシャアアアア!!』

 ばさり、と翼が大きく広げられ、小さな吹雪が真正面から吹き荒れる。アンリは勢いよく後ろに倒れ込み、霜の降りた頬を苦痛に歪めた。

 吹雪が止むと、アンリは歯を食いしばって立ち上がろうともがく。

「お前は、エランが死んだ時、黙って俺のそばにいてくれたよな」

 身体を支えようとした左肘が虚空を掠め、アンリは赤子のようにバランスを崩す。今度は残った右腕に重心を移すが、左足が滑り、アンリは顔から転んだ。

 助け起こそうとツクモが走り出そうとするも、武涛に肩を掴まれる。下手に人が近寄ってドラゴンを刺激すれば、それこそアンリが危ないと耳元で囁かれた。宇田芸も研大も、祈るように拳を握り締め、見守ることしかできなかった。

 アンリは諦めのような吐息を吐くと、身体が泥だらけになるのも厭わず、匍匐前進でドラゴンへにじり寄った。

「片っ端からソウゲンカを殺して、食って、泥みたいに生き残るたびに、思い出してたんだ。お前とエランが仲良く遊んでいた頃を。あの時間が、一番幸せだったんだ。死んでもいいと諦められたんだ。けど」

 アンリの右手が、ドラゴンの足に触れる。ドラゴンは信じられないものを見るかのように、じっとアンリを見下ろしていた。

「やっぱり、俺に兄みたいだって言ってくれたお前を置いて行きたくなかったから」

 泥まみれになった身体を持ち上げて、アンリはドラゴンの顔へ指を這わせた。

「エトロ、もういいんだ。お前はよくやった」

 風に攫われそうなほど静かな声が、荒れた高原に吸い込まれる。

 ざぁ、とほんの数秒だけ、冷たい通り雨が高原に降り注いだ。

 ドラゴンは真っ青な瞳を震わせると、全身が戦慄くほど声帯を震わせた。

『グルル……グルアアアアアア!』

 鼓膜が裂けてしまいそうな咆哮が響き渡り、大きく開かれた顎門が振り下ろされる。

「あ──」

 ツクモが口を押さえながら悲鳴を押し殺すのとほぼ同時に、ドラゴンの牙が、深々とアンリの右肩に食い込んだ。
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