229 / 237
6章
(26)君に届くまで
しおりを挟む
凄まじい突風が、火花を散らしながらエトロごと氷槍を押し込んでくる。まるで、高所から滝が振り下ろされたような力だった。
その衝撃波は、マガツヒの傷口からとめどなく溢れていた水蒸気を吹き飛ばした。菌糸を捕食する黒い霧でさえも軽々と追い返され、エトロの視界が一気に拓ける。
「な、にが──」
疑問を抱く暇もなく、薄緑色の光を纏った風が、エトロの手の上から氷槍を握るように絡み付いた。
この風をエトロは知っている。しかし、地上からマガツヒの胸まで、およそ六百メートル。この距離から『陣風』を届かせるなんて不可能だ。まして、石突というあまりにも小さな的を狙い撃つなんて。
だというのに、嵐を纏った二度目の『陣風』が、寸分の狂いもなく石突を穿った。
巨大なハンマーで叩き出されるような、強烈な一撃。世界が強く脈動した気がした。
「エトロ!」
真下から声がした。かと思えば、エトロの背中を守るように大きな手が添えられる。即座に『堅牢』が発動し、エトロの周囲で荒れ狂っていた気流が大人しくなった。
呼吸が一気に楽になる。自分以外の菌糸能力が現れたおかげか、エトロの菌糸を食い尽くさんとしていた不可視の捕食者があちこちに散らばる気配がした。
直後、今度は真っ赤な弾丸が石突に直撃した。
「へばってんじゃないよ! もう一息だ!」
勇ましい女性の声が、散弾銃をばら撒いて槍を押し、ついでとばかりに付近の鱗を破壊する。ガラスのように砕け散った黒鱗の破片は『堅牢』に弾かれ、エトロたちに掠めることなく消えていった。
無駄な鱗が破壊されたお陰で、以前より明瞭にマガツヒの真皮が露出する。ひび割れた氷の隙間からは、真っ黒な皮下組織が見えていた。
ついさっきまで水蒸気で視界が塞がっていて気づかなかったが、エトロの氷はかなりマガツヒの深くまで肉を抉っていたようだ。無限にも思えた巨大な壁に、明確な終着点が突如として現れたのだ。
下の方から雄叫びが聞こえる。狩人たちの軍靴が、空気を押し除けながら傾れ込んでくる。後続の狩人たちの放つ菌糸能力が、黒霧の濃度をさらに散らしてくれた。
ゴウ! と溶岩の柱が起立する。狩人の足場を作り続けてきた最強の討滅者が、ついにここまで追いついてきたのだ。
エトロの溶けていた意識が、一気に輪郭を取り戻す。眠りかけていた闘争心が噴火し、無限に力が湧き上がってきた。
まだ生きている。
戦える。
一人ではない。
シャルも、アンリも、彼を支えるツクモも、時間を譲ってくれたレオハニーだって、待っているのだ。
全員の、無事の帰還を。
まだ、戦える。
遠方から『陣風』の唸りが聞こえる。上空の強風をものともしない強靭な鏃が、エトロの闘志に応えるべく、果てしない道を一瞬で走破せんと駆け上る。
その音色に合わせるように、エトロはドラゴン化した左腕を引き絞り、石突に狙いを定める。
「ぉぉおおおおああアアアアッ!」
人外の力が繰り出されるのとほぼ同時に、『陣風』がエトロの腕を加速させた。石突に叩き込まれた掌底は、驚くほど深く、槍の根元が埋まるほどマガツヒを穿ち抜いた。
ぶしゃ! と真っ黒な血がエトロの顔面に弾けた。目を潰され、一瞬焦りを覚えたが、温度を感じる前に黒血は霧となった。
ようやくマガツヒに穴が開いた。だがまだ小さい。
エトロは両足を踏ん張り、勢いよく槍を引き抜いた。
後ろへ大きく体勢を崩したエトロのすぐ脇を、大槍のような矢が掠める。『陣風』を限界まで練り込まれた矢は、エトロがこじ開けた傷口へ寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
ギュルン、と傷口が雑巾のように捻れる。氷塊を砕くような音を立てながら、周辺の肉が苛烈に食いちぎられる。
直後、傷口を中心に爆風が吹き荒れた。
「う、わ……!?」
槍を引き抜いた直後でバランスを崩していたエトロは、強風に抗うこともできずに身体を浮かせてしまった。だが、屈強な両腕がガッチリとエトロを固定し、風が止むなり砲丸投げの如く穴へ投げ込んだ。
「行ってこい!」
人間が頭を突っ込んでギリギリ入れる程度の小さな穴が、エトロの眼前に迫る。
「──ッ!」
考える暇もなかった。本能的にその穴に腕と槍を突っ込み、力任せに左右に引き裂く。ドラゴン化した左腕は容易く繊維を引き裂き、捩じ込んだ槍が最後の膜を打ち破った。
投げられた勢いのまま頭を突っ込むと、一気に落下が始まった。上も下も区別がつかない闇の中で、どうにか足を下に向ける。
瞬間、ずしんと衝撃が脳天まで駆け上がった。
想像以上に重い落下の衝撃に、エトロは四つん這いのまましばらく動けなかった。手足の痺れが抜けたあたりで、槍を杖代わりにして起き上がる。
「はっ……ハッ……!」
ついに。ようやく。
緊張と興奮、ほんの少しの恐怖で震える息を吐きながら、素早く視線を滑らせる。
マガツヒの中身は空っぽだった。内臓や脂肪といったものが全くない。奈落のような闇が延々と続いている。
自分の立ち位置すら分からぬほどの暗闇に、エトロは一人身を竦ませた。だがしばらくすると、変形したドラゴンの左目が闇に順応し始め、数秒もすれば内部を具に観察できるようになった。
まるで巨大なトンネルだった。真っ白な肋骨が、ドーム状の天井から壁の根元にかけてびっしりと生え揃っている。首の骨だけは上向いたまま、煙突のように細く長く空へ続いていた。唯一肋骨が届いていない床には、マガツヒを構成する黒霧が隙間なく敷き詰められている。
体内はマガツヒが動くたびに波打ち、時々遠心力がエトロにのしかかる。だが、歩けないほどではない。体内に異物が入ったにも関わらず、マガツヒはまだ暴走していないようだった。
周囲を警戒しながら進んでいくと、たった一箇所だけ、不自然に骨が組み合わさった場所を見つけた。
床から天井まで、螺旋のように無数の肋骨が絡まっている。その形状は、オラガイアの心臓部に酷似していた。
渦状に収束した肋骨の中心には、吸い込まれそうなほど黒い宝石が収まっていた。
宝石の大きさは、ちょうど人間がすっぽりと収まるほど大きい。どことなくヤツカバネの核に似ている。
目を凝らすと、白い骨の隙間から銀色のブレスレットがはみ出していた。エトロをここまで導いた、銀色の光の正体だ。
ああ、と息を吐く。
アンリの言っていたことは本当だった。諦めていたら、自分は決してここまで辿り着けなかった。
黒い宝石は、よく見ると人間サイズの琥珀らしかった。内部には探し求めていた人物が瞼を閉じたまま佇んでいる。その穏やかな表情は、凍りついたポッドの中で眠りにつく旧人類を彷彿とさせた。
声をかけたら、当たり前のように目が覚めるんじゃないか。
「リョーホ」
……返事はなかった。
右手で槍を構えながら、異形に変わってしまった左手を強く握りしめる。
エトロの菌糸能力はもうほとんど残っていない。ここに来るまでの道中で、不可視の捕食者や黒霧に食われてしまった。身体はドラゴン毒素を追い出すために常に発熱しており、少しでも気を抜けば脳が茹ってしまいそうだった。
頼みの綱は、ドラゴン化した身体能力のみ。
どうやったら、リョーホをここから救い出せる。琥珀をマガツヒから引き剥がせば助けられるのか。それともマガツヒ共々、彼も消えてしまうのか。
事前に確かめる術はない。ただ実行するのみだ。
「世界が滅びてモ、お前だけは連れて帰るぞ。リョーホ!」
槍を天井に向け、床を踏み抜くような勢いで跳躍する。
螺旋状に枝分かれした肋骨を踏み越え、琥珀に絡みつく骨へと迫る。
間合いに入った瞬間、エトロは渾身の一撃を叩き込んだ。槍先は琥珀を避けるように肋骨にめり込み、あっさりと罅を入れてみせる。
罅はあっという間に全体へ伝播し、軽石を砕くような音を立てて崩れていった。
肋骨の隙間から、黒い琥珀が滑り落ちそうになる。エトロは槍を放り捨て、両腕で受け止めにかかった。
瞬間、ぐんと凄まじい重力がエトロの上からのしかかった。マガツヒが一息に高度を上げたらしい。足場が丸ごとぐらついたため、エトロはろくに抵抗もできず払い落とされた。
「っ……!?」
咄嗟に受け身を取り、横に転がりながら立ち上がる。その時、こつりと骨の破片がエトロの頭に当たった。
はっとしてエトロが天井を見上げたのとほぼ同じタイミングで、黒い琥珀が肋骨の隙間から零れ落ちる。
「リョーホ!」
もう一度、両手を広げながら飛び上がる。黒い琥珀をキャッチした瞬間、見た目よりもやけに軽くて驚いた。勢い余って空中で一回転しながら、努めて冷静に着地点を見定める。
が、心臓部を破壊されて落ち着いていられるモノなどいない。先ほどと比べ物にならない速度で、マガツヒが大きく身体をよじった。床がぐるりと一回転し、凹凸塗れの肋骨が入れ替わりに出現する。
「くっ!」
なんとか着地に成功するも、今度は遠心力で立ち上がることすらままならない。床に放っていた槍もどこかに持っていかれてしまった。回収する余裕もない。
エトロは腹ばいになりながら、必死に視線を巡らせた。琥珀を持って脱出しなければならないが、エトロが通ってきた穴は塞がれてしまったのか、それらしきものが見当たらなかった。槍も菌糸能力もない今、壁を破るという選択肢はもう取れない。
唯一出られるとしたら、マガツヒの口だ。排泄器官のないドラゴンは数種類いるが、口のないドラゴンは存在しない。
エトロは天へと続く先の見えないトンネルを睨み上げた。そして、衣服を引き裂いて即席の縄を作り、自分の胴体と琥珀を固定する。
その時、エトロの足首に液体が絡み付いたような気がした。
咄嗟に足を引き抜くと、とぷんと粘性の高い音が飛び散る。どうやら、不可視の捕食者のような目に見えない物質が、じわじわとこの空間を満たし始めているらしい。
この液体と琥珀が触れたら、何か良くないことが起きる気がする。
エトロは根拠のない危機感に突き動かされ、高い場所を目指して駆け出した。
走るたびにマガツヒの体勢が変わるせいで、狙った足場へ飛び移るだけでも一苦労だ。目の前にあったはずの肋骨が、一秒後には真っ黒な床へと移り変わる。かと思えば、壁のように高い骨が行く手を阻んできた。
後ろを振り返ると、マガツヒの身体は奇妙なことになっていた。緩やかな列を成していた肋骨は、今や子供の落書きのようにぐにゃぐにゃと歪み、一部に至っては水車の如く回転し続けている。もはや骨の関節すら意味をなさない不気味な動きだった。
そうこうしている内に、不可視の液体が鈍い音を立てながらエトロに追いついてきた。できうる限りのスピードを出しても、距離を保つので精一杯だ。
ようやく首の付け根に辿りついた。薄明の塔の一階から天井を見上げたような、吸い込まれそうな骨の螺旋が果てしなく続いている。その骨もまた、肋骨のように不規則に捻れ、物理法則に合わぬ挙動をしていた。
「っ!」
覚悟を決め、ドラゴン化した左足で床を蹴り上げる。螺旋状の首骨をジグザグに飛び移り、地道に上へ登り続ける。何度か回転する骨にぶつかりかけ、振り落とされそうになるも、スピードは落ちていない。だが、下から湧き上がる不可視の液体は、道が狭まったことでより加速しているようだった。
「リョーホ、もう少しダからな!」
息を切らしながら、エトロは祈るように叫ぶ。縄と素肌が擦れて脇腹からは血が滲んでいた。このまま摩擦で胴体が切れてしまっても構わないと思った。
だが、そんなエトロの思いを踏み躙るかの如く、不可視の液体がついにエトロの爪先に触れた。粘性を持つそれで足を取られ、エトロのスピードが一気に落ちる。
ずり、と飛び移ろうとした骨から足を滑らせた。
落ちる。足首から順に、液体が背中の琥珀へ迫ってくる。
ドラゴン化した人間は元に戻らない。エトロはもう、身体の半分を持っていかれてしまった。これから先、突然人間ではなくなってもおかしくない。無事に脱出できたとしても、他の狩人によって介錯されるだろう。エトロが最初、菌糸を持たないリョーホにそうしようとしたように。
だが、リョーホはまだ人の形を保っている。彼はまだ間に合う。
エトロとて死ぬ気はない。諦めないと決めた。背中を押してくれた仲間がいる。
「グルッ……うアアアアア!」
本能のままに咆哮を上げると、背中がぶわりと膨れ上がった。痛みはなかった。肩甲骨から枝分かれした骨から飛膜が垂れ下がる。同時に、身体が一気に軽くなった。
弾丸のように身体が弾き出される。まとわりついていた不可視の液体は、轟音を立てながら飛び散っていった。
親指、人差し指、中指を曲げ伸ばしすれば、翼が勝手に空気を叩く。人体に備わっていない組織のはずなのに、長年連れ添った肉体の如く、扱い方が自然と身についていた。
生まれたばかりの翼は、パキパキと音を立てながら氷の鱗を纏い始める。ドラゴンとして完成されていくたびに、飛行速度が格段に上昇していった。
怖い。
不可能が可能に転じる万能感。空を飛ぶ幸福。躍動する筋肉。口が勝手に笑ってしまう。
怖い。
両親から貰った身体が壊れていくのに、微塵も痛みがなかった。むしろ、日焼けした肌の皮を捲るような精神的な快楽が癖になる。
こわい。
いつまでこの恐怖を覚えていられるのかが、怖いはずなのに、怖くない。
翼を動かすたびに、飛膜が琥珀に触れる。それだけが、自我とエトロを繋いでいた。
ふと、マガツヒの骨の形が変わった。永劫に続くと思われたトンネルの突き当たりが淡く光っている。闇に順応していた左目はその眩さに瞼を閉じ、海のように青い右目は輝きを取り戻した。
おどろおどろしい怒号を上げながら、その光へ躊躇いなく突っ込む。先のことは、もう何も考えていなかった。
その衝撃波は、マガツヒの傷口からとめどなく溢れていた水蒸気を吹き飛ばした。菌糸を捕食する黒い霧でさえも軽々と追い返され、エトロの視界が一気に拓ける。
「な、にが──」
疑問を抱く暇もなく、薄緑色の光を纏った風が、エトロの手の上から氷槍を握るように絡み付いた。
この風をエトロは知っている。しかし、地上からマガツヒの胸まで、およそ六百メートル。この距離から『陣風』を届かせるなんて不可能だ。まして、石突というあまりにも小さな的を狙い撃つなんて。
だというのに、嵐を纏った二度目の『陣風』が、寸分の狂いもなく石突を穿った。
巨大なハンマーで叩き出されるような、強烈な一撃。世界が強く脈動した気がした。
「エトロ!」
真下から声がした。かと思えば、エトロの背中を守るように大きな手が添えられる。即座に『堅牢』が発動し、エトロの周囲で荒れ狂っていた気流が大人しくなった。
呼吸が一気に楽になる。自分以外の菌糸能力が現れたおかげか、エトロの菌糸を食い尽くさんとしていた不可視の捕食者があちこちに散らばる気配がした。
直後、今度は真っ赤な弾丸が石突に直撃した。
「へばってんじゃないよ! もう一息だ!」
勇ましい女性の声が、散弾銃をばら撒いて槍を押し、ついでとばかりに付近の鱗を破壊する。ガラスのように砕け散った黒鱗の破片は『堅牢』に弾かれ、エトロたちに掠めることなく消えていった。
無駄な鱗が破壊されたお陰で、以前より明瞭にマガツヒの真皮が露出する。ひび割れた氷の隙間からは、真っ黒な皮下組織が見えていた。
ついさっきまで水蒸気で視界が塞がっていて気づかなかったが、エトロの氷はかなりマガツヒの深くまで肉を抉っていたようだ。無限にも思えた巨大な壁に、明確な終着点が突如として現れたのだ。
下の方から雄叫びが聞こえる。狩人たちの軍靴が、空気を押し除けながら傾れ込んでくる。後続の狩人たちの放つ菌糸能力が、黒霧の濃度をさらに散らしてくれた。
ゴウ! と溶岩の柱が起立する。狩人の足場を作り続けてきた最強の討滅者が、ついにここまで追いついてきたのだ。
エトロの溶けていた意識が、一気に輪郭を取り戻す。眠りかけていた闘争心が噴火し、無限に力が湧き上がってきた。
まだ生きている。
戦える。
一人ではない。
シャルも、アンリも、彼を支えるツクモも、時間を譲ってくれたレオハニーだって、待っているのだ。
全員の、無事の帰還を。
まだ、戦える。
遠方から『陣風』の唸りが聞こえる。上空の強風をものともしない強靭な鏃が、エトロの闘志に応えるべく、果てしない道を一瞬で走破せんと駆け上る。
その音色に合わせるように、エトロはドラゴン化した左腕を引き絞り、石突に狙いを定める。
「ぉぉおおおおああアアアアッ!」
人外の力が繰り出されるのとほぼ同時に、『陣風』がエトロの腕を加速させた。石突に叩き込まれた掌底は、驚くほど深く、槍の根元が埋まるほどマガツヒを穿ち抜いた。
ぶしゃ! と真っ黒な血がエトロの顔面に弾けた。目を潰され、一瞬焦りを覚えたが、温度を感じる前に黒血は霧となった。
ようやくマガツヒに穴が開いた。だがまだ小さい。
エトロは両足を踏ん張り、勢いよく槍を引き抜いた。
後ろへ大きく体勢を崩したエトロのすぐ脇を、大槍のような矢が掠める。『陣風』を限界まで練り込まれた矢は、エトロがこじ開けた傷口へ寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
ギュルン、と傷口が雑巾のように捻れる。氷塊を砕くような音を立てながら、周辺の肉が苛烈に食いちぎられる。
直後、傷口を中心に爆風が吹き荒れた。
「う、わ……!?」
槍を引き抜いた直後でバランスを崩していたエトロは、強風に抗うこともできずに身体を浮かせてしまった。だが、屈強な両腕がガッチリとエトロを固定し、風が止むなり砲丸投げの如く穴へ投げ込んだ。
「行ってこい!」
人間が頭を突っ込んでギリギリ入れる程度の小さな穴が、エトロの眼前に迫る。
「──ッ!」
考える暇もなかった。本能的にその穴に腕と槍を突っ込み、力任せに左右に引き裂く。ドラゴン化した左腕は容易く繊維を引き裂き、捩じ込んだ槍が最後の膜を打ち破った。
投げられた勢いのまま頭を突っ込むと、一気に落下が始まった。上も下も区別がつかない闇の中で、どうにか足を下に向ける。
瞬間、ずしんと衝撃が脳天まで駆け上がった。
想像以上に重い落下の衝撃に、エトロは四つん這いのまましばらく動けなかった。手足の痺れが抜けたあたりで、槍を杖代わりにして起き上がる。
「はっ……ハッ……!」
ついに。ようやく。
緊張と興奮、ほんの少しの恐怖で震える息を吐きながら、素早く視線を滑らせる。
マガツヒの中身は空っぽだった。内臓や脂肪といったものが全くない。奈落のような闇が延々と続いている。
自分の立ち位置すら分からぬほどの暗闇に、エトロは一人身を竦ませた。だがしばらくすると、変形したドラゴンの左目が闇に順応し始め、数秒もすれば内部を具に観察できるようになった。
まるで巨大なトンネルだった。真っ白な肋骨が、ドーム状の天井から壁の根元にかけてびっしりと生え揃っている。首の骨だけは上向いたまま、煙突のように細く長く空へ続いていた。唯一肋骨が届いていない床には、マガツヒを構成する黒霧が隙間なく敷き詰められている。
体内はマガツヒが動くたびに波打ち、時々遠心力がエトロにのしかかる。だが、歩けないほどではない。体内に異物が入ったにも関わらず、マガツヒはまだ暴走していないようだった。
周囲を警戒しながら進んでいくと、たった一箇所だけ、不自然に骨が組み合わさった場所を見つけた。
床から天井まで、螺旋のように無数の肋骨が絡まっている。その形状は、オラガイアの心臓部に酷似していた。
渦状に収束した肋骨の中心には、吸い込まれそうなほど黒い宝石が収まっていた。
宝石の大きさは、ちょうど人間がすっぽりと収まるほど大きい。どことなくヤツカバネの核に似ている。
目を凝らすと、白い骨の隙間から銀色のブレスレットがはみ出していた。エトロをここまで導いた、銀色の光の正体だ。
ああ、と息を吐く。
アンリの言っていたことは本当だった。諦めていたら、自分は決してここまで辿り着けなかった。
黒い宝石は、よく見ると人間サイズの琥珀らしかった。内部には探し求めていた人物が瞼を閉じたまま佇んでいる。その穏やかな表情は、凍りついたポッドの中で眠りにつく旧人類を彷彿とさせた。
声をかけたら、当たり前のように目が覚めるんじゃないか。
「リョーホ」
……返事はなかった。
右手で槍を構えながら、異形に変わってしまった左手を強く握りしめる。
エトロの菌糸能力はもうほとんど残っていない。ここに来るまでの道中で、不可視の捕食者や黒霧に食われてしまった。身体はドラゴン毒素を追い出すために常に発熱しており、少しでも気を抜けば脳が茹ってしまいそうだった。
頼みの綱は、ドラゴン化した身体能力のみ。
どうやったら、リョーホをここから救い出せる。琥珀をマガツヒから引き剥がせば助けられるのか。それともマガツヒ共々、彼も消えてしまうのか。
事前に確かめる術はない。ただ実行するのみだ。
「世界が滅びてモ、お前だけは連れて帰るぞ。リョーホ!」
槍を天井に向け、床を踏み抜くような勢いで跳躍する。
螺旋状に枝分かれした肋骨を踏み越え、琥珀に絡みつく骨へと迫る。
間合いに入った瞬間、エトロは渾身の一撃を叩き込んだ。槍先は琥珀を避けるように肋骨にめり込み、あっさりと罅を入れてみせる。
罅はあっという間に全体へ伝播し、軽石を砕くような音を立てて崩れていった。
肋骨の隙間から、黒い琥珀が滑り落ちそうになる。エトロは槍を放り捨て、両腕で受け止めにかかった。
瞬間、ぐんと凄まじい重力がエトロの上からのしかかった。マガツヒが一息に高度を上げたらしい。足場が丸ごとぐらついたため、エトロはろくに抵抗もできず払い落とされた。
「っ……!?」
咄嗟に受け身を取り、横に転がりながら立ち上がる。その時、こつりと骨の破片がエトロの頭に当たった。
はっとしてエトロが天井を見上げたのとほぼ同じタイミングで、黒い琥珀が肋骨の隙間から零れ落ちる。
「リョーホ!」
もう一度、両手を広げながら飛び上がる。黒い琥珀をキャッチした瞬間、見た目よりもやけに軽くて驚いた。勢い余って空中で一回転しながら、努めて冷静に着地点を見定める。
が、心臓部を破壊されて落ち着いていられるモノなどいない。先ほどと比べ物にならない速度で、マガツヒが大きく身体をよじった。床がぐるりと一回転し、凹凸塗れの肋骨が入れ替わりに出現する。
「くっ!」
なんとか着地に成功するも、今度は遠心力で立ち上がることすらままならない。床に放っていた槍もどこかに持っていかれてしまった。回収する余裕もない。
エトロは腹ばいになりながら、必死に視線を巡らせた。琥珀を持って脱出しなければならないが、エトロが通ってきた穴は塞がれてしまったのか、それらしきものが見当たらなかった。槍も菌糸能力もない今、壁を破るという選択肢はもう取れない。
唯一出られるとしたら、マガツヒの口だ。排泄器官のないドラゴンは数種類いるが、口のないドラゴンは存在しない。
エトロは天へと続く先の見えないトンネルを睨み上げた。そして、衣服を引き裂いて即席の縄を作り、自分の胴体と琥珀を固定する。
その時、エトロの足首に液体が絡み付いたような気がした。
咄嗟に足を引き抜くと、とぷんと粘性の高い音が飛び散る。どうやら、不可視の捕食者のような目に見えない物質が、じわじわとこの空間を満たし始めているらしい。
この液体と琥珀が触れたら、何か良くないことが起きる気がする。
エトロは根拠のない危機感に突き動かされ、高い場所を目指して駆け出した。
走るたびにマガツヒの体勢が変わるせいで、狙った足場へ飛び移るだけでも一苦労だ。目の前にあったはずの肋骨が、一秒後には真っ黒な床へと移り変わる。かと思えば、壁のように高い骨が行く手を阻んできた。
後ろを振り返ると、マガツヒの身体は奇妙なことになっていた。緩やかな列を成していた肋骨は、今や子供の落書きのようにぐにゃぐにゃと歪み、一部に至っては水車の如く回転し続けている。もはや骨の関節すら意味をなさない不気味な動きだった。
そうこうしている内に、不可視の液体が鈍い音を立てながらエトロに追いついてきた。できうる限りのスピードを出しても、距離を保つので精一杯だ。
ようやく首の付け根に辿りついた。薄明の塔の一階から天井を見上げたような、吸い込まれそうな骨の螺旋が果てしなく続いている。その骨もまた、肋骨のように不規則に捻れ、物理法則に合わぬ挙動をしていた。
「っ!」
覚悟を決め、ドラゴン化した左足で床を蹴り上げる。螺旋状の首骨をジグザグに飛び移り、地道に上へ登り続ける。何度か回転する骨にぶつかりかけ、振り落とされそうになるも、スピードは落ちていない。だが、下から湧き上がる不可視の液体は、道が狭まったことでより加速しているようだった。
「リョーホ、もう少しダからな!」
息を切らしながら、エトロは祈るように叫ぶ。縄と素肌が擦れて脇腹からは血が滲んでいた。このまま摩擦で胴体が切れてしまっても構わないと思った。
だが、そんなエトロの思いを踏み躙るかの如く、不可視の液体がついにエトロの爪先に触れた。粘性を持つそれで足を取られ、エトロのスピードが一気に落ちる。
ずり、と飛び移ろうとした骨から足を滑らせた。
落ちる。足首から順に、液体が背中の琥珀へ迫ってくる。
ドラゴン化した人間は元に戻らない。エトロはもう、身体の半分を持っていかれてしまった。これから先、突然人間ではなくなってもおかしくない。無事に脱出できたとしても、他の狩人によって介錯されるだろう。エトロが最初、菌糸を持たないリョーホにそうしようとしたように。
だが、リョーホはまだ人の形を保っている。彼はまだ間に合う。
エトロとて死ぬ気はない。諦めないと決めた。背中を押してくれた仲間がいる。
「グルッ……うアアアアア!」
本能のままに咆哮を上げると、背中がぶわりと膨れ上がった。痛みはなかった。肩甲骨から枝分かれした骨から飛膜が垂れ下がる。同時に、身体が一気に軽くなった。
弾丸のように身体が弾き出される。まとわりついていた不可視の液体は、轟音を立てながら飛び散っていった。
親指、人差し指、中指を曲げ伸ばしすれば、翼が勝手に空気を叩く。人体に備わっていない組織のはずなのに、長年連れ添った肉体の如く、扱い方が自然と身についていた。
生まれたばかりの翼は、パキパキと音を立てながら氷の鱗を纏い始める。ドラゴンとして完成されていくたびに、飛行速度が格段に上昇していった。
怖い。
不可能が可能に転じる万能感。空を飛ぶ幸福。躍動する筋肉。口が勝手に笑ってしまう。
怖い。
両親から貰った身体が壊れていくのに、微塵も痛みがなかった。むしろ、日焼けした肌の皮を捲るような精神的な快楽が癖になる。
こわい。
いつまでこの恐怖を覚えていられるのかが、怖いはずなのに、怖くない。
翼を動かすたびに、飛膜が琥珀に触れる。それだけが、自我とエトロを繋いでいた。
ふと、マガツヒの骨の形が変わった。永劫に続くと思われたトンネルの突き当たりが淡く光っている。闇に順応していた左目はその眩さに瞼を閉じ、海のように青い右目は輝きを取り戻した。
おどろおどろしい怒号を上げながら、その光へ躊躇いなく突っ込む。先のことは、もう何も考えていなかった。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います
霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。
得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。
しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。
傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。
基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。
が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。
修学旅行のはずが突然異世界に!?
中澤 亮
ファンタジー
高校2年生の才偽琉海(さいぎ るい)は修学旅行のため、学友たちと飛行機に乗っていた。
しかし、その飛行機は不運にも機体を損傷するほどの事故に巻き込まれてしまう。
修学旅行中の高校生たちを乗せた飛行機がとある海域で行方不明に!?
乗客たちはどこへ行ったのか?
主人公は森の中で一人の精霊と出会う。
主人公と精霊のエアリスが織りなす異世界譚。
日本帝国陸海軍 混成異世界根拠地隊
北鴨梨
ファンタジー
太平洋戦争も終盤に近付いた1944(昭和19)年末、日本海軍が特攻作戦のため終結させた南方の小規模な空母機動部隊、北方の輸送兼対潜掃討部隊、小笠原増援輸送部隊が突如として消失し、異世界へ転移した。米軍相手には苦戦続きの彼らが、航空戦力と火力、機動力を生かして他を圧倒し、図らずも異世界最強の軍隊となってしまい、その情勢に大きく関わって引っ掻き回すことになる。
30年待たされた異世界転移
明之 想
ファンタジー
気づけば異世界にいた10歳のぼく。
「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」
こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。
右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。
でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。
あの日見た夢の続きを信じて。
ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!
くじけそうになっても努力を続け。
そうして、30年が経過。
ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。
しかも、20歳も若返った姿で。
異世界と日本の2つの世界で、
20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。
一人息子の勇者が可愛すぎるのだが
碧海慧
ファンタジー
魔王であるデイノルトは一人息子である勇者を育てることになった。
デイノルトは息子を可愛がりたいが、なかなか素直になれない。
そんな魔王と勇者の日常開幕!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる