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11 試験飛行見習い

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      九月十五日

 酸素をゆっくりと大きく吸う。息を吐き出すとマスクの周囲から出て行くが、その際顔の周りに呼気が回って少し暖かい。洋一は座席の中で軽く身震いをした。
 現在高度七千五百m。外に放り出されたら酸欠と寒さで死んでしまうのではないか。締め切った十式艦戦から外を見回すと洋一はさらに身震いしてしまう。
 生身の人間を拒絶する外の光景は、息を呑むほど美しかった。地上で見上げるよりも深い蒼が天を覆い尽くす。見下ろせば霞のように漂う雲の下に、緑のうねりが横たわっている。地形に沿って波打っているそれはビロードのごとき艶であった。
 この高度になるとなんとなく地球が丸いことが感じられる。もう少し上がれば秋津海まで見えるだろうか。
 エンジンの全開高度が一千mほど上がり、八十馬力増えただけあってこれまでの十式艦戦より七ノット(十五㎞/h)ぐらい速くなったし高高度性能も良くなった。自分の愛機も早くこれになってくれないだろうか。
 琵琶湖がほぼ真横に見えてきたのでそろそろ旋回地点だ。洋一は慎重に操縦桿を傾けた。
 高高度飛行の難しいところは、空気が薄くて揚力がギリギリなので、ちょっと翼を傾けて旋回すると、すぐ高度が落ちてしまうことだった。
 昨日比較で乗った切断翼型はひどかった。すとーんと五百mぐらい一気に落ちてしまった。そこへ行くとこの延長翼はたしかに優れものだった。同じような旋回でも高度低下は百m程度で済んでいる。この辺りの高度を縄張りにするには、この延長翼は不可欠だった。
 乗ってみるといろいろ不思議なものだな。洋一は銀色に伸びる主翼の端を眺めた。低空での速度性能は切断翼の方が当然優れていたが、高高度ではむしろこちらの方が速いくらいだった。片側五十㎝ほど伸ばしたり縮めたりしただけなのだが。
 しかし高高度性能か。どんなときに必要なのだろうか。今ひとつ洋一にはピンとこない。欧州では地上攻撃の援護が多かったので高度三千より下の戦いばかりだった。
 いや、一度だけああった。伯林ベルリンへの飛行が。つまりあのような戦闘、首都への戦略爆撃とかか。なんだかぞっとしないな。洋一は着ぶくれした肩をすくめた。
 しかし高高度を飛ぶ機体はもっと広い機体の方がいいのでは。身じろぎしながら洋一は考えた。
 いつもの飛行服に救命胴衣の上から、裏がウサギの毛皮で出来た防寒着を着込んで飛んでいるのだ。狭い操縦席内では振り返るのも一苦労である。
 脚は休暇の最終日に兄真一が渡してくれた冬用の靴だった。裏地の別珍との間に薄く羽毛をいれたとか云っていたが確かに暖かい。すねの部分を覆う脚絆を取り付けられるようになっていて、つなげると長靴の様になる。脚絆には早川式の自在バックルが三つ並んでいて、これを締めれば脚に血が溜まるのを防げるようになっていた。
 今は寒さをしのぐのが目的なのでそれほど強くは締めない。三日かそこらで作ったにしてはよく出来ている。なんのかんの云ってやっぱり兄ちゃんは頼りになるな。
 そういえば、靴を見て洋一はふと思い出した。洋一の分の他に、もう一式の「丹羽式」飛行靴を持たされて、是非綺羅様に渡してくれと頼まれたりしたな。覗いてみたら自分のものより遙かに上物の別珍を使っていた。宮家御用達になれるかは、まあ綺羅様次第なんだがどうなんだろうな。
 周囲を見回して、洋一は琵琶湖上空に何かを見つけた。虚空を何かが飛んでいる。洋一は少しだけ針路を変えてそちらに近づく。
 次第に機影がはっきりしてきた。二機並んで飛んでいる。どうもかなり大きい機体のようだった。双発機かな? そう思っていたら更に大きかった。なんとエンジンが四つもついた大型機が、同じぐらいの高度を南下していた。
 さすがにあれだけ大きいと高高度飛行も得意だろう。それに機体が広くて歩いたり寝転んだり出来そうだ。着ぶくれしていても楽できるだろう。いや、あれだけ大きければ与圧キャビンというものかもしれない。いいなぁ、大型機。洋一は勝手に想像してうらやましがっていた。
 翼を振って挨拶したら、すうっと高度が落ちる。慌てて戻して高度を取り直す。高高度でうかつなことはしない方がいいな。洋一は機内で手を振るにとどめておいた。遠いので手を振ったのは判らないだろうな。
 挨拶を済ませたら針路を各務ヶ原に向ける。ついでに今の挨拶の顛末もノートに書き込んでおいた。テスト飛行というものは思ったほど派手ではなく、地道な評価の積み重ねだった。そのために先ほどみたいな珍しい出逢いが恋しくなってしまう。
 それに高高度飛行というのは、何だか孤独をより強く感じてしまう。人の住まう場所から遙かに離れて、天にたった独りで有る。寒さ以上に背筋がゾクゾクして大きく身震いする。早く帰って暖かいものを飲もう。    
 しかしそんな孤独をまったく感じない人物もいる。
 不意に機体が揺らいだかと思うと、銀色の影が洋一機の脇を駆け抜けていった。
「こちらクレナイ一番、撃墜取ったよ洋一君」
 洋一機を追い抜いた銀色の異形の実験機。「雷電」と仮の名を頂いた機は洋一の十式艦戦をたやすく追い抜いていった。
 排気タービンとやらはたしかに優れもののようだった。明らかにこちらより速い。長めの主翼と相まって高高度を飛び回るには最適な機体だった。
「どうかね洋一君、高高度戦闘の研究と行こうじゃないか」
 向こうは遊びたくて仕方がないらしいが、こちらは帰り道なのだ。
「こちらウグイス。せっかくですが燃料がないので帰ります」
 かれこれ四時間近く高高度飛行を続けていて、遊んでいる余裕はあまりない。何より寒かった。
「なんだつまらん」
 そう云い残して、奇っ怪な双胴の機体は彼方へと去って行った。まあ高高度は寂しいからな。少しだけ気ままな上官の心情を推察するが、それはそれとして各務ヶ原への針路は変えなかった。
 徐々に高度を下げながら、意図的に大きなあくびを繰り返す。気圧の変化に頭も身体も慣らしていかないと大変なことになる。下がるにつれて気温が上がってきたのは助かった。
 山あいの飛行場というのが各務ヶ原飛行場の印象だった。すぐ脇に森があり、その奥は山が連なっている。どこか箱庭を彷彿とさせる飛行場を洋一の十式艦戦は伸ばした主翼を燦めかせながら降りてきた。
 主翼が長いだけあって着陸はかなり容易になった。翼面積が増えれば翼面荷重も下がり、低速で軽く飛ぶことが出来る。むしろ軽すぎるぐらいだな。洋一は飛行場上空を通過してから旋回に入る。旋回で高度処理をしたつもりが、思ったよりも高い。
 斜めに滑らして高度を処理しながら、洋一の十式艦戦は着陸した。駐機場に戻ると朱音たちが待っていた。
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