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12 寒かったり暑かったり

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「ただいまぁ、寒かったぁ」
 降りて機を朱音に預けると、洋一は少し離れた場所に置いてある火鉢まで駆け寄った。
 ヤカンから出がらしの番茶を湯飲みに注ぐと、両手で抱え込むように口のそばまで運んだ。湯気が口の周りに当たって暖かい。少しずつ胃の中に流し込むとようやっと人心地ついた。
「大げさねぇ、下は暑いぐらいよ」
 九月の中頃なのでまだ夏らしさすら残っている。各務ヶ原は山がちなので多少涼しいが、それでも寒いとはとても云えないはずだった。
「七千五百は寒いんだよ」
 防寒着を脱ぎながら洋一は身体を慣らしていく。飛行機乗りの難しいところは、地上と上空での寒暖差が激しいことだった。下が暑いからと云って薄着で上がると凍えることになる。
「暖房ついてるんでしょ」
 エンジンからの暖気を操縦席に引き込む仕組みはあった。
「それでも寒いものは寒いの」
 暖気の出口付近は暖かいが、全身とまでは行かない。
「そんなもんなの? あ、菱崎の人がお稲荷さんくれたよ」
 朱音の指し示した先に、風呂敷に覆われた盆があった。めくってみるとたしかに黄金色に輝く稲荷寿司があった。
「あ、助かる」
 早速一つ口に放り込み、二つほどつかみ取った。酒醤油と、椎茸か何かの出汁が染み込んだ油揚げは実にうまかった。添えてある大根の漬物もうまい。そして暖かいお茶。自分がとんでもなく贅沢をしている気分だった。
 人心地ついたところでもう一機の十式艦戦が駐機場に入ってきた。翼端を切った低高度型。降りてきた成瀬一飛曹は飛行服を大きく開けてバサバサさせた。
「ふえぇ暑い。水くれ水」
 朱音が水の入ったヤカンを渡すと、注ぎ口に口をつけて一気に傾けた。
 喉を派手に動かし、あらかた流し込んでしまう。口を離すと盛大に息を吐き出した。
「ふう、暑い」
 見てるだけで気温が上がったような気がした。
「あちらの方が自然な反応だと思うけど」
「切断翼はたしか過過給のテストだからね」
 規定よりも過給圧をかける試験なので、低高度で緊急時しか出してはいけない出力を出していたはずだ。まるで火吹き場に居たかのような成瀬は喉の渇きをとりあえず抑えると、稲荷寿司を左右の手に二つずつ掴んで勢いよく食べ始める。
「やあ精が出るね、ご苦労さん」
 塚越技師がお盆を手に現れた。
「お饅頭だけどいるかい?」
 稲荷寿司を食べたばかりなのに洋一は手を伸ばしてしまう。口の中をお茶で流し込んだ成瀬も一つ口に放り込む。
「ふう、こりゃどうも」
 暑さで腹もへっていた成瀬もようやく落ち着いてきたらしい。
「ところで先生」
 お茶を少し水で割ってぬるめにして、成瀬は塚越に云った。
「ラジエータ、どうにかした方が良いですよ」
 そう云って成瀬は先ほどまで自分が乗ってきた機を見上げた。
「新型になって出力が上がったのは良いんですが、水温の上がりが尋常じゃないんです。オーバーブーストなんか三〇分の予定が一〇分で切り上げる羽目になりました」
「うーん、そうかぁ」
 塚越は頭をかきながら十式艦戦の機首を見た。エンジンの下に小さめな開口があって、そこにラジエータが収まっている。
「元々ちょっと冷却に不安がある機体でしたからね。出力が上がった分でもう限界かと。これでは夏のスペインとかでは無理ですよ」
 スペイン内戦にも参加したベテランらしい発言に、塚越は口を渋そうに歪めた。
「もっと大きくしたらどうですか。陸軍のキ四三みたいに」
 十式艦戦と同等の性能を持つと云われる陸軍の新型戦闘機は、プロペラの下に大きな口を開いている。十式艦戦の繊細な形状と比べると荒々しくはあるが中々迫力のある面構えだと洋一は思っていた。
「やだよかっこ悪い」
 しかし塚越の美意識には合わないらしい。
「とはいえ何とかしないとなぁ。夏は戦争しなきゃ良いのに」
 自分で持ってきた饅頭を食べながら塚越は機体のあちこちに視線を向けていた。
「洋一、ちょっと手伝って」
 朱音に呼ばれたので機の方に云ってみると、ドラム缶を積んだトラックからホースが伸びて、その先は翼の上に乗った朱音に通じていた。
「こっちが合図したら回して」
 ホースを給油口に差し込みながら朱音が云う。見るとドラム缶には手回し式のポンプが取り付いている。
「はい回して」
 回してみると結構軽い。と最初は思っていたが回し続けているとだんだん腕が重くなっていく。
「もっともっと回して。次は反対側なんだから」
 機体一機でドラム缶二つ半入れると腕がしびれる。なるほど、こちらに声を掛けたわけだ。
「なんで手回しなんだよ。補給車でいいじゃないか」
 普段だったら燃料補給車のポンプで入れるのに。そう思っていたら朱音の顔がずいと迫ってきた。
「百オクタン」
 朱音の眼が尋常でなく輝いていた。
「これがどれほどすごいか、知りたくない?」
 思わず洋一は後ずさりしてしまう。どうやら特別な燃料らしい。だから常用の燃料補給車ではないのだろうか。
「いえ、またの機会に。お仕事がんばって」
「何云ってるのよ。もう一機あるんだから」
 今度は切断翼の方も入れさせられる。こっちはそんなに消費していなくて助かった。
 息を整えながら改めて二機を見比べる。
「翼端の形状一つで結構違うもんだな」
 両方乗ってみたが、まるで別の機体のようであった。低高度を切り裂く弾丸と、高高度を浮遊する鳶のように。
「そこが設計の難しいところであり、面白いところでもありだ」
 いつの間にか横に塚越が立っていた。
「翼端を折ったのは苦肉の策だったんだが、こうしてみると中々遊べたな」
 ギリギリに設計しすぎた帳尻あわせだと聞いたが、世の中何が幸いするか判らない。
「でもどうせ折りたたむんなら、ここで折った方が良かったんじゃないですか」
 ホースを片づけた朱音は主翼の真ん中辺りを手で指し示した。
「ここで主桁を継いでるし、根元で折るよりは大がかりにならないと思うんですけど」
「そんな簡単な話じゃないだろ」
 設計者を前になんて雑なことを。洋一は呆れた。
「やっぱりそう思う?」
 が、当の本人の反応は意外だった。
「いや、一度は考えたんだよ。けど十式って競争試作だったからさ、性能で負けるわけにいかなかったんだよ。途中で永嶋が降りるって知ってたらもっとやりたいことできたのに」
 設計者にはいろいろな苦悩があるらしい。
「でも、重くなるから性能は落ちるんじゃないんですか」
「多少はね」
 塚越は軽く眉毛を上げる。
「速度はあんま変わらないかな。燃料はちょっと減るかも。あと旋回性で絶対文句云ってくる。一生複葉機に乗ってればいいのに」
 何やら愚痴めいた言葉が聞こえてきた。
「けど折りたためば収納スペースが減るから空母にもう一個中隊載せられる。君たちは仲間が増えるし、菱崎はさらに機体が売れて万々歳だ」
 性能が落ちる分仲間が増える、か。そういう捉え方はしたことがなかった。飛行機の性能はいろんな捉え方があるんだな。洋一は感心していた。
 そんな彼らの頭上を、独特の共鳴音が通過した。
「あれ? きーちゃん早いな。二時間ぐらいかかるはずだったんだが」
 綺羅の乗った「雷電」が着陸してきた。別段どこか壊れた音はしていない。
 駐機場に入って両のエンジンが止まると同時に天蓋が開いた。
「ダメだよ塚越さん!」
 立ち上がった綺羅は塚越を見つけるやいなやまくし立ててきた。
「とんでもない欠陥機だよ雷電は! こんなんじゃ海軍も陸軍も買わないよ!」
 昨日まで楽しそうに乗っていたのに、この変わり様は一体何なのだろう。洋一は呆然と上官を見た。
「その、旋回性が悪いとか?」
 高速狙いの大型機故に旋回は得意ではないと思っていたが。
「それはどうでもいいの。速いは七難隠すから」
 まあ「雷電」の売りは速度なので、旋回性能にこだわるのは本来は筋違いのはずである。
「では一体?」
 もっと他に複雑な事情があるのだろうか。しかし綺羅の答えは簡潔で予想外だった。
「寒い」
 簡潔だからと云って理解出来るとは限らない。
「えっと、それは一体?」
「今日初めて八千まで上がったけど、機内が寒くて寒くてやってられないんだ。だからこうしてさっさと切り上げてきた」
「暖房ないんですか」
 先ほどまで機内が寒いとか云っていた自分のことは置いておいて洋一が尋ねる。
「全然効かないんだよ、まったく」
「いやそんなはずは」 
 設計した本人が疑問を提してきた。
「冷たいままの風が少し出ただけでまったく暖まらないんだ。せっかくの排気タービンも、人間の方が根を上げては宝のもちぐされだよ」
 自分もかなり寒かったが、どうやらその比ではなかったらしい。
「うーん。十式と似たような設計にしたはずなんだけど、何が違うんだろう」
 塚越はボサボサした頭をかきむしる。
「あの、前にエンジンが有るか無いかではないでしょうか」
 おずおずと洋一が発言した。
「前のエンジン、あれ結構暖かいし熱いですよ」
 防火壁の向こう側だろうと、一千馬力の熱源ともなれば影響がないはずがない。
 「そうですな、あれは熱かった」
 ついさっきそれを実感してきた成瀬も頷く。
「そうなると暖房の根本的な見直しか、すぐには無理だなぁ。厚着して我慢してくれない? 電熱服とか」
「電熱服苦手なんですよ。のぼせるというかなんというか」
 服の中に電熱線が走っていて、中から温めてくれる電熱服というものがあるにはある。しかし火災の危険性やら好き嫌いやらで、海軍ではあまり普及はしていなかった。
「あと君が遊んでくれなかったから退屈で寒かった」
 いきなりそんな責任のなすりつけ方をされても困る。
「こちらは帰りで燃料が無かったんですよ」
 それに寒かったし。
「そういえば琵琶湖の上空で割と高いところを飛んでいた四発機居ませんでしたか? あれに襲撃訓練でもしていたのかと思ってたのですが」
「見かけなかったなぁ。居たら遊んだのに」
 まあ空は広いから、すれ違ってしまえば中々逢わないものではある。
「そもそも四発機ってなんだ? 陸攻も陸軍の重爆も双発だぞ」
 云われてみれば、一体何だったのだろうかあれは。秋津に四発機なんて有っただろうか。
「輸送機もみんな双発だし……、あ、七式飛行艇!」
 思いついたは良いが洋一はまた首をひねる。
「でもあまり飛行艇っぽくはなかったしなぁ。一体何だろう?」
 秘密の新型機でも見かけたのだろうか。高高度に棲む幻の類いだったのかもしれない。
 そんな補給の合間のひとときの向こうから、自転車を必死にこぐ影が近づいてきた。
「中隊長、大変です!」
 自転車から降りて来た池永中尉が息を切らせながら叫んだ。
「中京が爆撃されました!」
 全員が眼を見開いたが、数秒理解が追いつかなかった。
「爆撃って、どこから?」
「伊勢湾に、空母でも侵入されたのか?」
 舞鶴空襲があったとはいえ、今秋津本土にブランドルの飛行機が飛んで来ることを危惧している人は居なかったであろう。ブルゴーニュ半島が取られない限りは本土は安泰。だれもがそう思い込んでいた。
「いえ、少数の大型機が高高度から投弾したそうです」
 池永は胸ポケットから電文を取り出す。握りしめたのか皺が寄っている。
「敵機はそのまま逃走したようです。全国の基地に警戒命令が出ました。可能ならば攻撃せよと」
 かなり泡を食っているのは感じられた。闇雲に攻撃に上がっても見つけられないだろうに。
「しょうがないな。訓練と試験飛行は中止、警戒機を上げる準備をしてくれ」
 綺羅は指示を出し、周囲もそれに応じて動き始める。ふと綺羅が振り返ると、洋一の顔から血の気が失せていた。
「おい、洋一君」
 そこで綺羅はふと思い出した。
「洋一君、さっき君が云っていた四発機ってひょっとして」
 その瞬間、洋一ががばと顔を上げた。
「隊長! 丹羽三飛曹、迎撃に向かいます!」
 叫ぶやいなや洋一は先ほどまで乗っていた機体に飛び乗った。
「あ、うん、頼んだ」
 洋一の剣幕に珍しく綺羅が押されてしまった。
「朱音、回してくれ!」
 急いで発進準備をしながら洋一が叫ぶ。
「だから火薬式になったんだから回さなくて良いの。そう、スロットル三分の一開けて」
 勢いのまま朱音も発進を手伝う。爆発音と同時にプロペラがギクシャクと回り始める。咳き込むように身震いしながら、やがてそれがつながり始めた。
「こちらウグイス、発進します!」
 暖機もそこそこに洋一は延長翼型の試作十式艦戦を進ませ始めた。通常よりも速く誘導路を進み、滑走路に入った途端に疾走し始めた。
 あれよあれよという間に離陸していった洋一機を見送った一同だったが、ふと我に返った成瀬がつぶやいた。
「あいつ、機銃弾積んでないのにどうするつもりなんだ?」
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