上 下
281 / 436
待ち合わせ

呼び間違えた

しおりを挟む
 小声でボソボソと答える。

「あの頃は……まだ慣れてませんでしたし、自分も人生を悲観していたので……でも、今は九条さんと伊藤さんがいて、自分なりに楽しくやってるので」

「ええ、分かります。あの二人の依頼、一年前のあなたなら受けられなかったでしょう。今回受けると言ったあなたに、少し嬉しくもありました。立ち直れてなければ無理なことですから」

 そう優しい声色でいった九条さんは、本当に嬉しそうに目を細めた。直視できない光景に、ただ必死に息を繰り返す。胸が苦しい。

 無意識に私をこんなふうにしてしまう彼を憎いと思う。何度だって諦めようとしてるのに、いつだって私を磁石のように引き寄せる。こんなに罪な人間がいるだろうか、ポッキー星人のくせに。

「私が……立ち直れたのは」

 新しい恋のおかげでもあるんです。

 そう口からこぼれてしまいそうになった時、伊藤さんの後ろ姿が目に入って慌ててつぐんだ。何を言おうとしたんだ自分は。告白するつもりなんてなかったし、するにしてもこんなシチュエーションだめすぎる。

 この男のせいだ。九条さんがこんな時にあんなことを言うから、ついポロって溢れちゃいそうだった。ポッキー星人め、あっちのペースに巻き込まれてはダメなのに。

 必死に自分の心を落ち着かせる。冷静になろう、今は仕事のことを考えなきゃ。何度か深呼吸をして仕事モードに戻す。伊藤さんの方を向くと、彼はイヤホンをつけたまま壁にもたれていた。眠っているのか、目を閉じてじっとしているだけなのか。

 と、違和感に気づく。

 彼が肩にかけている毛布だ。柔らかそうな茶色のそれは地面に向かって垂れている。その裾部分がわずかに動いているのだ。伊藤さんはじっと動いていないので、彼のせいでないことは明白。

 じっと目を凝らす。裾が伊藤さんとは反対側に引っ張られている。誰かが弱い力で恐る恐る引いている、そんなイメージで。

 私は小声で隣の九条さんに言った。

「ポッキーせいじ……じゃなかった九条さん!」

「今何と言い間違えようとしたんですか?」

「伊藤さんのあそこ、見てください!」

 彼も視線をむけ、すぐに表情を厳しくさせた。私はさらに集中して毛布を見つめる。

 と、瞬きをした、一瞬の時だった。突然、伊藤さんの隣に人の姿が出現した。あまりに突然のことだったので、驚きで声を漏らしてしまいそうだった。今ままで無の空間だった場所に、小さな人がしゃがみ込んでいる。

 後ろ姿から見るに小学生三、四年生くらいか。ショートカットの髪は乱れており、セルフカットをしたのか毛先は少し歪んでいた。正面を向いているので、こちらからは顔が確認できない。白い服にところどこ模様がついている。が、それが模様ではなく、汚れであることにすぐ気がついた。

 まことちゃんは伊藤さんの毛布を小さな手で握り、控えめに引いていた。まるで何かを頼るように、願うように。伊藤さんは気づいていないのか気づかないフリをしているのか、動く様子はない。

 そんな伊藤さんを不思議に思ったのか、まことちゃんがゆっくり彼の方を向いた。見えなかった横顔がようやく見える。

「……!」

 私はじっと目を凝らしてそれを見た。その子の鼻から血が垂れている。さらに目元もあざのようなもので黒くなっていた。

 わかりやすい外傷。やっぱり、事故で亡くなったんだ。

 九条さんがちらりと私を見る。頷いて返事した。まことちゃんです、母親である明穂さんのように怪我しています、と。

 その痛々しい様子に胸が痛む。明穂さんを見た時もキツかったけど、子供がこんなに傷だらけなのはなお辛い。人生これから楽しいことがあっただろうに、あんなふうに殺されてしまって……。

 九条さんが声を上げた。この場から動かないのは、子供に逃げられると思った彼なりの配慮なのかもしれない。

「ここでお母様を待っているのですか?」

 まことちゃんは毛布を握ったまま、ゆっくりこちらを振り返った。真っ白な肌につぶらな瞳。唇の色は青い。

 九条さんが続ける。

「お母様を待っているのですね? 待ち合わせしていたから。あなたを探しているお母様を知っていますよ」

 まことちゃんがゆっくり立ち上がった。しっかりこちらを向き私たちを見上げる。鼻の下にこびりついた血の痕が目立つ。

 彼女が着る洋服はやや大きめのようだった。指先は長袖に隠れて見えない。その白い服はいろんなところが汚れていた。事故の時アスファルトに叩きつけられたためだろうか、肩の部分はわずかに破れている。ただ、明穂さんのように手足が折れていることはなかった。

 九条さんがなお声を上げる。

「お母様と会って、行くべき場所へ行きましょう。それが…………え?」

 ピタリと彼が声を止める。私はまことちゃんから目を離さないでいると、彼女が小さく首を振ったのがわかる。それが拒否しているのだと明確な意思表示だ。

「なぜです? 何か理由が?」

 九条さんがさらに尋ねると、次の瞬間場にそぐわぬ明るい声が階段に響いてきた。

「あれーこっちにいるのかな? あ、いたいたー伊藤さんたち!」

 声を聞いて眩暈を覚えた。聡美の声であることがすぐにわかったからだ。そして案の定、声に驚いたまことちゃんは瞬時に消えてしまうのだ。

 嘘でしょう、こんなタイミングで!

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

呪われた姿が可愛いので愛でてもよろしいでしょうか…?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:184pt お気に入り:2,989

見よう見まねで生産チート

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:85pt お気に入り:1,227

【完結】 嘘と後悔、そして愛

恋愛 / 完結 24h.ポイント:5,928pt お気に入り:331

男を見る目がない私とゲームオタクな幼馴染

恋愛 / 完結 24h.ポイント:660pt お気に入り:7

悪役令嬢になりたいのにヒロイン扱いってどういうことですの!?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,583pt お気に入り:4,977

家賃一万円、庭付き、駐車場付き、付喪神付き?!

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:7,838pt お気に入り:954

少女の恋は甘く、苦く、酸っぱく。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:859pt お気に入り:1

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。