欲貌のシンデレラ

笹野にゃん吉

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終章 失うよりも永遠な

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 血と汗のにおいがした。枯れ葉や木の焦げたにおいも。
 吹きつける風は、いよいよ凍てついた舌のように肌を舐める。間もなく停滞の季節がやって来るのだ、とラーナは、ぶるりと震えながら目を覚ました。

「んん……」

 その目に融けてきたのは、蜂蜜の流動する天井だ。意思を持ったように揺曳する蜂蜜は、時折、赤いものを招いては踊っていた。

 なんか和やかな景色。

 霞がかった意識の中でラーナは思った。
 そして、ふと気付いた。
 蜂蜜は寄せては返す波のように、左からやって来て左へ返っていくことに。

「ん」

 その行方を追おうとしたラーナは、しかし吹きつけた強い風に、まず右を向いた。すると、丸い岩肌が続いているのが見て取れた。その果ては怪物の口腔のような闇で、風が吹くのに合わせて何かがざわざわと蠢いていた。
 
 どうやら洞窟の中らしい。

 おぼろげな意識のまま、ようやく左に目を転じた。そこに蜂蜜の正体はあった。石に縁どられた焚火が苦しげに揺れていた。弱々しい炎の明かりは、ちろちろと眠気を炙った。それは氷が融けるように消えていった。

「あっ!」

 ラーナは跳ね起きた。

「あいぃ……ッ!」

 たちまち全身に痛みがはしり、顔をしかめた。皮膚の下で、痛みが波打ち拡がっていくような気がした。
 中でも鳩尾の痛みが鮮烈だった。手足にできた無数の擦り傷や痣よりも、それが痛かった。

「はぁ……」

 這う這うの体で壁に寄りかかり、深い吐息をもらした。

「また独りになっちゃったな」

 長い夢を見ていたような気がした。
 どこからが夢だったのだろうか。

 と、ここで話したとき?
 ハガーと出会ったとき?
 旅を始めたとき?
 それとも魔獣に故郷を滅ぼされたときだろうか?

「……」

 ラーナは顔の傷痕に触れた。忌々しいぶよぶよとした感触は、依然そこにあった。
 次いで短剣を探った。近くに帯革ごと投げだされていた。
 抜いてみると赤い。血の色ではない。炎を照り返した色だ。

 けれど解る。

 この短剣は血を吸っている。
 愛する者の血を吸っている。

 そして自分はここにいる。

 すべて夢ではない。現実だ。
 ただ何も残らなかっただけだ。
 愛する者を殺めた罪、その痛み、途方もない孤独の他には、何も。

「どうしよう、これから」

 誰に聞かせるともなく呟いた。そもそも聞いてくれる人など誰もいなかった。

「帰ろうかな……」

 そんな時、思い浮かんだのは師の顔だった。
 ラーナは自嘲的に笑った。
 制止を振り切って山を下りてきたくせに。今更どんな顔で帰るつもりだろう。
 だが他に行くべきところも、行きたいところもなかった。

「……」

 どこにもなかった。どこにも。

『――また出逢ってくれ』

 本当に、そうだろうか。
 行きたい場所があるのではないか。
 思い残した事があるのでは――。

「ない、ない、ないよ……!」

 ラーナは頭を抱えた。何も思い出したくなかった。
 それなのに記憶は押しよせる。
 数々の苦しみと決断と温もりを。

 解っている。
 何も残らなかったなんて嘘だ。
 けれど、それはもうここにないのだ。

 ラーナはその事実を確かめるようにして、もう一度洞窟の中を眺めた。
 壁際に目を留めると、そこにの姿をまざまざと思い浮かべることができた。
 一緒にいられた時間は短かった。ハガーとの旅よりもずっと。

 それなのに濃厚だった。

 はあの壁で、自身の過去を語ってくれた。
 迷う自分に『信じろ』と言ってくれた。
 山の頂で、ハガーを救うため、共に戦ってくれた。
 手を繋げたのだと思っていた。
 ハガーを信じたように、を信じたつもりでいたのだ。

「……でも、もういない」

 ラーナは炎に目を戻した。
 それは、すっかり消えかかっていた。
 ラーナはおもむろに薪の代わりを探した。しかし寝床の枯れ葉くらいしか燃えそうなものはない。

 荷物の中に何かなかったかな?

 壁際に置かれた荷物袋を引き寄せ、中をまさぐった。

「ない」

 ラーナは苦笑し、袋を元の場所へ戻そうとした。

「……?」

 すると、そこに小袋が転がっているのを見つけた。
 中を見て、胸の奥が熱くなった。

「なんだよ……」

 そこに樹皮があったからだ。
 いつかが焚火の中に放っていた、シラカンバの樹皮があったからだ。

「なんだよ、あいつ!」

 胸の熱がラーナを衝き動かした。
 全身の痛みにも構わず、の痕跡を探し始めた。

 小袋の下、帯革の下、敷き詰められた落ち葉の裏、焚火の周囲、洞窟の奥――。

 他のどこにも、の痕跡は見つけられなかった。
 しかし、ラーナは探し続けた。
 そもそも自分がここにいる事が、が存在した証だったから。
 一度は検めたはずの荷物袋を再度まさぐった。
 あるはずがない。何もあるはずがない。
 そう諦めかけていたときだった。

「あった……」

 ラーナは見出した。
 荷物袋に挿された羊皮紙だった。
 訳文とは別のもう一枚だ。
 捨ててやろうと思っていた、あの下手くそな地図だ。
 その裏に、植物の汁が滲んでいた。
 汚れや黴ではない、それは文字だった。

 したためられていたのは一言だった。たった一言だった。

『ありがとう』

 そのたった一言が、ラーナを震わせた。

「ふざけるな」

 わなわなと震わせた。

「それくらい自分の口で言えよ!」

 怒りのあまり膝を殴っていた。痛かった。だがその痛みさえ、を思い出させた。

『――その思いは、勝手に手を離されただけで涸れてしまうようなものか』
「うるさい……」

 ハガーが魔獣になったとき、ラーナは絶望した。大切な人が目の前からいなくなった事実に傷つき、身動ぎひとつできなくなった。
 そんな時、が救ってくれた。
 壊れかけた心に柱をくれた。
 否、橋を架けてくれたのだ。
 大切な者たちと繋がる、決して折れることない橋を。

『……そうしたら、きっとアタシも世界を信じられるから』

 そして、それはにも繋がっているのだった。

「ああ、クソ! めんどくさいな、あいつッ!」

 何も残っていないはずがなかった。
 ハガーのことも、のことも。
 渡された橋から、絶えることなく流れこんでくる。

 忘れようとしても、忘れられない。
 偽ろうとしても、偽れるものではない。

 所詮、己さえ自由に操れない人間だから

「……見つけてやる。見つけてやるから、絶対に」

 失うよりも永遠な、に抗えるはずもない。
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