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二十八章 届かずとも
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その女には片足がない。絶たれた足首からは血が流れ、女の歩んできた軌跡を赤く汚している。
華奢な体躯を包む深緑のドレスもまた、そこここが破れ、血や泥に汚れていた。
けれど、欠けたベールの下、真紅に色づいた唇は、殺伐たる風采に反して淫靡に、そして子どもじみて弧を描いていた。
「……フフ」
手近な樹木に手をついたところで、彼女は肩越しに目を向けた。
視線の先に、化け物が降りたった。
「……」
それは麗しい顔立ちの女だったが、双眼は瞋恚《しんい》に塗り固められ、立ちこめる殺気は獣じみていた。
ストロベリーブロンドの頭髪は乱れ、左腕はぶらりと力なく、肌には無数の裂傷が刻まれている。
だが何よりも異質なのは、右腕と腹に巻かれたロープが、独りでに蠕動《ぜんどう》していることだった。
化け物を前にしても、女は怖気づく様子ひとつ見せなかった。
むしろ、歓迎の意を示すように両腕を拡げてみせた。
「早かったわね、シンデレラ」
声色は人を食ったように甘ったるい。
「なぜ逃げなかった、ジュスティーヌ」
一方、美女の口調は意外にも淡白だ。
ジュスティーヌはそのギャップに可笑しみを感じ、くすくすと笑う。
「逃げてきたわよ?」
「もっと遠くまで逃げられたはずだ。お前の力で生命を生みだせば。その足を借りれば」
「フフ、そうね」
ジュスティーヌはあっさりと認め、悠然と美女に向き直った。欠けた足を地にこすりつけながら。
「何故でしょうね? うまく言葉にできないわ。でもあえて言うなら、そうね。ワタシがそうしたかったからよ」
「そうしたかっただと?」
目を眇める美女に、ジュスティーヌは穏やかな頷きを返した。
「ええ。ワタシは欲求に忠実なの。自他に拘泥せず、そうしたければそうするのよ」
「殺される事を望んだとでも言うのか?」
ジュスティーヌは肩をすくめた。
「殺されるつもりはないわ。でも、あなたがここに来るのを待っていた。それがワタシの欲望なの」
「訳が分からんな……」
「フフ、理解する必要などないのよ。人間同士でさえ理解し合えないというのに、何故、ワタシを理解できると思うのかしら?」
美女はしばし沈黙した。その目に一瞬、人間じみた哀切が過ぎった。
「……やはりお前は、人間じゃないんだな」
「どうかしらね」
「何者なんだ、お前は?」
抑揚なく放たれた美女の問いに、ジュスティーヌの肩は震えた。
くつくつと笑いがこみあげ、やがてキャラキャラと耳障りな哄笑に変わった。
美女は顔をしかめた。
「なにが可笑しい」
「ウフフ! ごめんなさい。この期に及んで、まだワタシを理解しようとするのだもの。可笑しいじゃない?」
「確かに、理解する必要なんてないな」
その時なぜか美女も笑った。卑下するような笑みではなかった。恥じらいを繕うような笑みだった。
「殺せばいいだけだ」
それはすぐ憎悪に染めあげられた。
ジュスティーヌにはその変化がたまらなかった。
思わず快感に身をよじり、熱い吐息をもらした。
それが開戦の合図となった。
美女を中心に殺気が渦を巻き、虚空を波打たせた。
昼を夜に変えてしまうような、どす黒い感情の波動だった。
実際、雲の裏の陽光は、急いたように傾き始めていた。
――
レイラの短剣は空を馳せるなり獣の肉を裂いていく。ロープとともに乱舞し、血の雨降りしきる活路をひらく。
しかし次の瞬間には、新たな獣が視界を塞ぎ襲いかかってくる!
「ッ!」
レイラは、ウェイグから拝借した剣に手をかけた。
樹木が次々と獣へ変わっていく所為で、ロープを用いた移動は制限されていたが、一方で、剣を阻むものもなかった。
「オオッ!」
渾身の力で抜剣した。
鞘走った刃が、一撃のもとに獣の首を刎ね飛ばす!
ここぞとばかりにレイラは踏みこむ。
魔女を剣の間合いに捉えると、すかさず大上段から斬りかかる!
「乱暴ね」
無論、片足とはいえ、そう容易く死刃を受け入れる魔女ではない。
頭上に残像が刻まれた刹那、拳が剣の側面を打った。軌道が逸れ、刃は地に沈む。
ビョウ!
その時、ロープの短剣が風を切る。
ジュスティーヌの薄ら笑いを貫くべく!
それも柄を掴んで止められる。
レイラは腹を蹴りつける!
「ング……」
入った!
相手が怯んだ一瞬、レイラの足は円弧を刻んだ。レイラを中心に剣が回転した。
横薙ぎ。
今度は逸らされたとしても確実にダメージを与えられる軌道。
魔女の脇腹に刃が迫る!
「ウフフ!」
ところが、それも血肉に届かなかった。
剣はドレスのみを裂き、肌に至る寸前で止まった。
反動がレイラの腕をじんと痺れさせた。
「な……」
魔女の肘と膝が上下から刃を挟みこんでいた。
想定外の挙動。動揺は、たちまち隙となる。
ジュスティーヌは地を蹴り後退すると同時、掴んでいた短剣を投げ返した!
「……ッ!」
レイラはとっさに異能を発動させたが、わずかに遅れた。頬に赤い線がはしり、じわりと血が湧いた。
魔女が背後の樹木に触れた。
魔女の恩寵は誕生の赦しだ。
ふたたび獣が顕現する!
「オオオォォォン!」
巨大な狼だ。
それが色を失いつつある空に吼え牙を剥いた。
空が応えるように雲を散らした。薄い銀の月が覗いた。
狼は跳躍した。
レイラは真横に跳んだ。
すれ違いざまに首を斬った。
「グルァ!」
血が滲んだだけだ。
転がるように着地した狼は、すぐさま爪を振りかぶった。
レイラは剣で受けた。
無論、片腕では弾き返せない。獣の巨躯に押し倒される!
同時に、レイラの背中に熱がともった。
「ギィ、アッ!」
狼の首に短剣が飛来した。
ロープが獰猛に脈打ち、獣の血と涎を溢れさせた。それがレイラのこめかみを濡らした。
獣の眼から生気が抜け落ちた。
レイラは狼の腹を蹴りあげ、立ちあがる。
この間に魔女は、次の樹木に触れていた。
樹木の輪郭が歪み、魔女を跳びこし襲いかかる。
さらに枝はヘビ、葉はハチと化して群れをなす!
レイラは軽やかなステップで獣の体当たりを躱し、的確に急所へ剣を抉りこむ。腹のロープが風とともに唸りヘビを牽制し、宙を舞う短剣がハチの群れを過たず破壊する。
数が増えれば、その分生みだされる姿は歪になるらしい。植物の部位をもった半端な雑兵たちだ。動きが鈍く脆い。
しかし対処せねばならない相手が増えれば、注意は拡散し、手数を消費する。魔女へ肉薄する余裕がない。
……クソッ。
何よりレイラは満身創痍だ。
有象無象を的確に躱すも紙一重。肌に裂傷が増え、足はもつれ、視野は霞んでいく。
三波、四波、五波――。
いくら群れを崩しても、一向に魔女との距離は縮まらない。
捌けない敵の数ばかりが増えていき、レイラはついに片膝をついた。
膝が濡れた感触を捉えた。血ではなかった。
清冽な水の感触だった。
それは緩やかに坂を下り、今まさに襲来する有象無象の足許を貫くようにして延びていた。
そして冷ややかな感触は、次いで熱をともした。
背中に真っ赤に灼けた鉄の杭を打ちこまれたような気がした。
背負ってきた業ではなかった。
もっと強く、優しく、真っ直ぐな――きっと、視線だった。
「……ああ」
レイラはそれを信じた。
まだ、それ以外の何も信じられなかったが、今はそれだけで充分だった。
「ぁあああああぁあああぁああぁあッ!」
ありったけの力で地を蹴り、這うようにとび出した。
刹那、有象無象の動きが狂う!
レイラの覇気に怯んだのか、魔女が何か手違いを起こしたのか。
獣がびくんと震え、ヘビが棒を呑んだように固まり、虫はあらぬ方向へ飛翔した。
水の流れに空隙が生まれた。
レイラはそこへ潜りこむように突っこみ転がった。
視界が二度も三度も反転し、頭上に爪牙が閃いた。
姿勢をたて直したその時、レイラは見た。
豁然とひらけた、その空間を。
かすかに揺曳する月――それを映しだす縹渺たる池の水面を。
「ジュスティーヌッ!」
それを背後に佇む、魔女の姿を!
レイラは異能を発動する。
短剣を結わえたロープが夜を飛翔する!
ジュスティーヌは悠然と身構える。片腕が霞む。
ところが突如、その動きが狂う。先の獣たちと同様に。
「あァら……?」
当惑の声が夜に谺すると同時、虚空を掻いた片腕が宙を舞った。それは池の水に呑みこまれた。水面が大きく波打ち、月の円が泣き崩れるように乱れた。
魔女の眼前にゴッと風が唸った。
それは傷だらけで、なお美しい女の姿をしていた。はね上げられたベールの下、黒一色の双眸がそれを認めた。
次の瞬間には、もう一方の腕が斬り飛ばされ、魔女は押し倒されていた。
レイラはロープの短剣を掴み、魔女の胸に突き付けた。
「……ようやく、この時が来た」
ジュスティーヌは穏やかに笑んだ。
「お喋りしてる余裕があるのかしら。獣たちが来るわよ?」
「なんとかなるだろうさ」
「そうみたいね」
ジュスティーヌは、あっさりと認めた。
背後から響きわたる、血と斬撃の音。
誰かが獣たちと戦う、その音を、二人は確かに聞いていたのだ。
「……フフ。楽しかったわ、シンデレラ。あなたの怒り、憎しみ、悲しみ、どれも甘美だった」
「それがアタシの人生を狂わせた理由か?」
訊ねれば、魔女は倒れ伏したまま肩をすくめてみせた。
「まだワタシを知ろうとするのね? 無駄だというのに」
「無駄、なんだろうな。でもアタシは、無駄じゃないと信じたかった」
「なぜ?」
魔女の問いは子どものように無邪気だった。
対するレイラにも邪な翳が落ちることはなかった。
「……それが人だからだ」
「へえ?」
「人は、他者を理解することなんてできない。歩み寄ってみて無駄に終わったり、裏切られたり、自分から裏切ってしまう事だってある。それでも……届かずとも、人は触れ合おうとする。そういう生き物なのさ」
誰も信用してこなかった。その必要もないと思っていた。
けれど本当に誰も信用せず、歩み寄る必要もないなら。
魔獣に変貌した人々を狩り続けなくてもよかった。
酒場で冒険者を待たなくてもよかった。
ラーナの同行を赦す必要もなかった。
「何のために?」
心底解らないという風に、ジュスティーヌは首を傾げた。
レイラは苦しげに微笑んだ。
「……淋しいからさ」
「淋しい?」
「有体な言葉だが、人は独りじゃ生きていけないんだ。この七年で、アタシはそれを学んだ」
「解らないわ」
「だろうな」
今度こそレイラは冷たい声色で返した。
黒一色の目を見据え、はっきりとこう言い放った。
「お前は化け物だから」
「あら、それはあなたも同じではなくて?」
レイラの双眸に炎が燃え盛った。
しかし、それが彼女を蝕むことはなかった。
「違うな。アタシには信じるものが……いや、まだ信じたいものかもしれない。でも、それがある。怒りも、憎しみも、悲しみも、だから生まれるんだと気付いた。気付かされた」
ジュスティーヌは何故か笑った。そこには怒りも、憎しみも、悲しみもなかった。
「もう呪いじゃない。〈ウズマキ〉でも化け物でもない。アタシは」
レイラは刃を押しこんだ。それが胸を抉ると同時、魔女の耳もとで告げてやった。
「人間だ」
魔女は腕をもちあげた。しかし半ばから断たれた腕は、如何なるものにも触れることはできなかった。
間もなく魔女の身体は灰と化し、ザラザラと崩れ落ちた。
そこに風が吹きつけた。
灰が高く舞い上がった。
「……」
そうしてレイラは、一時、灰に染まった髪色を水面に見た。
またぞろ風が吹けば、それは美しいストロベリーブロンドをあらわにした。
レイラは引きつった笑みを浮かべると、池の水を掬って飲んだ。渇いた身体に、それが沁み渡った。
反して、胸を満たすものはなかった。達成感すら湧いてこなかった。冷たい水の感触だけが、いつまでも胸の中に留まっているような気がした。
おもむろに立ちあがれば、背後から足音。
坂を下ってきたそれは、レイラのすぐ後ろまで来て止まった。
「……魔女は?」
足音の主は訊ねた。
「死んだ」
レイラは振り返らず答えた。
池を見つめ続けていた。凍えるような風が吹きつけ、水面は震えていた。
「そうか。これから、どうするの?」
相手はふたたび訊ねてきた。
レイラはいつまでも水面を見つめていた。
「……さあな。決めてない」
「じゃあ――」
「一緒には行かないぞ」
レイラは先んじて相手の提案を遮った。
返ったのは唸り声だ。相手は納得しなかった。
「どうして?」
「まだ足りないからだ」
「なにが?」
レイラは己の胸を見下ろす。その中は空虚で、けれど痛い。
「……罰だ。アタシは大勢殺してきた。中には、きっと殺さなくていい命もあった。いや、殺していい命なんてなかったのかもしれない。裏切った相手だっている。アタシは、その罪と向き合わなくちゃいけない。受け入れて苦しまなくちゃいけないんだ」
二人の間を乾いた風が吹き抜ける。
一瞬の沈黙が、その音を大きく錯覚させた後、相手は震える声でこう返した。
「……それなら、独りじゃなくてもいいじゃないか」
「え?」
思わずレイラは振り返ってしまう。もう相手の顔も見ず、立ち去るつもりでいたのに。
醜い傷痕の女を見る。月明かりに煌めく涙に濡れた、その美しい女を見る。
「お父さん、言ってたんでしょ? 罰は罪を自覚して苦しむことだって。なら、独りになる必要なんてない」
「……」
「そうでしょ……シンデレラ」
ドン。
胸の中には痛みしかない。
それ以外は、果てしない空虚ばかりのはずなのに。
熱くなる。胸が、殴られたように熱くなる。
「……アタシを、その名で呼ぶな」
「どうしてッ!」
拒絶すれば、怒りの声がさらに強く胸を殴りつけた。
そんな真摯な声は、久しく聞かなかった。
あるいは、生まれて初めて聞いたのかもしれない。
「人生狂わされて、幸せになるはずの時間奪われて……。魔女がいた間、確かにその名前さえ憎かったかもしれない。でも魔女は死んだ。もう過去を捨てて生きなくていいんだ」
「それは……」
レイラは口ごもる。なにか反射的に返したいのに、言葉が見つからなかった。
「思い出すの辛いかもしれない。苦しいかもしれない。でもあの頃、幸せだったんでしょ? だから、ここにいるんでしょ?」
ラーナは泣きながら近づいてくる。
レイラは後退ろうとする。
けれど、後ろは池だ。退くことはできない。
「もう自分を偽る必要ない。シンデレラで、いいはずだよ」
ラーナの腕が、背中に回りこんできた。
耳もとに息がかかる。
鼓動が伝わる。
それがまた熱をともす。
何もない胸の中に、じんと。
「それでもアタシは独りで行く」
レイラは相手の肩を押して遠ざける。
拒絶ではなく。
相手の目をしっかりと見られるように。
何か言いかけたラーナの唇に指を当て、レイラは言った。
「だから、また出逢ってくれ。もしもアタシを見つけたら」
そして今度は自ら、ラーナの温かな身体を抱きしめた。
「その時もう一度、名前を呼んでくれ」
レイラの目尻から一筋の滴がこぼれ落ちた。
「あぐ……ッ!」
それが土に滲みるより前に、ラーナの鳩尾へ膝蹴りを叩きこんでいた。
ラーナの見開かれた目から急速に光が失われていった。
だから最後の一言は届いていたかどうか。
「……そうしたら、きっとアタシも世界を信じられるから」
華奢な体躯を包む深緑のドレスもまた、そこここが破れ、血や泥に汚れていた。
けれど、欠けたベールの下、真紅に色づいた唇は、殺伐たる風采に反して淫靡に、そして子どもじみて弧を描いていた。
「……フフ」
手近な樹木に手をついたところで、彼女は肩越しに目を向けた。
視線の先に、化け物が降りたった。
「……」
それは麗しい顔立ちの女だったが、双眼は瞋恚《しんい》に塗り固められ、立ちこめる殺気は獣じみていた。
ストロベリーブロンドの頭髪は乱れ、左腕はぶらりと力なく、肌には無数の裂傷が刻まれている。
だが何よりも異質なのは、右腕と腹に巻かれたロープが、独りでに蠕動《ぜんどう》していることだった。
化け物を前にしても、女は怖気づく様子ひとつ見せなかった。
むしろ、歓迎の意を示すように両腕を拡げてみせた。
「早かったわね、シンデレラ」
声色は人を食ったように甘ったるい。
「なぜ逃げなかった、ジュスティーヌ」
一方、美女の口調は意外にも淡白だ。
ジュスティーヌはそのギャップに可笑しみを感じ、くすくすと笑う。
「逃げてきたわよ?」
「もっと遠くまで逃げられたはずだ。お前の力で生命を生みだせば。その足を借りれば」
「フフ、そうね」
ジュスティーヌはあっさりと認め、悠然と美女に向き直った。欠けた足を地にこすりつけながら。
「何故でしょうね? うまく言葉にできないわ。でもあえて言うなら、そうね。ワタシがそうしたかったからよ」
「そうしたかっただと?」
目を眇める美女に、ジュスティーヌは穏やかな頷きを返した。
「ええ。ワタシは欲求に忠実なの。自他に拘泥せず、そうしたければそうするのよ」
「殺される事を望んだとでも言うのか?」
ジュスティーヌは肩をすくめた。
「殺されるつもりはないわ。でも、あなたがここに来るのを待っていた。それがワタシの欲望なの」
「訳が分からんな……」
「フフ、理解する必要などないのよ。人間同士でさえ理解し合えないというのに、何故、ワタシを理解できると思うのかしら?」
美女はしばし沈黙した。その目に一瞬、人間じみた哀切が過ぎった。
「……やはりお前は、人間じゃないんだな」
「どうかしらね」
「何者なんだ、お前は?」
抑揚なく放たれた美女の問いに、ジュスティーヌの肩は震えた。
くつくつと笑いがこみあげ、やがてキャラキャラと耳障りな哄笑に変わった。
美女は顔をしかめた。
「なにが可笑しい」
「ウフフ! ごめんなさい。この期に及んで、まだワタシを理解しようとするのだもの。可笑しいじゃない?」
「確かに、理解する必要なんてないな」
その時なぜか美女も笑った。卑下するような笑みではなかった。恥じらいを繕うような笑みだった。
「殺せばいいだけだ」
それはすぐ憎悪に染めあげられた。
ジュスティーヌにはその変化がたまらなかった。
思わず快感に身をよじり、熱い吐息をもらした。
それが開戦の合図となった。
美女を中心に殺気が渦を巻き、虚空を波打たせた。
昼を夜に変えてしまうような、どす黒い感情の波動だった。
実際、雲の裏の陽光は、急いたように傾き始めていた。
――
レイラの短剣は空を馳せるなり獣の肉を裂いていく。ロープとともに乱舞し、血の雨降りしきる活路をひらく。
しかし次の瞬間には、新たな獣が視界を塞ぎ襲いかかってくる!
「ッ!」
レイラは、ウェイグから拝借した剣に手をかけた。
樹木が次々と獣へ変わっていく所為で、ロープを用いた移動は制限されていたが、一方で、剣を阻むものもなかった。
「オオッ!」
渾身の力で抜剣した。
鞘走った刃が、一撃のもとに獣の首を刎ね飛ばす!
ここぞとばかりにレイラは踏みこむ。
魔女を剣の間合いに捉えると、すかさず大上段から斬りかかる!
「乱暴ね」
無論、片足とはいえ、そう容易く死刃を受け入れる魔女ではない。
頭上に残像が刻まれた刹那、拳が剣の側面を打った。軌道が逸れ、刃は地に沈む。
ビョウ!
その時、ロープの短剣が風を切る。
ジュスティーヌの薄ら笑いを貫くべく!
それも柄を掴んで止められる。
レイラは腹を蹴りつける!
「ング……」
入った!
相手が怯んだ一瞬、レイラの足は円弧を刻んだ。レイラを中心に剣が回転した。
横薙ぎ。
今度は逸らされたとしても確実にダメージを与えられる軌道。
魔女の脇腹に刃が迫る!
「ウフフ!」
ところが、それも血肉に届かなかった。
剣はドレスのみを裂き、肌に至る寸前で止まった。
反動がレイラの腕をじんと痺れさせた。
「な……」
魔女の肘と膝が上下から刃を挟みこんでいた。
想定外の挙動。動揺は、たちまち隙となる。
ジュスティーヌは地を蹴り後退すると同時、掴んでいた短剣を投げ返した!
「……ッ!」
レイラはとっさに異能を発動させたが、わずかに遅れた。頬に赤い線がはしり、じわりと血が湧いた。
魔女が背後の樹木に触れた。
魔女の恩寵は誕生の赦しだ。
ふたたび獣が顕現する!
「オオオォォォン!」
巨大な狼だ。
それが色を失いつつある空に吼え牙を剥いた。
空が応えるように雲を散らした。薄い銀の月が覗いた。
狼は跳躍した。
レイラは真横に跳んだ。
すれ違いざまに首を斬った。
「グルァ!」
血が滲んだだけだ。
転がるように着地した狼は、すぐさま爪を振りかぶった。
レイラは剣で受けた。
無論、片腕では弾き返せない。獣の巨躯に押し倒される!
同時に、レイラの背中に熱がともった。
「ギィ、アッ!」
狼の首に短剣が飛来した。
ロープが獰猛に脈打ち、獣の血と涎を溢れさせた。それがレイラのこめかみを濡らした。
獣の眼から生気が抜け落ちた。
レイラは狼の腹を蹴りあげ、立ちあがる。
この間に魔女は、次の樹木に触れていた。
樹木の輪郭が歪み、魔女を跳びこし襲いかかる。
さらに枝はヘビ、葉はハチと化して群れをなす!
レイラは軽やかなステップで獣の体当たりを躱し、的確に急所へ剣を抉りこむ。腹のロープが風とともに唸りヘビを牽制し、宙を舞う短剣がハチの群れを過たず破壊する。
数が増えれば、その分生みだされる姿は歪になるらしい。植物の部位をもった半端な雑兵たちだ。動きが鈍く脆い。
しかし対処せねばならない相手が増えれば、注意は拡散し、手数を消費する。魔女へ肉薄する余裕がない。
……クソッ。
何よりレイラは満身創痍だ。
有象無象を的確に躱すも紙一重。肌に裂傷が増え、足はもつれ、視野は霞んでいく。
三波、四波、五波――。
いくら群れを崩しても、一向に魔女との距離は縮まらない。
捌けない敵の数ばかりが増えていき、レイラはついに片膝をついた。
膝が濡れた感触を捉えた。血ではなかった。
清冽な水の感触だった。
それは緩やかに坂を下り、今まさに襲来する有象無象の足許を貫くようにして延びていた。
そして冷ややかな感触は、次いで熱をともした。
背中に真っ赤に灼けた鉄の杭を打ちこまれたような気がした。
背負ってきた業ではなかった。
もっと強く、優しく、真っ直ぐな――きっと、視線だった。
「……ああ」
レイラはそれを信じた。
まだ、それ以外の何も信じられなかったが、今はそれだけで充分だった。
「ぁあああああぁあああぁああぁあッ!」
ありったけの力で地を蹴り、這うようにとび出した。
刹那、有象無象の動きが狂う!
レイラの覇気に怯んだのか、魔女が何か手違いを起こしたのか。
獣がびくんと震え、ヘビが棒を呑んだように固まり、虫はあらぬ方向へ飛翔した。
水の流れに空隙が生まれた。
レイラはそこへ潜りこむように突っこみ転がった。
視界が二度も三度も反転し、頭上に爪牙が閃いた。
姿勢をたて直したその時、レイラは見た。
豁然とひらけた、その空間を。
かすかに揺曳する月――それを映しだす縹渺たる池の水面を。
「ジュスティーヌッ!」
それを背後に佇む、魔女の姿を!
レイラは異能を発動する。
短剣を結わえたロープが夜を飛翔する!
ジュスティーヌは悠然と身構える。片腕が霞む。
ところが突如、その動きが狂う。先の獣たちと同様に。
「あァら……?」
当惑の声が夜に谺すると同時、虚空を掻いた片腕が宙を舞った。それは池の水に呑みこまれた。水面が大きく波打ち、月の円が泣き崩れるように乱れた。
魔女の眼前にゴッと風が唸った。
それは傷だらけで、なお美しい女の姿をしていた。はね上げられたベールの下、黒一色の双眸がそれを認めた。
次の瞬間には、もう一方の腕が斬り飛ばされ、魔女は押し倒されていた。
レイラはロープの短剣を掴み、魔女の胸に突き付けた。
「……ようやく、この時が来た」
ジュスティーヌは穏やかに笑んだ。
「お喋りしてる余裕があるのかしら。獣たちが来るわよ?」
「なんとかなるだろうさ」
「そうみたいね」
ジュスティーヌは、あっさりと認めた。
背後から響きわたる、血と斬撃の音。
誰かが獣たちと戦う、その音を、二人は確かに聞いていたのだ。
「……フフ。楽しかったわ、シンデレラ。あなたの怒り、憎しみ、悲しみ、どれも甘美だった」
「それがアタシの人生を狂わせた理由か?」
訊ねれば、魔女は倒れ伏したまま肩をすくめてみせた。
「まだワタシを知ろうとするのね? 無駄だというのに」
「無駄、なんだろうな。でもアタシは、無駄じゃないと信じたかった」
「なぜ?」
魔女の問いは子どものように無邪気だった。
対するレイラにも邪な翳が落ちることはなかった。
「……それが人だからだ」
「へえ?」
「人は、他者を理解することなんてできない。歩み寄ってみて無駄に終わったり、裏切られたり、自分から裏切ってしまう事だってある。それでも……届かずとも、人は触れ合おうとする。そういう生き物なのさ」
誰も信用してこなかった。その必要もないと思っていた。
けれど本当に誰も信用せず、歩み寄る必要もないなら。
魔獣に変貌した人々を狩り続けなくてもよかった。
酒場で冒険者を待たなくてもよかった。
ラーナの同行を赦す必要もなかった。
「何のために?」
心底解らないという風に、ジュスティーヌは首を傾げた。
レイラは苦しげに微笑んだ。
「……淋しいからさ」
「淋しい?」
「有体な言葉だが、人は独りじゃ生きていけないんだ。この七年で、アタシはそれを学んだ」
「解らないわ」
「だろうな」
今度こそレイラは冷たい声色で返した。
黒一色の目を見据え、はっきりとこう言い放った。
「お前は化け物だから」
「あら、それはあなたも同じではなくて?」
レイラの双眸に炎が燃え盛った。
しかし、それが彼女を蝕むことはなかった。
「違うな。アタシには信じるものが……いや、まだ信じたいものかもしれない。でも、それがある。怒りも、憎しみも、悲しみも、だから生まれるんだと気付いた。気付かされた」
ジュスティーヌは何故か笑った。そこには怒りも、憎しみも、悲しみもなかった。
「もう呪いじゃない。〈ウズマキ〉でも化け物でもない。アタシは」
レイラは刃を押しこんだ。それが胸を抉ると同時、魔女の耳もとで告げてやった。
「人間だ」
魔女は腕をもちあげた。しかし半ばから断たれた腕は、如何なるものにも触れることはできなかった。
間もなく魔女の身体は灰と化し、ザラザラと崩れ落ちた。
そこに風が吹きつけた。
灰が高く舞い上がった。
「……」
そうしてレイラは、一時、灰に染まった髪色を水面に見た。
またぞろ風が吹けば、それは美しいストロベリーブロンドをあらわにした。
レイラは引きつった笑みを浮かべると、池の水を掬って飲んだ。渇いた身体に、それが沁み渡った。
反して、胸を満たすものはなかった。達成感すら湧いてこなかった。冷たい水の感触だけが、いつまでも胸の中に留まっているような気がした。
おもむろに立ちあがれば、背後から足音。
坂を下ってきたそれは、レイラのすぐ後ろまで来て止まった。
「……魔女は?」
足音の主は訊ねた。
「死んだ」
レイラは振り返らず答えた。
池を見つめ続けていた。凍えるような風が吹きつけ、水面は震えていた。
「そうか。これから、どうするの?」
相手はふたたび訊ねてきた。
レイラはいつまでも水面を見つめていた。
「……さあな。決めてない」
「じゃあ――」
「一緒には行かないぞ」
レイラは先んじて相手の提案を遮った。
返ったのは唸り声だ。相手は納得しなかった。
「どうして?」
「まだ足りないからだ」
「なにが?」
レイラは己の胸を見下ろす。その中は空虚で、けれど痛い。
「……罰だ。アタシは大勢殺してきた。中には、きっと殺さなくていい命もあった。いや、殺していい命なんてなかったのかもしれない。裏切った相手だっている。アタシは、その罪と向き合わなくちゃいけない。受け入れて苦しまなくちゃいけないんだ」
二人の間を乾いた風が吹き抜ける。
一瞬の沈黙が、その音を大きく錯覚させた後、相手は震える声でこう返した。
「……それなら、独りじゃなくてもいいじゃないか」
「え?」
思わずレイラは振り返ってしまう。もう相手の顔も見ず、立ち去るつもりでいたのに。
醜い傷痕の女を見る。月明かりに煌めく涙に濡れた、その美しい女を見る。
「お父さん、言ってたんでしょ? 罰は罪を自覚して苦しむことだって。なら、独りになる必要なんてない」
「……」
「そうでしょ……シンデレラ」
ドン。
胸の中には痛みしかない。
それ以外は、果てしない空虚ばかりのはずなのに。
熱くなる。胸が、殴られたように熱くなる。
「……アタシを、その名で呼ぶな」
「どうしてッ!」
拒絶すれば、怒りの声がさらに強く胸を殴りつけた。
そんな真摯な声は、久しく聞かなかった。
あるいは、生まれて初めて聞いたのかもしれない。
「人生狂わされて、幸せになるはずの時間奪われて……。魔女がいた間、確かにその名前さえ憎かったかもしれない。でも魔女は死んだ。もう過去を捨てて生きなくていいんだ」
「それは……」
レイラは口ごもる。なにか反射的に返したいのに、言葉が見つからなかった。
「思い出すの辛いかもしれない。苦しいかもしれない。でもあの頃、幸せだったんでしょ? だから、ここにいるんでしょ?」
ラーナは泣きながら近づいてくる。
レイラは後退ろうとする。
けれど、後ろは池だ。退くことはできない。
「もう自分を偽る必要ない。シンデレラで、いいはずだよ」
ラーナの腕が、背中に回りこんできた。
耳もとに息がかかる。
鼓動が伝わる。
それがまた熱をともす。
何もない胸の中に、じんと。
「それでもアタシは独りで行く」
レイラは相手の肩を押して遠ざける。
拒絶ではなく。
相手の目をしっかりと見られるように。
何か言いかけたラーナの唇に指を当て、レイラは言った。
「だから、また出逢ってくれ。もしもアタシを見つけたら」
そして今度は自ら、ラーナの温かな身体を抱きしめた。
「その時もう一度、名前を呼んでくれ」
レイラの目尻から一筋の滴がこぼれ落ちた。
「あぐ……ッ!」
それが土に滲みるより前に、ラーナの鳩尾へ膝蹴りを叩きこんでいた。
ラーナの見開かれた目から急速に光が失われていった。
だから最後の一言は届いていたかどうか。
「……そうしたら、きっとアタシも世界を信じられるから」
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