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「……あいよ」
亭主がカウンターから物憂げに酒杯を差しだすと、受けとった男もまた陰気な笑みを浮かべた。
男はエールの表面を見つめ、深い嘆息の後に、ようやく酒杯を傾けた。美味いとも不味いとも言わなかった。畢竟、それが今宵の酒場を満たすものだった。
給仕を冷やかす冒険者たちがあれば、声を潜めながら下卑た笑いを笑う卓もある。
だが、それはまるで大根役者の演技じみていて、心が伴っていなかった。
窓の外を絶えず流れる滴が憂鬱を誘うのか、皆景気が芳しくないのかは解らない。
兎にも角にも酒場の雰囲気は、消えかけの蝋燭のように暗い。誰かがお調子者を演じてくれなければ、すぐにも静寂が酩酊の炎を吹き消してしまいそうだった。
「……ふん」
実のところ、亭主には原因が解っていた。
それぞれの事情も、無論、心を暗鬱とさせる要因には違いない。
だが人とは、良くも悪くも他人の影響を受ける生き物だ。
酒場の隅にひとり腰かけた女が、その元凶に違いなかった。
女からは、絶えず発散される負の気配が見えるような気がした。
いつの間にか棚の後ろに居ついた黴と同じだ。知らぬ間に拡がっていくのだ。
別嬪なのに、残念な女だ。
亭主は心中で独りごち、改めて女の姿をまじまじと見つめた。
意外にもその旅装束は小奇麗である。傍らに置かれた袋や壁にかけられた剣も、おそらくよく手入れされていた。
淡く赤みがかったストロベリーブロンドの髪は滑らかで、整った顔立ちは宝石も嫉妬しそうなほどだった。
ところが彼女の目には一切の光がなく、その下にびっしりと浮かび上がった隈がせっかくの美貌を台無しにしていた。ちょぼちょぼとブラッドソーセージをかじる仕種など墓場から蘇ってきた屍人のようだ。
女に飢えた旅人でさえ、この女に関わろうとはしない。
むしろ酒場に集った誰もが彼女を避けている。見ようともしないのだ。見てしまえば呪われる。皆、そう恐れている様子だった。
亭主の背にも何故か怖気がこみ上げてきて、知らず知らずのうちに目を逸らしていた。
そんな陰気な夜だから、酒場からは一人ふたりと酔いどれも逃げていく。その度にベルが空虚な音色を奏でた。
チャリンチャリンと外にもれていく。
「……はぁ」
また出て行ったかと亭主は嘆息をこぼした。
目の前に座っていた男まで、いつの間にかいなくなっていた。
「……」
ところが、束の間雨音が迷いこんだ後、酒場の影は増えていた。
戸口に立っていたのは、フードを目深に被った旅人だった。
亭主が遅れて「いらっしゃい」と声をかけると、人影は小さく会釈を返した。
すると雨除け外套から、ぼとぼとと滴がおち床を濡らした。
亭主はたまらず顔をしかめた。
「おい、ちょっと」
おまけに濡れ鼠は、店の奥を見やるや大股で歩きだしたではないか。
頭を抱えたくなるような最悪の夜だ。
亭主は非難がましく、旅人の背中を睨みつづけた。
「……」
フードの旅人は、美女の傍らに立つと足を止めた。
美女はそれを物憂げに見上げた。
訝しげに目を眇めるわけでもなく、ただ見ていた。相手もしばらくの間、何も言わず立ち尽くしていた。
「……あ」
だから、美女の肩がぴくりとはね上がり、瞠目するのに、前触れはなかった。晴れた空から雨が降ってくるように、それは突然起きたのだった。
「言いたいこと、山ほどある」
フードの奥からは、怒気を孕んだ声が放たれた。
それが美女の湿っぽい空気を払いとばした。
美女の双眸にぽうと光がともった。
「……ああ」
さらに美女は、かすかに笑いまでした。
「捜してた、ずっと。やっと見つけた」
「ああ」
「今度は逃げるなよ」
フードの旅人が手を伸ばした。
さざ波のような囁きが、そこここの卓を行き交った。
二人は何者なのか。
まさか美女は罪人ではあるまいか。
いやいや、二人は恋人ではないのか。
とにかく美女は何と答えるのか――?
いつの間にか酒場の面々は、二人の成り行きを見守っていた。
亭主までもが、ごくりと喉を鳴らしていた。
やがて美女は、フードの手を取った。
「……ああ。もう逃げない」
そして、美貌に満面の喜色を湛えるのだった。
瞬間、酒場に張りつめた緊張が弾けた。
近くの卓で旅人が指笛を鳴らした。
酒場に淀んでいたものが歓声とともに吹き払われた。
亭主の目には、あるはずのない無数のランプが次々と灯っていくように見えた。
人とは、良くも悪くも他人の影響を受ける生き物だ。
亭主は改めてそう痛感し、カウンターに頬杖をついた。
フードの旅人が、美女の手を引き抱きよせた。
「じゃあ一緒に行こう、」
狂喜の渦の中心で、美女は清い涙をこぼしていた。
間もなく、亭主は美女の名を知った。
「シンデレラ」
そう呼びかけた声を、確かに聞いたのだ。
欲貌のシンデレラ〈了〉
亭主がカウンターから物憂げに酒杯を差しだすと、受けとった男もまた陰気な笑みを浮かべた。
男はエールの表面を見つめ、深い嘆息の後に、ようやく酒杯を傾けた。美味いとも不味いとも言わなかった。畢竟、それが今宵の酒場を満たすものだった。
給仕を冷やかす冒険者たちがあれば、声を潜めながら下卑た笑いを笑う卓もある。
だが、それはまるで大根役者の演技じみていて、心が伴っていなかった。
窓の外を絶えず流れる滴が憂鬱を誘うのか、皆景気が芳しくないのかは解らない。
兎にも角にも酒場の雰囲気は、消えかけの蝋燭のように暗い。誰かがお調子者を演じてくれなければ、すぐにも静寂が酩酊の炎を吹き消してしまいそうだった。
「……ふん」
実のところ、亭主には原因が解っていた。
それぞれの事情も、無論、心を暗鬱とさせる要因には違いない。
だが人とは、良くも悪くも他人の影響を受ける生き物だ。
酒場の隅にひとり腰かけた女が、その元凶に違いなかった。
女からは、絶えず発散される負の気配が見えるような気がした。
いつの間にか棚の後ろに居ついた黴と同じだ。知らぬ間に拡がっていくのだ。
別嬪なのに、残念な女だ。
亭主は心中で独りごち、改めて女の姿をまじまじと見つめた。
意外にもその旅装束は小奇麗である。傍らに置かれた袋や壁にかけられた剣も、おそらくよく手入れされていた。
淡く赤みがかったストロベリーブロンドの髪は滑らかで、整った顔立ちは宝石も嫉妬しそうなほどだった。
ところが彼女の目には一切の光がなく、その下にびっしりと浮かび上がった隈がせっかくの美貌を台無しにしていた。ちょぼちょぼとブラッドソーセージをかじる仕種など墓場から蘇ってきた屍人のようだ。
女に飢えた旅人でさえ、この女に関わろうとはしない。
むしろ酒場に集った誰もが彼女を避けている。見ようともしないのだ。見てしまえば呪われる。皆、そう恐れている様子だった。
亭主の背にも何故か怖気がこみ上げてきて、知らず知らずのうちに目を逸らしていた。
そんな陰気な夜だから、酒場からは一人ふたりと酔いどれも逃げていく。その度にベルが空虚な音色を奏でた。
チャリンチャリンと外にもれていく。
「……はぁ」
また出て行ったかと亭主は嘆息をこぼした。
目の前に座っていた男まで、いつの間にかいなくなっていた。
「……」
ところが、束の間雨音が迷いこんだ後、酒場の影は増えていた。
戸口に立っていたのは、フードを目深に被った旅人だった。
亭主が遅れて「いらっしゃい」と声をかけると、人影は小さく会釈を返した。
すると雨除け外套から、ぼとぼとと滴がおち床を濡らした。
亭主はたまらず顔をしかめた。
「おい、ちょっと」
おまけに濡れ鼠は、店の奥を見やるや大股で歩きだしたではないか。
頭を抱えたくなるような最悪の夜だ。
亭主は非難がましく、旅人の背中を睨みつづけた。
「……」
フードの旅人は、美女の傍らに立つと足を止めた。
美女はそれを物憂げに見上げた。
訝しげに目を眇めるわけでもなく、ただ見ていた。相手もしばらくの間、何も言わず立ち尽くしていた。
「……あ」
だから、美女の肩がぴくりとはね上がり、瞠目するのに、前触れはなかった。晴れた空から雨が降ってくるように、それは突然起きたのだった。
「言いたいこと、山ほどある」
フードの奥からは、怒気を孕んだ声が放たれた。
それが美女の湿っぽい空気を払いとばした。
美女の双眸にぽうと光がともった。
「……ああ」
さらに美女は、かすかに笑いまでした。
「捜してた、ずっと。やっと見つけた」
「ああ」
「今度は逃げるなよ」
フードの旅人が手を伸ばした。
さざ波のような囁きが、そこここの卓を行き交った。
二人は何者なのか。
まさか美女は罪人ではあるまいか。
いやいや、二人は恋人ではないのか。
とにかく美女は何と答えるのか――?
いつの間にか酒場の面々は、二人の成り行きを見守っていた。
亭主までもが、ごくりと喉を鳴らしていた。
やがて美女は、フードの手を取った。
「……ああ。もう逃げない」
そして、美貌に満面の喜色を湛えるのだった。
瞬間、酒場に張りつめた緊張が弾けた。
近くの卓で旅人が指笛を鳴らした。
酒場に淀んでいたものが歓声とともに吹き払われた。
亭主の目には、あるはずのない無数のランプが次々と灯っていくように見えた。
人とは、良くも悪くも他人の影響を受ける生き物だ。
亭主は改めてそう痛感し、カウンターに頬杖をついた。
フードの旅人が、美女の手を引き抱きよせた。
「じゃあ一緒に行こう、」
狂喜の渦の中心で、美女は清い涙をこぼしていた。
間もなく、亭主は美女の名を知った。
「シンデレラ」
そう呼びかけた声を、確かに聞いたのだ。
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