上 下
1 / 60
第一章「一行モブ女ですが、容疑者に昇格しました。」

(1)

しおりを挟む
 ソランジュの朝は早い。

 夜明け前に目覚め、屋敷裏手にある井戸で水を汲み、その後薪を倉庫に取りにいき、火を起こしてお湯を沸かす。

 夏ならまだいいが、晩秋の今は底冷えがし、毎朝水の入った重い桶を持つせいで、手はカサカサであかぎれがいくつもできていた。

 食事もパンとスープだけの粗末なもののせいか、まだ十七歳だというのに手は折れそうに細く儚い。顔色は青ざめていて、結い上げられた金髪にも艶がなかった。

 使用人口から屋敷に戻り、薪をくべてお湯を沸かす。続いて身なりを整え、再びたらいを手にし、二階の奥方の寝室へ運んでいく。

「奥様、洗顔のお湯をお持ちしました」

「……入って」

 奥方は先ほど起きたばかりなのか寝ぼけ眼だ。しかし、ソランジュの顔を見るなり視線が途端にきつくなった。

「ったく、どうして朝からお前の顔なんて見なければならないのかしら。不愉快だわ」

「……申し訳ございません」

 事業が失敗したのに生活レベルを下げられず、贅沢三昧を続けてきたため、もはやまともな使用人を雇う金もないからだとは言えなかった。 

 まず数年前、代々仕えてきた凄腕の執事が愛想を尽かして出ていった。その執事を慕っていたメイドや従者、庭師に専属シェフも付き従って辞職している。

 そして現在、身分の低い愛人の娘だからと疎まれ、虐げられていたソランジュが使用人の仕事を押し付けられている。
 
 しかし、いくらなんでも一人ですべてをこなすのは難しい。

 屋敷の掃除、洗濯、料理や名ばかりの家族の世話くらいはなんとかなるが、庭園の手入れやドレスの手入れなどは専門家でなければ無理だ。

 ソランジュも努力してはいるのだが、手が足りずにどんどん庭園は荒れ果て、ドレスの一部は刺繍が解れている。

 なのに、伯爵に進言しても「なんとかしろ」としか言わない。奥方に至っては愛人の娘の話など聞こうともしないし、聞いたところで怒鳴られ、暴力を振るわれるだけだ。

 何もしていなくても機嫌が悪いと八つ当たりされるのに。

 奥方は気怠げに体を起こすと、洗面器に手を入れ、ジロリとソランジュを睨めつける。

「ちょっと、こっちに来なさい」

「は、はい、なんでしょう」

「まだぬるいじゃない」

「えっ」 

 そんなはずはない。以前も似たようなことがあったので、湯加減には細心の注意を払っていたのだから。

 だが、ソランジュに言い訳は許されていない。

「申し訳ございません。すぐに温め直して――」

 奥方が無言で手洗を掴む。あっと思った次の瞬間には、湯気の立つお湯を頭からかけられた。

「……っ」

 髪から水滴がポタポタと落ちる。メイドのお仕着せはずぶ濡れになっていた。

「最初からやり直して。まったく、いつになったらまともな仕事ができるの」

「……申し訳ございません」

 唇を噛み締めながら頭を下げる。

「すぐに新しいお湯を沸かしてまいります」

 今日も罰として食事を抜かれるのだろう。

 だが、悲しいかな、ソランジュはすでに嫌がらせにも空腹にも慣れてしまっていた。

 慣れるしかなかったのだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

私はモブのはず

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:56pt お気に入り:3,673

厄災の王女の結婚~今さら戻って来いと言われましても~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:305pt お気に入り:3,386

死に戻り令嬢は婚約者を愛さない

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,295pt お気に入り:162

モブ令嬢は脳筋が嫌い

恋愛 / 完結 24h.ポイント:177pt お気に入り:379

王命を忘れた恋

恋愛 / 完結 24h.ポイント:15,307pt お気に入り:4,579

獣人騎士団長の愛は、重くて甘い

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:2,614pt お気に入り:1,246

御主人様と転移奴隷のすれ違い新生活

BL / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:75

処理中です...