15 / 19
第一章
15.ラベンダーとマートルのアロマトリートメント
しおりを挟む
「ただいま! 仕事決まった!」
ドアを開けるのと同時に、エリクはそう声を上げた。キッチンにいたシュゼットは、匙を持ったままダーッと玄関に駆けて行った。
「おかえり! 本当に!」
「ああ。大学教授の助手の仕事」
「すごい! 安定職じゃん! やるね、エリク!」
ふたりは固く握手を交わした。ブロンはふたりの真ん中でブンブンとシッポを振っている。ふたりが嬉しいのはブロンも嬉しいようだ。
「おめでとう、エリクさん」とアンリエッタ。
「ありがとうございます、アンリエッタさん。マリユス教授って方の下で働くことになりました」
「まあ、マリユスって言ったら……」
シュゼットとアンリエッタは笑顔を見合わせた。
「わたしが看てる人の一人で、わたしの友人だよっ」
「そうなのか。感じの良い人だったから納得だな」
驚きの偶然だ! まさかシュゼットが今日久しぶりに会いに行ったマリユスと、エリクが今日雇用契約を結んでくるなんて! シュゼットが家を後にした後に、エリクが訪ねてきたということだろうか。
経緯はどうであれ、シュゼットの友人と友人が知り合いになったことは、シュゼットも嬉しかった。もしかしたら三人で、植物について話をする機会を持つこともあるかもしれないのだ。ワクワクせずにはいられない。
「マリユス教授なら安心だよ! すごく良い人だから、エリクのこと大切にしてくれると思う。夜に働かせるようなことをする人じゃないから、体も無理しないで済むと思うよ」
「俺もそう思ったよ。ちょっと難しい話にも理解を示したら、すげえ喜んでくれてさ。勉強してきて良かった」
シュゼットはエリクの背中に回り、リビングルームのソファに座らせた。ブロンが抱っこをせがむと、すぐにエリクは自分の膝の上にブロンを座らせてくれた。
「本当によかったね、エリク。これでちょっとは気が楽になったかな?」
「ああ。働くのは明後日からだけど、ひとまずは安心だな」
そう言ってエリクは安堵のため息をつきながら微笑んだ。生計を立てる方法がないことも、エリクにとってはストレスだったようだ。エリクの表情の変化に、シュゼットもホッと胸をなでおろした。
「そうだっ。腕を見せてもらっても良い、エリク?」
「ああ、パッチテストしてるところか」
エリクはシャツの腕を捲り、腕を見せた。精油入りのオイルを塗った辺りは、赤くなったり、湿疹が出たりしている様子はない。これなら大丈夫そうだ。
「よしっ。それじゃあ、夕食の前にアロマトリートメントをしようか」
「そういや昨日も言ってたな。アロマトリートメントってなんだっけ?」
「アロマトリートメントっていうのは、精油を使って体を直接なでたり、もんだりする施術のこと。触られるのが苦手じゃなかったら、頭だけでも触らせてほしいんだけど」
「俺は別に気にしねえけど、シュゼットが嫌じゃねえか? こんなバサバサ頭触るの」
「全然! かっこつけかもしれないけど、わたしは、目の前の人が少しでも健康になってくれれば良いと思ってるから」
シュゼットは自分の手をジッと見つめた。
「その人がどんな人で、何をした人かは、あんまり関係ないんだ」
――あれ、この言葉。前も誰かに言った気がする。
シュゼットは胸の奥がざわざわしていることに気が付き、ギュッと胸を手で押さえた。
「どうした、シュゼット?」
「あ、ううん。何でもない。そういうわけだから、触っていいなら遠慮なくやらせてもらうよ」
「むしろ頼んだ」
そう言って、エリクは優しく微笑んだ。
シュゼットとエリクとブロンはリビングルームのソファに向かい合って座った。
テーブルの上には、様々な道具が置かれている。洗って清潔に仕舞われていたタオル数枚、水の入ったたらいが一つ、ガラスボウル一つ、ガラススティック一本、精油が入った小瓶、基材となるグレープシードオイルが入ったワイン用の瓶。
シュゼットはガラスボウルの中に二十ミリリットルのオイルを入れ、ラベンダーとマートルの精油を数滴ずつ入れ、よく混ぜた。それを手に取ると、ソファに座っているエリクの頭にそっと触れた。
「今この状態で、この香りってどうかな?」
「好きな匂いだ」
「良かった。それじゃあ、最初は頭皮、大丈夫そうだったら腕にも触って行くから、強かったり、くすぐったかったりしたら言ってね」
「りょーかい」
シュゼットはソファから立ち上がり、ソファの低い背もたれ越しにエリクの後ろに立った。バサバサした長めの髪をかき分けて頭皮に触れる。頭皮自体にはできものも傷もなさそうで、肌の状態は良さそうだ。しかし固く凝り固まっている。これでは肩こりもひどいだろう。
シュゼットは力加減に気を付けつつ、両手を広げて指の腹でもみほぐすように動かした。
「どう? 力強い?」
「いや、ちょうどよいくらいだ。気持ちいいな」
「よかった。姿勢を保たなくて良いから、楽な恰好でリラックスしてて」
「なんか俺ばっかり良い思いしてるな」
「そんなことないよ。エリクはなんでも反応が良いから、やりがいがある」
「そう言われると、俺、アホっぽくねえか?」
「あはは。素直でかわいいってことだよ」
シュゼットが笑うと、エリクもクスッと笑った。いつの間にか眠っていたブロンは、ふたりの笑い声で一瞬顔を上げ、すぐにまた眠りについた。
「あー、良い匂いだなあ」
「よかった。でも今日紹介した匂いが好きだって思うってことは、自覚してる通り、エリクは睡眠の質が悪いんだね。ちゃんと寝られないと、体調も崩しちゃうから、今日から改善していけると良いんだけど」
「いろいろ教えてもらったから、大丈夫じゃねえか?」
「そうだと良いな」
頭の後は、軽く圧力をかけながら手から腕全体にオイルを塗り広げていく。前腕を少し強く揉みあげ、それから手の平をじっくりと解きほぐすように揉んでいく。
すると、やがてエリクはスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
そうっと顔をのぞきこむと、目を閉じて眠っている。子どものような寝顔に、シュゼットはクスッと笑った。
「お疲れさま、エリク」
シュゼットはそうささやき、手を動かし続けた。
ドアを開けるのと同時に、エリクはそう声を上げた。キッチンにいたシュゼットは、匙を持ったままダーッと玄関に駆けて行った。
「おかえり! 本当に!」
「ああ。大学教授の助手の仕事」
「すごい! 安定職じゃん! やるね、エリク!」
ふたりは固く握手を交わした。ブロンはふたりの真ん中でブンブンとシッポを振っている。ふたりが嬉しいのはブロンも嬉しいようだ。
「おめでとう、エリクさん」とアンリエッタ。
「ありがとうございます、アンリエッタさん。マリユス教授って方の下で働くことになりました」
「まあ、マリユスって言ったら……」
シュゼットとアンリエッタは笑顔を見合わせた。
「わたしが看てる人の一人で、わたしの友人だよっ」
「そうなのか。感じの良い人だったから納得だな」
驚きの偶然だ! まさかシュゼットが今日久しぶりに会いに行ったマリユスと、エリクが今日雇用契約を結んでくるなんて! シュゼットが家を後にした後に、エリクが訪ねてきたということだろうか。
経緯はどうであれ、シュゼットの友人と友人が知り合いになったことは、シュゼットも嬉しかった。もしかしたら三人で、植物について話をする機会を持つこともあるかもしれないのだ。ワクワクせずにはいられない。
「マリユス教授なら安心だよ! すごく良い人だから、エリクのこと大切にしてくれると思う。夜に働かせるようなことをする人じゃないから、体も無理しないで済むと思うよ」
「俺もそう思ったよ。ちょっと難しい話にも理解を示したら、すげえ喜んでくれてさ。勉強してきて良かった」
シュゼットはエリクの背中に回り、リビングルームのソファに座らせた。ブロンが抱っこをせがむと、すぐにエリクは自分の膝の上にブロンを座らせてくれた。
「本当によかったね、エリク。これでちょっとは気が楽になったかな?」
「ああ。働くのは明後日からだけど、ひとまずは安心だな」
そう言ってエリクは安堵のため息をつきながら微笑んだ。生計を立てる方法がないことも、エリクにとってはストレスだったようだ。エリクの表情の変化に、シュゼットもホッと胸をなでおろした。
「そうだっ。腕を見せてもらっても良い、エリク?」
「ああ、パッチテストしてるところか」
エリクはシャツの腕を捲り、腕を見せた。精油入りのオイルを塗った辺りは、赤くなったり、湿疹が出たりしている様子はない。これなら大丈夫そうだ。
「よしっ。それじゃあ、夕食の前にアロマトリートメントをしようか」
「そういや昨日も言ってたな。アロマトリートメントってなんだっけ?」
「アロマトリートメントっていうのは、精油を使って体を直接なでたり、もんだりする施術のこと。触られるのが苦手じゃなかったら、頭だけでも触らせてほしいんだけど」
「俺は別に気にしねえけど、シュゼットが嫌じゃねえか? こんなバサバサ頭触るの」
「全然! かっこつけかもしれないけど、わたしは、目の前の人が少しでも健康になってくれれば良いと思ってるから」
シュゼットは自分の手をジッと見つめた。
「その人がどんな人で、何をした人かは、あんまり関係ないんだ」
――あれ、この言葉。前も誰かに言った気がする。
シュゼットは胸の奥がざわざわしていることに気が付き、ギュッと胸を手で押さえた。
「どうした、シュゼット?」
「あ、ううん。何でもない。そういうわけだから、触っていいなら遠慮なくやらせてもらうよ」
「むしろ頼んだ」
そう言って、エリクは優しく微笑んだ。
シュゼットとエリクとブロンはリビングルームのソファに向かい合って座った。
テーブルの上には、様々な道具が置かれている。洗って清潔に仕舞われていたタオル数枚、水の入ったたらいが一つ、ガラスボウル一つ、ガラススティック一本、精油が入った小瓶、基材となるグレープシードオイルが入ったワイン用の瓶。
シュゼットはガラスボウルの中に二十ミリリットルのオイルを入れ、ラベンダーとマートルの精油を数滴ずつ入れ、よく混ぜた。それを手に取ると、ソファに座っているエリクの頭にそっと触れた。
「今この状態で、この香りってどうかな?」
「好きな匂いだ」
「良かった。それじゃあ、最初は頭皮、大丈夫そうだったら腕にも触って行くから、強かったり、くすぐったかったりしたら言ってね」
「りょーかい」
シュゼットはソファから立ち上がり、ソファの低い背もたれ越しにエリクの後ろに立った。バサバサした長めの髪をかき分けて頭皮に触れる。頭皮自体にはできものも傷もなさそうで、肌の状態は良さそうだ。しかし固く凝り固まっている。これでは肩こりもひどいだろう。
シュゼットは力加減に気を付けつつ、両手を広げて指の腹でもみほぐすように動かした。
「どう? 力強い?」
「いや、ちょうどよいくらいだ。気持ちいいな」
「よかった。姿勢を保たなくて良いから、楽な恰好でリラックスしてて」
「なんか俺ばっかり良い思いしてるな」
「そんなことないよ。エリクはなんでも反応が良いから、やりがいがある」
「そう言われると、俺、アホっぽくねえか?」
「あはは。素直でかわいいってことだよ」
シュゼットが笑うと、エリクもクスッと笑った。いつの間にか眠っていたブロンは、ふたりの笑い声で一瞬顔を上げ、すぐにまた眠りについた。
「あー、良い匂いだなあ」
「よかった。でも今日紹介した匂いが好きだって思うってことは、自覚してる通り、エリクは睡眠の質が悪いんだね。ちゃんと寝られないと、体調も崩しちゃうから、今日から改善していけると良いんだけど」
「いろいろ教えてもらったから、大丈夫じゃねえか?」
「そうだと良いな」
頭の後は、軽く圧力をかけながら手から腕全体にオイルを塗り広げていく。前腕を少し強く揉みあげ、それから手の平をじっくりと解きほぐすように揉んでいく。
すると、やがてエリクはスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
そうっと顔をのぞきこむと、目を閉じて眠っている。子どものような寝顔に、シュゼットはクスッと笑った。
「お疲れさま、エリク」
シュゼットはそうささやき、手を動かし続けた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
8
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる