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血意
四
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突如、視界に闇の帳が下りた。
平衡感覚を失くし、白起は胡床から滑り落ちる。
「殿!」
王騎と胡傷が駆け付け、白起の肩を支える。
軍議の最中であった。場に居合わせる、他の諸将も眼を丸くしている。
「御加減が優れませぬか?」
王騎が不安を露わに尋ねる。
いや。違う。心労によるものなどではない。胸に蟠る強烈な悪心。白起の感覚は、野性の獣が如く鋭敏である。故に分かる。之は不吉な兆しであると。
「すまぬ。もう大丈夫だ」
白起は二人の腕を払い、胡床に腰を落ち着かせる。
一呼吸置くと、再開しようと銘々の顔を順々に見る。
諸将から次々に現状の報告が成される。まずは十五万を率いて、上党へ向かって先発した、王齕が彼の地を奪って見せた。
交通を断たれ、孤立した上党は守である馮亭を総大将に立て、抗戦の構えを見せたが、所詮は大分が烏合の衆である。
控えた後軍を繰り出すまでもなく、王齕は自身が率いる正規軍七万のみで上党軍を圧倒した。鎧袖一触とはこのことである。
上党の民の多くは、白起軍による制圧を懼れ、蜘蛛の子をちらしたように逃げ去った。行先は趙である。馮亭は上党が包囲された頃から、幾度も趙へ使者を放っている。
趙への救援要請であろう。奪った上党の地を依り代に、次の戦に思考を切り替える必要がある。
だがー。白起の思考は虚しく中空を漂い続ける。突如、陶に留まっていた、魏冄との連絡が途絶えた。咸陽からの間者の往来も同様に途絶えている。
摎に命じて深く掘らせてはみたが、分かったことは魏冄が陶から咸陽へ向かったということだけ。
摎は魏冄の後を追って、咸陽に向かったが、都の警備は鼠一匹も漏らさないほど厳重なものに変わっていると報せを寄越してきた。
胡乱な気配を感じる。
(魏冄の身に何かあったのか?有り得ん)
内心で自嘲し、懸命に要らぬ思考を振り払う。しかし、不快な澱みが頭の中にしつこく蟠り続けている。
「ちっ」
舌を打ち、白起は倦怠感を孕む、躰を起こす。
「殿?」
奔流のように麾下達の口から、情報が吐き出されるが、その全てが右へ左へと流れていく。
「軍議はここまでだ」
投げやりに告げて、白起は従者も伴わず、一人で外へ出た。東の空が蒼の宵闇に染まっている。
西の彼方に沈む、灼熱の太陽の残照が、白起の雪花石膏が如き髪に光輝を灯す。
「魏冄…」
杞憂であって欲しい。だが、胸に巣食う悪心は、刻一刻と人の生を貪る腫瘍のように、肥大化していく。
平衡感覚を失くし、白起は胡床から滑り落ちる。
「殿!」
王騎と胡傷が駆け付け、白起の肩を支える。
軍議の最中であった。場に居合わせる、他の諸将も眼を丸くしている。
「御加減が優れませぬか?」
王騎が不安を露わに尋ねる。
いや。違う。心労によるものなどではない。胸に蟠る強烈な悪心。白起の感覚は、野性の獣が如く鋭敏である。故に分かる。之は不吉な兆しであると。
「すまぬ。もう大丈夫だ」
白起は二人の腕を払い、胡床に腰を落ち着かせる。
一呼吸置くと、再開しようと銘々の顔を順々に見る。
諸将から次々に現状の報告が成される。まずは十五万を率いて、上党へ向かって先発した、王齕が彼の地を奪って見せた。
交通を断たれ、孤立した上党は守である馮亭を総大将に立て、抗戦の構えを見せたが、所詮は大分が烏合の衆である。
控えた後軍を繰り出すまでもなく、王齕は自身が率いる正規軍七万のみで上党軍を圧倒した。鎧袖一触とはこのことである。
上党の民の多くは、白起軍による制圧を懼れ、蜘蛛の子をちらしたように逃げ去った。行先は趙である。馮亭は上党が包囲された頃から、幾度も趙へ使者を放っている。
趙への救援要請であろう。奪った上党の地を依り代に、次の戦に思考を切り替える必要がある。
だがー。白起の思考は虚しく中空を漂い続ける。突如、陶に留まっていた、魏冄との連絡が途絶えた。咸陽からの間者の往来も同様に途絶えている。
摎に命じて深く掘らせてはみたが、分かったことは魏冄が陶から咸陽へ向かったということだけ。
摎は魏冄の後を追って、咸陽に向かったが、都の警備は鼠一匹も漏らさないほど厳重なものに変わっていると報せを寄越してきた。
胡乱な気配を感じる。
(魏冄の身に何かあったのか?有り得ん)
内心で自嘲し、懸命に要らぬ思考を振り払う。しかし、不快な澱みが頭の中にしつこく蟠り続けている。
「ちっ」
舌を打ち、白起は倦怠感を孕む、躰を起こす。
「殿?」
奔流のように麾下達の口から、情報が吐き出されるが、その全てが右へ左へと流れていく。
「軍議はここまでだ」
投げやりに告げて、白起は従者も伴わず、一人で外へ出た。東の空が蒼の宵闇に染まっている。
西の彼方に沈む、灼熱の太陽の残照が、白起の雪花石膏が如き髪に光輝を灯す。
「魏冄…」
杞憂であって欲しい。だが、胸に巣食う悪心は、刻一刻と人の生を貪る腫瘍のように、肥大化していく。
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