白狼 白起伝

松井暁彦

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血意

 三

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「放て‼」
 空が昏くなる。矢の雨。家臣達が敵に到達する間もなく倒れていく。
 
 剣を払う。篦深のぶかに矢が、肩に突き刺さる。
 
 呻く。だがすぐさま駆け出す。敵の吶喊。残り半数余り。
 
 北の敵とぶつかる。味方が次々と堅牢な槍衾やりぶすまに斃されていく。
 
 槍衾が解かれ、飛び出した槍兵。
 
 魏冄を認め、穂先を前に突進してくる。敵は三人。
 
 初撃。穂先を叩き下り、喉元に剣を突き立てる。
 
 脛への一撃。払う。間に合わない。脛を捉えた槍撃。崩れていく。

「このぉ‼」
 奮起。右足を貫いた槍を抜き去る。
 
 嫌な音。膝から崩れる。先がない。
 
 だがー。抜き去った槍を投擲。敵の首が飛ぶ。もう一人。
 
 遮二無二に剣を投擲。的確に眉間を捉える。
 
 総身が血に塗れていた。右足は膝から下がない。だが前へ進むことを止めない。

「まだだ。まだ何もわしは果たしていない」
 固い砂を掴む。同時に吐血。
 
 狭窄する視界。まだ白起が戦っている。万のとがを負って、白起はまだ戦い続けている。
 
 地鳴りがした。鉄器が起こす強音。

 迫りくる軍勢。

「くぉーん」
 突如、喧噪が消えた。静謐な空間が傷だらけの魏冄を包む。
 狼の遠吠え。まるで哭いているようだ。

(白起―)
 死ねない。まだだー。白起一人に全てを背負わせる訳には。

「魏冄」
 優しく語りかけるような声がした。

(その声は)
 最早、喉が血で詰まって声は出なかった。

(貴方は)
 最期の力を振り絞り、魏冄は砂に埋もれた顔を上げた。

「あ、あ、ああああ」
 涙が溢れた。
 其処には死して尚、慕い続けた嬴蕩えいとうの姿があった。
 
 穏やかな笑みを浮かべて、地に臥す魏冄に合わせるように、膝を折る。

「もう充分だ」
 血と脂で固まった頭に、優しく手が乗せられる。
 不思議と痛みが引いていく。全身に温もりが走る。

「わしは…わしは…大王様の望みを叶えることが」
 滂沱ぼうだの涙が零れていく。

「俺は果報者だ。良き弟を持ったな」

「わしはまだ死ねませぬ。わしはまだ何一つ」
 嬴蕩が穏やかな表情のまま、小さく頭を振る。

「いいや。遺志は既に託されている」
 見ろと促され、開ける視界。
 其処には白狼と共に歩む、灰色の若い狼の姿があった。
 二匹は荒野で懸命に歩みを進める。彼方には天へと昇る階があった。

せん…」
 手を伸ばして掴んだものは、薄鈍色の砂であった。
 魏冄は迫る軍勢を見遣り、唇を綻ばせた。

「遺志は託したぞ」
 魏冄は最期に、彼方で狼が二度哭いたのを聴き遂げた。
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