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透明人間になったわたしと、わたしに興味がない(はずの)夫の奇妙な三か月間
ルクレールの懺悔 2
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何も感じないのに、まるでオレリアが抱きしめてくれているような、不思議な気持ちだった。
ルクレールの体から自然と力が抜けていく。
思えば、十七歳のあの日から、ルクレールの胸にはぽっかりと穴があいているみたいだった。
彼女――アデライドという名の、美しい年上の女性に魅了されて、捨てられて、十七歳だったルクレールは、まるで自分が無価値な人間になってしまったように感じたものだ。
アデライドは貴族ではなかったが、異国風の衣装で舞う、艶やかな踊り子だった。
アデライドとはじめて会ったのは、伯爵だか子爵だか忘れたが、誘われて出席したパーティーだった。
アデライドはパーティーを盛り上げるために呼ばれて、その扇情的な衣装と美貌、それから異国風の踊りで大勢の男性を魅了した。
舞うたびに宙にきらめく砂漠の砂のような色をした彼女の髪。
すっと誘うように流される視線。
しなやかな手足に、細い腰。
当時、まだ若くて多感だったころのルクレールは、すぐに彼女にのぼせ上った。
ライバルが多いのはわかっていたが、勇気を出して話しかけて、アデライドの恋人の座を手に入れたときは天にも昇る気持ちだったのを覚えている。
貴族でないただの踊り子と、コデルリエ伯爵家を継ぐ自分が結婚できるはずがないことは頭の隅ではわかっていたけれど、もしかしたらという思いも捨てられなかった。
アデライドとの出会いは運命だと、若かったルクレールは勘違いしていたのだ。
しかし出会って数か月したころに、突然彼女から別れを告げられた。
遊びだったと。
他に男がいるのだと。
ルクレールのことは、愛していないのだと。
淡々と告げられたアデライドの言葉に、ルクレールは目の前が真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。
それは一種の呪いのようだった。
ルクレールの心を凍てつかせる呪いだ。
アデライドに捨てられてから、ルクレールはしばらくの間何も手につかなかった。
一日中ぼんやりして、誰に何を言われてもろくに反応できなくて、そしてそれが落ち着いたときにルクレールの心に残っていたのは、ただの怒りだった。
女に対する怒りだ。
いつしかルクレールの絶望は、アデライドという一人の女性ではなく、世の中のすべての女性に向かっていた。
女は平然と裏切るのだ、と。
その強い怒りはルクレールを縛り付け、女に対する拒絶反応をも植え付けた。
二度と女なんて信じない。信じられない。心なんて渡さない。
そうして女を遠ざけ続けていたルクレールに、父が突然婚約者を決めてきたのは今から三年前のことだった。
父はあのころから体調が思わしくなく、自分の死期を悟っていたのかもしれない。
だからこそ、ルクレール本人の意志も確認せずに、勝手に婚約をまとめてきたのだろう。
ルクレールは怒り狂ったが、母リアーヌも父の味方をすれば、ルクレールがどれだけ嫌だと言ったところでどうしようもなかった。
ならば、好きにすればいい。
けれども俺は、妻を妻として扱ってなどやるものか。
そんな思いの末に迎えたのが、あの初夜の日だったのだ。
(何故、女とひとくくりにしてオレリアと向き合おうとしなかったのだろう)
オレリアがアデライドのような女でないことは、彼女と過ごしているうちにすぐにわかった。
穏やかで優しくて、控えめで、冷たい態度を取り続けるルクレールをなじることもしない。
ただルクレールの心配をし、めげずに微笑んで――自分と違って、なんて強い女性なのだろうかと思った。
一度傷つけられて女すべてを拒絶したルクレールと違い、オレリアは夫にどれだけ拒絶されても卑屈にもならず、一生懸命に距離を縮めようと努力してくれていたのだ。
ルクレールは途端にオレリアのことが気になりはじめた。
けれど最初に間違えたルクレールは、オレリアにどう接していいのかもわからない。
今更夫婦らしくしようなどと口が裂けても言えなくて、気づけば結婚して二年がたっていた。
「オレリア……」
ルクレールは、見えない妻の名前を呼ぶ。
オレリアを手放したくない。
そばにいてほしい。
過去の自分の態度を考えれば、図々しいことだとは承知しているけれど、願わずにはいられない。
「オレリア……。君が好きなんだ。大好きなんだよ。だから、元に戻っても、ずっと俺のそばにいてくれ……」
二年間の過ちが、こんな言葉で消えるわけではない。
わかっていても、祈らずにはいられなかった。
ぎゅっと目を閉じて、オレリアの反応を待つ。
やがて、紙とペン先がこすれる小さな音がして、ルクレールは瞼を上げた。
すっと差し出された日記帳。
そこには一言、オレリアの柔らかい文字で、こう書かれていた。
――わたしも、ルクレール様が大好きです。
☆
「オレリア……。君が好きなんだ。大好きなんだよ。だから、元に戻っても、ずっと俺のそばにいてくれ……」
オレリアはルクレールのその告白を、息を呑んで聞いていた。
見開いた目からは、せっかく収まった涙がまた溢れてくる。
ルクレールのことは、ずっと好きだった。
婚約を交わした際に姿絵を見せてもらったそのときから、ずっと。
どんなに冷たくされても、相手にされなくても、ルクレールを好きな気持ちはどうしても消えなかった。
(好き……)
オレリアはしゃくりあげて、震える手でペンを取った。
相手にはオレリアの姿は見えないのだ。
だから、いつまでも黙っていてはいけない。
文字が震えないようにゆっくりと、オレリアは日記帳に文字を記す。
――わたしも、ルクレール様が大好きです。
そう書いて見せれば、ルクレールは目を見開いた後で、柔らかく、本当に優しい微笑みを浮かべてくれた。
「君を抱きしめたいのに、抱きしめられないのが悔しいな」
――わたしがぎゅって抱きつきます。
日記帳に走り書きして、オレリアはぎゅうっとルクレールを抱きしめる。
喉を震わせるようにルクレールが笑って、その小さな笑い声がくすぐったい。
ルクレールの胸にぴたりと耳をつけると、トクトクと少し早い心臓の音が聞こえる。
「あと約二か月か……。元に戻ったら、俺にもたくさん君を抱きしめさせてくれ」
抱き着いているから、ルクレールのささやきが耳の近くに落とされて、オレリアは真っ赤になった。
こくこくと小さく首を振って、なおもひしっとルクレールを抱きしめる。
嬉しくて幸せで、頭がくらくらしてきそうだ。
「大好きです、ルクレール様!」
オレリアがたまらず叫ぶと、ルクレールには聞こえているはずもないのに、彼は穏やかに同じ言葉を返してくれた。
「大好きだよ、オレリア」
ルクレールの体から自然と力が抜けていく。
思えば、十七歳のあの日から、ルクレールの胸にはぽっかりと穴があいているみたいだった。
彼女――アデライドという名の、美しい年上の女性に魅了されて、捨てられて、十七歳だったルクレールは、まるで自分が無価値な人間になってしまったように感じたものだ。
アデライドは貴族ではなかったが、異国風の衣装で舞う、艶やかな踊り子だった。
アデライドとはじめて会ったのは、伯爵だか子爵だか忘れたが、誘われて出席したパーティーだった。
アデライドはパーティーを盛り上げるために呼ばれて、その扇情的な衣装と美貌、それから異国風の踊りで大勢の男性を魅了した。
舞うたびに宙にきらめく砂漠の砂のような色をした彼女の髪。
すっと誘うように流される視線。
しなやかな手足に、細い腰。
当時、まだ若くて多感だったころのルクレールは、すぐに彼女にのぼせ上った。
ライバルが多いのはわかっていたが、勇気を出して話しかけて、アデライドの恋人の座を手に入れたときは天にも昇る気持ちだったのを覚えている。
貴族でないただの踊り子と、コデルリエ伯爵家を継ぐ自分が結婚できるはずがないことは頭の隅ではわかっていたけれど、もしかしたらという思いも捨てられなかった。
アデライドとの出会いは運命だと、若かったルクレールは勘違いしていたのだ。
しかし出会って数か月したころに、突然彼女から別れを告げられた。
遊びだったと。
他に男がいるのだと。
ルクレールのことは、愛していないのだと。
淡々と告げられたアデライドの言葉に、ルクレールは目の前が真っ黒に塗りつぶされていくのを感じた。
それは一種の呪いのようだった。
ルクレールの心を凍てつかせる呪いだ。
アデライドに捨てられてから、ルクレールはしばらくの間何も手につかなかった。
一日中ぼんやりして、誰に何を言われてもろくに反応できなくて、そしてそれが落ち着いたときにルクレールの心に残っていたのは、ただの怒りだった。
女に対する怒りだ。
いつしかルクレールの絶望は、アデライドという一人の女性ではなく、世の中のすべての女性に向かっていた。
女は平然と裏切るのだ、と。
その強い怒りはルクレールを縛り付け、女に対する拒絶反応をも植え付けた。
二度と女なんて信じない。信じられない。心なんて渡さない。
そうして女を遠ざけ続けていたルクレールに、父が突然婚約者を決めてきたのは今から三年前のことだった。
父はあのころから体調が思わしくなく、自分の死期を悟っていたのかもしれない。
だからこそ、ルクレール本人の意志も確認せずに、勝手に婚約をまとめてきたのだろう。
ルクレールは怒り狂ったが、母リアーヌも父の味方をすれば、ルクレールがどれだけ嫌だと言ったところでどうしようもなかった。
ならば、好きにすればいい。
けれども俺は、妻を妻として扱ってなどやるものか。
そんな思いの末に迎えたのが、あの初夜の日だったのだ。
(何故、女とひとくくりにしてオレリアと向き合おうとしなかったのだろう)
オレリアがアデライドのような女でないことは、彼女と過ごしているうちにすぐにわかった。
穏やかで優しくて、控えめで、冷たい態度を取り続けるルクレールをなじることもしない。
ただルクレールの心配をし、めげずに微笑んで――自分と違って、なんて強い女性なのだろうかと思った。
一度傷つけられて女すべてを拒絶したルクレールと違い、オレリアは夫にどれだけ拒絶されても卑屈にもならず、一生懸命に距離を縮めようと努力してくれていたのだ。
ルクレールは途端にオレリアのことが気になりはじめた。
けれど最初に間違えたルクレールは、オレリアにどう接していいのかもわからない。
今更夫婦らしくしようなどと口が裂けても言えなくて、気づけば結婚して二年がたっていた。
「オレリア……」
ルクレールは、見えない妻の名前を呼ぶ。
オレリアを手放したくない。
そばにいてほしい。
過去の自分の態度を考えれば、図々しいことだとは承知しているけれど、願わずにはいられない。
「オレリア……。君が好きなんだ。大好きなんだよ。だから、元に戻っても、ずっと俺のそばにいてくれ……」
二年間の過ちが、こんな言葉で消えるわけではない。
わかっていても、祈らずにはいられなかった。
ぎゅっと目を閉じて、オレリアの反応を待つ。
やがて、紙とペン先がこすれる小さな音がして、ルクレールは瞼を上げた。
すっと差し出された日記帳。
そこには一言、オレリアの柔らかい文字で、こう書かれていた。
――わたしも、ルクレール様が大好きです。
☆
「オレリア……。君が好きなんだ。大好きなんだよ。だから、元に戻っても、ずっと俺のそばにいてくれ……」
オレリアはルクレールのその告白を、息を呑んで聞いていた。
見開いた目からは、せっかく収まった涙がまた溢れてくる。
ルクレールのことは、ずっと好きだった。
婚約を交わした際に姿絵を見せてもらったそのときから、ずっと。
どんなに冷たくされても、相手にされなくても、ルクレールを好きな気持ちはどうしても消えなかった。
(好き……)
オレリアはしゃくりあげて、震える手でペンを取った。
相手にはオレリアの姿は見えないのだ。
だから、いつまでも黙っていてはいけない。
文字が震えないようにゆっくりと、オレリアは日記帳に文字を記す。
――わたしも、ルクレール様が大好きです。
そう書いて見せれば、ルクレールは目を見開いた後で、柔らかく、本当に優しい微笑みを浮かべてくれた。
「君を抱きしめたいのに、抱きしめられないのが悔しいな」
――わたしがぎゅって抱きつきます。
日記帳に走り書きして、オレリアはぎゅうっとルクレールを抱きしめる。
喉を震わせるようにルクレールが笑って、その小さな笑い声がくすぐったい。
ルクレールの胸にぴたりと耳をつけると、トクトクと少し早い心臓の音が聞こえる。
「あと約二か月か……。元に戻ったら、俺にもたくさん君を抱きしめさせてくれ」
抱き着いているから、ルクレールのささやきが耳の近くに落とされて、オレリアは真っ赤になった。
こくこくと小さく首を振って、なおもひしっとルクレールを抱きしめる。
嬉しくて幸せで、頭がくらくらしてきそうだ。
「大好きです、ルクレール様!」
オレリアがたまらず叫ぶと、ルクレールには聞こえているはずもないのに、彼は穏やかに同じ言葉を返してくれた。
「大好きだよ、オレリア」
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