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透明人間になったわたしと、わたしに興味がない(はずの)夫の奇妙な三か月間
ルクレールの懺悔 1
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「言いたいことはそれだけか?」
泣いて叫んで俯いて。
そしてしばらく動けなくなっていたオレリアの耳に、ルクレールの静かな声が聞こえてきた。
顔を上げると、ルクレールがマルジョリーの手を引きはがして、見たこともないくらいに冷ややかな瞳を彼女へ向けている。
マルジョリーの顔からは笑顔が消えて、代わりに狼狽の色が濃くあらわれていた。
「離縁するとかしないとか、それは夫婦の問題だ。少なくとも俺はオレリアからそのような話を聞いていないし、俺も離縁を考えたことはない。妻が本当に離縁を望んでいるのだとしても、それは妻の口から直接聞くことであって、夫人、あなたに教えられる筋合いはない」
「で、でも、実際に……」
「だから、あなたには関係のない話だと言っている。ましてや、俺を癒す? 何を意味のわからないこと。俺はあなたに癒していただかなければならないような傷は持っていない」
「だ、だってっ」
「夫人。察するに、夫婦仲がうまくいっていないのはあなたの方のようだ。――今日のことをアビットソン子爵に報告されたくなければ、今すぐここから出ていけ。このまま居座るつもりなら、アビットソン子爵へ連絡を入れさせていただくが?」
マルジョリーはカッと赤くなった。
オレリアは驚いて、涙にぬれた目をぱちぱちとしばたたく。
ルクレールは大きく息を吐き出した。
「腹いせに他人の家庭を引っ掻き回そうとするのはやめてほしい」
「な、なんて失礼な方なの‼」
マルジョリーは真っ赤な顔をして大声で叫んだ。
そして憤然と踵を返すと、慌ただしく応接間を飛び出していく。
マルジョリーが去ると、ルクレールが立ち上がり、応接間の窓を開けた。
「はあ、香水の匂いで息が詰まるかと思った。オレリアは大丈夫だったか?」
「わ……わたしは、大丈夫、です……」
手元にベルがないので、オレリアはティーカップの口をスプーンで軽くたたいて答える。
ルクレールは、怒っていないのだろうか。
ルクレールの声に怒りは感じないが、オレリアはどうしても不安になってしまって、どうにかして彼に自分の言葉を伝えられないかと部屋中を見渡す。
そして、角砂糖が入っている容器を見つけると、それをテーブルの上に並べた。
「うん?」
ルクレールがすぐに気づいて、テーブルの上を覗き込む。
――ち、が、う。
角砂糖だけでは長い文章は作れないので、それだけの文字を何とか作り上げると、ルクレールは目を丸くした後で真顔になった。
「オレリア、部屋に戻ろう。ここでは話ができないだろう?」
オレリアはティーカップの縁をスプーンで叩いて、ルクレールに是と告げる。
部屋に戻ると、オレリアは急いで日記帳を手に取った。
――わたしはマルジョリー様にルクレール様と離縁したいなんて言ったことはありません!
字が乱れるのも構わずにそれだけ走り書きすると、急いでルクレールに見せる。
違う違うと、ルクレールには見えないのに何度も首を横に振っていると、ルクレールが小さく笑った。
「うん、わかっているよ」
「本当に?」
信じてくれるのかとすがるようにルクレールを見つめると、彼はソファに座って、ぽんぽんとすぐ横の座面を叩いた。
「座ろう。おいで」
オレリアは日記帳とペンとインクを持って、ルクレールの隣にちょこんと腰を下ろす。
ルクレールはオレリアを探すように虚空に視線を向けてから、もう一度「わかっているよ」と繰り返した。
「俺は、オレリアがアビットソン子爵夫人に俺との夫婦関係について相談したとは思っていない。ただ……俺自身が、夫人の話を聞いたときに思うところがあっただけだ」
ルクレールはテーブルの上に広げて置いてある日記帳に視線を落とした。
「俺はいい夫ではなかっただろう? 夫と名乗ることもおこがましいほど、君のことを放置……ないがしろにしすぎた」
(でも、それは……)
「君に離縁を告げられても仕方がなかったんだなと、夫人の話を聞いたときにそう思ったんだ。何をいまさらと思うかもしれないが、その現実を突きつけられた気がしたんだよ。昨日の噂はただ腹が立っただけだったのに、君から聞いたと夫人が言ったとき、胸がざわりとしてしまった。君が夫人に込み入った相談なんてするはずがないと頭の隅ではわかっているのに、君はそれを望んでいるのではないかと思ってしまったんだ」
――わたしは離縁を望んでいません。
確かに、透明になる前は、離縁した方がいいのではないかと考えていた。
けれどもそれを今告げる必要はないし、それを告げてはダメな気がした。
だから今のオレリアの気持ちを書き記すと、ルクレールが「うん」と小さく頷いた。
――今のルクレール様はとても優しいです。わたし、幸せです。
「オレリア……」
ルクレールはかすれた、切ない声でオレリアの名前を読んで、見えないオレリアを探すように虚空に視線を彷徨わせる。
すぐ隣に座っているのに視線が絡まなくて、オレリアはひどくもどかしくなった。
早く元に戻ってほしい。
あと二か月近くも透明なままなんて、長すぎる。
ルクレールが、どこか躊躇いがちに虚空に手のひらをかざす。
まるで、見えないオレリアを探すように。
オレリアはルクレールの手に、おずおずと手のひらを重ねた。
オレリアにだけ感じる熱だ。ルクレールには、オレリアの体温どころか、手の感触すら伝わらないだろう。
――ここにいます。手を、重ねています。
オレリアが日記帳に文字を刻むと、ルクレールがオレリアと手をつなぐように、ゆっくりと指を折り曲げた。
オレリアもルクレールの指に指を絡める。
こんなに近くにいるのに、一方的にしか感じられない距離がもどかしい。
そばにいるよと、すぐ目の前にいるよと、叫びたかった。
「オレリア。……オレリア。俺は、君に謝らないといけない」
見えないオレリアのかわりに自分の手を見つめて、ルクレールが言う。
「俺はあの日……初夜の日、君にひどいことを言った。君を傷つけた。謝ったところで許されるわけではないとわかっているけれど……」
ルクレールはそこで言葉を切って、うなだれるように視線を落とす。
「すまない……。本当に、すまなかった……」
「そんなこと……!」
オレリアは正直、ルクレールが二年前の初夜の日のことを覚えていたとは思わなかった。
彼にとっては望まない結婚だったはずだ。
親に決められた婚約で、義務のために結婚した。
女性が信じられないルクレールにとって、他人の女を妻として受け入れなければならないことは、どれだけ苦痛だっただろう。
「っ」
オレリアは彼とつないでいた手を離すと、反射的にルクレールに抱き着いた。
「そんなの、いいんです……!」
リアーヌから、ルクレールについての過去は聞いている。
いったいどこの誰に心を奪われ、そして傷つけられたのか、詳細までは知らないが、彼が女性不信に陥っていたことはすでに聞いて理解しているのだ。
だからオレリアは、ルクレールに謝罪してもらいたいなんて思っていない。
世の中には、どうしようもないこともあるのだ。
「いいんです。いいんですよ……!」
オレリアがいくら彼をぎゅっと抱きしめたところで、ルクレールには伝わらないだろう。
けれども、オレリアは小さく震える彼を、抱きしめずにはいられなかった。
「君が、俺との離縁を選んでも仕方がないとわかっている。俺はそれだけのことをした。でも……」
ルクレールはそこで言葉を詰まらせた。
オレリアはルクレールに抱き着いたまま、ぶんぶんと頭を横に振る。
ルクレールは、夏の空のような綺麗な青い瞳を揺らしながら、絞り出すように言った。
「……そばに、いてくれ…………」
泣いて叫んで俯いて。
そしてしばらく動けなくなっていたオレリアの耳に、ルクレールの静かな声が聞こえてきた。
顔を上げると、ルクレールがマルジョリーの手を引きはがして、見たこともないくらいに冷ややかな瞳を彼女へ向けている。
マルジョリーの顔からは笑顔が消えて、代わりに狼狽の色が濃くあらわれていた。
「離縁するとかしないとか、それは夫婦の問題だ。少なくとも俺はオレリアからそのような話を聞いていないし、俺も離縁を考えたことはない。妻が本当に離縁を望んでいるのだとしても、それは妻の口から直接聞くことであって、夫人、あなたに教えられる筋合いはない」
「で、でも、実際に……」
「だから、あなたには関係のない話だと言っている。ましてや、俺を癒す? 何を意味のわからないこと。俺はあなたに癒していただかなければならないような傷は持っていない」
「だ、だってっ」
「夫人。察するに、夫婦仲がうまくいっていないのはあなたの方のようだ。――今日のことをアビットソン子爵に報告されたくなければ、今すぐここから出ていけ。このまま居座るつもりなら、アビットソン子爵へ連絡を入れさせていただくが?」
マルジョリーはカッと赤くなった。
オレリアは驚いて、涙にぬれた目をぱちぱちとしばたたく。
ルクレールは大きく息を吐き出した。
「腹いせに他人の家庭を引っ掻き回そうとするのはやめてほしい」
「な、なんて失礼な方なの‼」
マルジョリーは真っ赤な顔をして大声で叫んだ。
そして憤然と踵を返すと、慌ただしく応接間を飛び出していく。
マルジョリーが去ると、ルクレールが立ち上がり、応接間の窓を開けた。
「はあ、香水の匂いで息が詰まるかと思った。オレリアは大丈夫だったか?」
「わ……わたしは、大丈夫、です……」
手元にベルがないので、オレリアはティーカップの口をスプーンで軽くたたいて答える。
ルクレールは、怒っていないのだろうか。
ルクレールの声に怒りは感じないが、オレリアはどうしても不安になってしまって、どうにかして彼に自分の言葉を伝えられないかと部屋中を見渡す。
そして、角砂糖が入っている容器を見つけると、それをテーブルの上に並べた。
「うん?」
ルクレールがすぐに気づいて、テーブルの上を覗き込む。
――ち、が、う。
角砂糖だけでは長い文章は作れないので、それだけの文字を何とか作り上げると、ルクレールは目を丸くした後で真顔になった。
「オレリア、部屋に戻ろう。ここでは話ができないだろう?」
オレリアはティーカップの縁をスプーンで叩いて、ルクレールに是と告げる。
部屋に戻ると、オレリアは急いで日記帳を手に取った。
――わたしはマルジョリー様にルクレール様と離縁したいなんて言ったことはありません!
字が乱れるのも構わずにそれだけ走り書きすると、急いでルクレールに見せる。
違う違うと、ルクレールには見えないのに何度も首を横に振っていると、ルクレールが小さく笑った。
「うん、わかっているよ」
「本当に?」
信じてくれるのかとすがるようにルクレールを見つめると、彼はソファに座って、ぽんぽんとすぐ横の座面を叩いた。
「座ろう。おいで」
オレリアは日記帳とペンとインクを持って、ルクレールの隣にちょこんと腰を下ろす。
ルクレールはオレリアを探すように虚空に視線を向けてから、もう一度「わかっているよ」と繰り返した。
「俺は、オレリアがアビットソン子爵夫人に俺との夫婦関係について相談したとは思っていない。ただ……俺自身が、夫人の話を聞いたときに思うところがあっただけだ」
ルクレールはテーブルの上に広げて置いてある日記帳に視線を落とした。
「俺はいい夫ではなかっただろう? 夫と名乗ることもおこがましいほど、君のことを放置……ないがしろにしすぎた」
(でも、それは……)
「君に離縁を告げられても仕方がなかったんだなと、夫人の話を聞いたときにそう思ったんだ。何をいまさらと思うかもしれないが、その現実を突きつけられた気がしたんだよ。昨日の噂はただ腹が立っただけだったのに、君から聞いたと夫人が言ったとき、胸がざわりとしてしまった。君が夫人に込み入った相談なんてするはずがないと頭の隅ではわかっているのに、君はそれを望んでいるのではないかと思ってしまったんだ」
――わたしは離縁を望んでいません。
確かに、透明になる前は、離縁した方がいいのではないかと考えていた。
けれどもそれを今告げる必要はないし、それを告げてはダメな気がした。
だから今のオレリアの気持ちを書き記すと、ルクレールが「うん」と小さく頷いた。
――今のルクレール様はとても優しいです。わたし、幸せです。
「オレリア……」
ルクレールはかすれた、切ない声でオレリアの名前を読んで、見えないオレリアを探すように虚空に視線を彷徨わせる。
すぐ隣に座っているのに視線が絡まなくて、オレリアはひどくもどかしくなった。
早く元に戻ってほしい。
あと二か月近くも透明なままなんて、長すぎる。
ルクレールが、どこか躊躇いがちに虚空に手のひらをかざす。
まるで、見えないオレリアを探すように。
オレリアはルクレールの手に、おずおずと手のひらを重ねた。
オレリアにだけ感じる熱だ。ルクレールには、オレリアの体温どころか、手の感触すら伝わらないだろう。
――ここにいます。手を、重ねています。
オレリアが日記帳に文字を刻むと、ルクレールがオレリアと手をつなぐように、ゆっくりと指を折り曲げた。
オレリアもルクレールの指に指を絡める。
こんなに近くにいるのに、一方的にしか感じられない距離がもどかしい。
そばにいるよと、すぐ目の前にいるよと、叫びたかった。
「オレリア。……オレリア。俺は、君に謝らないといけない」
見えないオレリアのかわりに自分の手を見つめて、ルクレールが言う。
「俺はあの日……初夜の日、君にひどいことを言った。君を傷つけた。謝ったところで許されるわけではないとわかっているけれど……」
ルクレールはそこで言葉を切って、うなだれるように視線を落とす。
「すまない……。本当に、すまなかった……」
「そんなこと……!」
オレリアは正直、ルクレールが二年前の初夜の日のことを覚えていたとは思わなかった。
彼にとっては望まない結婚だったはずだ。
親に決められた婚約で、義務のために結婚した。
女性が信じられないルクレールにとって、他人の女を妻として受け入れなければならないことは、どれだけ苦痛だっただろう。
「っ」
オレリアは彼とつないでいた手を離すと、反射的にルクレールに抱き着いた。
「そんなの、いいんです……!」
リアーヌから、ルクレールについての過去は聞いている。
いったいどこの誰に心を奪われ、そして傷つけられたのか、詳細までは知らないが、彼が女性不信に陥っていたことはすでに聞いて理解しているのだ。
だからオレリアは、ルクレールに謝罪してもらいたいなんて思っていない。
世の中には、どうしようもないこともあるのだ。
「いいんです。いいんですよ……!」
オレリアがいくら彼をぎゅっと抱きしめたところで、ルクレールには伝わらないだろう。
けれども、オレリアは小さく震える彼を、抱きしめずにはいられなかった。
「君が、俺との離縁を選んでも仕方がないとわかっている。俺はそれだけのことをした。でも……」
ルクレールはそこで言葉を詰まらせた。
オレリアはルクレールに抱き着いたまま、ぶんぶんと頭を横に振る。
ルクレールは、夏の空のような綺麗な青い瞳を揺らしながら、絞り出すように言った。
「……そばに、いてくれ…………」
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