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一章「天国になど辿り着けずとも」
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不安そうにしながらもまっすぐディランを見上げていたアダムの瞳に、ほんの僅かな翳りが宿ったのはこの時からだろうか。それ以来、実験の末に同じグループの子どもたちが命を落としていくたびに翳りは広がっていった。
「ドクター。俺はまた、みんなみたいに死ねなかったんですか?」
ヒトの子どもたちの中でも類稀な免疫力を持ち、どれだけ実験を受けようがワクチンの材料とされようが回復し生き残ってきたアダム。
ある日、実験ののち昏睡から目が覚めた彼にディランはそう言われてしまった。
あの時のディランの嘆きが心に刷り込まれてしまったのだろうか。天真爛漫で何も知らないことが唯一の救いでもあったかもしれない、そんなアダムを汚してしまったと咄嗟に思った。
心臓を氷漬けにされたようなショックを覚えて涙を流すしかないディランを、アダムは「泣かないで」と我に返ったように慌てた顔で慰めてくれる。
またそうやって、賢い彼は学んでしまう。「こんなことを言うとドクターを悲しませてしまう」——気を遣いすぎる獣人の子どものように。
もう、耐えられない。
これ以上は見ていられない。
担当していたグループの中でアダムの次に長生きしていたヒトの少女が死亡した日、ディランはアダムを筆頭に残っている子どもたちを外へ逃すと決めた。
たとえ一度少人数を逃したところで、この施設や世界がヒトを利用し続ける仕組みが変わるわけではないと知っていても。
たとえ彼らが外の世界のことなど何ひとつ知らず、生き延びられるわけがないと頭の隅で理解していたとしても。
それでも何もかもを隠されたまま、この施設の中で利用され続け、目の前で死んでいって欲しくはない。
ただそれだけの浅はかで刹那的な激情で。
◆ ◆ ◆
「おはようございます、ドクター」
「……うん」
「ジェッタ、まだ眠いのは分かるけれど朝の挨拶は大事だよ。ほら」
「んにゃ……おはよ……」
「お、はよう……」
突然の再会から、はや六日。
ソファの上でまだ半分閉じたままの瞼を擦り、アダムにもたれかかった黒猫型のヒト似獣人の少女ジェッタ。彼女の肩を過ぎた黒髪を梳いてやりながら、アダムは穏やかに微笑みかけてくる。
「今日も遅くなりそうですか?」
「あ、え……と。うん。昨日、よりはマシだと思うけど……」
「戻られた時には日付が変わっていましたからね。分かりました。家のことはしておきますので、本日もご無理なく」
「……あり、がとう」
「いいえ。お役に立つと言ったでしょう?」
ヒトであるアダムと彼が連れてきたヒト似獣人のジェッタとの生活は、思いのほか奇妙なまでに平穏だった。
あの日以来、アダムは昔の話を口にしていない。仕事にかまけ何もかもを適当に放置していたディランの部屋を、ただ淡々と的確に整えてくれた。基本的な家事から仕事に関する書類や資料の整理まで、かつての優秀さはまったく損なわれていないと分からされる完璧さ。
さらに壊れたと思いそのままだったレコーダーやリモコンの類を次々と修理していくさまは、【楽園】でラジオなどの電子工作キットをあっさりと完成させ改造まで加えていた頃の彼を思わせる。
「アダム~……ダメだ、私まだねむい……」
「だから早く寝るようにと言ったのに。いい子だから目を覚まして。ほら、まずは顔を洗っておいで」
「はぁい……」
ジェッタに優しく接している姿もそうだ。
自分だって僅かな差で年長なだけでまだ幼いにもかかわらず、グループの他のヒトの子どもたちの長兄として愛情深く振る舞っていた姿が脳裏に蘇る。
根底はあの頃のアダムのままではないか。そんな甘っちょろいことを考えるたび、再会の夜にひどく淫猥に触れられた感触が蘇って胸がざわついてしまうのだが。
「……なにか?」
「っ」
気が付けば、いつの間にか彼のことをじっと見ていたらしい。
視線と意識を一瞬、アダムは廊下のほうへと投げる。ジェッタが洗面所で水を使い出したのを確認したようで、次いでその青い目がディランを映して弧を描いた。
「ドクターもまだ目が覚めていませんか? 寝つきが悪かったのか、夢見が悪かったのか……抱き枕でもあるといいかもしれませんね」
いつの間にか伸ばされた右手の指先が、ディランの左手の甲を毛並みに逆らい下から上へとなぞっていく。
いやにゆっくりなその動き。ゾワリと毛が逆立ってしまうのを止められない。
「今夜は、そちらのほうでもお役に立ちましょうか」
その妖艶な笑みは、先程までジェッタに向けていた優しい顔とはまるで違っていた。
何も言葉が出てこなくて、呼吸すらまともにできている気がしない。ディランはただ無意味に口を開いたり閉じたりするしか出来ず——しかし突然、理解した。
再会の夜以降アダムが昔の話はおろかこういった態度を向けてこなかったのは、彼がずっとジェッタを優先していたからだ。
ジェッタはアダムに対しては明るく甘えん坊で、表情豊かなごく普通の子どもだ。だがディランに対しては、目を覚まし最初に顔を合わせてすぐ文字通り牙を剥いて威嚇してきた程には警戒を向けている。
初対面であることを抜きにしてもあまりに強いそれは、彼女がこれまでに経験した「ヒト似獣人の子どもゆえの苦労」を感じさせた。
そんな彼女を少しでも早く安心させ、この環境に慣れてもらおうと考えていたのだろうか。
アダムは初日に見せた棘を綺麗に引っ込め、この六日間ただただ穏やかにジェッタを慈しみディランに尽くしていた。彼の態度を見てジェッタもディランを敵と思わなくていいらしいと認識したのか、先ほどのように無防備な姿のまま挨拶をしてくれるまでにはなっている。
——やっぱり、アダムの本質は昔と変わっていない。きっと。
腹の中では底知れぬ怒りを宿しているに違いないのに。おそらくは重い苦しみを経験してきたのだろうヒト似獣人の少女をまず先に思いやって、自分の激情を引っ込めている。
アダムが今になってディランを探し当てて押しかけてきたのは、復讐のためだろうとディランは思っていた。しかしこうしてまずジェッタを優先している姿や、自分だけではと零していたことを思い出すに彼女の安住も目的として大きかったのかもしれない。
「……甲斐性のない方だ」
黙ったままのディランにうっすら嘲笑に近い表情を向け、アダムが首を竦めた。半ば現実逃避のように思考を別に向けて目を逸らしていた現状を思い出し、ディランは唾を飲み込む。
それと同時に、パタパタと軽い足音を響かせて朝の身支度を済ませたジェッタがリビングに飛び込んできた。
「アダムー! お顔も洗ったし歯磨きもしたし、お着替えもしたよ! えらいでしょ!」
「おかえり、ジェッタ。よくできました」
「えへへ!」
とっくにディランに触れていた手を引っ込めていたアダムは、それとは反対の手でジェッタの頭を優しく撫でる。色気と負の感情をない混ぜにした寸前の態度など微塵も表に出さない。
その使い分けこそ、間違いなく自分だけが彼に憎まれている証なのだ。
ディランはアダムからの誘惑めいた視線が逸れたことに安堵しつつ、同時にゴロリと硬い石が臓腑の中を転がるような悲しみも覚えていた。そんな権利などないはずなのに。
「……行ってくるよ」
のろのろと支度を整え、やっとのことでそれだけ搾り出して、ディランはリビングを後にする。
「いってらっしゃーい」
「お気を付けて、ドクター」
背中に投げかけられる二人ぶんの穏やかな声。
玄関へ向かう寸前に肩越しに少しだけ振り返ってみれば、ベーグルに齧り付くジェッタの傍らでアダムがじっとこちらを見つめていたのと目が合う。
途端にうっすらと娼婦の笑みを浮かべる彼に首筋の毛が逆立つ気配を覚え、ディランは慌てて扉を閉めた。
◆ ◆ ◆
帰宅は案の定、深夜となってしまった。
あと少しすれば日付が変わる。左手首の腕時計に視線を落とし、ディランはなんとも言えない気持ちで部屋の前に立つ。
本当ならもっと早く帰ってもよかったはずだった。「マイヤーズ先生、まだ残ってらしたんですか?」と看護師や同僚たちに言われるたびに明日休みだから今日のうちに色々やっつけておきたくて、と適当に誤魔化して病院に残り続けてしまったディラン。あまりにもあからさまなことをしているな、と苦々しく思う。
今だって、扉を開ける手がなかなか動いてくれない。こうしてウダウダとしていても仕方ないのに。
……本当にこんな自分が嫌になる。
深く重く溜息を吐き、ディランは鍵を開けてドアノブを回した。
「おかえりなさい」
最低限に照明を絞ったリビングの中、アダムはひとりソファに座っていた。
二人がやってきた夜、ひとまずと倉庫状態だった空き部屋をあてがった。寝室として軽く整え直したその部屋で、ジェッタはもう眠りについているのだろう。
いつもならアダムもそこにいて、ディランが帰宅すると薄く扉を開けて声をかけるだけなのだが——今夜は、違っていた。
「やっぱり遅かったですね。獣人の病院がどうなっているのか、俺には想像するしかできませんが……お忙しい時期なんでしょうか?」
「い……いや、今はそこまででも……」
馬鹿正直に言うことはなかったと思った時には手遅れだった。
「では、わざと帰宅を遅らせたと」
うっすらと無機質な笑みを貼り付け、アダムが立ち上がる。
喉奥に息を詰まらせたディランは何か言葉を返そうと足掻くが、それより早くアダムは「責めてませんよ」と軽く両手を挙げた。
「無理もないことです。帰宅すれば俺と顔を合わせなければならないのですから、嫌にもなりますよね」
「……っ、アダム……」
「あなたに負担をかけているのは分かっています。いろんな意味で。だからこそ」
気付けば、いつのまにかアダムはディランの目の前まで近付いてきていた。
その長い睫毛に縁取られた碧眼いっぱいに映る自分の姿。あっと思う間もなく細い腕が首に絡み、擦り寄るようにアダムが背伸びして身を寄せてきた。
「俺をお好きに使ってください、ドクター」
「——ッ!」
囁き、首元をペロリと舌先で舐められる。途端に背筋が凍るのと身体の中が熱くなるのとが同時にせめぎ合った。
「ドクター。俺はまた、みんなみたいに死ねなかったんですか?」
ヒトの子どもたちの中でも類稀な免疫力を持ち、どれだけ実験を受けようがワクチンの材料とされようが回復し生き残ってきたアダム。
ある日、実験ののち昏睡から目が覚めた彼にディランはそう言われてしまった。
あの時のディランの嘆きが心に刷り込まれてしまったのだろうか。天真爛漫で何も知らないことが唯一の救いでもあったかもしれない、そんなアダムを汚してしまったと咄嗟に思った。
心臓を氷漬けにされたようなショックを覚えて涙を流すしかないディランを、アダムは「泣かないで」と我に返ったように慌てた顔で慰めてくれる。
またそうやって、賢い彼は学んでしまう。「こんなことを言うとドクターを悲しませてしまう」——気を遣いすぎる獣人の子どものように。
もう、耐えられない。
これ以上は見ていられない。
担当していたグループの中でアダムの次に長生きしていたヒトの少女が死亡した日、ディランはアダムを筆頭に残っている子どもたちを外へ逃すと決めた。
たとえ一度少人数を逃したところで、この施設や世界がヒトを利用し続ける仕組みが変わるわけではないと知っていても。
たとえ彼らが外の世界のことなど何ひとつ知らず、生き延びられるわけがないと頭の隅で理解していたとしても。
それでも何もかもを隠されたまま、この施設の中で利用され続け、目の前で死んでいって欲しくはない。
ただそれだけの浅はかで刹那的な激情で。
◆ ◆ ◆
「おはようございます、ドクター」
「……うん」
「ジェッタ、まだ眠いのは分かるけれど朝の挨拶は大事だよ。ほら」
「んにゃ……おはよ……」
「お、はよう……」
突然の再会から、はや六日。
ソファの上でまだ半分閉じたままの瞼を擦り、アダムにもたれかかった黒猫型のヒト似獣人の少女ジェッタ。彼女の肩を過ぎた黒髪を梳いてやりながら、アダムは穏やかに微笑みかけてくる。
「今日も遅くなりそうですか?」
「あ、え……と。うん。昨日、よりはマシだと思うけど……」
「戻られた時には日付が変わっていましたからね。分かりました。家のことはしておきますので、本日もご無理なく」
「……あり、がとう」
「いいえ。お役に立つと言ったでしょう?」
ヒトであるアダムと彼が連れてきたヒト似獣人のジェッタとの生活は、思いのほか奇妙なまでに平穏だった。
あの日以来、アダムは昔の話を口にしていない。仕事にかまけ何もかもを適当に放置していたディランの部屋を、ただ淡々と的確に整えてくれた。基本的な家事から仕事に関する書類や資料の整理まで、かつての優秀さはまったく損なわれていないと分からされる完璧さ。
さらに壊れたと思いそのままだったレコーダーやリモコンの類を次々と修理していくさまは、【楽園】でラジオなどの電子工作キットをあっさりと完成させ改造まで加えていた頃の彼を思わせる。
「アダム~……ダメだ、私まだねむい……」
「だから早く寝るようにと言ったのに。いい子だから目を覚まして。ほら、まずは顔を洗っておいで」
「はぁい……」
ジェッタに優しく接している姿もそうだ。
自分だって僅かな差で年長なだけでまだ幼いにもかかわらず、グループの他のヒトの子どもたちの長兄として愛情深く振る舞っていた姿が脳裏に蘇る。
根底はあの頃のアダムのままではないか。そんな甘っちょろいことを考えるたび、再会の夜にひどく淫猥に触れられた感触が蘇って胸がざわついてしまうのだが。
「……なにか?」
「っ」
気が付けば、いつの間にか彼のことをじっと見ていたらしい。
視線と意識を一瞬、アダムは廊下のほうへと投げる。ジェッタが洗面所で水を使い出したのを確認したようで、次いでその青い目がディランを映して弧を描いた。
「ドクターもまだ目が覚めていませんか? 寝つきが悪かったのか、夢見が悪かったのか……抱き枕でもあるといいかもしれませんね」
いつの間にか伸ばされた右手の指先が、ディランの左手の甲を毛並みに逆らい下から上へとなぞっていく。
いやにゆっくりなその動き。ゾワリと毛が逆立ってしまうのを止められない。
「今夜は、そちらのほうでもお役に立ちましょうか」
その妖艶な笑みは、先程までジェッタに向けていた優しい顔とはまるで違っていた。
何も言葉が出てこなくて、呼吸すらまともにできている気がしない。ディランはただ無意味に口を開いたり閉じたりするしか出来ず——しかし突然、理解した。
再会の夜以降アダムが昔の話はおろかこういった態度を向けてこなかったのは、彼がずっとジェッタを優先していたからだ。
ジェッタはアダムに対しては明るく甘えん坊で、表情豊かなごく普通の子どもだ。だがディランに対しては、目を覚まし最初に顔を合わせてすぐ文字通り牙を剥いて威嚇してきた程には警戒を向けている。
初対面であることを抜きにしてもあまりに強いそれは、彼女がこれまでに経験した「ヒト似獣人の子どもゆえの苦労」を感じさせた。
そんな彼女を少しでも早く安心させ、この環境に慣れてもらおうと考えていたのだろうか。
アダムは初日に見せた棘を綺麗に引っ込め、この六日間ただただ穏やかにジェッタを慈しみディランに尽くしていた。彼の態度を見てジェッタもディランを敵と思わなくていいらしいと認識したのか、先ほどのように無防備な姿のまま挨拶をしてくれるまでにはなっている。
——やっぱり、アダムの本質は昔と変わっていない。きっと。
腹の中では底知れぬ怒りを宿しているに違いないのに。おそらくは重い苦しみを経験してきたのだろうヒト似獣人の少女をまず先に思いやって、自分の激情を引っ込めている。
アダムが今になってディランを探し当てて押しかけてきたのは、復讐のためだろうとディランは思っていた。しかしこうしてまずジェッタを優先している姿や、自分だけではと零していたことを思い出すに彼女の安住も目的として大きかったのかもしれない。
「……甲斐性のない方だ」
黙ったままのディランにうっすら嘲笑に近い表情を向け、アダムが首を竦めた。半ば現実逃避のように思考を別に向けて目を逸らしていた現状を思い出し、ディランは唾を飲み込む。
それと同時に、パタパタと軽い足音を響かせて朝の身支度を済ませたジェッタがリビングに飛び込んできた。
「アダムー! お顔も洗ったし歯磨きもしたし、お着替えもしたよ! えらいでしょ!」
「おかえり、ジェッタ。よくできました」
「えへへ!」
とっくにディランに触れていた手を引っ込めていたアダムは、それとは反対の手でジェッタの頭を優しく撫でる。色気と負の感情をない混ぜにした寸前の態度など微塵も表に出さない。
その使い分けこそ、間違いなく自分だけが彼に憎まれている証なのだ。
ディランはアダムからの誘惑めいた視線が逸れたことに安堵しつつ、同時にゴロリと硬い石が臓腑の中を転がるような悲しみも覚えていた。そんな権利などないはずなのに。
「……行ってくるよ」
のろのろと支度を整え、やっとのことでそれだけ搾り出して、ディランはリビングを後にする。
「いってらっしゃーい」
「お気を付けて、ドクター」
背中に投げかけられる二人ぶんの穏やかな声。
玄関へ向かう寸前に肩越しに少しだけ振り返ってみれば、ベーグルに齧り付くジェッタの傍らでアダムがじっとこちらを見つめていたのと目が合う。
途端にうっすらと娼婦の笑みを浮かべる彼に首筋の毛が逆立つ気配を覚え、ディランは慌てて扉を閉めた。
◆ ◆ ◆
帰宅は案の定、深夜となってしまった。
あと少しすれば日付が変わる。左手首の腕時計に視線を落とし、ディランはなんとも言えない気持ちで部屋の前に立つ。
本当ならもっと早く帰ってもよかったはずだった。「マイヤーズ先生、まだ残ってらしたんですか?」と看護師や同僚たちに言われるたびに明日休みだから今日のうちに色々やっつけておきたくて、と適当に誤魔化して病院に残り続けてしまったディラン。あまりにもあからさまなことをしているな、と苦々しく思う。
今だって、扉を開ける手がなかなか動いてくれない。こうしてウダウダとしていても仕方ないのに。
……本当にこんな自分が嫌になる。
深く重く溜息を吐き、ディランは鍵を開けてドアノブを回した。
「おかえりなさい」
最低限に照明を絞ったリビングの中、アダムはひとりソファに座っていた。
二人がやってきた夜、ひとまずと倉庫状態だった空き部屋をあてがった。寝室として軽く整え直したその部屋で、ジェッタはもう眠りについているのだろう。
いつもならアダムもそこにいて、ディランが帰宅すると薄く扉を開けて声をかけるだけなのだが——今夜は、違っていた。
「やっぱり遅かったですね。獣人の病院がどうなっているのか、俺には想像するしかできませんが……お忙しい時期なんでしょうか?」
「い……いや、今はそこまででも……」
馬鹿正直に言うことはなかったと思った時には手遅れだった。
「では、わざと帰宅を遅らせたと」
うっすらと無機質な笑みを貼り付け、アダムが立ち上がる。
喉奥に息を詰まらせたディランは何か言葉を返そうと足掻くが、それより早くアダムは「責めてませんよ」と軽く両手を挙げた。
「無理もないことです。帰宅すれば俺と顔を合わせなければならないのですから、嫌にもなりますよね」
「……っ、アダム……」
「あなたに負担をかけているのは分かっています。いろんな意味で。だからこそ」
気付けば、いつのまにかアダムはディランの目の前まで近付いてきていた。
その長い睫毛に縁取られた碧眼いっぱいに映る自分の姿。あっと思う間もなく細い腕が首に絡み、擦り寄るようにアダムが背伸びして身を寄せてきた。
「俺をお好きに使ってください、ドクター」
「——ッ!」
囁き、首元をペロリと舌先で舐められる。途端に背筋が凍るのと身体の中が熱くなるのとが同時にせめぎ合った。
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