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一章「天国になど辿り着けずとも」
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【北の楽園】。
はるか北のどこかにある、獣人とヒトが種族を超えて仲良く生きられる秘密の場所。
世間一般的には都市伝説として語られている。
実際、北の大地に【楽園】はある。
そういう名前の、とある医薬品開発グループとして。
【楽園】はどこの国にも属さない、半ば治外法権の組織だ。
古くからひっそりと薬の開発を続け、表には出てこず常に社会の影の部分に在り、医学の発展に貢献し続けてきた。
かつて「ローカスト熱」という致死性の高い病のパンデミックが起こり世界中が大恐慌に陥った時、ワクチン及び治療薬を開発して皆を救ったのは誰あろう【楽園】である。
その功績に見合う賞賛の声や褒美を、【楽園】は当時の各国首脳陣に求めなかった。それどころか、自分たちのおかげであることを世間一般の獣人たちに知られることすら求めなかった。
求めたのはたった一つ。「今まで通り放っておいてくれ」——ただそれだけ。
【楽園】の理念は世間に認められることではない。
ただ淡々と、黙々と、新しい薬を開発して獣人社会に貢献すること。
その薬の開発に、どんなに非道な手段を用いていたとしても。
ワクチンは通常、鳥——獣人のように知的進化を遂げなかった一部が鳥類には存在する——の卵から精製される。
しかしローカスト熱をはじめとする獣人にとって致死性の高いウィルスのいくつかは、不思議なことに鳥の卵の中ではまったく増殖しない。試行錯誤を繰り返すうち、やっと見つけた正解が「ヒト」だった。
ヒトの身体の中では獣人同様に爆発的な増殖を見せるウィルスたちを見て、【楽園】の獣人たちは以前から抱いていたある懸念が真実かもしれないと沈痛な面持ちになる。
いつからかヒト似獣人なるものが生まれるようになり、じわじわとその割合が増えていっているように。かつてヒトのあの姿が社会性動物としての進化の完成系かもしれないと言われていたように。
動物から知的進化を遂げた獣人は身体の中身も外見も含め、ヒトへ近付いていっているのではないかと。
以後【楽園】は積極的にヒトを研究し、飼育頭数を常に一定に保つよう繁殖させ、利用するようになる。
いずれ自分たちが成る未来の姿かもしれない生態モデルとして。
そして彼らを材料にワクチンや治療薬を開発し続け、変わらず獣人が支配する社会の維持に貢献するために。
◆ ◆ ◆
今はとある街の大病院で働くシロクマ獣人の医師ディラン・マイヤーズは、かつて【楽園】に属していた。
この頃の名前はディラン・クラーク。
両親はともに【楽園】に所属していたスタッフだったが、実験中の事故で早くに亡くなったため組織幹部の元で育てられた。ある程度の年齢になると自然とディランは【楽園】の中で仕事をするようになり、やがて適性を見出されて若くして医師となる。
医師と言っても、【楽園】に所属するスタッフたちを専門に診ていたわけではない。どちらかといえば、その中で飼育されている——被験生物であるヒトの医師として、だった。
「この子たちが、あなたが主に担当するグループのヒトたちです」
そう言って黒羊獣人のスタッフが開いた扉の向こう。それはそれは小さくて弱々しいヒトの子どもたちが十人ほど、無機質な床に座り込んでいた。
誰もが不思議そうに大きなディランを見上げる中で、ひときわ目を引く金髪の美しいヒトの子どもが立ち上がる。
「ネラ先生。この方も、俺たちにお勉強を教えてくださる先生ですか?」
あまりにも流暢に喋るその子にディランは最初、恐怖すら覚えた。
個体差こそあるものの、ヒトは本来なら知能が高い。教えさえすれば獣人の喋りを真似るようになることは知っている。だが、目の前の子どもは「真似る」などという域ではなかった。
言葉の意味も、その言葉を使う適切なタイミングも、何もかもを獣人同様に理解して喋っている。
何より、ネラ——ディランを育ててくれた幹部の娘であり、ディランにとっては義妹にも等しいスタッフから「先生は先生でも、彼はお医者様よ」と返されたあと。
「じゃあ、ドクターとお呼びします。よろしくお願いしますね」
そう言ってはにかんだヒトの子どもに、獣人との違いなど姿ひとつしかないように思えて。
ヒトを——彼らを実験体はおろか材料にまでした薬の開発事業に身を投じていることが、だんだんディランは恐ろしくなっていった。
果たして、これは正しいことなのか?
一度でもそんなことを考えてしまえばもう、ディランの心はヒトの子どもたちへと傾いていくばかり。
無邪気に懐いてくるヒトの子に、せめて彼らが置かれている辛い現実の慰めになればと様々なものを見せたり教えたりもした。
「ドクター、できました!」
そしてここでもまた、例の美しいヒトの子ども——アダムは抜群の学習能力の高さと器用さを見せた。
歌を教えれば一度でほぼ完全に音階やリズムや歌詞を覚え、電子機器の組み立てキットを与えればテキストやディランからの助言を参考にあっという間に完成させてしまう。そのうち、自己流で改良まで加えてしまう始末。
ニコニコと満面の笑みで成果物を見せてくるアダムの頭を撫でてやりながら、凄いねと心の底から感嘆するしかなかった。
すると、彼は照れ笑いしながらこう言うのだ。
「嬉しいです。こうしてできることが増えたら、俺はもっとドクターたちのお役に立てますか?」
え、と間の抜けた声が出たディランを、透き通った海色の目が真正面から映す。
「俺たちヒトは獣人のお役に立つために生まれてきたんですよね? 実験のお仕事は、痛かったり辛かったりもするし……失敗してしまう子もいますけど。でも、優しくしてくれるドクターたちのために頑張りたいと思っています」
喉の奥が焼けたように渇いて、ディランは何も返事ができなかった。
そう思うように、この子たちは躾けられている。疑問すら抱けない。飛び抜けて賢いこの子ですらそうだ。生まれた時からここしか知らないのだから。
ヒトがかつては知性高く世界を支配していた生き物だったこと。獣人の反逆で立場が逆転し、むしろより酷い立場になってしまっていること。中でもここに生まれてしまったがばかりに、医薬品開発の材料として搾取されていること。
何もかも【楽園】の獣人たちの偽りの優しい笑顔で隠され、自分たちはそういう生き物だとしか思えていないのだ。
「俺がもっと色々覚えてネラ先生やドクターたちをお手伝いできるようになれば、実験以外でもお役に立てるかもしれないと思っていました。だから、ドクターが俺にたくさんいろんなことを教えてくれて本当に嬉しいんです」
その健気で無垢な清い心に、何も報いがないこともアダムは知らない。
強いて一つだけ報いがあると言うのなら、死んだあと。罪がなんたるかも知らない真っ白な魂のままで天国へ行ける。ただそれだけだ。
だがそれは死を迎えることで辛い現実から逃れられるだけ。報いでもなんでもない。少なくとも、全てを知っているディランにはそう思えない。
「……ドクター?」
黙ったまま震えるしかないディランに不安になったのか、アダムが眉尻を下げて一歩近付いてくる。小さな手が触れてきて、ただでさえ潤んでいた涙腺が崩壊した。
「ど、ドクター! どうしたんですか……?」
いきなり大の大人が泣き出せば、びっくりするのは当たり前だ。
慌ててディランに飛びついてきたアダムは、必死に手を伸ばして溢れる涙を拭ってくれようとした。そんな様もまるで獣人の「良い子」のようで、もう。
「僕には……君たちヒトと獣人の境目が分からない……!」
慰めようとしてくれたアダムを抱き締めて、ディランは慟哭する。
止めなければならないと頭では分かっていたのに、こんがらかったまとまりのない思考の端々が口から次々溢れ出す。
「本当なら、君たちがこんな辛い目に遭わなくたっていいはずなのに。こんな、こんな……天国へ行く以外逃げ場がないなんて。アダム、なのに……君は……可哀想にっ……!」
「……ドクター……?」
突然のことに混乱し切ったアダムの声音に、ディランは返事できずにいた。
ややあって、少しだけ頭が冷えてきた頃に彼の小さな身体をそっと離して。「すまない」と、ただ項垂れるしかなかった。
はるか北のどこかにある、獣人とヒトが種族を超えて仲良く生きられる秘密の場所。
世間一般的には都市伝説として語られている。
実際、北の大地に【楽園】はある。
そういう名前の、とある医薬品開発グループとして。
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古くからひっそりと薬の開発を続け、表には出てこず常に社会の影の部分に在り、医学の発展に貢献し続けてきた。
かつて「ローカスト熱」という致死性の高い病のパンデミックが起こり世界中が大恐慌に陥った時、ワクチン及び治療薬を開発して皆を救ったのは誰あろう【楽園】である。
その功績に見合う賞賛の声や褒美を、【楽園】は当時の各国首脳陣に求めなかった。それどころか、自分たちのおかげであることを世間一般の獣人たちに知られることすら求めなかった。
求めたのはたった一つ。「今まで通り放っておいてくれ」——ただそれだけ。
【楽園】の理念は世間に認められることではない。
ただ淡々と、黙々と、新しい薬を開発して獣人社会に貢献すること。
その薬の開発に、どんなに非道な手段を用いていたとしても。
ワクチンは通常、鳥——獣人のように知的進化を遂げなかった一部が鳥類には存在する——の卵から精製される。
しかしローカスト熱をはじめとする獣人にとって致死性の高いウィルスのいくつかは、不思議なことに鳥の卵の中ではまったく増殖しない。試行錯誤を繰り返すうち、やっと見つけた正解が「ヒト」だった。
ヒトの身体の中では獣人同様に爆発的な増殖を見せるウィルスたちを見て、【楽園】の獣人たちは以前から抱いていたある懸念が真実かもしれないと沈痛な面持ちになる。
いつからかヒト似獣人なるものが生まれるようになり、じわじわとその割合が増えていっているように。かつてヒトのあの姿が社会性動物としての進化の完成系かもしれないと言われていたように。
動物から知的進化を遂げた獣人は身体の中身も外見も含め、ヒトへ近付いていっているのではないかと。
以後【楽園】は積極的にヒトを研究し、飼育頭数を常に一定に保つよう繁殖させ、利用するようになる。
いずれ自分たちが成る未来の姿かもしれない生態モデルとして。
そして彼らを材料にワクチンや治療薬を開発し続け、変わらず獣人が支配する社会の維持に貢献するために。
◆ ◆ ◆
今はとある街の大病院で働くシロクマ獣人の医師ディラン・マイヤーズは、かつて【楽園】に属していた。
この頃の名前はディラン・クラーク。
両親はともに【楽園】に所属していたスタッフだったが、実験中の事故で早くに亡くなったため組織幹部の元で育てられた。ある程度の年齢になると自然とディランは【楽園】の中で仕事をするようになり、やがて適性を見出されて若くして医師となる。
医師と言っても、【楽園】に所属するスタッフたちを専門に診ていたわけではない。どちらかといえば、その中で飼育されている——被験生物であるヒトの医師として、だった。
「この子たちが、あなたが主に担当するグループのヒトたちです」
そう言って黒羊獣人のスタッフが開いた扉の向こう。それはそれは小さくて弱々しいヒトの子どもたちが十人ほど、無機質な床に座り込んでいた。
誰もが不思議そうに大きなディランを見上げる中で、ひときわ目を引く金髪の美しいヒトの子どもが立ち上がる。
「ネラ先生。この方も、俺たちにお勉強を教えてくださる先生ですか?」
あまりにも流暢に喋るその子にディランは最初、恐怖すら覚えた。
個体差こそあるものの、ヒトは本来なら知能が高い。教えさえすれば獣人の喋りを真似るようになることは知っている。だが、目の前の子どもは「真似る」などという域ではなかった。
言葉の意味も、その言葉を使う適切なタイミングも、何もかもを獣人同様に理解して喋っている。
何より、ネラ——ディランを育ててくれた幹部の娘であり、ディランにとっては義妹にも等しいスタッフから「先生は先生でも、彼はお医者様よ」と返されたあと。
「じゃあ、ドクターとお呼びします。よろしくお願いしますね」
そう言ってはにかんだヒトの子どもに、獣人との違いなど姿ひとつしかないように思えて。
ヒトを——彼らを実験体はおろか材料にまでした薬の開発事業に身を投じていることが、だんだんディランは恐ろしくなっていった。
果たして、これは正しいことなのか?
一度でもそんなことを考えてしまえばもう、ディランの心はヒトの子どもたちへと傾いていくばかり。
無邪気に懐いてくるヒトの子に、せめて彼らが置かれている辛い現実の慰めになればと様々なものを見せたり教えたりもした。
「ドクター、できました!」
そしてここでもまた、例の美しいヒトの子ども——アダムは抜群の学習能力の高さと器用さを見せた。
歌を教えれば一度でほぼ完全に音階やリズムや歌詞を覚え、電子機器の組み立てキットを与えればテキストやディランからの助言を参考にあっという間に完成させてしまう。そのうち、自己流で改良まで加えてしまう始末。
ニコニコと満面の笑みで成果物を見せてくるアダムの頭を撫でてやりながら、凄いねと心の底から感嘆するしかなかった。
すると、彼は照れ笑いしながらこう言うのだ。
「嬉しいです。こうしてできることが増えたら、俺はもっとドクターたちのお役に立てますか?」
え、と間の抜けた声が出たディランを、透き通った海色の目が真正面から映す。
「俺たちヒトは獣人のお役に立つために生まれてきたんですよね? 実験のお仕事は、痛かったり辛かったりもするし……失敗してしまう子もいますけど。でも、優しくしてくれるドクターたちのために頑張りたいと思っています」
喉の奥が焼けたように渇いて、ディランは何も返事ができなかった。
そう思うように、この子たちは躾けられている。疑問すら抱けない。飛び抜けて賢いこの子ですらそうだ。生まれた時からここしか知らないのだから。
ヒトがかつては知性高く世界を支配していた生き物だったこと。獣人の反逆で立場が逆転し、むしろより酷い立場になってしまっていること。中でもここに生まれてしまったがばかりに、医薬品開発の材料として搾取されていること。
何もかも【楽園】の獣人たちの偽りの優しい笑顔で隠され、自分たちはそういう生き物だとしか思えていないのだ。
「俺がもっと色々覚えてネラ先生やドクターたちをお手伝いできるようになれば、実験以外でもお役に立てるかもしれないと思っていました。だから、ドクターが俺にたくさんいろんなことを教えてくれて本当に嬉しいんです」
その健気で無垢な清い心に、何も報いがないこともアダムは知らない。
強いて一つだけ報いがあると言うのなら、死んだあと。罪がなんたるかも知らない真っ白な魂のままで天国へ行ける。ただそれだけだ。
だがそれは死を迎えることで辛い現実から逃れられるだけ。報いでもなんでもない。少なくとも、全てを知っているディランにはそう思えない。
「……ドクター?」
黙ったまま震えるしかないディランに不安になったのか、アダムが眉尻を下げて一歩近付いてくる。小さな手が触れてきて、ただでさえ潤んでいた涙腺が崩壊した。
「ど、ドクター! どうしたんですか……?」
いきなり大の大人が泣き出せば、びっくりするのは当たり前だ。
慌ててディランに飛びついてきたアダムは、必死に手を伸ばして溢れる涙を拭ってくれようとした。そんな様もまるで獣人の「良い子」のようで、もう。
「僕には……君たちヒトと獣人の境目が分からない……!」
慰めようとしてくれたアダムを抱き締めて、ディランは慟哭する。
止めなければならないと頭では分かっていたのに、こんがらかったまとまりのない思考の端々が口から次々溢れ出す。
「本当なら、君たちがこんな辛い目に遭わなくたっていいはずなのに。こんな、こんな……天国へ行く以外逃げ場がないなんて。アダム、なのに……君は……可哀想にっ……!」
「……ドクター……?」
突然のことに混乱し切ったアダムの声音に、ディランは返事できずにいた。
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