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第三章 紅に深く染みにし心かも
第二話 幸運中の不幸 Ⅱ
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中学一年の夏になるまで、暗い気持ちを抱えて蘭は過ごした。
その年の春、ピアノの講師が替わった。新しい講師は音楽大を卒業したばかりの女性だ。やや尖った目と、眼鏡。カールした髪は一本にくくられている。
彼女は蘭が八十六番目に好きになった人物であり、七番目に恋をした人物でもあった。
優し気な目より、やや尖った目の女性に蘭は惹かれる。年上の女性には、指導されているときに特に時めく。
しかし、ピアノを奏でる指はよくもつれた。好意という自分の感情が怖い。彼女に特別な思いを抱くことこそ、自分が異端である証なのだ。
――駄目じゃない。
――ちゃんと教えたでしょ。
言って、彼女の指が蘭の指に触れる。
――ここは、こう。
そのたびに心は乱れた。これではいけないと思い、演奏に集中しようとする。しかし、集中しようとすればするほど指先は鈍くなった――まるで胸の震えが指先に伝わるように。
彼女が熱心に教えようとするほど、上達は遅れる。
ある夏の日の午後のことだ。
その日、家には誰もいなかった。
蘭の部屋は冷房が効いていた。強い陽の差す窓の外からは蝉の声が微かに聞こえる――まるで窓の外と内とで別の季節があるように。
その日も蘭はピアノの指導を受けていた。彼女を意識するたびに旋律は狂い、鍵盤から指が滑った。
「ストップ。」
雨垂れのような演奏を彼女はやめさせた。
「蘭さん――最近は全く上手くいってない――最初に出会ったときはそうでもなかったのに。顔色も暗いし、何だか余所余所しいし――特に、私が近づくたびにそうだよね?」
その言葉は、蘭の胸に深く刺さった。
「ひょっとして悩みでもある?」
蘭は黙りこむ。
何かを言おうとしたが、言葉にならない。
「あの――それは――」
「できれば――教えてくれる? そうじゃなきゃ、上手くならない。」
蘭の肩へ、そっと彼女は触れた。
刹那、心臓が縮まりそうになる。
「話してみて。――何でもいいから。」
窓の外から蝉の声が聞こえる。
自分は――普通の少女の仮面を被った異端だ。この仮面を外せば楽になれるのか、それともさらに苦しむのかも分からない。それでも、伝えたい気持ちがある。
蘭は視線を落とし、一息つく。
「本当に――何を言っても嫌ひませんか?」
「うん。――話してみて。」
蘭は顔を上げる。
彼女の表情は、何かを誘いかけているかのようだった。
後から思えば、蘭の気持ちに彼女は気づいていたに違いない――その資質を最初から持っていたのだ。
蘭は再び顔を落とした。
彼女にならば打ち明けてもいいのかもしれない。
仮面を外すよう彼女は誘っているように見える。
「私――男の人が好きになれないんです。」
胸の中のものを押し出すように蘭は言う。
「そんな自分が異常に思へて、何だかとても怖いんです。」
そっと、蘭の肩を彼女は撫でる。
「怖くないわ――私も同じだから。」
蘭は再び顔を上げる。
眼鏡のレンズの透明な輝き――その向こうに茶色い瞳の輝きがある。蘭の愛する人の顔が、目と鼻の先にまで迫っていた。
強い戸惑いを感じて、蘭は目をそらす。
「同じ――?」
「私はね――男性も女性も好きになるの。」
再び視線を向け、蘭は目を瞬かせた。
生まれて初めて――同類を見たのだ。
彼女は軽く微笑む。
「同じ人なら何人か知ってるよ。女の人しか好きになれない女の人も。だから――安心して。」
同時に恥ずかしくなり、顔を伏せる。婉曲的な言い方ではあるが、自分は初めて告白した。だが、受け入れられたことに逆に申し訳なさを覚える。
「本当に――こんな私が隣にゐていゝんですか?」
「自分を『こんな』なんて言わないで。」
蘭は顔を上げる。
彼女の顔が急に近づいた。
次の瞬間、蘭の唇は塞がれる。
蝉の声が聞こえなくなった。
不幸中の幸いという言葉があるように、幸運中の不幸というものがある。彼女との出会いは間違いなく幸運であった。蘭にとって、思春期の始まりは薄暗い闇に包まれていた。それを明るい光へと導いたのが彼女である。
同時に、間違いなくそれは不幸でもあった。
しかも――その不幸を蘭は全く自覚していなかったのだ。
一時間ほど後――蘭は何も考えられなくなっていた。麻酔の霧に覆われたように、指先にさえ力が入らない。ただベッドに全身を沈めている。視界の端には、上着を羽織る彼女の姿があった。
何かを言おうとして、蘭は口を開く。
「あうー。」
それしか言葉にならなかった。
青少年保護育成条例を犯した彼女は、蘭に微笑みかける。
「ほら――早く服を着ないと、ご家族の方が帰って来るよ。」
「はー、はひ。」
しかし力が入らない。代わりに口元からよだれが垂れた。
そんな蘭を抱え起こし、彼女は服を着せる。
「まったく――困ったものね。」
そして再び唇を重ねた。
蘭の中に幸福が溢れる――不幸という毒の混ざった。
それから一年間、彼女と蘭はしばしば契りを結んだ。彼女との関係は家族にはバレなかった。それでも彼女が解雇されたのは、蘭のピアノが全く上達しなかったためだ。
彼女との関係はそれで終わった。
しかし――この早すぎる経験は、蘭の中で間違いなく何かを歪ませたのである。
その年の春、ピアノの講師が替わった。新しい講師は音楽大を卒業したばかりの女性だ。やや尖った目と、眼鏡。カールした髪は一本にくくられている。
彼女は蘭が八十六番目に好きになった人物であり、七番目に恋をした人物でもあった。
優し気な目より、やや尖った目の女性に蘭は惹かれる。年上の女性には、指導されているときに特に時めく。
しかし、ピアノを奏でる指はよくもつれた。好意という自分の感情が怖い。彼女に特別な思いを抱くことこそ、自分が異端である証なのだ。
――駄目じゃない。
――ちゃんと教えたでしょ。
言って、彼女の指が蘭の指に触れる。
――ここは、こう。
そのたびに心は乱れた。これではいけないと思い、演奏に集中しようとする。しかし、集中しようとすればするほど指先は鈍くなった――まるで胸の震えが指先に伝わるように。
彼女が熱心に教えようとするほど、上達は遅れる。
ある夏の日の午後のことだ。
その日、家には誰もいなかった。
蘭の部屋は冷房が効いていた。強い陽の差す窓の外からは蝉の声が微かに聞こえる――まるで窓の外と内とで別の季節があるように。
その日も蘭はピアノの指導を受けていた。彼女を意識するたびに旋律は狂い、鍵盤から指が滑った。
「ストップ。」
雨垂れのような演奏を彼女はやめさせた。
「蘭さん――最近は全く上手くいってない――最初に出会ったときはそうでもなかったのに。顔色も暗いし、何だか余所余所しいし――特に、私が近づくたびにそうだよね?」
その言葉は、蘭の胸に深く刺さった。
「ひょっとして悩みでもある?」
蘭は黙りこむ。
何かを言おうとしたが、言葉にならない。
「あの――それは――」
「できれば――教えてくれる? そうじゃなきゃ、上手くならない。」
蘭の肩へ、そっと彼女は触れた。
刹那、心臓が縮まりそうになる。
「話してみて。――何でもいいから。」
窓の外から蝉の声が聞こえる。
自分は――普通の少女の仮面を被った異端だ。この仮面を外せば楽になれるのか、それともさらに苦しむのかも分からない。それでも、伝えたい気持ちがある。
蘭は視線を落とし、一息つく。
「本当に――何を言っても嫌ひませんか?」
「うん。――話してみて。」
蘭は顔を上げる。
彼女の表情は、何かを誘いかけているかのようだった。
後から思えば、蘭の気持ちに彼女は気づいていたに違いない――その資質を最初から持っていたのだ。
蘭は再び顔を落とした。
彼女にならば打ち明けてもいいのかもしれない。
仮面を外すよう彼女は誘っているように見える。
「私――男の人が好きになれないんです。」
胸の中のものを押し出すように蘭は言う。
「そんな自分が異常に思へて、何だかとても怖いんです。」
そっと、蘭の肩を彼女は撫でる。
「怖くないわ――私も同じだから。」
蘭は再び顔を上げる。
眼鏡のレンズの透明な輝き――その向こうに茶色い瞳の輝きがある。蘭の愛する人の顔が、目と鼻の先にまで迫っていた。
強い戸惑いを感じて、蘭は目をそらす。
「同じ――?」
「私はね――男性も女性も好きになるの。」
再び視線を向け、蘭は目を瞬かせた。
生まれて初めて――同類を見たのだ。
彼女は軽く微笑む。
「同じ人なら何人か知ってるよ。女の人しか好きになれない女の人も。だから――安心して。」
同時に恥ずかしくなり、顔を伏せる。婉曲的な言い方ではあるが、自分は初めて告白した。だが、受け入れられたことに逆に申し訳なさを覚える。
「本当に――こんな私が隣にゐていゝんですか?」
「自分を『こんな』なんて言わないで。」
蘭は顔を上げる。
彼女の顔が急に近づいた。
次の瞬間、蘭の唇は塞がれる。
蝉の声が聞こえなくなった。
不幸中の幸いという言葉があるように、幸運中の不幸というものがある。彼女との出会いは間違いなく幸運であった。蘭にとって、思春期の始まりは薄暗い闇に包まれていた。それを明るい光へと導いたのが彼女である。
同時に、間違いなくそれは不幸でもあった。
しかも――その不幸を蘭は全く自覚していなかったのだ。
一時間ほど後――蘭は何も考えられなくなっていた。麻酔の霧に覆われたように、指先にさえ力が入らない。ただベッドに全身を沈めている。視界の端には、上着を羽織る彼女の姿があった。
何かを言おうとして、蘭は口を開く。
「あうー。」
それしか言葉にならなかった。
青少年保護育成条例を犯した彼女は、蘭に微笑みかける。
「ほら――早く服を着ないと、ご家族の方が帰って来るよ。」
「はー、はひ。」
しかし力が入らない。代わりに口元からよだれが垂れた。
そんな蘭を抱え起こし、彼女は服を着せる。
「まったく――困ったものね。」
そして再び唇を重ねた。
蘭の中に幸福が溢れる――不幸という毒の混ざった。
それから一年間、彼女と蘭はしばしば契りを結んだ。彼女との関係は家族にはバレなかった。それでも彼女が解雇されたのは、蘭のピアノが全く上達しなかったためだ。
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