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第八章 勉強会
勉強会(2)
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放課後の図書室。窓際で肘を突いて、外を眺める。
眼下にはグラウンドが広がっていて、今日も野球部が声を出している。
本の匂いに満ちた静謐な空間にも、窓ガラス越しに少しだけそんな音が漏れ入ってくる。
六時間目が終わって随分経ったから、下校する生徒数はピークアウトしていた。
それでも夕陽に変わりそうな空の下、校門へ向かう人影はちらほらと覗えた。
「――悠木くんって、本当に頭良かったんだね」
「……今更? 水上も言っていたんだろ?」
隣の席では茶髪の少女がシャープペンシルを鼻と唇の間に挟んでうんうんと頷く。
――いつの時代のおじさんだ。
「う~ん。でも教え方も上手いんだなぁ~って?」
「――そりゃどうも。結構――嬉しい褒め言葉かな」
「あ、そーなんだ」
「……水上とは一緒に勉強とかしないの?」
「う~ん、洋平って平日は部活ばっかりだしね~。休日はやっぱり勉強より『遊びに行こう』ってなっちゃうし。会うなら」
「そっか。――まぁ、あいつらしいかな」
「うん。だね」
金曜日の放課後、僕は約束どおり森美樹に勉強を教えていた。
なんで友達の彼女の勉強を見ることになったか、よく覚えていないのだけれど。
それでも森さんにはお世話になっている気がするから、まぁいいか、と思う。
「――でも水上、今日は部活早退けじゃないの? なんかそんなこと言っていたような……」
「ん、でも、なんかその後に用事あるんだって」
「――そっか。なんの用事?」
「う~ん、あーしも聞いてない」
森さんはそう言ってにへらと笑った。
どこか寂しげに見えたのは――気のせいだろうか?
「――むしろ悠木くんこそ、明莉ちゃんと一緒に下校しなくて良かったの? 三日連続で登下校一緒だったんでしょ? もはや全校生徒公認カップル」
「まぁ、無理に記録延長する必要もないしね。――今日は森さんの方を優先で」
「まじか。あーし、悠木くんに明莉ちゃんより優先されちゃった。まじか。白目だわ」
「――そこまで言う?」
「……悠木くんの明莉ちゃんへの愛は――重いからね」
「言い過ぎだって」
「えー、自覚なさすぎだって」
森美樹は机の上に上半身を投げ出して僕を見上げた。
頬杖を突いたまま、そんな彼女と視線を交わす。
自覚が無いわけじゃないけれど、これしか恋愛経験がないのだ。
だから標準的な「愛の重さ」がどれくらいなのか、僕には分からないだけ。
だけど三日間一緒に登下校をして、偽装恋愛らしい日々を過ごして、思ったことがある。
――こんなことを続けていても、埒が明かないな。
だから森さんからのお誘いはどこか渡りに船だった。
形ばかりの登下校――恋愛ごっこという惰性を一旦区切る意味で。
朝の登校時、明莉に「今日は一緒に帰れない」と告げると「わかった。大丈夫だよ」と即了解された。即答だったのが寂しかったけれど、偽装恋愛なのだからそれ以上を求めるのも、おかしな話なのだろう。
「――ほら、手が止まっている。さっさとその公式当てはめなよ」
「は~い。わかりましたよぉ~、悠木先生ぃ~」
彼女の腋の下にある数式を指差すと、机に突っ伏していた森さんは渋々体を起こした。
教えているのは数学。二年生の半ばでやった内容だ。ベクトル。
僕は保健室登校中の自習で進めたから、いまいち先生がどう教えていたのか分からない。
「――えっと使うのは余弦定理なんでしょう?」
「がんばれー」
気のない僕の応援に、森さんは唇を尖らせながら机へと向かった。
学校の勉強なんていうのは大体、始める時に抵抗感を感じるかどうか、だと思うのだ。
分からないって気持ちが抵抗感を生んで、勉強しなさがまた分からなさに繋がっていく。
もとから頭の良いやつっていうのはいるけれど、みんながそういう訳じゃない。
たとえば明莉は不器用だけど、コツコツとした努力にまるで抵抗を覚えないタイプだ。
だから学校の成績は良いのだと思う。
そんなことを考えながら、僕は森さんの横顔を眺める。
親友の彼女。僕の女優。
――彼女の動画も最近は毎日のように見ている。
パソコンの液晶画面に映る彼女の姿は、女優で、大人びて、少し蠱惑的だった。
明莉とは違うタイプだけど、森美樹は可愛い女の子なのだ。
ささやかな胸の膨らみに視線を落として、僕はそう思う。
窓ガラスから差し込む昼下がりの太陽光が、彼女の茶色い髪を明るく照らしていた。
「――どうしたの? 悠木くん?」
「ん? なんでもないよ?」
「あ! 可愛いあーしに見とれちゃった? ニシシ」
「ね~よ」
僕は素っ気ない返事を返して、彼女の悪戯っぽい笑みから視線を逸した。
――あながち間違っていないから、ちょっとだけ困惑した。
ほんの一週間前までまるで気にもかけなかった、茶髪のギャルっぽい図書委員。
この一週間で僕にとって随分と気のおけない女友達へと、彼女は昇格していた。
窓ガラスの外は少しだけ橙色。図書室から見下ろしたアスファルトは校門まで続く。
校舎から女の子が出てきて校門へと歩き出した。それを追うように男子がもうひとり。
ボブヘアの少女の横に並ぶ男子も姿勢が良くて、身長差も丁度いいカップルだった。
「――あっ」
でも、その二人が誰なのか、僕は気づいて、思わず声を漏らした。
「――どうしたの?」
素朴な質問。森さんは自分も中腰になって、窓ガラスの外に視線を遣った。
一瞬、立ち上がって、その視線を遮ろうかと思ったけれど、やめた。
そんな行動はわざとらしくて、余計に事態をややこしくしそうだったから。
窓の外に向かう森さんの横顔。その表情は一瞬驚きに染まったように見えた。
橙色の世界を見つめた瞳は、やがて愁いに染まる。
そして――でもやがて――平静を取り戻した。
「――ベクトルの向かっている方向が違って、その間に距離があったら、余弦定理で角度が求まるんだよね?」
何事もなかったように席に座ると、森さんはペンを手に取った。
「よくわかっているじゃん、森さん」
「三角関係の距離と、それぞれの向く方向かぁ~」
「……なんのこと?」
「何でもないよぉ~」
森さんはそう言うと、もくもくとノートへと向かった。
彼女には見えていたのだろうか? それとも見えていなかったのだろうか?
きっと見えていたのだろう。一瞬の表情の変化がそれを物語っていた。
それなら何故、彼女はそのことに触れないのだろう?
でも彼女が敢えて口を閉ざすなら、僕はそれを尊重するべきなのだろう。
自らを数学の問題に逃げ込ませようとしているような少女。
僕は森美樹の頭を――そっと撫でた。
「――なに? 悠木くん?」
「なんでもないよ」
「なんでもないときに、女の子の頭を撫でるのはやめましょう」
「僕と森さんの仲じゃん?」
「それ、――ただの友達だよね?」
「――違いない」
彼女は、そうやってまた数学の問題に向き合った。
――何事もなかったように。
――窓の外の二人の姿なんて見ていないように。
昼下がりの校庭。校舎を出て、校門へ向かう男女一組の後ろ姿。
それは僕の偽装恋人――篠宮明莉と、彼女の恋人――水上洋平だった。
眼下にはグラウンドが広がっていて、今日も野球部が声を出している。
本の匂いに満ちた静謐な空間にも、窓ガラス越しに少しだけそんな音が漏れ入ってくる。
六時間目が終わって随分経ったから、下校する生徒数はピークアウトしていた。
それでも夕陽に変わりそうな空の下、校門へ向かう人影はちらほらと覗えた。
「――悠木くんって、本当に頭良かったんだね」
「……今更? 水上も言っていたんだろ?」
隣の席では茶髪の少女がシャープペンシルを鼻と唇の間に挟んでうんうんと頷く。
――いつの時代のおじさんだ。
「う~ん。でも教え方も上手いんだなぁ~って?」
「――そりゃどうも。結構――嬉しい褒め言葉かな」
「あ、そーなんだ」
「……水上とは一緒に勉強とかしないの?」
「う~ん、洋平って平日は部活ばっかりだしね~。休日はやっぱり勉強より『遊びに行こう』ってなっちゃうし。会うなら」
「そっか。――まぁ、あいつらしいかな」
「うん。だね」
金曜日の放課後、僕は約束どおり森美樹に勉強を教えていた。
なんで友達の彼女の勉強を見ることになったか、よく覚えていないのだけれど。
それでも森さんにはお世話になっている気がするから、まぁいいか、と思う。
「――でも水上、今日は部活早退けじゃないの? なんかそんなこと言っていたような……」
「ん、でも、なんかその後に用事あるんだって」
「――そっか。なんの用事?」
「う~ん、あーしも聞いてない」
森さんはそう言ってにへらと笑った。
どこか寂しげに見えたのは――気のせいだろうか?
「――むしろ悠木くんこそ、明莉ちゃんと一緒に下校しなくて良かったの? 三日連続で登下校一緒だったんでしょ? もはや全校生徒公認カップル」
「まぁ、無理に記録延長する必要もないしね。――今日は森さんの方を優先で」
「まじか。あーし、悠木くんに明莉ちゃんより優先されちゃった。まじか。白目だわ」
「――そこまで言う?」
「……悠木くんの明莉ちゃんへの愛は――重いからね」
「言い過ぎだって」
「えー、自覚なさすぎだって」
森美樹は机の上に上半身を投げ出して僕を見上げた。
頬杖を突いたまま、そんな彼女と視線を交わす。
自覚が無いわけじゃないけれど、これしか恋愛経験がないのだ。
だから標準的な「愛の重さ」がどれくらいなのか、僕には分からないだけ。
だけど三日間一緒に登下校をして、偽装恋愛らしい日々を過ごして、思ったことがある。
――こんなことを続けていても、埒が明かないな。
だから森さんからのお誘いはどこか渡りに船だった。
形ばかりの登下校――恋愛ごっこという惰性を一旦区切る意味で。
朝の登校時、明莉に「今日は一緒に帰れない」と告げると「わかった。大丈夫だよ」と即了解された。即答だったのが寂しかったけれど、偽装恋愛なのだからそれ以上を求めるのも、おかしな話なのだろう。
「――ほら、手が止まっている。さっさとその公式当てはめなよ」
「は~い。わかりましたよぉ~、悠木先生ぃ~」
彼女の腋の下にある数式を指差すと、机に突っ伏していた森さんは渋々体を起こした。
教えているのは数学。二年生の半ばでやった内容だ。ベクトル。
僕は保健室登校中の自習で進めたから、いまいち先生がどう教えていたのか分からない。
「――えっと使うのは余弦定理なんでしょう?」
「がんばれー」
気のない僕の応援に、森さんは唇を尖らせながら机へと向かった。
学校の勉強なんていうのは大体、始める時に抵抗感を感じるかどうか、だと思うのだ。
分からないって気持ちが抵抗感を生んで、勉強しなさがまた分からなさに繋がっていく。
もとから頭の良いやつっていうのはいるけれど、みんながそういう訳じゃない。
たとえば明莉は不器用だけど、コツコツとした努力にまるで抵抗を覚えないタイプだ。
だから学校の成績は良いのだと思う。
そんなことを考えながら、僕は森さんの横顔を眺める。
親友の彼女。僕の女優。
――彼女の動画も最近は毎日のように見ている。
パソコンの液晶画面に映る彼女の姿は、女優で、大人びて、少し蠱惑的だった。
明莉とは違うタイプだけど、森美樹は可愛い女の子なのだ。
ささやかな胸の膨らみに視線を落として、僕はそう思う。
窓ガラスから差し込む昼下がりの太陽光が、彼女の茶色い髪を明るく照らしていた。
「――どうしたの? 悠木くん?」
「ん? なんでもないよ?」
「あ! 可愛いあーしに見とれちゃった? ニシシ」
「ね~よ」
僕は素っ気ない返事を返して、彼女の悪戯っぽい笑みから視線を逸した。
――あながち間違っていないから、ちょっとだけ困惑した。
ほんの一週間前までまるで気にもかけなかった、茶髪のギャルっぽい図書委員。
この一週間で僕にとって随分と気のおけない女友達へと、彼女は昇格していた。
窓ガラスの外は少しだけ橙色。図書室から見下ろしたアスファルトは校門まで続く。
校舎から女の子が出てきて校門へと歩き出した。それを追うように男子がもうひとり。
ボブヘアの少女の横に並ぶ男子も姿勢が良くて、身長差も丁度いいカップルだった。
「――あっ」
でも、その二人が誰なのか、僕は気づいて、思わず声を漏らした。
「――どうしたの?」
素朴な質問。森さんは自分も中腰になって、窓ガラスの外に視線を遣った。
一瞬、立ち上がって、その視線を遮ろうかと思ったけれど、やめた。
そんな行動はわざとらしくて、余計に事態をややこしくしそうだったから。
窓の外に向かう森さんの横顔。その表情は一瞬驚きに染まったように見えた。
橙色の世界を見つめた瞳は、やがて愁いに染まる。
そして――でもやがて――平静を取り戻した。
「――ベクトルの向かっている方向が違って、その間に距離があったら、余弦定理で角度が求まるんだよね?」
何事もなかったように席に座ると、森さんはペンを手に取った。
「よくわかっているじゃん、森さん」
「三角関係の距離と、それぞれの向く方向かぁ~」
「……なんのこと?」
「何でもないよぉ~」
森さんはそう言うと、もくもくとノートへと向かった。
彼女には見えていたのだろうか? それとも見えていなかったのだろうか?
きっと見えていたのだろう。一瞬の表情の変化がそれを物語っていた。
それなら何故、彼女はそのことに触れないのだろう?
でも彼女が敢えて口を閉ざすなら、僕はそれを尊重するべきなのだろう。
自らを数学の問題に逃げ込ませようとしているような少女。
僕は森美樹の頭を――そっと撫でた。
「――なに? 悠木くん?」
「なんでもないよ」
「なんでもないときに、女の子の頭を撫でるのはやめましょう」
「僕と森さんの仲じゃん?」
「それ、――ただの友達だよね?」
「――違いない」
彼女は、そうやってまた数学の問題に向き合った。
――何事もなかったように。
――窓の外の二人の姿なんて見ていないように。
昼下がりの校庭。校舎を出て、校門へ向かう男女一組の後ろ姿。
それは僕の偽装恋人――篠宮明莉と、彼女の恋人――水上洋平だった。
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