愚者の哭き声 ― Answer to certain Requiem ―

譚月遊生季

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序章 前日譚

5. Rogerの記憶

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 奴を目にした途端、失った自我が急速に形を取り戻していく。
 記憶の断片が蘇り、俺に……私に、かつての感覚を呼び覚まさせる。

 忌まわしい過去が意識の表層に浮かび上がった。



「……何で、逃がしたんだ」

 ロン……ロナルドに囚われ、苦しめられていた少年を救おうとしたことがあった。
 ビジネスで成功しつつあった妻の手を借り、正当な手段で救おうとしたが……地下室に私が足を踏み入れた時、ほぼ監禁状態だった少年は既に姿を消していた。

「逃がしたわけじゃない。……不用心で残念だったね」

 他人事のように、彼は「過失で逃がした」と告げた。
 ……分かっていた。ロナルドは、わざと少年が逃げるように仕向けたのだ。……奴はそういう男だ。

「彼は外では生きられない」

 ニヤリと、奴の口元に小さく微笑が宿る。

「どうだか」

 負けじと反駁した。
 ……だが、奴の悪意は私の予想を超えていた。

「……彼が壊れる様は見ものだろうけれど」
「……まさか、壊すつもりで」

 応酬の後、奴が下卑た笑みを浮かべた。
 思わず息を呑む。……敵に回しては、いけない男だとは知っていた。狡猾で、自己中心的な男だとはよく分かっていた。

「立場をわきまえていないね」

 俺は死者で、相手は生者だ。
 立場なんてよくわかっている。

「何を言って……!」

 だが、それでも抗いたかった。

「対等な関係だとでも、思っていたのかな。……まさか。ちょうどいい、そろそろ死のうかと思っていた」
「……成程……」

 どこかで取り返しのつかない過ちでも犯したのだろう。……それで名前を捨てて逃げねばならないほど、切迫した立場に追い詰められたのか。

 ……それでも、私は、
 お前がどれほど罪深い下衆でも、私は、
 お前がどのような腹積もりで、どのように醜悪な欲望を抱えていたって、俺は……
 心の底から、お前を友だと思っている。

「君は、前に私が羨ましいと言ったね。……じゃあ、ちょうどいいじゃないか」

 羨ましいに決まっている。
 俺の未来は、齢22にして閉ざされたのだから。
 ……お前は生きているのだから。

「確かにお前の方が頭はいい。戦闘能力で常に勝っていたのは私だが」

 けれど、強がるしかできなかった。
 私には責任があった。長男としての、兄としての……軍人としての責務があった。

「……ああ、確かにそうだね。実戦でなら」

 ぞわりと、全身の毛が逆立つのを感じる。もし、ここにいるのが俺でなく、奴にとってどうでもいい相手なら?
 使い走りにされていた寮弟や、憂さ晴らしのはけ口にされていた部下ならどうなっていた?
 ……この男は、自分の欲望のためなら……
 他人を犠牲にすることを、利用することを、厭わない。

「ここで君を殺して、私の死体ということにしようか。それがいい」

 ……何を言っているのかわからなかった。

「……私は既に死者だ。葬儀だって行ったのを忘れたか」
「君が死ぬわけがない君はいつだって私の邪魔をしに私の前に立ち塞がる邪魔な男だけれど、君が私以外に殺されるわけがない。私より劣ってしまったのだけは残念だ。…………ああ、失礼。取り乱してしまったね」
「おい、ロン、何を言っている。お前は忘れたのか……?」

 ヘーゼルの瞳がぎらりと輝いた。黙れ、と、その欲深い輝きが何よりも雄弁に告げていた。
 そうして、奴は筋書き通りに演技を続ける。分かっているくせに、自己にも他者にも暗示を繰り返す。……非情な現実を否定する。

「君に、私の名前と肩書きをあげよう。もう死ぬ男のものだけれど」

 ……それでも、そんな状況でもロンは「ロジャー・ハリスの死」を否定した。否定したかったのだ。
 俺達は幼馴染であり、友だった。確かに友情があったし、確かに互いを大切に思っていた。
 だからこそ、奴は俺を許さなかった。俺が死んだことを認めなかった。

「君は、昔から僕を見下していたね?更にはあの戦場で恋人を殺された恨みをわざわざ敵に向けさせた。僕が右肩を負傷したのは、……あれはローランドだったかな……彼が僕の狙撃の腕を褒めた後で……」

 べらべらと口からでまかせを繰り返す。……自分でも虚言だとわかっているくせに、でたらめを騙り続ける。
 知っていた。彼は最初から、自分の思い通りにならないことが嫌いな男だった。
 ……思い通りの筋書きでなければ、気が済まない性格をしていた。

「つまりは……欲しかったんだろう?『ハリス家長男』の肩書きが」

 ならば乗ってやろう。付き合ってやろう。
 この外道はいつでもそうだった。人を意のままにしようとする力を持っている。
 手を汚さず、裏で操る男だ。……それでも、俺の唯一無二の友だった。

「……私も舐められたものだ」

 ただで負けるものか。
 ……お前が、それを選択するなら、終わりまで私は戦おう。

「ああ……すべてを奪うと、以前にもう言ったね。……君から奪い尽くせる日が楽しみだ」

 だがな、ロナルド・アンダーソン。
 自らの業から逃げ続けたとしても、何も変わりはしない。
 お前が捨てた名前の男に、お前は殺されるだろう。……いずれお前は、自らの悪意で身を滅ぼすことになる。もはや、お前が歩む先には堕落と破滅しかないのだから。
 ……だからこそ、俺は何度でも自らの尊厳を奪い返す。それだけは譲れない。

「……何度でも、殺してやる。勝つのは私……ロジャー・ハリスだ」

 ああ、だが……本音を言うと、
 ……あの瞬間だって、俺はお前を殺したくなどなかった。



 ***



「ロン……」

 焼け焦げた肉体に、黒い霧がまとわりつく。……私にはない何かを 持っているのか、ロンは次々に肉体を蝕まれていく。
 それでも、奴は私に向けて手を伸ばした。

「君は僕よりずっと真面目で、ずっと他人のことを思いやれる人間だった」

 焼け爛れて赤黒く変色した顔が、引きつった頬肉を持ち上げるよう笑った。

「君の意志は僕が引き継いであげよう。私が全て引き受けてあげよう。……だから安心して、「私」になればいい……!」

 奴は欲深い男だった。……何より、享楽を欲し堕落のために他者を蹴落とし蝕み犠牲にする男だった。

 ああ、でも……そんなお前を、俺だって心底羨ましく感じていたよ。



 意識が闇に飲まれていく。何かに食われるように、蝕まれていく。……ああ、油断してしまったか。

 ──にい……さん……?

 呆然と、誰かの声が届く。……済まない、ロー。
 もう、俺は守ってやれそうにない。
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