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第四話 「くじら侍の帰郷」
怪物二人
しおりを挟む江戸の庶民の多くが暮らした長屋は、細長い一棟を数戸に仕切った構造のものが多い。
間取りについては色々なものがあって、表通りに面した表店は二階建てなどで広めに造られるが、裏に位置した裏店はどちらかというと家よりも個室という位置づけになる。
長屋路地にある井戸も含めた共同設備を活用しながら、人々は暮らしていたのである。
権藤伊左馬の暮らしていたのは、その中でやや珍しい、一戸だけが独立した長屋であった。
簡単に言えば、でかくて邪魔な体格の持ち主である伊左馬を隔離できることができるのはそこしかなかっただけなのだが。
もともと、物置のような場所だ。
釜もなかったため、自分で設置するしかなかったが、伊左馬は不平も言わずにやり遂げた。
武士であることを鼻にかけない、珍しい浪人者として大家にも評判は良かった。
ただし、この時のように引き戸を体当たりで粉砕するような真似をすれば、翌日には追い出されることになるだろう。
「わいつら、わしに何の用だ?」
狭いといっていい長屋の井戸前に、十人を超える男どもがいた。
表通りから様子をうかがっているものもいる。
手に物騒なものを握っていることから、話し合いを求めてきたものではないことは一目瞭然であった。
もし、話し合いが行われるとしたら、それは議論ではなく恫喝の類いであろう。
伊左馬らはたったの二人なのだから。
ただし、この二人は突然の奇襲で襲撃者の度肝を抜き、想像以上に機先を制していた。
「―――八丁堀の同心だ」
「おい、聞いてねえぞ」
ひそひそと幾つか声がする。
伯之進が腰に差している十手に気づいたのだ。
美しい月夜の晩だった。
月下が冴えて、伯之進の美貌と身分を襲撃者たちにもわかりやすくしてくれたようである。
夜になってから、大勢を引き連れて押し込めばいかに剛力の巨漢でも為す術もないという目算だったのが嘘のように外れた。
長屋ではこちらの動向を探っていたかのように二人で待ち構えていて、しかも一人は奉行所の同心である。
罠を警戒したとしてもおかしくはない。
「夜も夜更けにこの人数で江戸の静寂を騒がすものども。奉行所のものとして見過ごすことはできません。氏素性、誰の差し金か、吐いてもらいましょうか」
伯之進は脇差を抜いて右手で持ち、左手にはその鞘を握った二刀流である。
狭い場所での乱闘的な戦いに備えた実戦的な構えだ。
まっとうな流派の発想ではない。
柳生新陰流以外にも、外道的な二流を修めたと噂される若き狂犬の真骨頂である。
一方の伊左馬は鞘をつけたままの大剣を上に掲げた。
構えというものではない。
ただ単に、自分の間合いに入ってきたものに悉く振り下ろすといういわば意思表示。
それだけで襲撃に来た者たちの心肝を寒からしめる光景であった。
「長屋の住人が起きて出てくる前に終わらせたいものですね」
伯之進は男どもを一瞥した。
恰好はばらばらだが、全員着物の裾をまくり上げた尻端折りか片っ端折りにしていて動きやすくしている。
中にはもろ肌を脱いでいるものもいた。
手にしているのは包丁や鈍器の類いではなく、刀や半刀で統一されている。
ただの寄せ集めではない。
凶悪無残なかおつきをしていて、とても堅気には思えなかったが。
「潮の香りがするのお。わいつら、船乗りか」
男どもはぎょっとした顔をした。
それが答え合わせだった。
船乗りか、類するものということを自分たちで明らかにしてしまったのである。
もっとも、それを見抜いた伊左馬の慧眼に伯之進は感じ入った。
「私もまだまだ修行が足りない」
「なに、わいつならすぐさ」
伊左馬の一言を合図にしたかのように、二人は動き出した。
鯨の分厚い皮下脂肪を貫いても曲がらない頑丈な大剣を肩から振り下ろされれば、どんなに筋肉があろうと痛みのあまり昏倒する。
伊左馬の初撃を受けたものは鎖骨を折られてそのまま崩れ落ちた。
その隙をついて横合いから襲い掛かった男は、背中を守っていた伯之進に足をかけられて体制を崩したところで伊左馬にもたれかかる。
まるでハエにでも集られたかのごとく、うっとおしそうに力づくで払いのけられ、押し返されたところを伯之進の鞘での突きを喉に受けて気絶した。
脇差と鞘の二刀流という武士らしからぬ技の冴えを見せつけるのはこれからである。
男どもにはまともに武芸を習った下地がないのはすぐに見抜けた。
ゆえに勢いがあるのならばともかく、敵に構えられてしまえば攻めが雑になる。
伯之進からすれば隙だらけだ。
右手の脇差が変幻自在に男たちの肌をうっすらと切り、怯んだところを鞘で強打し、場合によっては蹴りも加える。
伊左馬の指摘通り、海の男ばかりであるのか、陸ではそこまで機敏ではない。
剣を極めた若き同心の素早さと手数についていけないのである。
あっという間に戦闘不能にさせられていく。
「しょうがないのお」
しかし、伯之進でなく伊左馬に向かったものはさらに悲惨だった。
男どもも船乗りであり、潮風によって鍛え上げられた筋肉と荒い皮膚によって、ちょっとやそっとの打撲など苦にもしない。
喧嘩にも自信があった。
まともな殴り合いならば侍などに負けはしないという自負もあったが、伊左馬の膂力の前では木っ端みじんに吹き飛んでしまう。
肝も据わりきっていて、大勢を前にしても腰の引けることがない。
まさしく怪物であった。
ただし、伊左馬からしてみれば、鯨という人を遥かに上回る巨獣との戦いに比べれば、この程度の男ども、敵とすることすらも阿保らしいだけのことだったが。
「なまじ海の上では動けるからといって過信すべきではないぞ」
雷のような拳の一撃が一人の鼻を潰し前歯をへし折った。
六尺近く人が飛ぶ姿をほとんどのものが初めて見た。
その場にいた全員が瞠目した。
次の瞬間、あまりの光景に逆に目が覚めた男どもはこの場に立っている仲間が半分もいないことに気が付いた。
ほんのわずかな時間に、たった二人によって横たわり動かなくなったものが三分の二。
悪夢のような光景だ。
長屋の共同地のため狭く、大人数を動かせないという事情はあったが、それを抜いたとしてもどうにもならない力の差があった。
男どもは目と目で合図をすると、脱兎のごとく逃げ出し始めた。
倒れている仲間も担ぎ上げられる分だけは連れて行こうとするあたり、それなりに仲間意識はあるのだろう。
伊左馬たちはそのうちの一人だけ、背中をネズミのように踏んづけて確保しておくと、あとは逃げるのに任せた。
もともと、伯之進の峰うちで足首を折られているのでまともに歩くこともできない男だ。
逃げたものどもについては、二人とも後を追う気はない。
木戸番が捕まえられるとも思わないし、どうせ蜘蛛の子を散らすように逃げていくだろう。
金をもらってのことか、それ以上の理由があるのかは知らないが、やみくもに追いかけてもどうにもならない。
捕まえた一匹を拷問にかければよいだけのことだ。
「どうしますか、これから」
「どのみち、雇ったものの素性は知れておる。船乗りを刺客に雇う武士など限られておるしな。それに―――」
「それに?」
伊左馬が表通りの一角を睨んだ。
近頃、火事に備えて置かれるようになった雨水を貯める木の樽の陰に座り込んでいる太った武士がいた。
隠れているつもりとは思えない。
実際、この太った大柄の武士は伊左馬たちの立ち回りのあまりの凄絶と勁悍さに腰を抜かして座り込んでしまっていたのである。
おかげで襲撃に関わった男どもにも足手まといとして置いて行かれた。
もともと、案内のために来ていただけであり、それだけで役目は終わる予定だったのだ。
「おお、葛西悌二郎ではないか。こんなところで何をしておる」
「権藤さん、こいつがあなたに一発でのされたという……」
「まったくたいしたことのない殴りだったのだがな」
「あなたにやられたら、私でも終わりますよ。……さて、この男がここにいるということは黒幕は決まったも同然ですね。だから、わかって逃がしたのですか?」
「まさか。面倒だっただけだ。―――どれ」
そういって、のっそりと伊左馬は、またも葛西悌二郎を抱え上げた……
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