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坂門

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裏通りの薬剤師

小さな命の灯は絶やしませんよ

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「あんた、そっちにこれ敷いて⋯⋯お湯はまだ? エレナ、心音と呼吸音を確認して」

 小屋に着くと、ドワーフの女性がどうすればいいのか分からずオロオロとしていました。
 子熊はぐったり横たわり、生気をかなり失っています。ひと目見て、状況は急を要する事が分かりました。
 ハルさんは子熊の体を温めるために敷いた火山石ウルカニスラピスの織布の上に、そっと寝かして行きます。私はその合間を縫って、聴診器ステートを胸や背中に当てて音を確かめて行きました。
 ゴボ⋯⋯ゴボ⋯⋯と呼吸に合わせて水泡音が聞こえます。心臓の音は弱く、生きる力を感じられません。

「ハルさん! 心音が弱くて、肺から水泡音が聞こえます」
「えっ?! ちゃんと羊水吐き出させの?!」
「口からちゃんと零れたぞ」

 助手のドワーフさんの返事に、ハルさん顔をしかめます。

「肺の中にまだ残っている。ちょっと手伝って」

 ハルさんはドワーフさんと一緒に両足を持って持ち上げて行きます。逆さまになった子熊はなすがまま、力無く揺れていました。

「エレナ! この仔の背中を叩いて」

 私はパチパチと背中を叩くと、ハルさんの怒号が飛んで来ます。

「何やってんの! もっと強く! しっかり叩きなさい! 助けたいんでしょう!」
「は、はい!」

 バシン! と思い切り背中を叩きます。ハルさんは無言で頷き、私は何度もこの仔の背中を叩いて行きました。痛そうとか思っている場合では無いという事ですね。

「肺の中に溜まっている水を叩き出すつもりで行きなさい」
「はい。さぁ、お願い、吐き出して」

 バシンと叩くと『ゴボッ』と口から水が出て来ました。

「よし! 振るよ!」
「お、おう」

 ハルさんは一緒に持ち上げているドワーフさんに声を掛けると、子熊を上下に激しく振って行きます。
 ドアが蹴り開けられ、湯気の立つ大きなたらいを手に助手さんが現れました。あの細い体で、なみなみとお湯の入った盥を運んでしまいます。どこにそんな力が隠れているのでしょうか? 私も頑張れば、あんな風に重い物を運べるようになるのかなぁ。

「お湯持ってきたよ」
「エレナ、塩水を袋ごとお湯に浸して温めておいて」
「分かりました」

 相変わらず子熊は上下に振られています。その様子を横目にしながら、盥に張ったお湯の中へ塩水を袋ごと入れて行きました。

『ゴバァッ⋯⋯』

 子熊の口から水が溢れ出すのを確認して、振る手を止めます。かなりの量が零れ落ちた様に見えました。

「来た。もう大丈夫じゃない。エレナ、肺の音を聞いて」
「はい」

 胸に当てた聴診器ステートから、ゴボゴボというイヤな音は消え、濁りの消えた弱い呼吸音だけが耳に届きます。

「だ、大丈夫です。弱いですが、水疱音は消えました」
「じゃあ、体を温めて行くよ。その布の上⋯⋯その辺。エレナ、温めた塩水を頂戴」
「はい」

 床に敷いた火山石ウルカニスラピスの織布の上に、ぐったりしている子熊は優しく置かれます。ハルさんは、手渡した塩水の袋を寝ている子熊の手足の先に乗せて行きました。

「どうしてそこに置くのですか?」
「体の弱っている仔は、体の芯から守ろうとする。そうなると、どうしても末端の血流が弱くなって、そこから体温が逃げて行ってしまうの。末端を温めれば、血が手足の先に循環した時に冷える事が無くなって、無駄な体力を削らなくとも済む。体の力を、生きる力を、私達でサポートしてあげるのよ」

 体には毛布を被せ、ドワーフさんは優しくさすって行きます。

「ねえ、向こうの小屋に繋がっている伝声管はどれ?」
「その一番右のやつだ」

 ハルさんは軽く頷き、伝声管に口を添えました。

「モモ、母親の乳使える?」
『ちょっと待って⋯⋯あ、ダメね。腐乳だわ』
「分かった。そっちはどう?」
『今は落ち着いてはいるけど、出血は止まらないわ。そっちはどうです?』
「芳しくない。モモ、そっち引き続き宜しくね」
『了解。ハルさんも』
「うん」

 ハルさんは伝声管から口を外すと、助手さんふたりに向き直します。

「ねえ、どっちがこの仔の面倒を見るの?」

 ふたりは顔を見合わせると、細身の女性がすごすごと手を挙げました。

「私です」
「そう、じゃあ、牛か羊のミルクあるでしょう? あなたが飲ませて。今日からあなたがこの仔の母親よ」
「⋯⋯分かりました」

 助手さんはハルさんの言葉に、すぐに部屋を飛び出します。
 母熊がいるのに、母親代わり? 

「ハルさん、どうして助手さんが母親の代わりなのですか?」

 ハルさんはチラっとこちらを見て、視線はすぐに子熊に戻します。ハルさんは前を見たまま何度か口ごもり、何だか少し言い辛そうに見えます。

「⋯⋯灰熊オウルベアーだけでは無いのだけど、難産の場合、子供が助からないと判断して、母親が子育てを放棄してしまう事がままあるのよ。厳しい自然界では、弱い者は淘汰されてしまう。生きる力の無い仔をかばって、自分も死んでしまわないようにする、自己防衛なんだけどね⋯⋯」
「そうなのですね」
「さっきモモに確認して貰ったのは、母熊が子熊を育てる意志があるのかの確認。乳が臭いという事は子供に乳を与える気が無いって事。臭い匂いを放つ事で、危険な動物モンスターを弱っている自分に近づかないようにカモフラージュするのよ」
「なるほどです」

 あ、育児放棄の話だから言い辛かったのですね。
 眦を掻きながらこちらへ視線を向けるハルさんの青い瞳を見つめ、私はあえて、力強く頷いて見せました。
 もう、大丈夫なのです。ハルさん達のおかげですよ。
 この思いは届きましたか?
 今はこの仔を助ける為に向き合うそれだけです。それを邪魔する思いなど何もありませんよ。
 
 生と死の間で揺れ動く⋯⋯いえ、死えと傾きかけているこの仔の思いを、私達で生へと傾けなければなりません。 

「不思議ですね。思いだけで体に変化が出るなんて。人もそうなのでしょうか?」
「どうかな⋯⋯でもきっと、人も動物モンスターも同じ⋯⋯なのかな。さぁ、温めた塩水を交換しましょう。もうすっかり冷めてしまっているわ」
「はい」

 交換している間に、ハルさんが聴診器ステートを当てて行きます。優れないハルさんの表情から大きな改善は見られないのが分かりました。
 体をさすり続けているドワーフさんの表情からも、弱気が見え隠れします。

「まだですよ。この仔は生きようとしています。まだです」

 私は塩水を交換しながら、鼓舞して行きます。この仔を、この場を、みんなを、私を⋯⋯。最後まで諦めてはいけません。出来る事をやるのです。

「羊のミルクがありました!」
「人肌よりちょいあつまで、温めて」
「温めてあります」

 ハルさんはその助手さんの言葉に、口端を上げるとポンと肩に手を置きました。

「じゃあ、あなたが飲ませてあげて」

 子熊の頭を膝に置き、ゆっくりと哺乳瓶を傾けます。
 
 飲んで。
 
 私達は固唾を飲んで見守る事しか出来ません。口端からダラダラと零れ落ちる乳白色を見つめ、ドキドキが止まりませんでした。その姿は、胃にミルクが落ちていないと謳っているのです。

「大丈夫。焦らないで」

 ハルさんの柔らかな声に、哺乳瓶の傾きを緩めます。
 お願い、飲んで。
 飲んでくれれば、生きる力が出て来たという事。自らの意志で生を選んでくれなければ、その先にある道は閉ざされてしまいます。
 
 コクン。
 
 小さな喉が震えます。
 コクン、コクンと微かに上下動する喉に、私は笑顔になって行きます。
 この仔が生を選んだのです。
 良かった⋯⋯。

「ちょっと貸して」

 ハルさんが子熊を抱きかかえます。

「エレナ、背中を軽くトントンって叩いて」
「は、はい」

 私が軽く背中を叩き始めると、ハルさんは無言で頷きました。そう言えばハルさんの表情は真剣味を帯びたままです。
 私はトントンと小さな背中を叩いて行きます。まだきちんと生えそろっていない灰色毛の下から僅かな温もりを感じました。
 大丈夫。この仔はきっと生きたがっている。

『⋯⋯ゲップゥ』
「え?!」

 いきなりのかわいいゲップに私が目を丸くして驚くと、ハルさんにもようやく笑顔が見えました。

「よしよし、いい仔だね。これで最初の山は越えた。まだ予断は許さないけど、この調子で行ってくれれば大丈夫かな」
「ゲップしたからですか??」
「そう。胃が動き出したって合図だから。いくら口に入れても、ちゃんと栄養として吸収しなければ意味が無いでしょう」
「なるほどです」
「さぁ、モモにひと山越えた事を教えてあげて」
「わ、私がですか?」
「そうよ、ほら早く」

 ハルさんに背中を押され、私は渋々と伝声管に口を寄せます。

「モ、モモさん。こちらはひとつ山を越えて、今ミルクを飲んでいます」
『アハ! エレナ! お疲れ。やったわね』
「はい!」

 気が付けば、モモさんの元気な声に私は破顔していました。
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