ニケの宿

水無月

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第十話・絵のモデル

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「親の言いつけを守るのは素晴らしいことやと思うけど、お……お兄さんもう大人やろ? 自分の意志で行動してええと思うで?」

 自分の意志?
 命令を聞くだけだったフリーには縁遠いものだ。

「お姉さんは自分の意志で、浮世絵師になったの?」
「え? あ、あー」

 あー、と言いながら、少女はどんどん顔を背けていく。つないだ手も離れる。

「私は、おばあちゃんに浮世絵師になれって、言われて……おごご」
「……」

 汗がすごい少女はぽかーんと見上げてくる金緑の瞳と目を合わせられず、とうとう背中を向けた。背を向けたまま両足を広げ、腰に手を当てる。

「ま、まあ。私のことはええんや! 私はな、お兄さんに絵のモデルになってほしいんよ」

 どこを向いて話しているのだろうか。
 また知らない単語が出てきて、考えることを放棄していると、やっとニケが戻ってきてくれた。手に何かを持っている。

「おい。フリー。道分かったぞ。……ん?」

 背中を向けて胸を張っている少女に目をやる。

「こちらの方は?」
「ニケ。何持ってるの?」
「お兄さんの知り合い?」

 各自の疑問が正面衝突を起こし、首都の静霊がちらっと顔を出す。

「……」
「……」
「……」

 とりあえず、自己紹介からすることになった。



 少女の名前を聞いたニケが飛び上がる。

「花札市代っ? あの浮世絵師の?」
「あー。これやこれ。この反応待っとったんやー」

 胸に手を当て、じーんと感動した風情で胸に手を当てる。

『グライスファーレさんの表情に変化は?』
『ありません』
『よろしい。引き続き観察を続けよ』
『ラジャー』

 脳内で阿呆なやり取りをしているフリーの前で、非常に落ち着きがないようすで、ニケは持っていたものを差し出す。

「あ、あの……。じいちゃ、祖父が貴女の絵の大ファンで。こ、これどうぞ。そこのお店で頂いたものです」

 ふるふると尻尾が揺れている。
 差し出した包みには真っ白なコンフェイト(金平糖)がみっちり詰まっている。
 先ほど道を聞いた店でもらったようだ。ニケってよくお菓子もらうよね、と思うと同時に聞き逃せない言葉に、フリーが現実に戻ってくる。

「え? ニケのおじいさんと関わりあるってどういうこと?」

 このお姉さんも、キミカゲやリーン同様、見た目を裏切る年齢ということなのか。
 だが、浮世絵に夢中なニケの耳に声は届いてないようで、返事が返ってくることはなかった。
 赤い瞳に星が瞬く。

「お目にかかることが出来て、光栄です!」
「はらー。しっかりした子やね。ありがとう。もろとくわ(貰っておくわ)」

 羽織が地面につくのも構わずしゃがみ、包みを両手で受け取る。

「あのっ、あのっ。僕は祖父の買ってきた浮世絵を見せてもらっていただけなのですが、『産女(うぶめ)の幽霊』がとてもきれいで、でも怖くて。なのに色気があって、よく覚えてます!」

 こんなテンション上がっているニケを初めて見たかもしれない。
 グライスファーレ、いや、花札市代は顔の前に持ってきたコンフェイトをくんくんと嗅いでいる。

「あー。私の代表作やね。幽霊の血に本物の血を使ったの、初めは話題になったなー」

 え? 血? 血を使った? な、なに? なんという世界だ?

「『手招き』も素敵でした! 蝋燭の火で手の一部が薄くなっていて。消え入りそうな筆遣いが」
「はいはい。あれね。ありがとうな。ボク」

 ん? おかしい。ニケって怖い話が苦手だったんじゃ……?
 グライスファーレは垂れてきた髪を顔の横によける。

「あのさー、ボク」
「それで! ……あ、はい?」
「さっきからこの、横で百面相してるお兄さんを、そろそろ無視するのやめてやろうか?」

 ベンチで「年齢は?」とか「血を使った?」とか「怖い話が~」とか、ひとりで騒いでいる青年を指差す。
 ニケは「邪魔しやがって」みたいな目を向ける。その瞳に先ほどの興奮の色はない。

「どうした? 体調悪いんか?」
「うぐううう……」

 地に手をついて項垂れるフリーの背中を、ワンコと猫がぽんぽんと叩く。

「このお兄さん。浮世絵を知らん言うて、驚いたわ」
「でしょうね。ところで、失礼ですが貴女ほどの方が、こやつに何か用だったんですか? こやつがなにか粗相を?」

 少女はのんきに首を振りながら、コンフェイトの入った包みを膝に乗せ一粒かじる。

「ああ、そうやそうや。このお兄さんに絵のモデルを頼もうと思ってな? うまいわこれ」
「なにいっ!」

 ニケの低い声が首都に響いた。
 帽子の上から頭(正確には耳)を塞ぐ少女に、わなわなと詰め寄る。

「な、なぜ?」

 ニケは忙しそうに、今度はフリーの胸ぐらを掴む。

「お、おい! 前世でどんだけ徳を積んだら彼女の絵のモデルになれるんだ! 前世で何やったんだ。世界救ったのか?」
「お、落ち着いて……」

 揺すぶられ、目を回しているフリーを捨て、花札市代に向き直る。

「どうしてですか。花札さん!」
「よっしゃ。一回落ち着こう、ボク」

 手をパンパンと叩き、犬耳幼子に深呼吸させる。

「とりあえず、ベンチに座ろか」

 立ち上がりかけた彼女の羽織を、通行人の一人が踏みつける。わざとではなかったようで、踏んだヒトも驚いていた。

「あ」

 バランスを崩したグライスファーレが尻餅をつく。

「いたっ」

 その際、膝に乗せていたコンフェイトが地面にぶちまけられる。

「ああーっ」

 甘いものが好きなのか、無表情を青くして拾い集めようとしたが、他の通行人がコンフェイトを踏んずけてずるりと足を滑らせる。

「ほげー?」
「な、なんだ? ぐふう!」

 転んだ通行人Aの足が、他の通行人Bの足を蹴っ飛ばす。

「なんっ」

 通行人Bは見事に倒れ、Bの持っていた荷物がひゅーんと宙を舞う。

「やはり買うなら新鮮な方が」

 宙を舞ったBの荷物が、商品を眺めていたCの頭上に落ちた。

「美味しいよなアデッ?」

 前のめりに倒れたCが商品棚を粉砕し、積み上げられていた果物が四方にばらばらばら。

「「「……」」」

 ニケとフリーとグライスファーレは延々と続く負のピタゴラスイッチを、真っ青になりながら見つめることしかできなかった。



 巻き込まれる人がFを超えたあたりで正気づき、なんとかピタゴラを止めようと走ったが、結局巻き込まれたヒトは十六人にもなった。

「はあ……。めっさ疲れた」

 果物の弁償に、怪我人の手当てに、お詫びに土下座に。……全てが終わるころには空は夕暮れに染まっていた。
 カァカァと、遠くでカラスが鳴いている。
 フリーは膝を抱えた体勢でうつむき、ニケは地面に大の字で夕日を眺めている。グライスファーレはふらふらと立ち上がると、羽織にくっきりついた足跡を払う。
 三人とも「なにやってんだろう……」といった表情だ。
 グライスファーレは青年と幼子によろよろと近寄る。

「な、なあ? お兄さんら、宿は決めてるん?」

 白目を剥いたまま、フリーは首を振る。

「い、いえ……」
「それなら、私の家に来ない? モデルの話もしたいし」

 ニケがむくっと上半身を起こす。

「知らん男を家に招くとは。不用心では? 貴女に何かあれば全国百万人のファンが泣きますよ?」
「そんなにファンおる? ほんま、しっかりしとんな。ああでも、私の実家やないで? 仕事場に借りている部屋があんねん。そこに私の用心棒……といったら聞こえの良い自宅警備員がおるから、私の心配はいらんで?」
「?」

 自宅警備員? ニケでも初めて聞く言葉だ。
 しかし彼女の仕事場に行けるとは。日頃の行いか、神の思し召しか。ニケはアキチカのいる方角に祈っておく。

「で、では。お邪魔します」
「おや? ボクこそ。知らん猫にほいほいついてってええんか?」

 グライスファーレの悪戯っぽい声に、ニケは自慢げに胸を張る。

「逃げ足には自信があります!」
「ほお?」
「それに」

 ちらっとフリーを見る。

「僕にも、用心棒がいますから」

 グライスファーレの「こ、この、頼りなさそうなお兄さんが?」と言いたそうな視線を受け、フリーはへらっと笑っておいた。
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