フンペの海

鈴木 了馬

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   九

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 喪があけたある朝、例によって、陽が昇ると同時にイソンは物見の木に上がった。
 よく晴れそうだった。
 昨日から続いている風で、雲は完全に吹き飛ばされていた。
 同時に、海はかなり時化ていて、一日見張ったところで、成果はありそうもなかった。
 イソンは、しばらくして洞窟に戻り、森に入る準備にかかった。
 いずれ縄は必要だろう。
 木に打ち込む、先が平らな石鏃。
 その石鏃を叩くための薪は、持ちやすく重そうなものを選んだ。
 空腹に備えて、干しイモ。
 イソンはそれらを麻袋に入れ、肩に背負うと、洞窟を出た。
 森に入るには、一旦南下して、集落のほうに向かう必要があった。
 萱原や沼とは逆の方角だった。
 しばらく行くと、集落の手前を流れる川に出る。
 森から流れてきた川だ。
 オペが木を運ぶために使っていた川だ。
 イソンは、川沿いを北北西に向かって上がって行った。
 四半時も歩くと、森の入り口が見えてきた。
 川もだいぶ細くなってきた。
 森に入ると川は、左右に分かれる。
 左の沢の方が深かった。
 イソンは迷わず、左の沢に入っていった。
 それほど上流までいかない間に、クスノキは見つけられるはずだった。
 モミやツガの間に、ときどきクスノキが混じって生えている。
 まず試作だから、若木でも良かった。
 しばらく行くと沢が左に曲がった。
 その右側が少し開けていて、そこにクスノキが数本あった。
 一本はかなり太く、実際の丸木舟にも十分な太さがあった。
 イソンは、その大木の近くを少し歩いて回り、一本を選びだした。
 幹の太さは、一尺三寸はあろうか。
 イソンは、そのクスノキの一番太い枝の一本を切り落とすことにした。
 作業に入る前に、竹筒に入れてきた酒を幹の根元にかけて、祈りを捧げた。
 祈りが済むと、太い縄を幹と自分の腰に巻いて結び、直径三尺ほどの輪を作った。
 そして、石鏃と薪を持って、輪を上手く掛けながら、幹を上った。
 はたして、石鏃は、なかなか枝の又に食い込んでいかなかった。
 イソンは一旦木を降りると、川まで歩いて行き、石を探した。
 持ちやすく、重い石が理想的だったがそもそも河原に石自体が少なかった。
 イソンは川に入って、川底から石を探しはじめた。
 それが良かった。
 すぐに一つ見つけて、イソンは木に戻り作業を再開した。
 あれこれと一時ほど要して、イソンは太さ、四寸、長さ三尺の丸太を切り出した。
 それなら、背負って行ける。
 イソンは、干し芋をかじりながら、沢を下って行った。
 洞窟に戻ると、娘は入り口の作業場近くで、麻布を編んでいた。
 娘が使っている麻用の編み台は、オペが作ったものだ。
 村人が古くから使っているのと同じ形だ。
 二尺立法の木製のヤグラだ。
 上辺の木には、狭い間隔で切り込みが入っており、そこに麻糸を張る。
 縦に張った麻糸に横糸を織り込んでいく。
 今、編んでいるのは、冬着用の麻布だ。
 麻糸と一緒に鳥の羽根や獣の毛を織りこむ。
 イソンが娘に微笑みかけると、娘のそれに返した。
 イソンは作業場を通り抜け、囲炉裏端に向かった。
 そして、囲炉裏の横に丸太を置いた。
 丸太は、乾燥させる必要がある。
 乾くまでは作業はできない。
 イソンは、森からの帰り道の道すがら、考えていた。
 雪が降る前に、本番の木を切り出しにかかるべきかどうか、を。
 その結果、それはやめることにした。
 この冬は試作品を、いくつか造るべきだという考えに至ったのだ。
 そうして、何作かしたのちに、最終的にどういう木を切り出すのがいいか、それが分かってくるだろう。
 そうなると、今のうちに何本か、試作用のクスノキの枝を伐り、運んできて乾燥しておく必要がある。
 イソンは、道具が入った、麻布を作業場に置くと、洞窟の外を眺めた。
 もはや、太陽は沈みかけ、他のやるべきことをやるには中途半端だった。
 イソンは囲炉裏の火を整え、水を半分くらいまで入れた土器の鍋をかけた。
 水は、海水と湧水を合わせたものだ。
 そうしておいて、イソンは雪室からフンぺの干し肉と、乾燥したショウガを持ってきた。
 水が沸騰すると、石鏃で切った肉と、石で潰した乾燥ショウガを鍋に入れる。
 ショウガは娘が潰した。
 久しぶりのフンペ汁に、娘も嬉しそうだった。
 土鍋を火にかけると、イソンは入り口の萱戸を閉めに立って行った。
 萱戸は、縄で束ねられていて開閉式なのだ。
 洞窟の入り口は、立ち上がり二尺の高さに石が積まれている。
 人が通るところだけ、石積みを低くしている。
 その石積みの、内側に沿って萱戸が閉められる構造だ。
 囲炉裏に戻ると、娘は火を整えていた。
 イソンは、今日伐ってきた丸太を反転させた。
 偏りなく、乾かす必要がある。
 そのうち、火が落ち着いてきて、二人は囲炉裏越しに向かい合って座った。
 肉が煮えるまで、炎を見つめながら待つ。
 イソンは、あくる日、やるべきことを考えていた。
 森までは、二往復はする必要があろうか。
 そうすると、夜が明ける前に、森に向かう必要があるだろう。
 娘を連れていった方がいいか。
 そろそろ、キノコを採っておいたほうがいいからだ。
「おう」
 娘が呼びかけた。
 イソンが目線を上げると、娘が寝床を指さしている。
 見れば、寝床に敷いていある麻布が少し膨らんで高くなっている。
 敷き布の下には、乾燥した海藻を三寸ほどの厚さで敷き詰められているはずだった。
 掛ける方の麻布も、鳥の毛を織り込んだものに替ったようだ。
 寝床も冬支度だ。
 イソンは娘に視線を戻すと微笑んだ。
 イソンが留守の間、娘にもいろいろやることがあるらしい。
 キノコは自分が採ってこよう、と考えなおした。
 また別の日に娘を連れて行ったらいい。
 キノコやアケビを採りに。
 娘が立っていって土器の碗と木のヒシャクを取ってきた。
 フンペ汁ができたらしい。
 娘がまず、イソンの分をよそった。
 娘の分もよそい終わると、二人は碗をかかげ、頭を下げる。
 それは食前の儀式だ。
 イソンが食べ始めるのを待って、娘も食べ始める。
 この秋は、フンペが獲れなかったから、干し肉は残り少ない。
 魚貝の干物もかなり貯めているので、食糧不足には陥ることはないだろう。
 滅多に食べないフンペの肉は、貴重な食料というだけではない。
 極めて神聖で、霊力をもたらす何かなのである。
 その日は、オペの死から、一定の時間が経ったことと、木を伐り出してきたりしたこともあって、イソンは肉を出してきた。
 その年のフンペ漁は仕舞だった。
 長い冬が来る。
 食べ終わっても、しばらくは、炎を見つめて過ごす。
 だいぶ気温が下がってきていた。
 ただその夜は、寝る前に薪の継ぎ足しをするほどの寒さではなかった。
 寝床も冬仕様で安心だ。
 炎が消えかかる頃、寝床に入る。
 フンペ汁のお陰か、その夜は、二人ともすぐに寝入った。 
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