フンペの海

鈴木 了馬

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 村人の誰かが死ねば、半月ほどは肉食を絶った。
 もちろん殺生もせず、イソンも海には近づかなかった。
 時間がかかったが、萱運びも終わり、洞窟の入り口を塞ぐ作業が進んだ。
 男手が減ったので、娘も雪囲いの作業を手伝った。
 娘はこのほか、冬用の麻衣の繕いなどをして少し忙しそうだった。
 残った萱は、竪穴式住居の雪囲い、そして必要に応じて屋根の修繕に使う。
 そのために毎年多めに萱を刈ってくるのだ。
 萱ぶき屋根は、イソンにしか扱えない。
 イソンが屋根に上がって作業をしている時だった。
 久しぶりに大地が揺れた。
 縦に小刻みに。
 海嘯を招く揺れではなさそうだった。
 大地が揺れれば、揺れの大小に関わらず、物見の木まで行き、しばらく海を眺める。
 それはオペからの教えだ。
 その日から、二三日は、さほど大きくはないが何度か揺れがあった。
 「河の熊」の集落の上流にある大山がまた怒っている、とイソンは考えていた。
 娘もそう想ったかもしれなかった。
 そんなある朝、イソンは「河の熊」の集落へ続く道の途中にある沼に行った。
 その沼の夢を見たからだった。
 夢には、「河の熊」とオペが出てきた。
 沼は一見、前と変わらなかった。
 直径が、二十間に満たない沼だった。
 イソンは周囲を歩いてみて、一つの変化に気付いた。
 沼の北西側、岸に近い水面から湯気が立っていた。
 イソンが歩み寄って池の水に触れると、かなり温かかった。
 沼の底から湯が湧いているに違いない。
 イソンが早速、このことを村の長、チラに知らせに行った。
 すぐにチラが男たち二、三人を伴って沼にやってきた。
 男たちは、沼の様子を見てから、再び村にいったん戻り、翌日から作業を始めた。
 もちろんイソンも作業を手伝った。
 男たちは、数日かけて、沼岸から張り出した丸太の台を作った。
 湯気が出ている場所から、少しずらした位置に。
 長さ一間、幅三尺ほどの台。
 台は、六本の丸太の杭で、沼底に固定されていた。
 台が完成したあくる朝、村人たちが沼に集まってきた。
 チラは、最初は発見者だ、とイソンを名指しした。
 イソンは麻布の腰巻だけになって、台から降りて沼に入った。
 絶妙の湯加減だった。
 真水と温泉が混じっている。
 手でかき寄せれば、温度を調節できる。
「おう」
 イソンが声を上げて村人たちに笑顔を向けた。
 村人もそれにつられて笑い、歓声を上げた。
 イソンの次はチラ。
 そして、男から年功順に沼の温泉につかった。
 沼底は泥なので、皆、木の台につかまって入った。
 イソンは沼から上がると、洞窟に戻って、火打石と薪を持ってきて、焚火を起こした。
 温泉から上がった村人たちが、焚火で体を乾かせるようにだ。
 火が落ち着くと、イソンは先に洞窟に戻った。
 洞窟に戻ったイソンは、早速祭壇に向かった。
 感謝の祈りを捧げる。
 温泉のお告げに対する感謝だ。
 オペならば、祈りの言葉の一つもあっただろうが、イソンはただ目をつむって祭壇に向かうしかなかった。
 かなりの長時間、祭壇に向かっていたイソンは、何か不思議な感覚を得た気がした。
 それは何か特別なものではなかった。
 ただ、オペなき後に、その祭壇を守っていく責任は自分にある、という自覚が芽生えだった。
 自分がすべてを引き継ぐのだ。
 祈りの後に、イソンはオペの作業場にあるものを一つ一つ確認して回った。
 オペが完成させたばかりの丸木舟は、今使っているものと比べて幅が少し広く、長くもあった。
 改めて見ると、オペが使っていた舟造り用の石鏃は、実にさまざまな種類のものがあった。
 先がまるいもの。
 曲がったもの。
 もちろん形だけではなく、大きさや長さも一つずつ全部違う。
 それから、舟を仕上げるヤスリとして使う、木の皮や草の繊維も何種類かあった。
 そして、椅子や台として使ったいくつかの石。
 その石を覆う麻布は、黒ずんで年季が入っていた。
 丸木舟だけが、真新しく輝いて見えた。
 その舟は、来年の漁から使われるのだ。
 オペもそのはずだったろう。
 イソンは、舟の周りを何度も回って、細部を見てみた。
 実に美しい舟だった。
 自分は、これほどの舟を造ることができるだろうか。
 いくら、これまでオペを手伝ってきたとしても。
 それでも、とにかくやってみるしかない。
 一人で。
 まずは、試作からだ。
 オペもそうしていた。
 細い丸太を削って、一尺ほどの小舟を造る。
 オペの舟を真似て造るのだ。
 早晩、森に木を切り出しに行くことになるだろうと、イソンは想った。
 木はクスノキのはずだった。
 オペは何日も森に通って、理想的なクスノキを切り出していたことをイソンは想い出した。
 まずは、森に試作用に適した木を探しに行こう。
 イソンは、作業場を離れ、洞窟を出た。
 陽は傾き始めていた。
 イソンはまた洞窟に戻り、囲炉裏の火を熾し始めた。
  
 その夜、イソンはなかなか寝付けなった。
 丸木舟のことや、クスノキの切り出し方などについて思い巡らせていたことで、気持ちが高ぶったせいかもしれなかった。
 なぜか、そういうイソンに同調したかのように、娘も何度も寝がえりを打っていて、寝付けないようだった。
 オペが亡くなって、必然的にオペが寝ていた場所、洞窟の壁際の一番奥まったところがイソンの寝床になった。
 自然に、娘はその横、依然イソンが寝ていた場所に、イソンと並ぶように寝ていた。
 イソンと娘の間は三尺もない。
 ふと、背中に娘の視線を感じたイソンは寝返って、娘の方を向いた。
 頼る光がない暗闇だから、娘の表情は読み取れなかった。
 冷える夜になりそうな気がして、イソンは火を熾そうと囲炉裏に立って行った。
 炭の残り火を掘りだし、顔をかがめて息を吹きかけた。
 火はすぐに赤く熾り、イソンは萱の切れ端を一つかみ炭の上に載せる。
 炎が上がったところへ、薪を一本くべた。
 イソンはしばらく、炎が薪に移っていく様を見つめていた。
 萱が燃えきると、くべた薪の方に息を吹きかけ、火を定着させた。
 再び、火を見つめる。
 冬に備えて、薪ももう少し集める必要があるだろう、とイソンは思った。
 火が完全に熾きると、イソンは太めの薪をもう一本くべて、床に戻った。
 娘は目を開けていた。
 イソンは娘に微笑んで、床の上に腰を下ろした。
 安堵の空気が流れた。
 寝付けなかった二人を包んでいたのは、漠然とした不安だったのかもしれなかった。
 主を失って未だ間もないのだ。
 決して悲しむべきことではない。
 それでも不在感は否めないのだ。
 イソンは、娘に寄り添うように横になった。
 娘が微笑んでイソンを見つめた。
 しばらくすると、娘は寝返ってイソンに背を向けた。
 イソンを避けているわけではなかった。
 それはイソンにも分かる。
 娘は、目をつむって、あの夜のオペを想い出していた。
 なるに任せた。
 どれくらいの時間が経ったか。
 静かな恍惚感が波のように押し寄せてきた。
 波は何度も訪れて、最後には娘を飲み込んでしまったようだった。
 静かに引いていく波に合わせるように、娘は眠りに落ちていった。 
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