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七
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オペは三日間寝込み、起き上れるようになったが、以前よりも動きが緩慢になったように、イソンには思えた。
まるで憑き物が落ちたように。
本当は、徐々に年老いただけで、イソンがそれに気づかなかっただけかもしれなかった。
それでも、オペはまた洞窟に戻っていった。
嵐が立て続けに来たこともあるが、オペはまるで洞窟から外に出なかった。
朝の祭壇の祈りのために、洞窟の奥に歩いて行くだけで、あとは洞窟の入り口にある舟の作業場の石に腰かけて、外を眺めているだけだった。
ときどき、思い出したように、麻布で新しい舟を磨く。
舟はほぼ完成している。
洞窟は意外と奥行きがあった。
かがんで入れるところで三十間くらいあった。
入り口付近がもっとも広く高く、半径三間くらいの半円の空間だ。
そこにオペの作業場がある。
それから右に少し曲がり、入口が見えなくなるところに、避難所そして冬の住処として使う空間があり、囲炉裏があった。
それを過ぎると一旦、洞窟は狭くなり、かがんで五間ほど進み、また少し開けた空間に出る。
そこが祭壇のある空間だ。
その祭壇の左奥が雪室だった。
祭壇の右奥に湧水が溜まっている個所があって、その流れの源は、洞窟のさらに奥の方にあった。
祭壇の上には、フンぺの頭蓋骨の一部などの骨が置いてあった。
イソンの予想通り、嵐が去っても、しばらく波が残った。
それでも、イソンは朝、一度は海に出てみる。
波が荒く、海面がざわついていて、フンぺが現れても発見は難しいだろう。
嵐が来ると、三人は洞窟の中に避難することにしていた。
その間、娘は、洞窟の中で出来ることをやる。
麻縄を作ったり、麻布を編んだり。
娘が居る囲炉裏端からは作業場は見えないが、オペが何かすれば、音が反響して娘のところまで聞こえた。
作業に集中していると、自分の手元の音よりも、洞窟内に響くオペが立てるかすかな音を知らず知らずに追いかけていた。
そうしているうちに、娘はふと、何日か前の夜中のことを想い出した。
それは夢だったか。
目覚めると背後に誰かが寝ているのが分かった。
体を娘に密着している。
おぼろげながら、イソンではないことはすぐに分かった。
オペ。
その後のことは、よく分からず、記憶もあいまいだった。
緩やかな波の中にいるようだった。
途中一瞬痛みがあった。
その後は、波が幾重にも重なって、そして、気がつけば引いていた。
娘はその余韻を保ったまま、また眠りに就いた。
それは夢だったのか。
鈍い痛さの記憶は、微かにも残っていなかった。
ただ残像のように娘の体の記憶に刻まれているのは、その時のオペの静かでも底力のある躍動だった。
衰えの中に、芯のように残る違和感のような生命力だった。
気のせいかもしれなかったが、あの夜以来、オペはさらに生気をなくしてしまったように、娘には思えてならない。
イソンが戻って来たらしい音がして、娘は我に返った。
娘が立って作業場に行くと、イソンは何やら準備に取り掛かっていた。
萱刈りに行くようだった。
例年より少し早いが、イソンは天候などさまざまな条件から、今だと判断したらしかった。
大きくて長めの石鏃と縄を数本。
準備が終わると、イソンは娘を指さして、一緒に行くとオペに合図を送った。
娘は、オペの顔色を窺った。
オペは少し頷いたようだった。
自分は行かない、ということのようだ。
二人は、大山の麓の高原に向かった。
萱は洞窟の雪囲いに使う。
冬の住まいとなる森の洞窟の入り口をすっかり覆ってしまうためのものだ。
洞窟から萱場までは一時ほどかかる。
萱場の手前は笹の群生地となっており、しばらく獣道を歩く。
それを四半時も歩くと、広大な萱原の斜面が見えてくる。
嵐の影響が残っており、斜面から吹きあげる風に萱は時折波打っていた。
萱は、イソンの背丈の倍ぐらいの高さだ。
萱を刈る石鏃は長さが五分ほどで、細長いものだった。
イソンははそれを背負ってきた麻袋から取り出すと、娘に一つ渡した。
イソンはすぐに萱を刈り始めた。
娘が萱場に同行するのは、二度目だった。
イソンのやり方を確認してから、作業に取り掛かった。
洞窟の入り口を覆うために必要な萱の量は、オペとイソンで十往復分だった。
刈るよりも、運ぶほうが難儀だ。
イソンと娘では、何往復になるだろうか。
娘がなんとか、刈るのに慣れたころには、イソンすでに必要分を刈り終えていた。
萱原に少しの広間ができた。
イソンが刈り取った萱を麻縄でまとめていき、最終的に直径三寸ほどの萱束が二十束出来上がった。
二十束目は、娘が一人で纏め上げた。
イソンは地面に座ってそれを眺めていた。
娘は、村の女たちと比べても、背丈が大きい方で、今ではイソンとあまり変わらない。
それは、「河の熊」譲りだろう。
体つきも、もはや少女とは言い難かった。
腰には、イソン同様に麻布を巻いているが、しゃがんで作業をしているので、臀部は麻布に収まりきらない。
イソンは、自然に手を伸ばして、それに触れてみる。
娘ははっとして振り向いたが、その顔は微笑んでいる。
イソンも微笑みを返した。
萱の束は、オペとイソンなら二束ずつ運ぶが、娘のことを考えて、一束ずつ運ぶことにした。
一日で運ぶ必要は全くないのだ。
休み休みではあったが、問題なく一束目を運び終え洞窟の入り口にくると、珍しい来客が二人の目に映った。
イソンは、ヤイ、と微笑みかけたが、村の霊媒師イタの付き添いの女は、神妙な視線をイソンに返した。
イソンと娘は、萱を洞窟の入り口に置くと、洞窟の中へ入った。
作業場の舟の横になぜかオペは寝ていた。
イタは、オペの横に座って、オペ越しにまっすぐ壁を見つめて、何やら話している。
イソンは、操船の名手チプが死んだときのことを想い出した。
イタは、オペの霊と交信しているのだ。
イソンは、その儀式を黙って見守るしかなかった。
娘は、意味が分からずに立ち尽くしていた。
オペは死んだのだ。
後になって、イタの付添人に聞いたところでは、イタは、オペの霊に呼ばれて、洞窟に来たということだった。
イソンと娘が萱場に出発して、それほど時を経ずして、オペは死んだということになる。
イタの交信は、半時ほど続いたろうか。
気がつけば、陽は落ちかけていた。
本来であれば、すぐにでも埋葬に入るべきだったが、夜はやめたほうがいい、というイタの言葉もあり、翌日にすることになった。
イタと付添人は村に帰っていった。
イソンは、フンぺの油壺から油を皿に出して麻縄を入れ、囲炉裏の火を移した。
オペの霊が迷い出ていかないようにするためだった。
その火は夜が明けるまで絶やしてはいけない。
娘は、イソンに付いて回って、やり方を見ていた。
蝋燭の火が安定した後、二人は囲炉裏のそばで夜を明かした。
明け方、陽が昇る前に、村長と村の男達がやってきた。
急いで穴を掘る必要があるからだった。
到着してすぐに折り返すように、男たちだけでオペを村の墓地に運ぶ。
陽が上る頃、娘もイタの付添人に連れられて墓地にやってきた。
村の墓地は、村の背後に広がる森の入り口にあった。
オペが墓穴におさまると、イタが呪文を唱え始めた。
呪文は何度も繰り返され、そのうちぴたっと止まった。
村人が墓穴をとり囲んで、呪文の間中は頭を垂れているが、呪文の静止とともにイタに注目した。
今や、オペの霊がイタに憑依していた。
「ほう、ほうおい」
オペは海のあるほうを向いて、呼びかけるように声を上げた。
表情は嬉々としている。
最初、少し笑い声を上げたりしていたが、そのうち静かになり、村人一人一人を確認するように見渡した。
オペは、自分の死を受け止めたようだった。
村人の安堵の心がその場を包んでいた。
時に霊は、不本意な死に泣き出したり、倒れこんだりする場合もあるのだ。
偉大なるフンペ漁師、海の神と呼ばれた男、オペ。
その伝説の男は、静かに逝った。
「海の熊」の教えを守って。
そして、迷うことなく夜空に旅立つだろう。
儀式は終わり、その後は宴となった。
村の広場には、大きな焚火が焚かれた。
オペの霊を送る宴は、夜が明けるまで続いた。
まるで憑き物が落ちたように。
本当は、徐々に年老いただけで、イソンがそれに気づかなかっただけかもしれなかった。
それでも、オペはまた洞窟に戻っていった。
嵐が立て続けに来たこともあるが、オペはまるで洞窟から外に出なかった。
朝の祭壇の祈りのために、洞窟の奥に歩いて行くだけで、あとは洞窟の入り口にある舟の作業場の石に腰かけて、外を眺めているだけだった。
ときどき、思い出したように、麻布で新しい舟を磨く。
舟はほぼ完成している。
洞窟は意外と奥行きがあった。
かがんで入れるところで三十間くらいあった。
入り口付近がもっとも広く高く、半径三間くらいの半円の空間だ。
そこにオペの作業場がある。
それから右に少し曲がり、入口が見えなくなるところに、避難所そして冬の住処として使う空間があり、囲炉裏があった。
それを過ぎると一旦、洞窟は狭くなり、かがんで五間ほど進み、また少し開けた空間に出る。
そこが祭壇のある空間だ。
その祭壇の左奥が雪室だった。
祭壇の右奥に湧水が溜まっている個所があって、その流れの源は、洞窟のさらに奥の方にあった。
祭壇の上には、フンぺの頭蓋骨の一部などの骨が置いてあった。
イソンの予想通り、嵐が去っても、しばらく波が残った。
それでも、イソンは朝、一度は海に出てみる。
波が荒く、海面がざわついていて、フンぺが現れても発見は難しいだろう。
嵐が来ると、三人は洞窟の中に避難することにしていた。
その間、娘は、洞窟の中で出来ることをやる。
麻縄を作ったり、麻布を編んだり。
娘が居る囲炉裏端からは作業場は見えないが、オペが何かすれば、音が反響して娘のところまで聞こえた。
作業に集中していると、自分の手元の音よりも、洞窟内に響くオペが立てるかすかな音を知らず知らずに追いかけていた。
そうしているうちに、娘はふと、何日か前の夜中のことを想い出した。
それは夢だったか。
目覚めると背後に誰かが寝ているのが分かった。
体を娘に密着している。
おぼろげながら、イソンではないことはすぐに分かった。
オペ。
その後のことは、よく分からず、記憶もあいまいだった。
緩やかな波の中にいるようだった。
途中一瞬痛みがあった。
その後は、波が幾重にも重なって、そして、気がつけば引いていた。
娘はその余韻を保ったまま、また眠りに就いた。
それは夢だったのか。
鈍い痛さの記憶は、微かにも残っていなかった。
ただ残像のように娘の体の記憶に刻まれているのは、その時のオペの静かでも底力のある躍動だった。
衰えの中に、芯のように残る違和感のような生命力だった。
気のせいかもしれなかったが、あの夜以来、オペはさらに生気をなくしてしまったように、娘には思えてならない。
イソンが戻って来たらしい音がして、娘は我に返った。
娘が立って作業場に行くと、イソンは何やら準備に取り掛かっていた。
萱刈りに行くようだった。
例年より少し早いが、イソンは天候などさまざまな条件から、今だと判断したらしかった。
大きくて長めの石鏃と縄を数本。
準備が終わると、イソンは娘を指さして、一緒に行くとオペに合図を送った。
娘は、オペの顔色を窺った。
オペは少し頷いたようだった。
自分は行かない、ということのようだ。
二人は、大山の麓の高原に向かった。
萱は洞窟の雪囲いに使う。
冬の住まいとなる森の洞窟の入り口をすっかり覆ってしまうためのものだ。
洞窟から萱場までは一時ほどかかる。
萱場の手前は笹の群生地となっており、しばらく獣道を歩く。
それを四半時も歩くと、広大な萱原の斜面が見えてくる。
嵐の影響が残っており、斜面から吹きあげる風に萱は時折波打っていた。
萱は、イソンの背丈の倍ぐらいの高さだ。
萱を刈る石鏃は長さが五分ほどで、細長いものだった。
イソンははそれを背負ってきた麻袋から取り出すと、娘に一つ渡した。
イソンはすぐに萱を刈り始めた。
娘が萱場に同行するのは、二度目だった。
イソンのやり方を確認してから、作業に取り掛かった。
洞窟の入り口を覆うために必要な萱の量は、オペとイソンで十往復分だった。
刈るよりも、運ぶほうが難儀だ。
イソンと娘では、何往復になるだろうか。
娘がなんとか、刈るのに慣れたころには、イソンすでに必要分を刈り終えていた。
萱原に少しの広間ができた。
イソンが刈り取った萱を麻縄でまとめていき、最終的に直径三寸ほどの萱束が二十束出来上がった。
二十束目は、娘が一人で纏め上げた。
イソンは地面に座ってそれを眺めていた。
娘は、村の女たちと比べても、背丈が大きい方で、今ではイソンとあまり変わらない。
それは、「河の熊」譲りだろう。
体つきも、もはや少女とは言い難かった。
腰には、イソン同様に麻布を巻いているが、しゃがんで作業をしているので、臀部は麻布に収まりきらない。
イソンは、自然に手を伸ばして、それに触れてみる。
娘ははっとして振り向いたが、その顔は微笑んでいる。
イソンも微笑みを返した。
萱の束は、オペとイソンなら二束ずつ運ぶが、娘のことを考えて、一束ずつ運ぶことにした。
一日で運ぶ必要は全くないのだ。
休み休みではあったが、問題なく一束目を運び終え洞窟の入り口にくると、珍しい来客が二人の目に映った。
イソンは、ヤイ、と微笑みかけたが、村の霊媒師イタの付き添いの女は、神妙な視線をイソンに返した。
イソンと娘は、萱を洞窟の入り口に置くと、洞窟の中へ入った。
作業場の舟の横になぜかオペは寝ていた。
イタは、オペの横に座って、オペ越しにまっすぐ壁を見つめて、何やら話している。
イソンは、操船の名手チプが死んだときのことを想い出した。
イタは、オペの霊と交信しているのだ。
イソンは、その儀式を黙って見守るしかなかった。
娘は、意味が分からずに立ち尽くしていた。
オペは死んだのだ。
後になって、イタの付添人に聞いたところでは、イタは、オペの霊に呼ばれて、洞窟に来たということだった。
イソンと娘が萱場に出発して、それほど時を経ずして、オペは死んだということになる。
イタの交信は、半時ほど続いたろうか。
気がつけば、陽は落ちかけていた。
本来であれば、すぐにでも埋葬に入るべきだったが、夜はやめたほうがいい、というイタの言葉もあり、翌日にすることになった。
イタと付添人は村に帰っていった。
イソンは、フンぺの油壺から油を皿に出して麻縄を入れ、囲炉裏の火を移した。
オペの霊が迷い出ていかないようにするためだった。
その火は夜が明けるまで絶やしてはいけない。
娘は、イソンに付いて回って、やり方を見ていた。
蝋燭の火が安定した後、二人は囲炉裏のそばで夜を明かした。
明け方、陽が昇る前に、村長と村の男達がやってきた。
急いで穴を掘る必要があるからだった。
到着してすぐに折り返すように、男たちだけでオペを村の墓地に運ぶ。
陽が上る頃、娘もイタの付添人に連れられて墓地にやってきた。
村の墓地は、村の背後に広がる森の入り口にあった。
オペが墓穴におさまると、イタが呪文を唱え始めた。
呪文は何度も繰り返され、そのうちぴたっと止まった。
村人が墓穴をとり囲んで、呪文の間中は頭を垂れているが、呪文の静止とともにイタに注目した。
今や、オペの霊がイタに憑依していた。
「ほう、ほうおい」
オペは海のあるほうを向いて、呼びかけるように声を上げた。
表情は嬉々としている。
最初、少し笑い声を上げたりしていたが、そのうち静かになり、村人一人一人を確認するように見渡した。
オペは、自分の死を受け止めたようだった。
村人の安堵の心がその場を包んでいた。
時に霊は、不本意な死に泣き出したり、倒れこんだりする場合もあるのだ。
偉大なるフンペ漁師、海の神と呼ばれた男、オペ。
その伝説の男は、静かに逝った。
「海の熊」の教えを守って。
そして、迷うことなく夜空に旅立つだろう。
儀式は終わり、その後は宴となった。
村の広場には、大きな焚火が焚かれた。
オペの霊を送る宴は、夜が明けるまで続いた。
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