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後編
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しおりを挟むノアを残しシュナが群れから離れ、車のなかで二度夜を越し、街へと辿り着いたのは、もう正午を回る時間帯だった。
狭い車内で窮屈な体勢のまま過ごさなければならなかった長い時間からようやく解放されたと、誰よりも早く車から飛び降り、伸びをしたシュナ。
春の風は変わらず柔らかくシュナの黒髪をさわさわと撫できらびやかに揺らしたが、鼻を擽る色んなモノが混ざりあった匂いにシュナは鼻をくしゃりとさせ、不快感を示した。
森のなかで感じる土や緑の匂い、花畑や樹木から立ち上る蜜の甘やかな香りはなく。
人工的な匂いが漂う街は既にノアの隣へと帰りたい衝動に駆らせ、とりあえず急いで物資を調達しよう。とシュナは自身の担当になった物を買うため、街中へと向かった。
そうして先ほど毛皮などを換金し渡されたお金で直ぐさま自分の担当となった工具等を吟味しつつも滞りなく買ったシュナは、手元に残ったお金を見て、にやりと口元を弛めた。
余ったお金は使っても良い。というのが、唯一街に買い出しに行かされる奴の特権なのである。
それなのでシュナは、群れの子らに与える為のお菓子を買い(勿論正規の買い物リストにもお菓子はしっかり入っており、子ども達用にと既に担当のアストルが膨大な量のお菓子を購入している事だろう)、だがその間もシュナの頭のなかにあるのは勿論ノアの事ばかりで。
ノアと共に街へ行く機会が来た時はこのお店に連れて行こう。や、この景色を見せてやろう。等と思いながら、シュナは足早に街の中を歩いた。
そして誰よりも早く車に戻り、買った物を詰め込んだシュナが残りの時間はどうしようかと考えあぐね、車で昼寝でもするか? と思っていた、矢先。
ぐるりと見回した街の中に気になるお店があるのを見つけ、シュナは途端に表情を輝かせた。
***
カラン。と鳴り響く鈴の音と、『ありがとうございました~』という店員の声を背に、先程見つけた店から出てきた、シュナ。
その手はしっかりと買った商品が入っている袋を大事そうに抱えていて、シュナはこれを渡した時のノアがどんな反応をするかと今からワクワクしながら、歩き出した。
喜んでくれるだろうか。いや、きっと何を渡しても喜んでくれるだろうけど。
だなんて、瞳をキラキラとさせながらありがとうございますと言うノアを図々しく想像しながらシュナが誇らしげに歩いていたが、しかし不意にぶわりと突風のように濃いオメガの匂いを感じ、思わずうっと顔をしかめて辺りを見回した。
「あは、やっぱお兄さんめちゃくちゃタイプ」
バチッとシュナと目が合った瞬間、カフェのテラス席に座っていた男が笑う。
その怪しげな笑みと吐かれた台詞に、意図的にこの男がオメガのフェロモンを濃くさせたと瞬時に察したシュナは、深く眉間に皺を寄せた。
「……」
「お兄さんのアルファとしての匂いも顔も、俺好みだなぁ」
「……」
そう言った男が笑いながらシュナを見つめる。
その男の匂い立つような薔薇の香りが鼻を突き刺し、しかしそれはシュナにとって好みの匂いではなく、無視を決め込み通りすぎようとしたが、男は慌てて立ち上がってシュナの前に出てきた。
「ちょっとちょっと、無視はなくない?」
「……退いてくれ」
「わ~、声まで良い。やっぱアルファらしいね。群れで暮らしてる人でしょ? 野性的で、街に居ないタイプだもん」
「……その群れに帰るので、退いてくれ」
極力関わりたくもなければ会話もしたくなかったシュナが、……はぁ。と溜め息を吐きながらも二度目の言葉を告げ、男を見下ろす。
シュナよりも身長の低いその男は、冷たい態度を取るシュナをそれでも上目遣いで見つめたまま、身体をくねらせた。
「つれない事言わないでさ、お兄さん番いも居ないみたいだし、ちょっとだけ俺と遊んでから群れに帰っても良いんじゃない?」
「悪いがお前に興味がない」
「え~、俺けっこう魅力的だって言われるのに」
ショック。と口だけで悲しがり、そのくせ口元には笑みを浮かべたまま、シュナに近付いてくる男。
確かにシュナの好みの匂いではないがオメガとして強烈な事は明らかで、シュナにとっては今一分からないが、見目も美しい部類に入るのだろう。
だがシュナの中での一番好きな匂いも一番美しいと思うのもノアであり、それ以外に興味がないシュナは、断っているにも関わらず折れない男に溜め息を吐いたあと、腕を掴んできた男から身を捩った。
「触るな」
刺々しいシュナの声が、男に刺さる。
本来なら腕を千切り落としたい所だが、アルファとしてオメガにそんな酷い仕打ちが出来るわけもなく。
そんなシュナの態度に、ここまでして断られた事がないらしい男が驚きの表情をしたあと顔を徐々に赤くし、目を吊り上げたのが分かったが、シュナはそっちの気持ちなど知ったことか。と言うよう、口を開いた。
「遊びたいなら他の奴を誘え。俺はお前とは遊ばない」
そう端的にはっきりとした拒絶を示したシュナに、プライドを傷つけられたのか更に顔を赤らめた男が、睨み付けてくる。
だがそんな視線など痛くも痒くもなく、ようやく分かってくれたようだな。とシュナはその横を通り、しかし男をちらりと一瞥しては口を開いた。
「……楽しんでるならそれで良いと思うけど、こうやって手当たり次第声掛けてるといつか痛い目に合うかもしれないから、気を付けて」
やはり保護的なアルファ性が邪魔をし、非情になりきれないシュナがそう呟けば、またしても男が目を見開く。
その驚きにしかしシュナは立ち止まることなく歩けば、後ろから苦し紛れといった様な声で、男が捨て台詞を吐いてきた。
「っ、格好つけてんじゃねぇよ! 番いの居ないアルファなんだから、今ここで俺がヒートになれば襲ってくるくせに!」
だなんて叫ばれ、シュナは思わず、……は? とこめかみに青筋を立てながらピタリと足を止め、振り返ってしまった。
「……お前を、俺が襲う?」
「っ、な、何だよ……! その通りだろうが!」
凄むシュナの迫力にたじろぎ、だが負けじと噛みついてくる男。
それにシュナは更にピクッと怒りでこめかみを動かしたが、しかし深呼吸をしては怒りを何とか沈めた。
「……めでたい頭だな」
「っ、」
アルファやオメガという括りだけで個人の尊厳をぞんざいにしているその男に深い溜め息を吐いたシュナだったが、それから、もう話す価値もない。とまたしても踵を返す。
そんなシュナに男はやはり唇を噛み締め悔しそうな表情をし、シュナは男からの突き刺さるような視線を感じたが、それでももうその男は何も言ってこなかった。
……とんだ災難だった。とシュナが車まで戻ればもうアストルも戻っていて、またしても持って帰る物で溢れ始めている車内。
それを見たシュナは溜め息を吐いたが、アストルはというと、ニヤニヤしながら見てきては肩を組んできた。
「さすがシュナ、モテモテですね~」
「……見てたのか」
「それに俺にも分かるくらい凄い匂いしてる」
「……最悪だった」
あのオメガの男が意図的に放った匂いが、ベータのアストルにでさえ分かるほど、染み付いている。と指摘されたシュナがげんなりとした顔をしながら、知っている。と呟く。
だがその匂いに少しでも当てられなかった事が幸いだと自身の強さにシュナは誇らしげに思いつつ、しかし数日は取れないだろう匂いに顔をしかめ、またしても溜め息を吐いた。
それは叔父にもからかわれるほど強く、シュナはその度にひどく嫌そうな顔しては軽くあしらい、群れへと戻るぎゅうぎゅうの車に揺られながらも、早くノアに会いたい。と願うだけだった。
そんな災難に見舞われながらも、シュナ達がようやく森の入り口に戻り車を停めたのは、やはり群れから出て五日が経った頃だった。
だがそんな一週間にも満たない時間でさえ逸る気持ちを抑えられず、シュナはやはりいの一番に車から降りて持てるだけの荷物と、ノアの為に買ったプレゼントをしっかりと手にしながら、群れへの道を戻った。
秋の涼やかな風が、シュナの頬を擽る。
それはもうすぐノアに会えると紅潮する顔を少しだけ冷やしてくれ、だがシュナはやはり抑えきれず走りながら群れへと辿り着き、早朝にも関わらずいつも焚き火をする中央の広場で何やら話していたウォルとテアを見つけ、微笑んだ。
たらり、とシュナの顎先から汗が一滴流れては落ちる。
しかしシュナに気付いた二人は普段とは違い表情を明るくさせ喜び抱きついて来ようとはせず、何やら言いたげに駆けてくるだけで、その様子にシュナは眉間に皺を寄せた。
「ウォル、テア、ただい、」
「シュナさん、ノアがオメガになった」
とりあえず挨拶をしようと、ただいまと言い掛けたシュナを遮り、神妙な面持ちをしたテアがシュナに告げた、言葉。
それはシュナの脳内を殴るかのような衝撃で、シュナは手にしていた荷物全てをその場で落としてしまった。
──ノアが、オメガになった。
その言葉が途端にシュナの全身を固まらせ、腹の底を何故だかひやりと冷やしてゆく。
足元ではノアの為にと買ったプレゼントが落とした衝撃でガシャンッ。と無慈悲に割れた音が響き、だがシュナはそれをどこか遠くで聞いた気がした。
その物悲しい割れる音は辺りに虚しく裂いたあと、しんとした余韻だけを残し、消えてゆくばかりだった。
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