【完結】愛らしい二人

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後編

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 走ってきたせいで汗ばむ身体を秋風が撫で、訳もなく身震いしたシュナはそれから荷物もそのままに、オメガ小屋の近くまで向かった。

 番いの居ないシュナがオメガ小屋に近寄る事は勿論良しとされておらず、けれど逸る気持ちはどうしようもなくシュナが近付ける限界の場所で立ち往生していれば、後ろからやって来たテアとウォルが、そっとシュナの肩を抱いた。

「……シュナ兄さん……」
「シュナさん……」
「……いつなったんだ」
「シュナさん達が出ていってすぐ。だからもうそろそろ落ち着くと思うんだけど……」
「……」

 浮かない顔をしながら呟き、それから下唇を噛んだテアのその表情に何があったんだとシュナが眉間に皺を寄せてテアを見つめれば、観念したかのよう、テアが口を開いた。

「……ノア、泣いてた。怖いって、苦しいって、……シュナさん助けてって……」

 そう声を潜ませ言うテアにシュナは一度目を見開き、それからぐっと拳を握って下を向いた。

 しかめられた顔は、なぜノアの側に居てやれなかったのかと、そうすれば少しでも気持ちを落ち着かせてやる事が出来たかもしれない。という苦悩にまみれていて。
 しかし、もしノアがオメガになったその瞬間自分が隣に居れば、取り返しの付かない事になっていたかもしれない。という、恐怖もあった。
 守りたい。その想いは確かなのに、ノアがオメガになったと知った事に自身のアルファ性が腹を空かせた獣のよう内側で疼いたのを自覚していて、シュナは深い溜め息を吐きながら、ガリガリと首の後ろを掻いた。


──不意に、『俺がヒートになったら襲ってくるくせに!』と言ったあの男の声が、脳内に響く。

 あの時その言葉にシュナは怒り軽蔑すら覚えたが、しかしその対象がノアになった途端、あの男が言ったようノアを無理矢理にでも押さえ付け本能のまま襲い食らい付くしてしまうかもしれない。とまで考えてしまったシュナは、背筋に冷や汗が流れるのを感じた。

「シュナ兄さん、ここに居とく?」

 動く事もせず、思考の渦の中にいたシュナに、そっと声をかけてくるウォル。
 その声にハッとしたシュナは慌てて顔をあげ、それから小さくこくんと頷いた。
 シュナがここに居たとしても何も変わらないのは百も承知だが、ウォルもテアがオメガになった時ただひたすらに待ち続けていたので、その気持ちが痛いほど分かるのだろう。
 少しでも近くに居たいよね。という顔をしてはトントンとシュナの背中を叩き、それから二人はシュナが先程広場に落としたままだった荷物を拾って持っていっとくね。と声をかけてくれた。

「……あぁ、悪いな」
「ううん」
「あっ、……その、白くて小さい袋に入ったものだけ俺のなんだ。だからそれは俺の小屋に置いといてくれないか?」
「白くて小さい袋だね。分かったよ、シュナ兄さん」

 これくらいの袋なんだが。とジェスチャーするシュナに分かったと頷いた二人が、後で何か食べられるのを持ってくるね。と言い残し、去ってゆく。
 そんな二人の背中を眺めたあと、シュナはその日結局その場から一歩も動く事はなく、ノアが無事に戻って来てくれる事をただひたすらに待ち続けた。




***



 鳥も鳴かぬ、未だ薄暗い早朝。
 朝霧が群れを覆い、水分を含んだ空気が辺りを冷やすなか、シュナはやはりその場にずっと突っ立ったままだったが、しかしその瞬間、盛大に目を見開かせた。

 突然に、ぶわりと漂って来る甘い香り。

 それは紛れもなく、ノアの匂いで。
 だが、ノアの爽やかな桃の香りは今や、熟しきり蜜を滴らせるかのよう豊満でひたすらに甘く、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃にシュナが目を瞬かせ、口元を手で覆う。

 それは余りにもシュナにとって刺激的で、ヒートが終わったにも関わらずオメガとしてのノアの匂いの変化に堪らずごくりと唾を飲み込んだシュナはしかし、邪念を振り払うよう、必死にかぶりを振った。

 その香りは強く、濃く、ぐらりと精神が揺れるほどで、小さくハッとシュナは息を乱したが、向こうからロアンに背を支えられ俯きがちに歩いてくるノアを見て、口を開いた。


「……ノ、ノア」

 静かな朝を裂く、シュナの深い声。

 それは空気中に漂い四散し、そして名を呼ばれたノアもまた、オメガになりより強くシュナの匂いを感じているのか、遠くからでも小さく息を飲んだのが分かった。

 シュナを捉えた途端、へにゃりとノアの口の端が歪む。

 散々泣いたのか愛らしい瞳は腫れぼったく、ひどく疲れやつれているように見えるノアは一段と庇護欲を擽り、シュナは近づいてきたノアに無意識に腕を伸ばした。

「ノア」
「シュナさんっ……」

 腕を掴んだ掌から伝わる、ノアの体温。

 それがじわりと身を浸し、瞳を伏せたノアがこつんとシュナの肩に頭を乗せ何時ものようシュナの抱擁を望んでいるようだったが、しかしシュナが背に腕を回すよりも早く、突然、ノアがバッと離れた。

「っ、ノア……?」
「知らない人の匂いがする」

 明らかに表情を強張らせ、困惑したよう言ったノア。

 その瞳は傷付き、ひび割れているように見えて。
 そんな、信じられない。という風に目を見開くノアとは打って変わり、シュナは一瞬、なんの事だ。と眉間に皺を寄せたが、それが街で会ったオメガの匂いだと理解し、慌てて、何も無かった。と弁明するよう首を振った。

「何もない」
「……」

 あれから一生懸命あのオメガの匂いを振り落とすよう車の壁に体を擦り付けたり、立ち寄った湖で冷たさにぶるぶると震えながらも入念に水浴びをしたのだが、それでも微かにまだ残っていたらしいしつこさに、ほんとに最悪だ。とシュナが表情を険しくさせる。
 だがそんなシュナの努力虚しく、ノアは未だシュナの言葉に不信感を持っているような態度を取るだけで、それに眉を下げながらもノアに本当だと言い張りつつ、そんな事より。とシュナはノアの顔を窺った。

「それより、体調はどうだ?」
「……辛い、です」
「っ、そうだよな。寝れるなら、寝た方が良い」
「はい」

 シュナの質問に、街で何があったのかと顔を強張らせながらも、ノアが辛いと呟く。
 だがその言葉にも言い方にも刺を感じ、初めて会った時のように威嚇し警戒心剥き出しのノアにシュナが情けなくもたじろいでいれば、後ろからやって来たロアンがノアの肩を抱いた。

「ノア、今日からシュナと二人きりになったりシュナの部屋で寝るのは駄目だよ」

 そのロアンの言葉に、ハッとした表情をする二人。
 だがしかしロアンの言うように、求愛の為ではない状態で番いの居ないアルファとオメガが二人きりになるなど、危険すぎる事だとお互い理解もしていて。
 けれども実際自分たちがそんな対象になってしまうとは心の準備をしていなかったのか、今まで通り過ごす事は無理だと気付いた二人が、少しだけ顔を不安げに曇らせる。
 そんな二人を見て、もうお前達は子どもじゃないんだから。と呆れたようロアンが笑ったのが分かった。

「ノア、寝るならオメガ小屋で寝な」

 優しく、穏やかにロアンがノアをオメガ小屋に連れていくような仕草をし、二人の距離が離れる。
 それに、あっ。と目を合わせた二人の視線が重なり、バチッと火花が弾けたような感覚にシュナは陥ったが、しかしノアは唇を噛み目を伏せロアンに従うようシュナから離れていくだけで。
 その遠ざかってゆく細くて小さな背中を眺めたシュナはガリガリと首の後ろを掻いたあと、唇を噛みしめた。

 もうノアと共にあの花畑で昼寝をしたり、夜ノアを抱き締めながら眠ることは出来ない。

 そう思えば胸が軋むように痛く、だがしかしどうすれば良いのかやはり決めかねていて、シュナは小さく溜め息を吐きながらもそれから暫くただそこにぼんやりと佇んでいた。




 
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