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ダイラ デンズ湾/硲
「劣勢も劣勢じゃねえか、クソッタレ!」
フーヴァルがいくら悪態をついても、イルヴァたちには聞こえない。そもそもそんなことは、言われなくたってわかっているはずだ。
嵐は敵に味方していた。風は光箭軍の背後から吹き、神々の殴り合いが引き起こしている高波も、馬鹿でかい大砲や投石機を満載して喫水の深いカルタニアの船に有利に働いている。
連中は、艦隊を守るために前に出ていたダイラの戦艦から餌食にしていった。敵は足の遅い戦艦を数隻がかりで取り囲み、容赦ない砲撃を加えた。ダイラの大砲だって無能というわけではなかった。実際、光箭軍の船は何艘も沈んだ。だが、彼らは怯まなかった。怯むどころか、味方の船の残骸を押しのけるようにして次の船が前に出て、さらに容赦ない攻撃を加えた。ダイラには六十隻の戦艦があったが、そのうちの半数は壊滅した。普通、戦艦を一隻作るのには二年かかるが、原料となる木が育つのには百年を費やす。膨大な歳月が、たったの半日で海底に沈んだのだ。
〈嵐の民〉は味方の船の隙間という隙間を埋め尽くし、周囲の船の乗組員から手当たり次第に精気を吸い取っている。現実世界とは違って、命を奪うほどの力はない。しかし、戦いの最中に一瞬でも隙ができてしまえば、命を失うには十分だ。僅かな気の緩み、そこはかとない無気力が元で、何人もの船乗りが海に落ち、その骸に腐死者どもが群がった。
〈浪吼団〉たちも追い詰められていた。
嵐による転覆を避けるために、どの船も帆を畳んでいた。だがこの状態では、逃げようにも進もうにもままならない。足止めを食っている間にも、追い風を受けた光箭軍の船はどんどん距離を詰めてくる。猫のたまり場になだれ込んでくる馬の群れのように、その戦力差は圧倒的だ。
大砲だけならまだなんとかなった。船の横腹から弾を発射する構造上、船の左右にある射程範囲にさえ注意していれば良いからだ。だが、あの悪名高い手持ち筒と、巨大な投石機はやっかいだった。投石機は射程が広く、船の全方位を狙うことができる。銀の弾はもちろんのこと、着地すると火花を撒き散らして炸裂する弾まで用意されている。木造の船にとって、火気ほど怖ろしいものはない。敵の砲撃によってなすすべもなく炎上して、すでに何隻もの船が沈められていた。
船尾楼甲板に立つイルヴァは、歯を食いしばってこの戦況を見つめていた。フーヴァルも彼女の隣で、同じ光景を見ていた。
燃えさかる嵐の海を埋め尽くす残骸。その向こうにはまだ、数え切れないほどの船が控えている。
これが海賊の戦いだったら──もしも彼女に声が届いたなら、ケツを捲くって逃げるべきだと言っただろう。だがこの戦いでは、撤退は許されない。
イルヴァは意を決したように手摺りに拳を打ち付けると、叫んだ。
「撤退だ!」
「何!?」
フーヴァルは自分の耳を疑った。だが、命令はすでに船上に伝わり、さらに警鐘の音によって、他の船にも伝わった。
「全帆展開! 右舷一杯に開いて転回!」
そう言うと、イルヴァは船尾楼甲板を駆け下り、舵柄へと向かった。そこにはロッサーナ号の浮球儀があり、航海士のエスターと、もう一人の魔女がそれを覗き込んでいた。イルヴァは彼女たちに声をかけた。
「どう!?」
「もう少し潮が満ちれば、いける」エスターが言った。
「待ってられないね。方角は?」
エスターの隣に立つ、浅黒い肌の魔女──ラーニヤ・サーリヤが答える。「真西──でも待って。もう少しだけ」
「わかった」イルヴァは言った。
フーヴァルは驚いた。イルヴァがマタルの姉といい仲なのは知っていたが、こうして戦場で加勢してくれるとは思っていなかったのだ。
フーヴァルは、ロッサーナの浮球儀を覗き込んだ。しかし、何か特別な印が描いてあるわけでもない。
真西に向かえば、そこはマチェットフォードの入り江だ。あそこに何があるってんだ?
ラーニヤは目を閉じ、天を仰ぐように頭を後ろに倒した。閉じた瞼の下で眼球をしきりに動かしていると思ったら、かっと目を見開き、言った。
「今よ! 道が開く!」
そうだ。
たしか、ラーニヤ=サーリヤは遠見の魔女だ。常人と、多くのナドカには見えないほど遠くの物事を見る能力を持っている。
「なにか策があるんだな」フーヴァルは呟いた。
そうだとも。イルヴァ・シーゲレにはいつだって策がある。
だが──フーヴァルは歯を食いしばった。自分にもできることがあるかも知れないのに、その策がわからなければ加勢のしようがない。
ロッサーナ号は悲鳴のような軋みをあげ続けていた。当然だ。この嵐の中で帆を張るなんて馬鹿のすることだ。だがおかげで、船は瞬く間に方向を変えた。
「もうすぐよ!」ラーニヤが言った。
「このまま順走!」
エスターが叫ぶと、命令は掌帆長から掌帆手へと次々に伝わっていった。
「間に合うかどうか……もっと速さが欲しい」ラーニヤは、琥珀色の目に不思議な光を宿して虚空を見ていた。「これでは追いつかれてしまう。風があれば──」
「魔女たちは、もう風を呼べない」エスターが言った。「それに、これ以上吹いたら船がバラバラになっちまう」
「バラバラになってもいい。あとほんの少し陸地に近づければ」
フーヴァルは甲板へと駆け出した。左右に大きく揺れる甲板の上を跳ねるように走り、段索に飛びつくと、主檣の檣楼へと昇った。すぐ真上には嵐があり、脅かすような稲光が瞬いている。舷側を見下ろせば、もはや海面さえ見えないほどびっしりと、亡者どもの船がひしめいていた。背後には、黒々とした艦隊が間近に迫っている。連中の投石機や手持ち筒が、炸裂する弾丸を咥え込み、こちらに狙いを定めていた。
見ているうちに、そのうちの一隻から投石が放たれた。それはロッサーナのマストを飛び越え、進行方向よりわずかに左へ着水した。派手な水柱が立ち、甲板の半分がずぶ濡れになる。
「クソっ!」
この船はすでに、相手の射程範囲内にある。嵐のせいで敵の狙いが定まらないのは不幸中の幸いだが、これ以上の幸運をあてにはできない。あれが一発でもあたれば、ロッサーナ号は終わりだ。
だがいま、フーヴァルが見るべきは頭上でも眼下でも、背後でもない。
「西……西か」フーヴァルは、まるで自分を振り落とそうとするかのように揺れる檣楼にしがみついたまま、行く手を見た。
仲間の船の何隻かが、すでに先行して西を目指している。ロッサーナの進行方向には空白地帯となっている入り江があり、どうやらイルヴァは、そこに突っ込もうとしているようだった。
「よくわからねえが、わかったぜ」
フーヴァルは咳払いをして、立ちこめる暗雲を見つめた。
「ホンモノの嵐ってやつを見せてやるよ、くそ野郎ども」
そして、フーヴァルは歌った。
身のうちの嵐を呼び起こし、それを解き放つ喜びを声に乗せた。聞く者が聞けば、それは単なるがなり声にしか思えないかも知れない。耳に堪えない夷歌と評されるのかも知れない。だが、同じ心を──同じ怒りをもつ者にとっては、これは解放の歌だった。
遙か遠くで、海神が頭を巡らして、こちらを見た。
海神殿。お耳を拝借させてもらおうか。
雷鳴が轟く。その合図を待っていたかのように大粒の雨が降り出し、さっきよりも激しく、風が吹き始めた。
甲板から、イルヴァの雄叫びが聞こえてきた。
「風だ! やったよラニー!」彼女は言った。「まるで、あの馬鹿が呼んでくる嵐みたいだ!」
「誰が馬鹿だ、あいつ……」フーヴァルは内心で文句を言ったが、笑みを浮かべずにいるのは難しかった。
ロッサーナに先行していた仲間の船が、船体を横に向けて壁を作る。砲門は全て開かれ、追いかけてくる敵に狙いを定めている。ロッサーナが防壁の中央にあいた隙間を抜けると、味方による砲撃が始まった。
光箭軍は速度を緩めなかった。
ロッサーナの背後にいた敵船は、すぐさま縦列をつくって同じ隙間をすり抜けた。縦列に組み込まれなかった船は、そのまま降り注ぐ砲火のなかを進み、防壁を形作っていた〈浪吼団〉の船の横腹に突っ込んだ。
ロッサーナはさらに逃げた。
追っ手の船は、壁の隙間をこじ開けながらなおも追ってくる。いちど開いた差は再び縮まろうとしていた。フーヴァルのいるところからは、敵の投石機にあらたな弾が装填されるのが見えた。引き絞られた縄が切られれば、あれはこちらに飛んでくる。そうなればロッサーナは沈み、敵の上陸を阻むものはいなくなる。
光箭軍の船から、号令が鳴り響いた。
「撃て!」
その瞬間、背後に迫っていた敵の船が大きく揺れた。ギシギシと音を立てて、船上に居た者たちは全員甲板に突っ伏した。船から放たれた投石が狙いを外し、ロッサーナの右舷前方にぼとりと落ちる。
「何だ……?」
フーヴァルは身を乗り出し、眼前で起こっていることに目をこらした。一隻だけではない、二隻、三隻と、ロッサーナを追ってきた船たちが次々と速度を落とし、ついにはその場で止まってしまった。まるで見えない壁にぶち当たったかのように。喫水線は見る見る間に下がり、船体のほとんどが海上に出てしまっている。嵐の後押しを受けてこの海域に入り込んだ巨大な軍船は、どれもことごとく失速し、あるいは失速しきれずに、先行していた船のケツに頭を突っ込んだ。
敵の船団のうち、数十隻が座礁した。この入り江で浮いている船は、〈浪吼団〉の旗を掲げた小型帆船だけだ。
「真西……そうか」フーヴァルは呟いた。
イルヴァは、この浅瀬に向かって進んでいたのだ。
連中の狙いは上陸だ。必ず岸を目指す。だからこそ、敗走を装ってまでこの海域におびき寄せた。喫水の深い光箭軍の大型船は、浅瀬に乗り上げてしまえば身動きを封じられる。
甲板から聞こえる快哉に、フーヴァルは笑みを浮かべた。誰が最初に言いだしたのかはわからないが、うまいことを言ったものだ。
「イルヴァ・シーゲレにはいつだって策がある、か」
〈浪吼団〉の船団から飛び降りた船乗りたちが、腐肉漁りの烏のように、座礁した船を取り囲む。こうなってしまえば、身動きの取れない敵船の連中に勝ち目はない。
だが、敵の船の全てを捕えられたわけではなかった。この状況を見ていた艦隊は帆を畳み、それ以上の進行を止めた。フーヴァルは、無傷のまま浮かんでいる船団を見て舌打ちした。
この作戦にはひとつ大きな穴がある。
潮が満ちれば、座礁を免れた連中も再び動き出してしまうということだ。袋小路に逃げ込んだ〈浪吼団〉を、外から狙い撃ちにしさえすれば勝負は決する。敵は、ただその時を待ちさえすればいい。
「これは……時間稼ぎにしかならねえかもしれねえぞ、イルヴァ」
そして、一旦時間が尽きたら、こちらにはもう、勝ち目がない。彼女は賭けに出たのだろうか。この危機を間近に見たマチェットフォードの腰抜けどもが、加勢に転じてくれるという賭けに。
あまりに絶望的な博打だが……それでこそイルヴァだ。いままで、いくつもの賭けに勝ってきたからこそ、今の彼女があるのだから。
だからといって、運が向いてくるのをただ待っているわけにもいかない。マチェットフォードが寝ぼけているなら、横っ面を張ってでもたたき起こしに行くべきだろう。
あちら側の人間に姿が見えない状況で、自分に何ができるのかはわからないが──じっとしているよりはいい。
フーヴァルは檣楼を降り、甲板に降り立った。ここから街まではすぐだ。
舷縁を乗り越えて海に飛び込もうとした、その時だった。フーヴァルは、波間に浮かぶ船の残骸の合間を泳ぐものたちをみた。
彼らのうちの一人が、何かに気付いたように泳ぎを止めてふり返る。
フーヴァルは舷縁にしがみついて身を乗り出した。
「ナール!」
名前を呼ぶと、その人魚は嬉しそうに右手をあげて手を振ってきた。「兄さん!」
自分の姿はあちら側には見えていないと思っていたのに。だが彼は、間違いなく自分に話しかけている。
ナールは仲間に声をかけてから、フーヴァルの方へと近づいてきた。
「硲の領域にいるんだね」驚く風もなく、彼は言った。
「俺が見えるのか?」
すると、彼は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。自分にも同じ癖がある。こんなところで実感する事になるとは思っていなかった。
「僕は妖精だよ。硲は僕らの領域だ」
「そうだったな」フーヴァルは笑った。「なあ、ガルがどこに居るかわかるか?」
「陸にいる。あの、大きな街に」
ナールが手振りで、マチェットフォードの方角を示した。
「あんなところで何してやがるんだ……?」
「潮目が変わるのを、その目で見ている」ナールは言った。「そして、自分の使命と向き合っているよ」
背筋がひやりとした。
多くの命を救うために、それが必要なら、僕は……迷わずに行くつもりだ。
あいつはそう言った。
「精霊に抗うのは簡単なことじゃない」彼は言った。「どんな結果になっても、それを受け入れなくちゃね」
その言葉に応えるかのように、人魚の歌が聞こえてきた。
こんな戦場では、とても場違いに響く、美しく妙なる音色。この歌を知っている。何のための歌なのかも。
フーヴァルはナールを見た。
「おい、そんなことしたら──」
ナールはフーヴァルの胸の内を覗いたかのように微笑み、うなずいた。
「いいんだ」彼は言った。「僕らは、ずっと前から決めていたんだよ」
その時、大蒼洋のど真ん中に巨大な水柱が立った。
大砲や投石機の放った弾のせいではない。そんなものとは比べものにならないほど大きい。まるで塔。あるいは──海面に立ち上がった海竜。
「シドナ……!」
フーヴァルは、戦場のただ中に首を伸ばした海竜の姿を見上げた。
五年前、最後に目にした時から姿が変わっているのは一目瞭然だった。彼女の身体を覆っていた鱗のほとんどは剥がれ、輝きも失われていた。鰭は裂け、ところどころ穴があいている部分もある。満身創痍だった。
ナールは、その姿をじっと見つめていた。
「極の海の外では、彼女は長く生きられない」ナールは、静かな声で言った。「僕は止めたよ。でも、それでも行く、と」
極の海から遠く離れたこの海域が、容赦なく彼女を蝕んでいる。それに加え、いまや砲弾の全てがシドナに向けられている。鱗のほとんどを失った身体は、砲撃をただ受け止めるしかなかった。
それでも、力の差は歴然だった。海竜がのたうつと、巨大な艦隊はみるみるうちに破壊され、転覆していった。まるで、草葉の船を爪先で沈めるほど容易く。
あの場にいる船乗りたちにとって、シドナの姿は──咆哮は、悪夢そのものに違いない。だがフーヴァルは、彼女の声の中に痛みを聞いた。
彼女は戦っていたが、同時に激痛に悶えてもいる。砲弾の嵐に加え、〈嵐の民〉の亡者たちが彼女の身体を覆い尽くし、錆びた剣を突き立てているせいだ。
ナールは、その様子をじっと見ていた。彼は、目から涙を溢すことも、嗚咽を漏らすこともしなかった。彼はただ──一瞬たりとも目を離さなかった。
「僕らは、失ったものを嘆くことはしない」ナールは言った。「無垢なる妖精が悲しみを知ってしまったとき、彼らは滅びる。そして、二度と還らない」
ナールはフーヴァルを見上げた。
「王子サマによろしく。アーヴィン」ナールは微笑んだ。「人間はこういうとき、お幸せにねって言うんでしょ。だから──お幸せに。絶対生きて帰ってよ」
「待て!」
彼は待たなかったが、少しだけふり返ってから、イルカのような声を上げて笑った。それが別れの言葉の代わりだった。
ナールは他の人魚たちと合流すると、飛沫をあげながら泳ぎ去った。いままさに、海面を埋め尽くす劫火の中に沈みゆこうとするシドナへ向かって。
その時──
「アーヴィン!」
待ちわびた声に振り向くと、ゲラードがこちらに飛んでくるところだった。
彼の姿を見た瞬間、張り詰めていたものが切れそうになる。フーヴァルは両手を広げて、突っ込んでくるゲラードを抱き留めた。勢いのままに舷縁を乗り越え、二人して海に飛び込んでしまう。それでもフーヴァルは、ゲラードを放さなかった。抱き合ったまま荒ぶる波間で藻掻き、ようやく海面に顔を出す。一息つくやいなや、フーヴァルは叫んだ。
「どこに行ってやがったんだ!」
本当に尋ねたいのはそんなことではなかったのだが、口を突いて出た。そしてゲラードは、クソ真面目に答えた。
「マチェットフォードに」ゲラードは早口で言った。「あの町で、人びとが立ち上がるのを見ていたんだ。そんなことより──」
「なんで……」
フーヴァルの言葉を遮って、ゲラードが言った。
「そんなことより、ナールが。シドナが!」
最後まで言わなくても、わかる。
「ああ」
フーヴァルは、ゲラードの身体を抱きしめ、彼らの元へ飛び去ろうとするゲラードを止めた。
「行かないと! ナールが! 君の弟がいってしまう!」
「わかってる」フーヴァルは言った。「いかせてやれ」
ゲラードが振り向いて、フーヴァルを見つめた。「どうして……」
「それが妖精ってもんだ」
目の中の悲しみをみられてしまう前に、フーヴァルはゲラードを抱きしめた。強く、息ができなくなるほど。
ゲラードも、フーヴァルを抱きしめ返した。
「どうして、こんなことが起こるんだ」ゲラードは言った。「どうして止められないんだ……!」
それは、答えを求めない問いだった。
「お前のせいじゃねえよ」
つまらない慰めしか与えてやれないことを悔やみながらも、彼が生きて、自分の腕の中に居ることに感謝した。彼の温もりに、存在にしがみつくように、フーヴァルは両手に力を込めた。
ゲラードも、フーヴァルのシャツをぎゅっと握った。
「まだ、できることはある」
あ、と思った時には、もう遅かった。
ゲラードがそっと抱擁を逃れ、空へと飛び上がる。傍らには友がいた。羽ばたきながら、黒い目でこちらを見下ろしている。
「待て」
思った通りだ。いつかこいつは飛び去ってしまう──終わりの無い空の彼方へ。俺が決して、追いつけないところまで。
「やめろ、ガル」フーヴァルは言った。「やめてくれ。お前まで失えねえ」
「大丈夫だ」
目の奥に、涙がにじむ。
「何が大丈夫なんだよ……?」
ゲラードは困ったように微笑んだ。優男のくせして、この世の誰より強情なのがガルだ。彼の微笑みが、全てを語っていた。
どいつもこいつも、別れ際には同じ顔で笑いやがる。
「帰ってこいよ!」フーヴァルは怒鳴った。「覚悟なんか、ぜってえしてやらねえからな!」
ゲラードは頷いた。
「わかっているよ、アーヴィン」
そして彼は、死にゆく者たちの海へと飛び去っていった。
ダイラ デンズ湾/硲
「劣勢も劣勢じゃねえか、クソッタレ!」
フーヴァルがいくら悪態をついても、イルヴァたちには聞こえない。そもそもそんなことは、言われなくたってわかっているはずだ。
嵐は敵に味方していた。風は光箭軍の背後から吹き、神々の殴り合いが引き起こしている高波も、馬鹿でかい大砲や投石機を満載して喫水の深いカルタニアの船に有利に働いている。
連中は、艦隊を守るために前に出ていたダイラの戦艦から餌食にしていった。敵は足の遅い戦艦を数隻がかりで取り囲み、容赦ない砲撃を加えた。ダイラの大砲だって無能というわけではなかった。実際、光箭軍の船は何艘も沈んだ。だが、彼らは怯まなかった。怯むどころか、味方の船の残骸を押しのけるようにして次の船が前に出て、さらに容赦ない攻撃を加えた。ダイラには六十隻の戦艦があったが、そのうちの半数は壊滅した。普通、戦艦を一隻作るのには二年かかるが、原料となる木が育つのには百年を費やす。膨大な歳月が、たったの半日で海底に沈んだのだ。
〈嵐の民〉は味方の船の隙間という隙間を埋め尽くし、周囲の船の乗組員から手当たり次第に精気を吸い取っている。現実世界とは違って、命を奪うほどの力はない。しかし、戦いの最中に一瞬でも隙ができてしまえば、命を失うには十分だ。僅かな気の緩み、そこはかとない無気力が元で、何人もの船乗りが海に落ち、その骸に腐死者どもが群がった。
〈浪吼団〉たちも追い詰められていた。
嵐による転覆を避けるために、どの船も帆を畳んでいた。だがこの状態では、逃げようにも進もうにもままならない。足止めを食っている間にも、追い風を受けた光箭軍の船はどんどん距離を詰めてくる。猫のたまり場になだれ込んでくる馬の群れのように、その戦力差は圧倒的だ。
大砲だけならまだなんとかなった。船の横腹から弾を発射する構造上、船の左右にある射程範囲にさえ注意していれば良いからだ。だが、あの悪名高い手持ち筒と、巨大な投石機はやっかいだった。投石機は射程が広く、船の全方位を狙うことができる。銀の弾はもちろんのこと、着地すると火花を撒き散らして炸裂する弾まで用意されている。木造の船にとって、火気ほど怖ろしいものはない。敵の砲撃によってなすすべもなく炎上して、すでに何隻もの船が沈められていた。
船尾楼甲板に立つイルヴァは、歯を食いしばってこの戦況を見つめていた。フーヴァルも彼女の隣で、同じ光景を見ていた。
燃えさかる嵐の海を埋め尽くす残骸。その向こうにはまだ、数え切れないほどの船が控えている。
これが海賊の戦いだったら──もしも彼女に声が届いたなら、ケツを捲くって逃げるべきだと言っただろう。だがこの戦いでは、撤退は許されない。
イルヴァは意を決したように手摺りに拳を打ち付けると、叫んだ。
「撤退だ!」
「何!?」
フーヴァルは自分の耳を疑った。だが、命令はすでに船上に伝わり、さらに警鐘の音によって、他の船にも伝わった。
「全帆展開! 右舷一杯に開いて転回!」
そう言うと、イルヴァは船尾楼甲板を駆け下り、舵柄へと向かった。そこにはロッサーナ号の浮球儀があり、航海士のエスターと、もう一人の魔女がそれを覗き込んでいた。イルヴァは彼女たちに声をかけた。
「どう!?」
「もう少し潮が満ちれば、いける」エスターが言った。
「待ってられないね。方角は?」
エスターの隣に立つ、浅黒い肌の魔女──ラーニヤ・サーリヤが答える。「真西──でも待って。もう少しだけ」
「わかった」イルヴァは言った。
フーヴァルは驚いた。イルヴァがマタルの姉といい仲なのは知っていたが、こうして戦場で加勢してくれるとは思っていなかったのだ。
フーヴァルは、ロッサーナの浮球儀を覗き込んだ。しかし、何か特別な印が描いてあるわけでもない。
真西に向かえば、そこはマチェットフォードの入り江だ。あそこに何があるってんだ?
ラーニヤは目を閉じ、天を仰ぐように頭を後ろに倒した。閉じた瞼の下で眼球をしきりに動かしていると思ったら、かっと目を見開き、言った。
「今よ! 道が開く!」
そうだ。
たしか、ラーニヤ=サーリヤは遠見の魔女だ。常人と、多くのナドカには見えないほど遠くの物事を見る能力を持っている。
「なにか策があるんだな」フーヴァルは呟いた。
そうだとも。イルヴァ・シーゲレにはいつだって策がある。
だが──フーヴァルは歯を食いしばった。自分にもできることがあるかも知れないのに、その策がわからなければ加勢のしようがない。
ロッサーナ号は悲鳴のような軋みをあげ続けていた。当然だ。この嵐の中で帆を張るなんて馬鹿のすることだ。だがおかげで、船は瞬く間に方向を変えた。
「もうすぐよ!」ラーニヤが言った。
「このまま順走!」
エスターが叫ぶと、命令は掌帆長から掌帆手へと次々に伝わっていった。
「間に合うかどうか……もっと速さが欲しい」ラーニヤは、琥珀色の目に不思議な光を宿して虚空を見ていた。「これでは追いつかれてしまう。風があれば──」
「魔女たちは、もう風を呼べない」エスターが言った。「それに、これ以上吹いたら船がバラバラになっちまう」
「バラバラになってもいい。あとほんの少し陸地に近づければ」
フーヴァルは甲板へと駆け出した。左右に大きく揺れる甲板の上を跳ねるように走り、段索に飛びつくと、主檣の檣楼へと昇った。すぐ真上には嵐があり、脅かすような稲光が瞬いている。舷側を見下ろせば、もはや海面さえ見えないほどびっしりと、亡者どもの船がひしめいていた。背後には、黒々とした艦隊が間近に迫っている。連中の投石機や手持ち筒が、炸裂する弾丸を咥え込み、こちらに狙いを定めていた。
見ているうちに、そのうちの一隻から投石が放たれた。それはロッサーナのマストを飛び越え、進行方向よりわずかに左へ着水した。派手な水柱が立ち、甲板の半分がずぶ濡れになる。
「クソっ!」
この船はすでに、相手の射程範囲内にある。嵐のせいで敵の狙いが定まらないのは不幸中の幸いだが、これ以上の幸運をあてにはできない。あれが一発でもあたれば、ロッサーナ号は終わりだ。
だがいま、フーヴァルが見るべきは頭上でも眼下でも、背後でもない。
「西……西か」フーヴァルは、まるで自分を振り落とそうとするかのように揺れる檣楼にしがみついたまま、行く手を見た。
仲間の船の何隻かが、すでに先行して西を目指している。ロッサーナの進行方向には空白地帯となっている入り江があり、どうやらイルヴァは、そこに突っ込もうとしているようだった。
「よくわからねえが、わかったぜ」
フーヴァルは咳払いをして、立ちこめる暗雲を見つめた。
「ホンモノの嵐ってやつを見せてやるよ、くそ野郎ども」
そして、フーヴァルは歌った。
身のうちの嵐を呼び起こし、それを解き放つ喜びを声に乗せた。聞く者が聞けば、それは単なるがなり声にしか思えないかも知れない。耳に堪えない夷歌と評されるのかも知れない。だが、同じ心を──同じ怒りをもつ者にとっては、これは解放の歌だった。
遙か遠くで、海神が頭を巡らして、こちらを見た。
海神殿。お耳を拝借させてもらおうか。
雷鳴が轟く。その合図を待っていたかのように大粒の雨が降り出し、さっきよりも激しく、風が吹き始めた。
甲板から、イルヴァの雄叫びが聞こえてきた。
「風だ! やったよラニー!」彼女は言った。「まるで、あの馬鹿が呼んでくる嵐みたいだ!」
「誰が馬鹿だ、あいつ……」フーヴァルは内心で文句を言ったが、笑みを浮かべずにいるのは難しかった。
ロッサーナに先行していた仲間の船が、船体を横に向けて壁を作る。砲門は全て開かれ、追いかけてくる敵に狙いを定めている。ロッサーナが防壁の中央にあいた隙間を抜けると、味方による砲撃が始まった。
光箭軍は速度を緩めなかった。
ロッサーナの背後にいた敵船は、すぐさま縦列をつくって同じ隙間をすり抜けた。縦列に組み込まれなかった船は、そのまま降り注ぐ砲火のなかを進み、防壁を形作っていた〈浪吼団〉の船の横腹に突っ込んだ。
ロッサーナはさらに逃げた。
追っ手の船は、壁の隙間をこじ開けながらなおも追ってくる。いちど開いた差は再び縮まろうとしていた。フーヴァルのいるところからは、敵の投石機にあらたな弾が装填されるのが見えた。引き絞られた縄が切られれば、あれはこちらに飛んでくる。そうなればロッサーナは沈み、敵の上陸を阻むものはいなくなる。
光箭軍の船から、号令が鳴り響いた。
「撃て!」
その瞬間、背後に迫っていた敵の船が大きく揺れた。ギシギシと音を立てて、船上に居た者たちは全員甲板に突っ伏した。船から放たれた投石が狙いを外し、ロッサーナの右舷前方にぼとりと落ちる。
「何だ……?」
フーヴァルは身を乗り出し、眼前で起こっていることに目をこらした。一隻だけではない、二隻、三隻と、ロッサーナを追ってきた船たちが次々と速度を落とし、ついにはその場で止まってしまった。まるで見えない壁にぶち当たったかのように。喫水線は見る見る間に下がり、船体のほとんどが海上に出てしまっている。嵐の後押しを受けてこの海域に入り込んだ巨大な軍船は、どれもことごとく失速し、あるいは失速しきれずに、先行していた船のケツに頭を突っ込んだ。
敵の船団のうち、数十隻が座礁した。この入り江で浮いている船は、〈浪吼団〉の旗を掲げた小型帆船だけだ。
「真西……そうか」フーヴァルは呟いた。
イルヴァは、この浅瀬に向かって進んでいたのだ。
連中の狙いは上陸だ。必ず岸を目指す。だからこそ、敗走を装ってまでこの海域におびき寄せた。喫水の深い光箭軍の大型船は、浅瀬に乗り上げてしまえば身動きを封じられる。
甲板から聞こえる快哉に、フーヴァルは笑みを浮かべた。誰が最初に言いだしたのかはわからないが、うまいことを言ったものだ。
「イルヴァ・シーゲレにはいつだって策がある、か」
〈浪吼団〉の船団から飛び降りた船乗りたちが、腐肉漁りの烏のように、座礁した船を取り囲む。こうなってしまえば、身動きの取れない敵船の連中に勝ち目はない。
だが、敵の船の全てを捕えられたわけではなかった。この状況を見ていた艦隊は帆を畳み、それ以上の進行を止めた。フーヴァルは、無傷のまま浮かんでいる船団を見て舌打ちした。
この作戦にはひとつ大きな穴がある。
潮が満ちれば、座礁を免れた連中も再び動き出してしまうということだ。袋小路に逃げ込んだ〈浪吼団〉を、外から狙い撃ちにしさえすれば勝負は決する。敵は、ただその時を待ちさえすればいい。
「これは……時間稼ぎにしかならねえかもしれねえぞ、イルヴァ」
そして、一旦時間が尽きたら、こちらにはもう、勝ち目がない。彼女は賭けに出たのだろうか。この危機を間近に見たマチェットフォードの腰抜けどもが、加勢に転じてくれるという賭けに。
あまりに絶望的な博打だが……それでこそイルヴァだ。いままで、いくつもの賭けに勝ってきたからこそ、今の彼女があるのだから。
だからといって、運が向いてくるのをただ待っているわけにもいかない。マチェットフォードが寝ぼけているなら、横っ面を張ってでもたたき起こしに行くべきだろう。
あちら側の人間に姿が見えない状況で、自分に何ができるのかはわからないが──じっとしているよりはいい。
フーヴァルは檣楼を降り、甲板に降り立った。ここから街まではすぐだ。
舷縁を乗り越えて海に飛び込もうとした、その時だった。フーヴァルは、波間に浮かぶ船の残骸の合間を泳ぐものたちをみた。
彼らのうちの一人が、何かに気付いたように泳ぎを止めてふり返る。
フーヴァルは舷縁にしがみついて身を乗り出した。
「ナール!」
名前を呼ぶと、その人魚は嬉しそうに右手をあげて手を振ってきた。「兄さん!」
自分の姿はあちら側には見えていないと思っていたのに。だが彼は、間違いなく自分に話しかけている。
ナールは仲間に声をかけてから、フーヴァルの方へと近づいてきた。
「硲の領域にいるんだね」驚く風もなく、彼は言った。
「俺が見えるのか?」
すると、彼は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。自分にも同じ癖がある。こんなところで実感する事になるとは思っていなかった。
「僕は妖精だよ。硲は僕らの領域だ」
「そうだったな」フーヴァルは笑った。「なあ、ガルがどこに居るかわかるか?」
「陸にいる。あの、大きな街に」
ナールが手振りで、マチェットフォードの方角を示した。
「あんなところで何してやがるんだ……?」
「潮目が変わるのを、その目で見ている」ナールは言った。「そして、自分の使命と向き合っているよ」
背筋がひやりとした。
多くの命を救うために、それが必要なら、僕は……迷わずに行くつもりだ。
あいつはそう言った。
「精霊に抗うのは簡単なことじゃない」彼は言った。「どんな結果になっても、それを受け入れなくちゃね」
その言葉に応えるかのように、人魚の歌が聞こえてきた。
こんな戦場では、とても場違いに響く、美しく妙なる音色。この歌を知っている。何のための歌なのかも。
フーヴァルはナールを見た。
「おい、そんなことしたら──」
ナールはフーヴァルの胸の内を覗いたかのように微笑み、うなずいた。
「いいんだ」彼は言った。「僕らは、ずっと前から決めていたんだよ」
その時、大蒼洋のど真ん中に巨大な水柱が立った。
大砲や投石機の放った弾のせいではない。そんなものとは比べものにならないほど大きい。まるで塔。あるいは──海面に立ち上がった海竜。
「シドナ……!」
フーヴァルは、戦場のただ中に首を伸ばした海竜の姿を見上げた。
五年前、最後に目にした時から姿が変わっているのは一目瞭然だった。彼女の身体を覆っていた鱗のほとんどは剥がれ、輝きも失われていた。鰭は裂け、ところどころ穴があいている部分もある。満身創痍だった。
ナールは、その姿をじっと見つめていた。
「極の海の外では、彼女は長く生きられない」ナールは、静かな声で言った。「僕は止めたよ。でも、それでも行く、と」
極の海から遠く離れたこの海域が、容赦なく彼女を蝕んでいる。それに加え、いまや砲弾の全てがシドナに向けられている。鱗のほとんどを失った身体は、砲撃をただ受け止めるしかなかった。
それでも、力の差は歴然だった。海竜がのたうつと、巨大な艦隊はみるみるうちに破壊され、転覆していった。まるで、草葉の船を爪先で沈めるほど容易く。
あの場にいる船乗りたちにとって、シドナの姿は──咆哮は、悪夢そのものに違いない。だがフーヴァルは、彼女の声の中に痛みを聞いた。
彼女は戦っていたが、同時に激痛に悶えてもいる。砲弾の嵐に加え、〈嵐の民〉の亡者たちが彼女の身体を覆い尽くし、錆びた剣を突き立てているせいだ。
ナールは、その様子をじっと見ていた。彼は、目から涙を溢すことも、嗚咽を漏らすこともしなかった。彼はただ──一瞬たりとも目を離さなかった。
「僕らは、失ったものを嘆くことはしない」ナールは言った。「無垢なる妖精が悲しみを知ってしまったとき、彼らは滅びる。そして、二度と還らない」
ナールはフーヴァルを見上げた。
「王子サマによろしく。アーヴィン」ナールは微笑んだ。「人間はこういうとき、お幸せにねって言うんでしょ。だから──お幸せに。絶対生きて帰ってよ」
「待て!」
彼は待たなかったが、少しだけふり返ってから、イルカのような声を上げて笑った。それが別れの言葉の代わりだった。
ナールは他の人魚たちと合流すると、飛沫をあげながら泳ぎ去った。いままさに、海面を埋め尽くす劫火の中に沈みゆこうとするシドナへ向かって。
その時──
「アーヴィン!」
待ちわびた声に振り向くと、ゲラードがこちらに飛んでくるところだった。
彼の姿を見た瞬間、張り詰めていたものが切れそうになる。フーヴァルは両手を広げて、突っ込んでくるゲラードを抱き留めた。勢いのままに舷縁を乗り越え、二人して海に飛び込んでしまう。それでもフーヴァルは、ゲラードを放さなかった。抱き合ったまま荒ぶる波間で藻掻き、ようやく海面に顔を出す。一息つくやいなや、フーヴァルは叫んだ。
「どこに行ってやがったんだ!」
本当に尋ねたいのはそんなことではなかったのだが、口を突いて出た。そしてゲラードは、クソ真面目に答えた。
「マチェットフォードに」ゲラードは早口で言った。「あの町で、人びとが立ち上がるのを見ていたんだ。そんなことより──」
「なんで……」
フーヴァルの言葉を遮って、ゲラードが言った。
「そんなことより、ナールが。シドナが!」
最後まで言わなくても、わかる。
「ああ」
フーヴァルは、ゲラードの身体を抱きしめ、彼らの元へ飛び去ろうとするゲラードを止めた。
「行かないと! ナールが! 君の弟がいってしまう!」
「わかってる」フーヴァルは言った。「いかせてやれ」
ゲラードが振り向いて、フーヴァルを見つめた。「どうして……」
「それが妖精ってもんだ」
目の中の悲しみをみられてしまう前に、フーヴァルはゲラードを抱きしめた。強く、息ができなくなるほど。
ゲラードも、フーヴァルを抱きしめ返した。
「どうして、こんなことが起こるんだ」ゲラードは言った。「どうして止められないんだ……!」
それは、答えを求めない問いだった。
「お前のせいじゃねえよ」
つまらない慰めしか与えてやれないことを悔やみながらも、彼が生きて、自分の腕の中に居ることに感謝した。彼の温もりに、存在にしがみつくように、フーヴァルは両手に力を込めた。
ゲラードも、フーヴァルのシャツをぎゅっと握った。
「まだ、できることはある」
あ、と思った時には、もう遅かった。
ゲラードがそっと抱擁を逃れ、空へと飛び上がる。傍らには友がいた。羽ばたきながら、黒い目でこちらを見下ろしている。
「待て」
思った通りだ。いつかこいつは飛び去ってしまう──終わりの無い空の彼方へ。俺が決して、追いつけないところまで。
「やめろ、ガル」フーヴァルは言った。「やめてくれ。お前まで失えねえ」
「大丈夫だ」
目の奥に、涙がにじむ。
「何が大丈夫なんだよ……?」
ゲラードは困ったように微笑んだ。優男のくせして、この世の誰より強情なのがガルだ。彼の微笑みが、全てを語っていた。
どいつもこいつも、別れ際には同じ顔で笑いやがる。
「帰ってこいよ!」フーヴァルは怒鳴った。「覚悟なんか、ぜってえしてやらねえからな!」
ゲラードは頷いた。
「わかっているよ、アーヴィン」
そして彼は、死にゆく者たちの海へと飛び去っていった。
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