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眼下には戦いがあった。なにか大きなものにしがみつき、突き動かされるままに彼らは戦っている。
友は敵意を向け合う者たちに傷つき、情けを持たぬ剣の響きに傷つき、無造作に損なわれてゆく命に傷ついていた。炎に飲み込まれ、省みられることもなく死んでゆくものの叫びに傷ついていた。
ゲラードには、精霊の想いがわかった。この戦乱を、今すぐに終わらせたいのだ。今すぐに終わらせて、二度と争いなど起こらないようにしたいのだ、と。
そのためには、全てを『手放す』しかない。
憎しみや悲しみ、己の信念や力。生そのもの。そうした執着を手放し、空っぽにするより他にないのだと、友は伝えようとしている。いままでずっと、それを伝えようとしてきたのだ──戦の足音と共に目覚めた精霊だからこそ。
今ようやく、ゲラードにも、友が望む世界が見える気がした。
「君は……手放すことを求める神になろうとしているんだね」
ゲラードが言うと、友が姿を現した。燕のような姿で、ゲラードの隣を滑空している。
ひとは他者を傷つけてしまう。それは己を愛し、自らが味わった苦しみに拘泥する性ゆえだ。憎しみや悲しみ──執着を手放した人びとで満ちる世界は、きっと平和だろう。さざ波さえ立たない凪の海のように。
けれど同時に、それは空虚な世界だとも思う。
己を愛する気持ちを持てない者は、他者をも愛することもできないから。己のために戦えない者は、きっと他者のために戦うこともできないから。
よりよい明日を求める戦いさえこの世から消えたら、僕らを待つのは永遠の凪だ。
最後の最後まで生き抜く道を捜しつづける。それが本当の覚悟ってやつだ。
アーヴィン・ライエル。彼と出会わなかったら──彼を愛し、愛されることを知らなかったなら、手放す神を受け入れていたかもしれない。けれど、無理だ。彼を諦めることはできない。そんなことは──正しいと思えない。
凪いだ海に浮かぶ船は、どこにも辿り着くことはできない。
手を差し伸べなければ。戦わなくては。
「行くよ、友」
目指すべき場所は決まっている。戦火のひときわ大きな場所──海竜が戦っている、あの場所だ。
シドナの身体は、いまや数万とも見える亡者に覆われていた。もはや彼女は立ち上がることもできない。海面で微かにのたうちながら、襲い来る砲弾と亡者の両方を振り払おうとしていたが、それさえも、死の間際の痙攣のように弱々しい。切り裂かれた身体から溢れる血の匂いで、あたりは息が詰まりそうなほどだった。
ゲラードは、シドナの身体のすぐ傍を飛んだ。折り重なる亡者たちのなかに、ひとりの男を探していた。
亡者たちはただ闇雲に、シドナの身体を切りつけていた。妄執じみた憎しみがあるばかりで、守るべきものを持たない。これほどおぞましい行為を、ゲラードは見たことがなかった。
空っぽの亡者たちを突き動かしているのは、たった一人の男だ。
「あそこだ……!」
折り重なる腐死者たちの中に見覚えのある姿を見たゲラードは、シドナの頭に向かって飛んだ。
彼がいた。売国奴ビョルン。千年前の裏切りによって生ける屍に変えられてしまった男。この〈嵐の民〉を率いる亡者の長だ。むっとするような血の匂いに加え、腐敗臭が喉にまで絡みつく。
「二度死んでも、まだ何かにしがみつこうとしているのか」
彼は、あちら側の世界で滅びた。
ヴェルギルから奪ったものをひとつ残らず奪い返された彼はいま、やみくもに別の富を求めているようだ。ボロボロになった皮膚の内側で、沈んだ軍船から盗んだ財宝がじゃらじゃらと音を立てている。朽ちかけた装束からは、シドナの身体から剥がされた鱗が無造作にぶら下がっていた。骸の肉体に、どんな王侯貴族も敵わないほどの富がかき集められている。それなのに、虚しさしか感じられなかった。
ゲラードが近づくと、ビョルンが荒廃した顔を向けてきた。そして、自分の身の回りに散らばっていた鱗を掻き抱くと、言葉を発することを忘れてしまった喉から、身も凍るような叫び声を迸らせた。
「ビョルン」
ゲラードは、彼の目の前に降り立った。
「あなたは、シルリク王によって解放された」
背中から友が浮かび上がり、巨大な燕の姿となって、ゲラードの肩に乗った。
「もうこれ以上、何かを求める必要はない」
ビョルンが剣の切っ先をゲラードに向ける。だが、ゲラードは怯まなかった。さび付いた青銅の剣を指先でどかして、さらにビョルンへと近づいた。
「あなたの執着──それこそが、あなたの苦しみだ。でも、もういいんだ。苦しみに拘泥することはないんだ」
ゲラードは、ビョルンの頭に手を置いた。
「あなた自身で終わらせるんだ」そして、双眸に宿る青い炎を見つめた。「そうすれば、楽になる」
ビョルンの炎が、突きつけられた切っ先が、微かに揺らぐ。
「手放すんだ、ビョルン」ゲラードは言った。「もう……全て終わったよ」
ビョルンの眼に宿る炎が、瞬く。そして彼は……剣を握っていた手を、ゆっくりと開いた。
古びた剣は彼の手を離れ、遙か眼下の海へと落ちていった。 それが海面に迎え入れられる音を耳にしただろうか。
ビョルンの眼窩で燃える炎が小さくなり……やがて消えた。
ため息のような音を立てて、彼の身体が崩れてゆく。青い炎が彼の身体をじわじわと食むと、輪郭はそこから失われていった。燃え尽きた炭が、灰となって崩れ落ちてゆくのを見るようだった。
シドナにしがみついていた亡者たちも、それに続いた。
一瞬、視界を埋め尽くすほどの灰が大気に充満し──消えた。夏に降る雪のように儚く、そして跡形もなく。
それを見届けた瞬間、ゲラードの意識が遠のいた。
力尽きた、そう、それ以上にしっくりくる言葉はない。
視界が暗くなる直前、友が長々と鳴いた。
「僕は、君には名前をつけないよ」ゲラードは、そっと言った。「名前という檻は、君には狭すぎる。君はきっと──どこまでも自由に、無限に広がってゆくべきなんだ」
友は小首をかしげて、ゲラードの声にじっと耳を傾けた。
「君を神にはしない」ゲラードは言った。「高いところから地上を見下ろして、掟を課すような信仰は……僕らには似合わない。そう思わないか?」
友は反対側に首をかしげた。もっとよく音を拾おうとしているみたいに。
「それでも君は……僕らは、世界を変えてゆけると思う。皆と同じ目線で、少しずつ。僕は君に、そういう存在になって欲しい。神よりももっと優しい──でも、人に平穏を与えられる……心そのもののような存在に」
友は、ゲラードを見つめたまま、何かを考え込むような目をしている。
ゲラードは、友に手を差し伸べた。
友は一声さえずると、ゲラードの手の上に羽を休めた。そして眠るように、溶けるように、掌の中に消えた。
ああ。精霊が、友が、僕を認めてくれたのだ。
「ありがとう」
ゲラードは囁き、そっと手を握った。
そして、海に向かって真っ逆さまに落ちた。硬い波に衝突した身体を、柔らかな海水が包み込む。途方もない安堵に抱かれて、ゲラードは気を失った。
「ガル!」
思い切り頬を張られた拍子に、水を吐き出す。
口は当然のこと、鼻や耳からも水が溢れて、息を吸い込めない苦しさに、もう一度気が遠くなりかけた。
唐突に、喉を塞いでいた水が消えた。喘ぎ、咳き込み、また喘いで、目からは止めどなく涙が流れた。蘇りの苦痛を味わっている間中ずっと、フーヴァルがゲラードの背中を撫でていた。
「あ、ありがとう」ゲラードは、しわがれた声でなんとか口にした。「ありがとう、アーヴィン……」
それだけで伝わっただろうか。彼という執着があったからこそ、自分は戻ってこられたのだと。
珍しく、彼は悪態をつかなかった。何も言わずに、ただゲラードの背中を擦っていた。
二人は、海に浮かんだ船の瓦礫の上にいた。
戦いは遠く、大砲の音も、喊声も、ほとんどくぐもった音しか聞こえない。
ゲラードは顔を上げた。「皆は……?」
「イルヴァたちは無事だ……ほとんどはな。マチェットフォードの連中が、今更やる気をだしたらしい。間一髪だった」
彼が見た方角に頭を向けると、港の砦で無数の砲火があがっているのが見えた。力を削がれた艦隊には、あの街の防衛を崩すことはできないだろう。
「シドナは……」
フーヴァルの顔を見上げる。答えは聞くまでもなかった。彼はゆっくりと、首を横に振った。
「遅すぎた」ゲラードは、再びこみ上げた涙に息を詰まらせた。「アーヴィン。僕には救えなかった」
「救ったさ」フーヴァルは言った。
「でも……」
その時、波の音に乗って、かすかな歌声が聞こえてきた。
それは、空耳かと思うほど短い旋律だった。苦痛も悲哀も、遺恨もなく、世界と溶け合い一つになることを喜ぶような……美しい音楽だった。
ゲラードを抱くフーヴァルの腕に力がこもる。
彼は、かすかな声で、たった一言囁いた。
「あばよ、兄弟」
妖精たちの死を見届けて、二人はマチェットフォードの岸を目指した。戦乱の爪痕は生々しく、血を流す傷跡を間近に見ているようだった。デンズ湾の戦いも熾烈を極めたけれど、今回は、それよりずっとひどい。
フーヴァルとゲラードは言葉もなく、ただ泳ぎ続けた。
間もなく岸に辿り着くというときだった。
頭を殴られたような衝撃を伴って、大音声の哄笑が聞こえた。
「な、なんだ!?」
フーヴァルとともに頭を巡らすと、恐るべき光景が見えた。
大蒼洋の彼方で終わらない戦いを繰り広げていた海神と剣神の戦いに、ようやく決着がついたのだ。
海神が、剣神の首級を掲げて笑っていた。一方海神の身体は、剣神の身体そのものでもある無数の剣によって貫かれている。
海神は笑った。笑って、笑いながら、ゆっくりと崩れていった。いまや一心同体となった剣神の身体もろともに。
「相打ちかよ……」フーヴァルが言った。
その時、呻くような声を上げて世界が震えた。
二柱の神が、永遠にも思える時間をかけて、ゆっくりと頽れる。斃れた身体を受け止めるように巨大な波が盛り上がり、みるみるうちに山のように高く聳えた。
「まずい」フーヴァルが、食いしばった歯の間から言った。「ああ、クソ──これはマズい」
「一体何が──」言いかけたゲラードは、思わず息を呑んだ。
海が動いている。岸から沖に向かって、もの凄い勢いで波がひいている。ゲラードとフーヴァルも、その流れに抗えずに引きずられた。
「大波が来るぞ……!」フーヴァルは言った。
「僕に掴まって!」
ゲラードは、友の翼で空に飛び上がった。フーヴァルが目を瞠る。
「お前、その羽根──」
「友が力を貸してくれているんだ」
フーヴァルは長いため息をついた。「助かったぜ」
海が引く勢いは怖ろしいほどだった。船の瓦礫も、まだ辛うじて海上に浮かんでいる戦艦もまきこみ、遠く沖へとひきずられていった。いまや、マチェットフォードの入り江からデンズ湾の中程までの海域が、海底を露出させていた。
海嘯が来る。
「こんなデカい波、ダイラとエイルの半分が海に飲まれたっておかしかねえ」
オルノアを海底に沈めた天変地異。それと同じものが、ふたたび現実に起ころうとしている。
「どうすれば止められる……!?」
フーヴァルの横顔が、その問いの答えを如実に語っていた。あまりにも明らかで、言葉にするまでもない。
だが、彼は言った。
「無理だ」そして、支えを求めるように、ゲラードの腕をぎゅっと掴んだ。「無理だ……誰にも止められねえ」
眼下には戦いがあった。なにか大きなものにしがみつき、突き動かされるままに彼らは戦っている。
友は敵意を向け合う者たちに傷つき、情けを持たぬ剣の響きに傷つき、無造作に損なわれてゆく命に傷ついていた。炎に飲み込まれ、省みられることもなく死んでゆくものの叫びに傷ついていた。
ゲラードには、精霊の想いがわかった。この戦乱を、今すぐに終わらせたいのだ。今すぐに終わらせて、二度と争いなど起こらないようにしたいのだ、と。
そのためには、全てを『手放す』しかない。
憎しみや悲しみ、己の信念や力。生そのもの。そうした執着を手放し、空っぽにするより他にないのだと、友は伝えようとしている。いままでずっと、それを伝えようとしてきたのだ──戦の足音と共に目覚めた精霊だからこそ。
今ようやく、ゲラードにも、友が望む世界が見える気がした。
「君は……手放すことを求める神になろうとしているんだね」
ゲラードが言うと、友が姿を現した。燕のような姿で、ゲラードの隣を滑空している。
ひとは他者を傷つけてしまう。それは己を愛し、自らが味わった苦しみに拘泥する性ゆえだ。憎しみや悲しみ──執着を手放した人びとで満ちる世界は、きっと平和だろう。さざ波さえ立たない凪の海のように。
けれど同時に、それは空虚な世界だとも思う。
己を愛する気持ちを持てない者は、他者をも愛することもできないから。己のために戦えない者は、きっと他者のために戦うこともできないから。
よりよい明日を求める戦いさえこの世から消えたら、僕らを待つのは永遠の凪だ。
最後の最後まで生き抜く道を捜しつづける。それが本当の覚悟ってやつだ。
アーヴィン・ライエル。彼と出会わなかったら──彼を愛し、愛されることを知らなかったなら、手放す神を受け入れていたかもしれない。けれど、無理だ。彼を諦めることはできない。そんなことは──正しいと思えない。
凪いだ海に浮かぶ船は、どこにも辿り着くことはできない。
手を差し伸べなければ。戦わなくては。
「行くよ、友」
目指すべき場所は決まっている。戦火のひときわ大きな場所──海竜が戦っている、あの場所だ。
シドナの身体は、いまや数万とも見える亡者に覆われていた。もはや彼女は立ち上がることもできない。海面で微かにのたうちながら、襲い来る砲弾と亡者の両方を振り払おうとしていたが、それさえも、死の間際の痙攣のように弱々しい。切り裂かれた身体から溢れる血の匂いで、あたりは息が詰まりそうなほどだった。
ゲラードは、シドナの身体のすぐ傍を飛んだ。折り重なる亡者たちのなかに、ひとりの男を探していた。
亡者たちはただ闇雲に、シドナの身体を切りつけていた。妄執じみた憎しみがあるばかりで、守るべきものを持たない。これほどおぞましい行為を、ゲラードは見たことがなかった。
空っぽの亡者たちを突き動かしているのは、たった一人の男だ。
「あそこだ……!」
折り重なる腐死者たちの中に見覚えのある姿を見たゲラードは、シドナの頭に向かって飛んだ。
彼がいた。売国奴ビョルン。千年前の裏切りによって生ける屍に変えられてしまった男。この〈嵐の民〉を率いる亡者の長だ。むっとするような血の匂いに加え、腐敗臭が喉にまで絡みつく。
「二度死んでも、まだ何かにしがみつこうとしているのか」
彼は、あちら側の世界で滅びた。
ヴェルギルから奪ったものをひとつ残らず奪い返された彼はいま、やみくもに別の富を求めているようだ。ボロボロになった皮膚の内側で、沈んだ軍船から盗んだ財宝がじゃらじゃらと音を立てている。朽ちかけた装束からは、シドナの身体から剥がされた鱗が無造作にぶら下がっていた。骸の肉体に、どんな王侯貴族も敵わないほどの富がかき集められている。それなのに、虚しさしか感じられなかった。
ゲラードが近づくと、ビョルンが荒廃した顔を向けてきた。そして、自分の身の回りに散らばっていた鱗を掻き抱くと、言葉を発することを忘れてしまった喉から、身も凍るような叫び声を迸らせた。
「ビョルン」
ゲラードは、彼の目の前に降り立った。
「あなたは、シルリク王によって解放された」
背中から友が浮かび上がり、巨大な燕の姿となって、ゲラードの肩に乗った。
「もうこれ以上、何かを求める必要はない」
ビョルンが剣の切っ先をゲラードに向ける。だが、ゲラードは怯まなかった。さび付いた青銅の剣を指先でどかして、さらにビョルンへと近づいた。
「あなたの執着──それこそが、あなたの苦しみだ。でも、もういいんだ。苦しみに拘泥することはないんだ」
ゲラードは、ビョルンの頭に手を置いた。
「あなた自身で終わらせるんだ」そして、双眸に宿る青い炎を見つめた。「そうすれば、楽になる」
ビョルンの炎が、突きつけられた切っ先が、微かに揺らぐ。
「手放すんだ、ビョルン」ゲラードは言った。「もう……全て終わったよ」
ビョルンの眼に宿る炎が、瞬く。そして彼は……剣を握っていた手を、ゆっくりと開いた。
古びた剣は彼の手を離れ、遙か眼下の海へと落ちていった。 それが海面に迎え入れられる音を耳にしただろうか。
ビョルンの眼窩で燃える炎が小さくなり……やがて消えた。
ため息のような音を立てて、彼の身体が崩れてゆく。青い炎が彼の身体をじわじわと食むと、輪郭はそこから失われていった。燃え尽きた炭が、灰となって崩れ落ちてゆくのを見るようだった。
シドナにしがみついていた亡者たちも、それに続いた。
一瞬、視界を埋め尽くすほどの灰が大気に充満し──消えた。夏に降る雪のように儚く、そして跡形もなく。
それを見届けた瞬間、ゲラードの意識が遠のいた。
力尽きた、そう、それ以上にしっくりくる言葉はない。
視界が暗くなる直前、友が長々と鳴いた。
「僕は、君には名前をつけないよ」ゲラードは、そっと言った。「名前という檻は、君には狭すぎる。君はきっと──どこまでも自由に、無限に広がってゆくべきなんだ」
友は小首をかしげて、ゲラードの声にじっと耳を傾けた。
「君を神にはしない」ゲラードは言った。「高いところから地上を見下ろして、掟を課すような信仰は……僕らには似合わない。そう思わないか?」
友は反対側に首をかしげた。もっとよく音を拾おうとしているみたいに。
「それでも君は……僕らは、世界を変えてゆけると思う。皆と同じ目線で、少しずつ。僕は君に、そういう存在になって欲しい。神よりももっと優しい──でも、人に平穏を与えられる……心そのもののような存在に」
友は、ゲラードを見つめたまま、何かを考え込むような目をしている。
ゲラードは、友に手を差し伸べた。
友は一声さえずると、ゲラードの手の上に羽を休めた。そして眠るように、溶けるように、掌の中に消えた。
ああ。精霊が、友が、僕を認めてくれたのだ。
「ありがとう」
ゲラードは囁き、そっと手を握った。
そして、海に向かって真っ逆さまに落ちた。硬い波に衝突した身体を、柔らかな海水が包み込む。途方もない安堵に抱かれて、ゲラードは気を失った。
「ガル!」
思い切り頬を張られた拍子に、水を吐き出す。
口は当然のこと、鼻や耳からも水が溢れて、息を吸い込めない苦しさに、もう一度気が遠くなりかけた。
唐突に、喉を塞いでいた水が消えた。喘ぎ、咳き込み、また喘いで、目からは止めどなく涙が流れた。蘇りの苦痛を味わっている間中ずっと、フーヴァルがゲラードの背中を撫でていた。
「あ、ありがとう」ゲラードは、しわがれた声でなんとか口にした。「ありがとう、アーヴィン……」
それだけで伝わっただろうか。彼という執着があったからこそ、自分は戻ってこられたのだと。
珍しく、彼は悪態をつかなかった。何も言わずに、ただゲラードの背中を擦っていた。
二人は、海に浮かんだ船の瓦礫の上にいた。
戦いは遠く、大砲の音も、喊声も、ほとんどくぐもった音しか聞こえない。
ゲラードは顔を上げた。「皆は……?」
「イルヴァたちは無事だ……ほとんどはな。マチェットフォードの連中が、今更やる気をだしたらしい。間一髪だった」
彼が見た方角に頭を向けると、港の砦で無数の砲火があがっているのが見えた。力を削がれた艦隊には、あの街の防衛を崩すことはできないだろう。
「シドナは……」
フーヴァルの顔を見上げる。答えは聞くまでもなかった。彼はゆっくりと、首を横に振った。
「遅すぎた」ゲラードは、再びこみ上げた涙に息を詰まらせた。「アーヴィン。僕には救えなかった」
「救ったさ」フーヴァルは言った。
「でも……」
その時、波の音に乗って、かすかな歌声が聞こえてきた。
それは、空耳かと思うほど短い旋律だった。苦痛も悲哀も、遺恨もなく、世界と溶け合い一つになることを喜ぶような……美しい音楽だった。
ゲラードを抱くフーヴァルの腕に力がこもる。
彼は、かすかな声で、たった一言囁いた。
「あばよ、兄弟」
妖精たちの死を見届けて、二人はマチェットフォードの岸を目指した。戦乱の爪痕は生々しく、血を流す傷跡を間近に見ているようだった。デンズ湾の戦いも熾烈を極めたけれど、今回は、それよりずっとひどい。
フーヴァルとゲラードは言葉もなく、ただ泳ぎ続けた。
間もなく岸に辿り着くというときだった。
頭を殴られたような衝撃を伴って、大音声の哄笑が聞こえた。
「な、なんだ!?」
フーヴァルとともに頭を巡らすと、恐るべき光景が見えた。
大蒼洋の彼方で終わらない戦いを繰り広げていた海神と剣神の戦いに、ようやく決着がついたのだ。
海神が、剣神の首級を掲げて笑っていた。一方海神の身体は、剣神の身体そのものでもある無数の剣によって貫かれている。
海神は笑った。笑って、笑いながら、ゆっくりと崩れていった。いまや一心同体となった剣神の身体もろともに。
「相打ちかよ……」フーヴァルが言った。
その時、呻くような声を上げて世界が震えた。
二柱の神が、永遠にも思える時間をかけて、ゆっくりと頽れる。斃れた身体を受け止めるように巨大な波が盛り上がり、みるみるうちに山のように高く聳えた。
「まずい」フーヴァルが、食いしばった歯の間から言った。「ああ、クソ──これはマズい」
「一体何が──」言いかけたゲラードは、思わず息を呑んだ。
海が動いている。岸から沖に向かって、もの凄い勢いで波がひいている。ゲラードとフーヴァルも、その流れに抗えずに引きずられた。
「大波が来るぞ……!」フーヴァルは言った。
「僕に掴まって!」
ゲラードは、友の翼で空に飛び上がった。フーヴァルが目を瞠る。
「お前、その羽根──」
「友が力を貸してくれているんだ」
フーヴァルは長いため息をついた。「助かったぜ」
海が引く勢いは怖ろしいほどだった。船の瓦礫も、まだ辛うじて海上に浮かんでいる戦艦もまきこみ、遠く沖へとひきずられていった。いまや、マチェットフォードの入り江からデンズ湾の中程までの海域が、海底を露出させていた。
海嘯が来る。
「こんなデカい波、ダイラとエイルの半分が海に飲まれたっておかしかねえ」
オルノアを海底に沈めた天変地異。それと同じものが、ふたたび現実に起ころうとしている。
「どうすれば止められる……!?」
フーヴァルの横顔が、その問いの答えを如実に語っていた。あまりにも明らかで、言葉にするまでもない。
だが、彼は言った。
「無理だ」そして、支えを求めるように、ゲラードの腕をぎゅっと掴んだ。「無理だ……誰にも止められねえ」
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だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。
「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」
死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?
原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に!
見どころ
・転生
・主従
・推しである原作悪役に溺愛される
・前世の経験と知識を活かす
・政治的な駆け引きとバトル要素(少し)
・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程)
・黒猫もふもふ
番外編では。
・もふもふ獣人化
・切ない裏側
・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
男装の麗人と呼ばれる俺は正真正銘の男なのだが~双子の姉のせいでややこしい事態になっている~
さいはて旅行社
BL
双子の姉が失踪した。
そのせいで、弟である俺が騎士学校を休学して、姉の通っている貴族学校に姉として通うことになってしまった。
姉は男子の制服を着ていたため、服装に違和感はない。
だが、姉は男装の麗人として女子生徒に恐ろしいほど大人気だった。
その女子生徒たちは今、何も知らずに俺を囲んでいる。
女性に囲まれて嬉しい、わけもなく、彼女たちの理想の王子様像を演技しなければならない上に、男性が女子寮の部屋に一歩入っただけでも騒ぎになる貴族学校。
もしこの事実がバレたら退学ぐらいで済むわけがない。。。
周辺国家の情勢がキナ臭くなっていくなかで、俺は双子の姉が戻って来るまで、協力してくれる仲間たちに笑われながらでも、無事にバレずに女子生徒たちの理想の王子様像を演じ切れるのか?
侯爵家の命令でそんなことまでやらないといけない自分を救ってくれるヒロインでもヒーローでも現れるのか?
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