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 ダイラ デンズ湾/硲  
 
 自分が自分の姿を保てているかどうかもわからない。 
 ゲラードは混乱の最中さなかに居た。吹き荒れる嵐にもみくちゃにされながら、重さを失った己の肉体に必死にしがみついていた。 
 ダイラと光箭軍の艦隊が激しい砲撃戦を繰り広げる中、あちこちで船が炎上し、あたりは怖ろしい熱と光に包まれていた。その熱を切り裂くように、光箭軍の手持ち筒から放たれる銀の砲弾が雨あられと降り注ぐ。 
 だが、これはの戦いだ。 
 では、復活した〈嵐の民ドイン・ステョルム〉がダイラ海軍の兵士から精気を奪っている。大蒼洋の真ん中で海神マルドーホ剣神スヴァールクが戦っている。デンズ湾は、見えない柄杓にかき混ぜられた大鍋のように荒れていた。 
 ゲラードは眼下を過ぎゆく光景を見ながらも、必死で自分自身の戦いをしていた。 
 敵は亡者たちでも、神々でもない。カレフだ。 
「言うことを、聞いてくれ……!」 
 この領域に足を踏み入れた瞬間、カレフの力は一気に膨れ上がった。彼に引きずられるように、ゲラードは自分のが変わってゆくのを感じた。貴銀しろがねうからについてイヴランが言っていた通り、まるで熱せられた金属が形を変えるようだった。視界は歪み、血が沸き立つように熱くなる。そして、至る所に激痛があった。無理矢理に身体を組み替えられているような痛みだ。呼吸はおぼつかず、ただ喘ぐことしかできなかった。 
 視界は膜が被さったように曇り、周囲の光景をはっきりと見ることさえままならない。 
 僕は、殻に閉じ込められようとしている。生まれ変わるために──一度溶かされ、別のものに作り替えられようとしている。 
 カレフはゲラードを引き延ばし、捏ね、新しい知識を注ぎ込んで、また丸めようとした。 
 抵抗しなければ、これほどの痛みを感じることもないと、カレフがゲラードに伝えようとしているのがわかる。だが、ここでカレフに引きずられてしまったら、きっともう、後戻りはできないだろう。 
 貴銀しろがねうからは、新しい神が求める最初の供物なのではないかという直感は正しかった。ゲラードには、カレフが自分を欲しているのがわかった。幼子が乳を求めるように──いや、母鳥が卵を求めるように貪欲に、屈託なく。だからこそ、抗わなければ。 
 新たな神が危険なものだと判断したら、この身を捧げてでも誕生を阻止するべきだと思う気持ちは変わらない。それでも、今はまだ駄目だ。まだ見極めることができていない。早すぎる。 
 ゲラードは、飛び交う砲火を躱し、倒れるマストの下を潜り、ぶつかり合う舷の隙間をすり抜け、もの凄い速さで戦場を飛び回った。というより、カレフに引きずられた。沖へ、あるいは岸に向かって、カレフの興味の赴くまま。ゲラードはそれに従うしかなかった。ゲラードには、カレフが、ただの精霊以上の存在になるための何かを欲しているように思えた。 
 沖には大蒼洋があり、岸にはマチェットフォードの街がある。 
 不意に何かを感じ取ったらしいカレフは、戦場を後にして、街の中へと飛んでいった。 
 身体を引きちぎられるかと思うような速度で引っ張られ、瞬き一つの間に、ゲラードは街中にいた。 
 息を整えて、辺りを見回す。 
「これが……マチェットフォード……?」 
 街は、ほとんどもぬけの殻だった。マチェットフォードと言えば、ベイルズきっての商業都市だ。十万人近いひとが住む街の通りはいつでも混み合い、その賑やかさはデンズウィックをしのぐことさえある。だが、いまのマチェットフォードは静まりかえっている。地面にはゴミが散らばり、港にも、店先にも、家々にも人影はない。厳重な軍備で知られる、港の砦さえ空っぽだった。 
『市長はフェリジアの手先!』と書かれた紙片がそこら中に落ちていた。マチェットフォードは無条件降伏して、光箭軍の上陸を受け入れるつもりだと記されている。 
 市長の動きはエレノアも把握していたはずだ。マチェットフォードに援軍を送ると、ゲラードも確かに聞いていた。それなのにこの有様ということは、援軍がどこかで足止めを食っているのだろう。 
 推測を裏付けるように、そう遠くないところから大砲の音がした。 
 マチェットフォードの市門の方角か──と思った次の瞬間には、カレフが城壁の上まで運んでくれていた。 
 状況は手に取るようにわかった。 
 市門の外側にはエレノアの軍がつめかけ、力尽くで市内に入ろうとしている。門の前に並んだ大砲のうちの一つから、真新しい煙が棚引いていた。 
「今のは警告だ。これ以上の抵抗をやめて門を開けなければ、お前たちを反逆者と見なす!」 
 対する兵たちに、返す言葉はなかった。マチェットフォードの市に属する兵士たちは市長の命に従い、援軍に対して硬く門を閉ざしている。だが、その心境は複雑だろう。 
 光箭軍に降伏すれば、自分たちは助かる。この国がフェリジアに飲み込まれることになるとしても、自分と家族だけは生き延びるのだ。 
 こんな争いが無ければ、互いに敵対する必要もなかった者たちなのに。 
「どちらも、戦いたいとは思っていない」ゲラードは言った。「どうすればいいんだ……」 
 その時、ゲラードの耳に意外な音が飛び込んできた。 
 音楽──そして、歓声? 
 こんな音を、見捨てられた街で耳にするとは。ゲラードもカレフも興味を惹かれて、音のする方へと漂っていった。 
 いくつかの通りを抜け、街の広場へと近づいてゆく。すると、そこには崩れかけた劇場があった。あれが、賑やかな音の出所だ。 
 まるで、街に残ったほぼ全ての人びとが集まっているように見えた。劇場はどういうわけか焼け焦げていて、壁もほとんど引き倒されている。人びとは、劇場の中はもちろん、瓦礫の上にも構わず座っていた。観客は通りを埋め尽くし、向かい合って建つ建物の窓や屋根の上からも舞台を見ていた。その数は千人にも上るだろうか。 
「こんな状況で、いったい誰が……」 
 焼け残った劇場の桟敷に降り立った。ゲラードは、舞台の上で繰り広げられている物語を見た。 
 そこにいたのは、傷ついた銀の鎧を身に帯びた女性にょしょうだ。頭には木で編まれた冠を抱いている。妖精の女王がかぶっているという月桂樹の冠だろう。彼女の周りには、羽の生えた戦士たちが横たわっている。 
「わたしの子供たち! 清明なる心を我と我らが国に捧げた忠良ちゅうりょうたちよ! 没滅ぼつめつがおとずれようとしています」悲しげな声が舞台に響く。「天寵はもはや去り、我らは消えゆく定め」 
 その時、舞台の反対側から剣を持った男が躍り出た。見事なくろがねの甲冑に身を包み、外套マントには金糸で太陽の紋章が刺繍されている。 
 途端に、観客の間から非難の声が沸き起こる。その勢いたるや、耳に焼け付くほどだ。 
「ヘレネーよ! 魍魎もうりょうの女王よ! 貴様の最期の時が来たぞ!」 
 騎士の存在感に、ゲラードは飲み込まれそうになった。彼は──いわば悪役を演じている。にもかかわらず、そこには歓びが感じられた。暴虐非道の人物を体現し、人びとの憎しみを一身に受けて……あの名も知らぬ役者はなんと輝いてみえることだろう。やがて、ゲラードは今が戦の真っ最中だということを忘れた。そして、他の観客と驚嘆や嘆息、戦慄、笑いと啜り泣きを共有する、奇妙な一体感を味わった。 
 人間の王が剣を振りかざす。 
あだな抵抗などせぬがいい。さっさとその冠をおれによこせ!」 
 すると妖精の女王は、倒れ伏していた兵士たちの合間に立ち上がり、細身の剣を構えた。観客は拳を振り上げ、女王ヘレネーに歓声を送っていた。 
 だが、観客の声援も虚しく、妖精の女王は死んだ。勝利したのは、全てを破壊する人間の王だ。 
 唇を噛みつつ成り行きを見守っていたゲラードは、この無情な結末に憤りを覚えずには居られなかった。 
 なぜこんな劇を? この戦乱の最中にいったい何故、こんなに気の滅入る戯曲を上演しているんだ? まるで人間以外の者には居場所などなく、何かを守ろうとする戦いに意味などないと思い知らせるかのように。 
 ゲラードは拳を握った。自分を包み込もうとする殻が、さらに分厚くなってゆく。 
 人びとは皆、妖精の女王の亡骸を見つめていた。女王の周りでは、彼女の臣民である妖精たちもまた死んでいた。人間の王と臣下が、賑やかに歌いながら戦場を歩み去る。幕は下りず、悼むような静寂が劇場を──劇場を取り囲む街全体を支配していた。 
 もはや誰も声を上げていない。涙を流している者もいれば、そうでないものもいる。だが、とにかくみな一心に、ひたむきに、そこで演じられた物語の中に入り込んでいた。 
 生きている人間の王と、死んだ妖精の女王。戦の勝者がどちらなのかは、考えるまでもない。そのはずなのに、何故か……勝ったのは女王の方なのだと思えた。 
「ヘレネー万歳!」 
 観客のひとりが、手を叩く。それに続いて、また別の者が。小さな小石が崩落のきっかけになるように、観客の歓声は徐々に大きくなり、しまいには大歓声となった。終幕を飾る音楽さえ聞こえないほど。 
 ヘレネー万歳。 
 ヘレネー……まさか、エレノアのことを指しているのか? 
 たしかに、あの毅然とした表情は、エレノアを思い出させた。 
 太陽の化身と戦う女王──そうか。 
 これは現実を描いているのだ。光箭軍と戦うエレノアの姿を。彼女の運命は、現実の世界では未だ決していない。だからこそ、あえて悲しい結末を見せた。現実は、まだ変える余地があるのだと示すために。 
 ゲラードの胸が熱くなった。この街で──ベイルズの要とも言うべきマチェットフォードで、女王に味方を作ろうとする者が居るとは想像もしていなかったのだ。 
 やがて、ひとりの男が舞台に現れた。 
「東のかたから日が昇り、西のたてに沈みゆくが如く、万物が生まれ、滅び行くのは世の定め」 
 見覚えのある顔だった。エイルで行われた会議で、確かに顔を見た。あのときは、オロッカかマクヒューの部下だと思っていたのだが、こんなところで何をしているのだろう? 
 彼は最後の口上を続けた。 
「なれど皆々様、儚くも果敢に散ったヘレネーの勇姿は不滅の星となり、我らの心に生き続けるでありましょう」 
 観客席から、拍手と歓声が沸き起こる。 
「本日おこしくださった皆々様に、このお芝居の作者より、あらためて御礼を申し上げます」 
 キャッスリー! と誰かが呼んだ。 
 そうだ。彼の名前はキャッスリーだ。有名な舞台作家と同じ名なのは偶然かと思っていたが、まさか同一人物だったとは、今の今まで考えもしなかった。 
 彼が現れた後も、歓声はしばらくおさまらなかった。だが不意に、誰かが気付いた。 
「ねえ、あの目……」 
「吸血鬼か? まさか──」 
 歓声は囁き声になり、囁き声が、次第に刺すような響きを帯びる。ざわめく観衆を見回して、キャッスリーは小さく肩をすくめた。 
「ええ。ご覧の通り、わたしは吸血鬼です」彼が言うと、さっきまで敵同士の役を演じていた俳優たちが立ち上がり、加勢するように傍らに立った。「ですが、たったいまご覧になった物語で、あなた方は女王ヘレネーを愛してくださった」 
 キャッスリーは、傍らの男と視線を交わした。人間の王を演じていた男だ。彼は頷き、言葉を継いだ。 
「あんたがたは、国を愛し、平和を、自由を守りたいと願うヘレネーの味方になった」男の声は、あっという間に静寂を支配した。「皆、彼女と同じ気持ちを抱いたからだ。そうだろう!」 
 何人かの観客が、そうだと声を上げた。男は、感謝を示すように頷いた。 
「いま、このマチェットフォードの海に、俺たちの自由を奪おうとする連中が押しかけてきている。連中は、その目路の限り、全てがまつろう世を来たらせるためにここに来た!」 
 男が放った台詞が、その場の空気をビリビリと痺れさせる。 
「こんなことを、俺たちが許してもいいのか?」 
 ゲラードは、群衆の中に何かが広がるのを感じた。まるで炎のような──あるいは魔法のような何かが。 
 彼らを、もっとよく見たい。強く念じると、ゲラードを取り囲む殻の膜が薄くなった。そうだ、それでいい。僕はもっと、彼らの戦いを見なければならない。 
 不意にカレフが再び飛び立ち、その場を離れようとした。ゲラードは彼に抗い、そして命じた。 
「待て」ゲラードは言った。「これを、最後までみとどける」 
 すると──この世界にやって来てからはじめて、カレフがゲラードの言葉に従った。ゲラードは、自分の周りにあった薄い殻を突き破り、ついには脱ぎ捨てた。 
 男は尚も語りかけ続けた。 
「市長はマチェットフォードを捨て、俺たちを捨てた! 俺たちが何代にも亘って築きあげてきた歴史を、自由を、戦おうともせずに連中にくれてやろうとしている。砦は空っぽで、俺たちを護ってくれるはずの援軍が、門の外で足止めを喰らっている!」男の声は、いまや轟くようだった。「だが、マチェットフォードは誰のものだ? 市長か? それとも、さっさと街を逃げ出した金持ちどものものか?」 
 彼は舞台上を歩き、居並ぶ人びとの顔を──目の中までも、覗き込んだ。 
「街の運命を、なんで俺たち自身が決められない? 最後までマチェットフォードと生死を共にするのは俺たちだ。そうだろう?」彼の声は何処までも響いた。 
 観客席から、誰かが叫ぶ。 
「市長などくそくらえだ!」 
 ドッと笑いが沸き起こる。不思議なことに……その笑いが、人びとを見えない絆で結び合わせた。 
「そう、くそくらえだ」男は微笑み、言った。「なら、俺たちがすべきことはなんだ?」 
 ゲラードの背筋が震えた。その場にいる全ての人びとの目に、炎が宿るのが見えた。 
「言ってくれ、誰が俺たちの街を守るんだ!」 
 ついに、観衆が答えた。 
「俺たちだ!」 
「命尽きるまで、マチェットフォードのために戦うのは!?」 
「俺たちだ!!」 
 一声ごとに、歓喜が空気を震わせていく。 
 その男は──ゲラードが名前もしらないその男は、まるで何百年も前から約束された王のように微笑むと、作り物の剣を振り上げ、叫んだ。 
「門を開けるぞ! 援軍を街に迎えてやるんだ!」 
 男は叫んだ。人びとも叫んでいた。声の限りに。 
「みんな、俺についてこい!」 
 マチェットフォードの人びとは行進していった。閉ざされた市門を開け放ち、援軍を迎え入れるために。 
 彼らを見送ってから、ゲラードは飛び立った。 
 もう一つの戦いを見届けるために。 
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