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Chap.9 盤上の赤と白
Chap.9 Sec.4
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(そういえば、ロン君ってロキ君のとこにいるんだっけ……?)
遅めの朝食を終えて私室を後にしたティアは、はたりとミヅキから得た情報を思い出した。AIなんて信じられないと評価したものの、この情報は確かだと思う。ハオロンの私室に向かうつもりだった足を、エレベータの直前で止めた。
「ティアくん? ……どうかした?」
一緒に私室を出たメルウィンが、足を止めたティアにきょとんとする。ほかの兄弟といると小さく見える彼だが、こうして並ぶと目線はほとんど変わらない。癖っ毛の髪の下で、暗いブラウンの眼がくりっとしてこちらを見ていた。
「だめだ。ロン君、私室にいないと思う……」
「え? ……ぁ、そっか。昨日、ロキくんのとこ行くって言ってたかも……?」
「だよね? セト君から、ゲームしてるって聞いた気がする。……1時間前くらいかな? ミヅキ君に訊いたときも、ロキ君のとこで眠ってるって言ってたし……ということは、まだ眠ってる可能性もあるよね?」
「それはあるね……」
「起こすほどじゃないし……どうしようかな……」
「? ……いったん私室に戻って、あとから行くのはだめなの?」
「……僕がいると、アリスちゃんが気を抜けないと思う。しばらく出てくるって言っちゃったから……メル君は、調理室に行くの?」
「うん。お昼の用意をするよ」
「メル君……きみ、一日中ごはんに追われてない……?」
「……でも、僕がやりたくてやってることだから……みんなのためって名目があると、食材を好きに使えるし……」
「……料理は、楽しい?」
「うん、楽しい」
「そっか、それならいいね」
ロキ君のために作るのって腹立たしくない?
——なんて言ってみたいけれど、やめよう。さっきのメルウィンの反応を見たせいか、そんなことを訊くのは不躾な気がした。
「えっと……僕はエレベータに乗るけど……ティアくん、乗る?」
「う~ん……とりあえず、乗ってみる」
「……とりあえず?」
ティアの曖昧な頷きに、メルウィンは小さく笑って、自身の手をエレベータの前にかざした。開いたドアの先、メルウィンに続いて足を入れてから、
「——そうだ。僕、アリア君のとこに行くよ。きっと研究室だよね?」
「アリアくん? ……は、そうだね。たぶん、いると思う……朝は見てないけど。アリアくんなら、この時間に寝てることはないと思うから……」
「うんうん、アリア君なら起きてるはず。訊きたいことがあったんだよ。直接会って話したいことだし、ちょうどいいよ」
「……直接?」
「アリスちゃんの治療で、なんの薬を使ったのかなって」
「ぁ、それなら僕知ってるよ? 幸福薬だって言って……た」
今のは前半うっかりで、後半わざと。ティアの誘導に、エレベータに気を取られて口をすべらせたメルウィンが固まった。ほんとはメルウィンを引っかける予定ではなかったのだけど。なんて、言い訳でしかないか。
「……幸福薬?」
復唱する。ティアの知らない薬だった。
メルウィンの顔がだんだんと青くなっていくのが可哀想で、「大丈夫。僕、アリスちゃんとロキ君の……知ってるから」一応フォローした。自分で落ちたらしいけど、そこはあえて言及しない。メルウィンがあからさまにほっとした。
「そうなんだ……もしかして、ロキ君に落とされたって、アリスさんが言ってた?」
「……うん、やっぱりそんな感じだよね」
「? ……ぁ、でも、このこと……サクラさんに言わないでね……? 口外禁止って言われてるから」
「分かってる。……幸福薬のこと、訊いてもいい?」
1階に着いたエレベータの直角左手、調理室のドアへ行くメルウィンの後を追う。調理室に入って、さらに食堂へと向かったメルウィンが、誰もいないことを確認し、
「たしか、幸福感が増す薬だって言ってたよ」
「なにそれ……よく分からないな……」
「セトロニンとかオキシトシンの分泌を促すのかな……? 医療は僕も詳しくないから……でも、危ないものじゃないって言ってたよ?依存することもないみたい」
「……そうなの? それってアリア君の情報?」
「うん」
「ちなみに、薬を使ったのはアリア君? それとも……サクラさん?」
「ぇ……っと、たぶん、アリアくんかな? ……サクラさんの判断で投薬した、って、言ってたから」
「なるほどね……」
アリアの所へ行く必要がなくなった。まさかメルウィンからこの情報を得られるとは思っていなかった。
これ以上は邪魔になりそうだったので、メルウィンに別れを告げ、調理室を出た。行き場もないのでハウス内を歩いてみることにする。掃除の確認もかねて。ロボットがあるのに、正しく機能しているかどうかを人が見て回るなんて、なかなか滑稽だ。
調理室からエレベータ前に戻り、そこを過ぎて医務室、研究室の前を行く。部屋はすべて右手にしかない。左手は白い壁が続いている。左壁の向こう側はサクラのいる中央棟で、ハウスは中央にある別棟を四角く囲むように廊下があり、四角にはエレベータ、各部屋は廊下の外側に並んでいる。中央棟には一度しか入ったことがなく、それも広間にあたるワンフロアだけだが、意味もなく広かった。あれが幾階層もあるなら、サクラの占有スペースはかなりの広さになる。どんな部屋があって、何をしているのか。気にならないこともない。
突きあたりで直角に折れる廊下を左に曲がると、右手の図書室の存在に意識がいった。多岐の分野にわたった、今では貴重な紙の本が保管されている。好き勝手に読めるわけではなく、いちいちサクラの許可がいるので、ティアはあまり利用していない。幸福薬についてもここで調べるわけにはいかないので、文明人らしくハウスのデータバンクにアクセスしようか。これもまた“ログが残る”のだとしたら、似たようなことか。
1階を回りきってからエントランスホールの中央階段を上がり、なんとなく2階もくるりと回って、(これ、けっこう運動になるな……)時間を確認しつつ、エレベータで4階へと戻った。もうすこし時間をつぶしたいので、4階の展望広間——吹き抜けのエントランスホールの上にあたる共有スペースで、本来は何に使われていたのか分からない、大きな窓から眺望がきくだけのだだっ広い空間——に向かった。外の景色でも見ようかと思ったわけだが、
「……セト君は僕のストーカーかな?」
先客に気づいて、思わずうんざりした声を出してしまった。
白と黒のチェス盤のようなフロアの端っこで、壁に背を預けていた青年が、「あ?」目つきの悪い視線を投げてくる。手には端末があり、何か作業をしていたのだとは思うけれど、ここでしている意味がさっぱり分からない。——いや、分かる。エレベータを角に挟んで、ここからすぐそばにあるティアの私室。誰かが来れば、もしくは出て行ったとしても、セトなら音ですぐ気づくことができる距離。つまるところ、ティアの私室を見張っていると思われる。
「いちおう訊くね? ……なにしてるの?」
「……別に。お前に関係ねぇだろ」
「それが昨夜、僕のベッドで眠ったひとの態度かな?」
「ちゃんと帰ったじゃねぇか」
「アリスちゃんに手を出して?」
「は?」
即座に鎌を掛けてみたが、意外にもハズレの感触。セトは眉間を狭めて、「俺はなんもやってねぇぞ」無罪を主張した。どうやら嘘は言っていないようす。
「……あれ? ほんとに?」
「なんで疑ってんだよ」
「……や、でも……おかしいな……?」
「おかしくねぇよ。俺に対する評価を見直せ」
目を細めて鬱陶しげに見返すセトは、やはり嘘をついている感じではない。しかし、彼女の赤い目許を思い出すと疑念がぬぐえない。
「……ほんとに?」
「しつけぇぞ。やってねぇって言ってんだろ」
「……ほんとに? なにもしてない?」
「だから俺は、何も」
ぶつりと、変なところで会話が切れた。何か記憶のなかでひらめくものがあったような、ハッとした気づきの瞬間。
妙に白々しい沈黙がおり、言いかけて止まっていたセトがそっと口を閉じた。代わりにティアがくり返す。
「……何も?」
「……してねぇ」
「うん、したね?」
絞り出すように呟かれた否定は肯定に相違なく、ティアはため息をこぼした。呆れたティアに、セトは弁明しようと口を開き、
「おい勘違いすんな! 俺はやってねぇぞ!」
「……勘違いではないよね? もう僕だいたい読めたけど?」
「はぁっ? なら言ってみろよ! 否定してやるよ」
「……昨日のアリスちゃんは、不思議なことにセト君をあんまり怖がらず、そんなアリスちゃんに気持ちがゆれて手を出しかけたけど、たぶん抵抗されて——や、抵抗というよりは、困惑したのかな? ……僕もいたしね。そんな感じでアリスちゃんに断られたので、しょうがなくお部屋に帰りました、と。……まぁ、キスぐらいはしたよね? つまり何もしてなくはないよね?」
「………………」
反応を見ながらぺらぺらと思いつくままに語ると、セトが何も言えずに押し黙った。もうそれは完全なる肯定。無言の時間が過ぎていくのを待っていると、セトがこちらを睨みつけたまま、低い声で、
「……お前、起きてたな」
「や、眠ってたよ?」
「嘘つけ! 想像だけでそんな分かるわけねぇだろ!」
「そう言われても……っていうかさ、その返し、認めたことになっちゃうけどいいの?」
「ふさげんな! 起きてたなら言えよ!」
「や、だから、眠ってたってば」
怒るセトに真実を告げるが、脳まで届かないらしく怒りのおさまる気配がない。無視して私室に戻ろうかな。目線を窓の外に送ると、空は雲に覆われていた。雨が降りそう。
「おい、聞いてんのか!」
「う~ん……そんなことよりさ、なんで僕のストーカーしてるの?」
目線をセトに戻すと、「あ? 誰がお前なんかに付きまとうんだよ」顔をゆがめて不快感をあらわにされる。遠回しに言ってあげたのだが伝わらない。
「じゃ、言い換えるけど……なんでアリスちゃんを見張ってるの?」
ストレートな問いに、セトが急に静かになった。先ほどとはまた違った沈黙。すこし深刻な雰囲気。
「…………べつに。見張ってねぇけど」
「んんん? それはちょっと無理がない?」
「お前に関係ねぇだろ」
「そうかもね? でも、自分の部屋を見張られてるなんて気分が悪いな。理由を聞かせてくれてもいいんじゃない?」
「……大したことじゃねぇ」
「そう? ……ここでは話せない? ……じゃなくて、僕じゃ話せない——かな?」
憂いをこめて吐息で笑ってみせると、セトの表情がくもった。たいてい彼の心理は手に取るように分かる。北風と太陽理論? それか、押してだめなら引いてごらん? とにかくセトの基本は狩猟本能で、攻めるよりも引いたほうが効果がある。今回は罪悪感をつついてみるとして、
「そうだよね……セト君、僕は信じられないって言ってたしね……」
「いやあれは……冗談っつぅか、本気じゃねぇから……お前のことも、ちゃんと信用してるし……」
「……いいんだよ。兄弟っていっても、僕は他人みたいなものだよね? ほかの兄弟と比べたら、身体も弱いし、役立たないし……ほんと、僕のできることなんて何もないよね……?」
「お、おいっ! そんなことねぇよ! なんでそんなこと言うんだよっ」
あざとすぎたかと思ったのに、効果覿面だった。昨夜も反応していたが、どうもこの卑屈モードに過敏なような。焦りだすセトは、壁から身を離してティアへと距離をつめた。
「お前のこと、そんなふうに思ったことなんて一度もねぇって……つぅか、そんなこと思ってたのかよ……」
狼狽を隠せずこちらを案じてくるセトに、(あ、まずい。これもう演技だって明かせないやつだ……ばれたら僕の命が危ないんじゃ……)内心で焦りを覚えたが、今さら引き返せない。
「……気にしないで。僕なんかに話したくないことを、無理に聞こうとしたのが悪かったよ……じゃ、僕は部屋に戻るから……」
ひらりと指先で別れを示し、私室の方へと歩を進めた。たぶん今、背中に哀愁を背負えていると思う。それと、次にセトが何を言うかの予測もばっちり。
「——待てよ!」
制止の声に、ゆっくりと首だけで振り返る。笑ってはいけない。なるべく心を無にして。
「なに?」
「……はなす」
「……え?」
「話す、から……お前の部屋に……入ってもいいか?」
ずいぶんと迷いの見えるようすではあるけれど、予測どおりの展開。ティアの顔に自然とあふれる笑顔は、セトの信用を得た喜びでは当然なくて、
「もちろん、どうぞ」
意のままに動かせる駒のようだなと、だいぶ失礼なことを考えていた。
そしてそれは——ティアが思うくらいなのだから、きっとサクラにとっても同じなのだろう——気づいてはいけない可能性にも結び付いてしまった。
(……そっか。あのとき、サクラさんがわざわざ僕の前でアリスちゃんを追いつめたのは——)
——アリスちゃんさ、多分サクラさんに脅されてると思うんだよね。
——セト君をかばうために、残ることを決めたんだと思う。
あれを、セトに伝えさせるためだったとしたら。
散らばっていたカケラが、脳裏で急速に繋がっていく。不可解だったサクラの態度や行動が解け、矛先がはっきりとして——サクラがのぞむ盤面を、見た気がした。
(目的は最初から……セト君だったんだ)
狙われた青年は、ティアの反応に呑気にも安堵している。
気づいてなどいない。ティアの芝居にも、サクラのそろえた駒にも、——なにひとつ。
窓の外では、秋雨が音もなく降り始めている。
遅めの朝食を終えて私室を後にしたティアは、はたりとミヅキから得た情報を思い出した。AIなんて信じられないと評価したものの、この情報は確かだと思う。ハオロンの私室に向かうつもりだった足を、エレベータの直前で止めた。
「ティアくん? ……どうかした?」
一緒に私室を出たメルウィンが、足を止めたティアにきょとんとする。ほかの兄弟といると小さく見える彼だが、こうして並ぶと目線はほとんど変わらない。癖っ毛の髪の下で、暗いブラウンの眼がくりっとしてこちらを見ていた。
「だめだ。ロン君、私室にいないと思う……」
「え? ……ぁ、そっか。昨日、ロキくんのとこ行くって言ってたかも……?」
「だよね? セト君から、ゲームしてるって聞いた気がする。……1時間前くらいかな? ミヅキ君に訊いたときも、ロキ君のとこで眠ってるって言ってたし……ということは、まだ眠ってる可能性もあるよね?」
「それはあるね……」
「起こすほどじゃないし……どうしようかな……」
「? ……いったん私室に戻って、あとから行くのはだめなの?」
「……僕がいると、アリスちゃんが気を抜けないと思う。しばらく出てくるって言っちゃったから……メル君は、調理室に行くの?」
「うん。お昼の用意をするよ」
「メル君……きみ、一日中ごはんに追われてない……?」
「……でも、僕がやりたくてやってることだから……みんなのためって名目があると、食材を好きに使えるし……」
「……料理は、楽しい?」
「うん、楽しい」
「そっか、それならいいね」
ロキ君のために作るのって腹立たしくない?
——なんて言ってみたいけれど、やめよう。さっきのメルウィンの反応を見たせいか、そんなことを訊くのは不躾な気がした。
「えっと……僕はエレベータに乗るけど……ティアくん、乗る?」
「う~ん……とりあえず、乗ってみる」
「……とりあえず?」
ティアの曖昧な頷きに、メルウィンは小さく笑って、自身の手をエレベータの前にかざした。開いたドアの先、メルウィンに続いて足を入れてから、
「——そうだ。僕、アリア君のとこに行くよ。きっと研究室だよね?」
「アリアくん? ……は、そうだね。たぶん、いると思う……朝は見てないけど。アリアくんなら、この時間に寝てることはないと思うから……」
「うんうん、アリア君なら起きてるはず。訊きたいことがあったんだよ。直接会って話したいことだし、ちょうどいいよ」
「……直接?」
「アリスちゃんの治療で、なんの薬を使ったのかなって」
「ぁ、それなら僕知ってるよ? 幸福薬だって言って……た」
今のは前半うっかりで、後半わざと。ティアの誘導に、エレベータに気を取られて口をすべらせたメルウィンが固まった。ほんとはメルウィンを引っかける予定ではなかったのだけど。なんて、言い訳でしかないか。
「……幸福薬?」
復唱する。ティアの知らない薬だった。
メルウィンの顔がだんだんと青くなっていくのが可哀想で、「大丈夫。僕、アリスちゃんとロキ君の……知ってるから」一応フォローした。自分で落ちたらしいけど、そこはあえて言及しない。メルウィンがあからさまにほっとした。
「そうなんだ……もしかして、ロキ君に落とされたって、アリスさんが言ってた?」
「……うん、やっぱりそんな感じだよね」
「? ……ぁ、でも、このこと……サクラさんに言わないでね……? 口外禁止って言われてるから」
「分かってる。……幸福薬のこと、訊いてもいい?」
1階に着いたエレベータの直角左手、調理室のドアへ行くメルウィンの後を追う。調理室に入って、さらに食堂へと向かったメルウィンが、誰もいないことを確認し、
「たしか、幸福感が増す薬だって言ってたよ」
「なにそれ……よく分からないな……」
「セトロニンとかオキシトシンの分泌を促すのかな……? 医療は僕も詳しくないから……でも、危ないものじゃないって言ってたよ?依存することもないみたい」
「……そうなの? それってアリア君の情報?」
「うん」
「ちなみに、薬を使ったのはアリア君? それとも……サクラさん?」
「ぇ……っと、たぶん、アリアくんかな? ……サクラさんの判断で投薬した、って、言ってたから」
「なるほどね……」
アリアの所へ行く必要がなくなった。まさかメルウィンからこの情報を得られるとは思っていなかった。
これ以上は邪魔になりそうだったので、メルウィンに別れを告げ、調理室を出た。行き場もないのでハウス内を歩いてみることにする。掃除の確認もかねて。ロボットがあるのに、正しく機能しているかどうかを人が見て回るなんて、なかなか滑稽だ。
調理室からエレベータ前に戻り、そこを過ぎて医務室、研究室の前を行く。部屋はすべて右手にしかない。左手は白い壁が続いている。左壁の向こう側はサクラのいる中央棟で、ハウスは中央にある別棟を四角く囲むように廊下があり、四角にはエレベータ、各部屋は廊下の外側に並んでいる。中央棟には一度しか入ったことがなく、それも広間にあたるワンフロアだけだが、意味もなく広かった。あれが幾階層もあるなら、サクラの占有スペースはかなりの広さになる。どんな部屋があって、何をしているのか。気にならないこともない。
突きあたりで直角に折れる廊下を左に曲がると、右手の図書室の存在に意識がいった。多岐の分野にわたった、今では貴重な紙の本が保管されている。好き勝手に読めるわけではなく、いちいちサクラの許可がいるので、ティアはあまり利用していない。幸福薬についてもここで調べるわけにはいかないので、文明人らしくハウスのデータバンクにアクセスしようか。これもまた“ログが残る”のだとしたら、似たようなことか。
1階を回りきってからエントランスホールの中央階段を上がり、なんとなく2階もくるりと回って、(これ、けっこう運動になるな……)時間を確認しつつ、エレベータで4階へと戻った。もうすこし時間をつぶしたいので、4階の展望広間——吹き抜けのエントランスホールの上にあたる共有スペースで、本来は何に使われていたのか分からない、大きな窓から眺望がきくだけのだだっ広い空間——に向かった。外の景色でも見ようかと思ったわけだが、
「……セト君は僕のストーカーかな?」
先客に気づいて、思わずうんざりした声を出してしまった。
白と黒のチェス盤のようなフロアの端っこで、壁に背を預けていた青年が、「あ?」目つきの悪い視線を投げてくる。手には端末があり、何か作業をしていたのだとは思うけれど、ここでしている意味がさっぱり分からない。——いや、分かる。エレベータを角に挟んで、ここからすぐそばにあるティアの私室。誰かが来れば、もしくは出て行ったとしても、セトなら音ですぐ気づくことができる距離。つまるところ、ティアの私室を見張っていると思われる。
「いちおう訊くね? ……なにしてるの?」
「……別に。お前に関係ねぇだろ」
「それが昨夜、僕のベッドで眠ったひとの態度かな?」
「ちゃんと帰ったじゃねぇか」
「アリスちゃんに手を出して?」
「は?」
即座に鎌を掛けてみたが、意外にもハズレの感触。セトは眉間を狭めて、「俺はなんもやってねぇぞ」無罪を主張した。どうやら嘘は言っていないようす。
「……あれ? ほんとに?」
「なんで疑ってんだよ」
「……や、でも……おかしいな……?」
「おかしくねぇよ。俺に対する評価を見直せ」
目を細めて鬱陶しげに見返すセトは、やはり嘘をついている感じではない。しかし、彼女の赤い目許を思い出すと疑念がぬぐえない。
「……ほんとに?」
「しつけぇぞ。やってねぇって言ってんだろ」
「……ほんとに? なにもしてない?」
「だから俺は、何も」
ぶつりと、変なところで会話が切れた。何か記憶のなかでひらめくものがあったような、ハッとした気づきの瞬間。
妙に白々しい沈黙がおり、言いかけて止まっていたセトがそっと口を閉じた。代わりにティアがくり返す。
「……何も?」
「……してねぇ」
「うん、したね?」
絞り出すように呟かれた否定は肯定に相違なく、ティアはため息をこぼした。呆れたティアに、セトは弁明しようと口を開き、
「おい勘違いすんな! 俺はやってねぇぞ!」
「……勘違いではないよね? もう僕だいたい読めたけど?」
「はぁっ? なら言ってみろよ! 否定してやるよ」
「……昨日のアリスちゃんは、不思議なことにセト君をあんまり怖がらず、そんなアリスちゃんに気持ちがゆれて手を出しかけたけど、たぶん抵抗されて——や、抵抗というよりは、困惑したのかな? ……僕もいたしね。そんな感じでアリスちゃんに断られたので、しょうがなくお部屋に帰りました、と。……まぁ、キスぐらいはしたよね? つまり何もしてなくはないよね?」
「………………」
反応を見ながらぺらぺらと思いつくままに語ると、セトが何も言えずに押し黙った。もうそれは完全なる肯定。無言の時間が過ぎていくのを待っていると、セトがこちらを睨みつけたまま、低い声で、
「……お前、起きてたな」
「や、眠ってたよ?」
「嘘つけ! 想像だけでそんな分かるわけねぇだろ!」
「そう言われても……っていうかさ、その返し、認めたことになっちゃうけどいいの?」
「ふさげんな! 起きてたなら言えよ!」
「や、だから、眠ってたってば」
怒るセトに真実を告げるが、脳まで届かないらしく怒りのおさまる気配がない。無視して私室に戻ろうかな。目線を窓の外に送ると、空は雲に覆われていた。雨が降りそう。
「おい、聞いてんのか!」
「う~ん……そんなことよりさ、なんで僕のストーカーしてるの?」
目線をセトに戻すと、「あ? 誰がお前なんかに付きまとうんだよ」顔をゆがめて不快感をあらわにされる。遠回しに言ってあげたのだが伝わらない。
「じゃ、言い換えるけど……なんでアリスちゃんを見張ってるの?」
ストレートな問いに、セトが急に静かになった。先ほどとはまた違った沈黙。すこし深刻な雰囲気。
「…………べつに。見張ってねぇけど」
「んんん? それはちょっと無理がない?」
「お前に関係ねぇだろ」
「そうかもね? でも、自分の部屋を見張られてるなんて気分が悪いな。理由を聞かせてくれてもいいんじゃない?」
「……大したことじゃねぇ」
「そう? ……ここでは話せない? ……じゃなくて、僕じゃ話せない——かな?」
憂いをこめて吐息で笑ってみせると、セトの表情がくもった。たいてい彼の心理は手に取るように分かる。北風と太陽理論? それか、押してだめなら引いてごらん? とにかくセトの基本は狩猟本能で、攻めるよりも引いたほうが効果がある。今回は罪悪感をつついてみるとして、
「そうだよね……セト君、僕は信じられないって言ってたしね……」
「いやあれは……冗談っつぅか、本気じゃねぇから……お前のことも、ちゃんと信用してるし……」
「……いいんだよ。兄弟っていっても、僕は他人みたいなものだよね? ほかの兄弟と比べたら、身体も弱いし、役立たないし……ほんと、僕のできることなんて何もないよね……?」
「お、おいっ! そんなことねぇよ! なんでそんなこと言うんだよっ」
あざとすぎたかと思ったのに、効果覿面だった。昨夜も反応していたが、どうもこの卑屈モードに過敏なような。焦りだすセトは、壁から身を離してティアへと距離をつめた。
「お前のこと、そんなふうに思ったことなんて一度もねぇって……つぅか、そんなこと思ってたのかよ……」
狼狽を隠せずこちらを案じてくるセトに、(あ、まずい。これもう演技だって明かせないやつだ……ばれたら僕の命が危ないんじゃ……)内心で焦りを覚えたが、今さら引き返せない。
「……気にしないで。僕なんかに話したくないことを、無理に聞こうとしたのが悪かったよ……じゃ、僕は部屋に戻るから……」
ひらりと指先で別れを示し、私室の方へと歩を進めた。たぶん今、背中に哀愁を背負えていると思う。それと、次にセトが何を言うかの予測もばっちり。
「——待てよ!」
制止の声に、ゆっくりと首だけで振り返る。笑ってはいけない。なるべく心を無にして。
「なに?」
「……はなす」
「……え?」
「話す、から……お前の部屋に……入ってもいいか?」
ずいぶんと迷いの見えるようすではあるけれど、予測どおりの展開。ティアの顔に自然とあふれる笑顔は、セトの信用を得た喜びでは当然なくて、
「もちろん、どうぞ」
意のままに動かせる駒のようだなと、だいぶ失礼なことを考えていた。
そしてそれは——ティアが思うくらいなのだから、きっとサクラにとっても同じなのだろう——気づいてはいけない可能性にも結び付いてしまった。
(……そっか。あのとき、サクラさんがわざわざ僕の前でアリスちゃんを追いつめたのは——)
——アリスちゃんさ、多分サクラさんに脅されてると思うんだよね。
——セト君をかばうために、残ることを決めたんだと思う。
あれを、セトに伝えさせるためだったとしたら。
散らばっていたカケラが、脳裏で急速に繋がっていく。不可解だったサクラの態度や行動が解け、矛先がはっきりとして——サクラがのぞむ盤面を、見た気がした。
(目的は最初から……セト君だったんだ)
狙われた青年は、ティアの反応に呑気にも安堵している。
気づいてなどいない。ティアの芝居にも、サクラのそろえた駒にも、——なにひとつ。
窓の外では、秋雨が音もなく降り始めている。
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