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第一章・塔の賢者たち

第二話『天璣の塔・ソラ』

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「おかしいですね」
「何がでしょう?」
 御者が思わずつぶやいたその言葉に、左右両頬を腫らしたクラリスが反応する。ちなみに左右の扉は二度もデュラを怒らせたクラリスのせいで吹っ飛んでいて、馬車内を風がびゅうびゅう吹きすさんでいた。
 御者は思わず馬車を止めて振り返り、馬車内と通じる小窓を開けて。
「いえね、すぐそこに天璣の塔は見えるんですが……どれだけ馬を走らせても全然近づけないんですよ」
「それはどういう……」
 訝し気なクラリスだが、デュラはニヤニヤしている。
「そりゃあ無理だな。ソラの塔には、『許可』されないと近づけない呪が施されてんだ」
「呪い、ですか?」
 無言で頷くデュラ。まずソラは魔導士・呪術師・大商会の会頭という三つの顔を持つ。それぞれが大陸随一の規模と知名度を誇り、ソラの力に縋ろうと天璣の塔を訪れる者の数は膨れ上がる一方だった。
 そこでソラは、許可した馬車や人のみしか近づけない呪いの罠トラップを塔周辺に張り巡らせていたのだ。当然ながらクラリスは、『無予約』の状態なのだが……。
「同じ六賢者のデュラもいるのに、私はそういう扱いなのですか?」
「私は付き添いだろ」
「それはそうなのですが……」
 困惑を隠せないクラリス、しばし思案にくれる。
「それでは、デュラから口利きしていただくわけには?」
「そりゃあ構わねぇが、逢ってくれるかどうかは別だぜ?」
 簡単に自分に助けを求めるクラリスに、デュラは少し苛立ちを隠せない。
(もうちょっと、自分でなんとかしようと思ってほしいもんだ)
 そしてそのデュラの表情から、自分の浅薄な発言に気づくクラリス。
「そうですね、自分でなんとかしてみるべきです」
「よく言った、そうこなくちゃな」
 だが実際、何をどうすればいいのか……クラリスにはとんと見当がつかない。そして、
「降ります」
 そう言うが早いが、空きっぱなしの扉(というか扉が無いのだが)から出ようとする。
「おいおいおい、どうする気だ?」
「徒歩で向かいます」
 真っすぐな目でそういうクラリスに、デュラは呆れはててものが言えない。
「だからぁ、普通に歩いても近づけないって言ってるだろ⁉」
「……じゃあほかに、どうしろと? 今の私には、それしか思いつかないんです‼」
 クラリス、逆ギレである。
「まぁいいや、好きにしな」
 そうして二人は馬車の外に出た。てくてく、てくてく……ずっと歩き続けるが、ちょっと先に塔が見えるものの全然近づくことができない。
 やがて陽が暮れて、あたりはすっかり暗くなってしまった。
「私は、どこをどう歩いているんでしょうか……」
「さぁな」
 デュラは、どうでもいいといった風だ。
(おかしい……)
 仮にも、自分はこの大陸では一番強いと自負している……もちろん、ハンターギルドに登録されているハンターの中では、だ。正確に言うと、自分とほぼ互角のハンターがここフェクダ王国にいるけれども。
 同じSSランクで、クラリスより四つ年上の女丈夫。自分とも知らぬ仲ではなく、友人とまでは行かないが何度かお茶をともにするぐらいには親交があった。
 ただ今はハンターを休業していて、フェクダの首都にあるハンターギルドに受付嬢として勤めているらしい。時間があれば、逢いに行こうとは思っている。
 つまりそれほどの丹力を持つ我が身、数時間歩いたぐらいでこれほどまでに疲労するのはどう考えても不自然なのだ。
「うーん、『物理』で歩いているのは間違いないのだけど……これも呪いによる作用なら何かからくりがあるのかしら?」
「ま、いい線は行ってるとは思うけどな。結構シンプルだぜ?」
(シンプル? どういうことかしら……今、目の前に見えている塔は塔じゃないとか?)
 だが周囲を見渡しても、この塔以外に塔は見当たらない。
「考えろ……考えるんだ、クラリス‼」
 自分を鼓舞するクラリス、だが考えれば考えるほどドツボにハマって頭が上手く回らないでいた。
「しゃーねーな、こんな時間に来訪したってソラが迷惑だろ。今日はとりあえず、街に宿でも取るか? 私は野営でも構わないけどな」
「そうですね。一旦、頭を冷やそうと思います」
 そしてクラリスは踵を返し、家々が立ち並ぶ方向に向かって歩き始めた。そのクラリスの肩に、一匹の蝙蝠――に変化したデュラが留まる。
「デュラ?」
『私は疲れた。だからここで休ませてもらうぜ』
 蝙蝠デュラから聴こえてくる念話に一瞬イラッとしたクラリスだが、付いてきてもらってる手前文句も言えない。何より徒歩でとはクラリスが言い出したことだ。
 やがて二人は街に入るが、そこはいわゆる『スラム』と呼ばれるエリア。少しでも気を抜けば、金はもちろん命まで簡単に持って行かれてしまう。富める者がいる反面で、社会の底辺の縮図がここにあった。
 ここはフェクダ王国、クラリスの伯父であるアルカス王の統べる国にして母・ディオーレの母国。皇帝が直接為政に携わるのは帝国の心臓部ともいえるドゥーベ市国で、クラリスはこの国の政治には関わることができない。
 いや、皇帝となれば伯父王よりも上の立場にはなるものの……自分の振るう指揮棒タクトに誤りがあれば、こういう地域に住む民がその割を食うのだ。未来の皇帝として、その心がけを失ってはいけないとクラリスは自戒する。
「ねぇ、デュラ」
『あん?』
「このようなところに住まう者たちは、ご飯とか食べていけてるのでしょうか」
『んなわきゃねーことは、わからないクラリスじゃないだろ?』
「……うん」
 そしてクラリスは見てしまう。薄暗い路地の奥で、見すぼらしい身なりの少年が……仲間の死体を食べていたのを。
「うぐっ、おえっ……」
 クラリスは、思わずおう吐してしまう。
『おいおい、大丈夫かよ』
 デュラはそう言うと元の姿に戻り、クラリスの背中を優しくさすって介抱した。
「ご、ごめんなさい……そしてありがとう、デュラ」
 そしてクラリスは険しい表情で、再びその少年の様子を遠目に見ながら。
「『アレ』もまた、ここでは?」
「まぁ、そんなに滅多に見るもんじゃないな」
「そうですか」
 あれが『普通じゃない』とわかって安堵するクラリスだったが、
「大抵はあそこまで追いつめられる前に餓死するからな」
 そう漏らすデュラに対して、再び言葉を失ってしまう。
「お腹が空くってのは、哀しいよな」
 そして寂しそうにデュラが呟く。かつて餓死寸前にまで陥ったデュラを、その親友は自らの血を捧げてデュラを救って……その短い生涯を終えた。
 その話を思い出して、クラリスの表情が哀しみに沈む。
「ねぇ、デュラ」
「あん?」
「もし人間の血を吸いたいという欲求が出て、どうしても我慢できなくなったら……そのっ、致死量になるまではあげられないけど」
 そこまで言いかけたクラリスの口を、デュラが塞ぐ。
「気持ちだけもらっとく」
 デュラはぶっきらぼうに一言だけそう言って、なんとも言えない表情でクラリスに微笑みかけるのだった。


 そして翌朝。目の下に隈を作った姿で、クラリスはデュラの前に現れる。
「おいおい、眠れなかったのかよ」
「はい、でもおかげで……からくりの謎を解きました」
「ほぅ?」
 果たして正答か誤答か、デュラの胸は高鳴る。
「で?」
「はい。まず、自分の感覚を疑ってみることから始めました」
「うん、いいね。それで?」
 これは正答を導き出したに違いないと、デュラは確信する。
「『物理』で歩いているのは間違いないのだけど、と私は言いました。まず、これを疑ってみたんですね」
「うん」
「私のように、その……自分で言いたくないですが、じゃじゃ馬はですね?」
「おう」
「『動かない』ことこそが苦痛なんです。」
 クラリスは相当自信があるようで、心持ちドヤ顔だ。
「私もクラリスと同じタイプだからかな、その感覚はわかるよ」
 デュラのその返答に、我が意を得たりとばかりにクラリスの表情は明るくなる。
「それでですね! 時間にして四半刻くらいでしょうか、私はそれぐらいの距離を歩くのはそりゃ多少の疲れはありますが、平気なんです」
(マジで、こいつ……からくり見破りやがった)
 デュラは、高揚感を隠せない。
「ですが、塔にどれだけ近寄っても近づけない……これはデュラの言葉、『シンプル』というのががヒントになったのが悔しいのですが。私は、本当は『塔に近づいていない』のだと判断したのです。そして謎の疲労感、これについて考えてみたんですが」
「うん、いいね。続けて?」
「つまり私は、私とデュラは。そして馬車は……最初から動いていなかったんです。立ち止まっていたんですよ‼ だから私のような脳筋は、同じ場所にずっと立っていることで未知の疲労を感じていたんです……と、思うんです」
 ここまでドヤッてたクラリスだが、ニヤニヤ顔のデュラについつい不安を感じてしまう。
(あれ? 間違ってた⁉)
 だがデュラはニヤリと笑うと、
「ご明察だ、クラリス。だけど、私が『シンプル』と言ったのはそこじゃない」
 意地悪そうにそう口にするデュラだったが、
「あ、そうなのですね。私は二つの意味を持つのだと思ってたんですが……」
 そう言いつつも、クラリスは落胆している様子はなかった。
(二つ? ……まさか?)
 デュラはコホンとわざとらしい咳をしてみせると、
「もう一つはなんだ?」
「ソラ師、ソラさんに会う方法です。このような呪いがかけられてるのは、アポイントのない……もしくは招かれざる客への対策。だったら」
「だったら?」
 デュラは、平静を保ちながらも思わずニヤニヤしたくて仕方がない。このポンコツ姫、ただの脳筋なだけじゃなかったなと。
「アポイントの約束を取ればいいんです! 私もそうですが、いきなり会ったこともない方が訪ねてこられるのは、皇太子の立場上困ります」
「だね」
「幸いにして、私はこの国の皇太子。そして付き添いにはデュラがいます。だからそれを伝えて、『会いたい』と……アポイントを約束してもらえばいいのじゃないかと」
 半分自信なさげで、ちょっとデュラの顔を伺う感じのクラリス。だがデュラは無言で拍手すると、
「上出来だ。誰だって、いきなり面識がない奴に来訪されちゃ戸惑いしかないからな。」
 そしてデュラは懐から携帯型の魔電を取り出すと、指でピポパと操作。そして――。
「ソラ、久しぶり。これからクラリス連れてそこに行こうと思うんだけど、空いてる時間あるか?」
 来訪するのは自分なので連れて行くのはデュラなのだけどと思いながらも、クラリスは黙ってデュラを見守る。
「ん? あぁ、呪いのからくりも解いたよ。コイツ、ただのポンコツじゃないみたいだ」
(どういう意味ですかね⁉)
 と憤慨するも、通話の邪魔はしないクラリス。育ちのよさが、それを邪魔する。
 そして通話を終えたデュラ、魔電を懐に仕舞いながら。
「じゃ、行こうか。向こうも、クラリスに会うの楽しみだってさ?」
「本当ですか!」
 こうしてクラリス、念願のソラとの対面が叶う。だがすぐに、気を引き締めて。
(そういえば、母上が言っていた)
『いずれも人外の神力を持つ賢者たちが住まう塔ぞ。簡単に行けない場所に塔があることもあれば、行くは易しくても入るのが困難な塔、容易に入れるが賢者に逢うまでが困難な塔、すぐに逢えるが帰るのが命がけの塔……』
 云わば天璣の塔は、『簡単に行けない場所に塔があることもあれば』の範疇なのだろう。だから、ソラから課される試練というのは、こんなのは序の口だと思わなければいけない。
「はぁ……なんだか、不安になってきた」
 今回はデュラが意図してそう発言したわけじゃないだろうが、それがとっかかりというかヒントになった。だが、今後もそれをアテにするのはお門違いだ。
(うん、頑張ろう!)
 デュラがクラリスへの試練を何にするか『保留』とした以上、これが初めての試練になるのだ。まるで心臓がギュッと握りつぶされたようなプレッシャーで、クラリスの表情も強ばる。
 そして、いざ行かん天璣の塔へ! クラリスは、腰の聖剣の柄をギュッと握りしめた。
 ――馬車を走らせること十数分。昨日までのそれが嘘みたいに、目に見えて塔がどんどん近づいて大きくクラリスの瞳に映る。
「……」
 昨日、あれだけ苦悩したのはなんだったのだろうと……クラリスは俄に落胆の表情を隠せないでいた。
「クラリス、気持ちはわかるが……お前は一日で答えを導きだした。優秀とも言っていい、だから落ち込むな」
「はぁ……」
「私もお前みたいな優秀な弟子ができて、鼻が高いよ」
「デュラの弟子になった覚えはありませんが⁉」
 だけど、何故だろう。クラリスにとってデュラの弟子という響きが、ちっともイヤじゃない。
(いや、むしろ……)
 自然と、クラリスの頬も緩む。クラリスもまた、知らず知らずのうちにデュラのことを『師』として尊敬し始めていた。


「到着しましたよ」
「ありがとう」
 塔に馬車が到着、クラリスはお礼を言って馬車を降りた。デュラは蝙蝠態に変身して、クラリスの肩にちょこんと留まっている。そして塔に歩を進めるクラリスだったが……。
「あっ……と」
 直径五十センチ、深さ三十センチほどの穴が一階玄関扉の一メートル前ほどの場所に掘られている。危うくクラリスはそこに足を踏み入れるところであった。
「なんでしょう、この穴は?」
 そしてよくよく見ると穴の底には、料理が皿に盛られて置いてある。
「???」
 思わずしゃがみ込んで確認するクラリスだったが、どう見ても料理だ。と言っても王女であるクラリスでは普段は手を付けないような、貧乏人の料理。
 水分が多めの雑穀粥に、まるでカップラーメンの具の大きさほどしかない肉の塊というか粒。そしてその料理皿の隣に、小さなメモ用紙が置いてあるのに気づく。
「読め、ということなんでしょうか?」
『さぁな』
 デュラからは、気のない返事が返ってきた。なのでクラリスも、それ以上は気にしないことにして……落とし穴?を迂回するように回り込んで玄関扉をノックする。
「ごめんくださーい!」
 待つこと二分ほど。中から人の気配が聴こえて、扉が開く。
「どちらさまでしょうか?」
「えっ、猫⁉」
 猫といっても、本当の猫ではない。いや猫ではあるのだけど、二本足で立っているのだ。そして、メイドらしき制服に身を包んでいる。
 まるでおとぎ話に出てくるケットシーのような、三毛猫柄の猫獣人だった。
(あ、奴隷環……)
 そのメイドらしき猫獣人は、赤銅色の首に奴隷環を装着していた。
 このフェクダ王国では、王族から下は五段階の身分制度にわかれている。伯爵以上の貴族を第一等民として、『子爵以下の貴族』『姓持ちの平民』『姓無しの平民』『奴隷民』の順番で第五までに身分が分類されていた。
 そのうち、最下層の奴隷民と呼ばれる身分。それは奴隷環という首輪によってその生殺与奪権はご主人様に委ねられており、『ご主人様に危害を加えること』『ご主人様の命令に背くこと』『自害すること』『逃げること』を奴隷環に施された呪いカースによって制限されている。
 通常の精神状態メンタル下では、その一挙手一投足はご主人様の命令を遂行するために。
 だが強い意志を持ってそれに抗おうとすると……奴隷環の呪いによって、全身に耐え難い激痛およびこの世に存在するありとあらゆる不快感が血流に乗って全身を駆けめぐる。
 云わば人としての尊厳を奪われているともいえるが、その命は『準人権』が保障されていた。
 たとえば不当に痛めつける・人体実験をする・殺めるなどはご主人様と云えど禁じられているし、最低限の食事・睡眠・健康を保証するのは努力義務となっている。
 このフェクダ王国では連座制が採用されていて、たとえば許されざる罪を犯した場合は身分によってその家族も罰せられる場合ケースがある。もし奴隷という身分が存在しなかった場合、その家族には主犯格と同等の刑罰が下らないように奴隷落ちさせることでその命を救済する。
 また貧困ゆえに反社会に足を踏み入れる者、犯罪者に成り下がる者、餓死する者……そういった底辺層に自ら奴隷落ちという道を選択させることで、治安の悪化を防ぐという狙いもあった。
 このカリスト帝国を構成する七ヶ国の内、フェクダ王国だけが奴隷制度を敷いているのは皇室の思惑もある。ほかの六国では自国内での奴隷の売買は禁じているのだが、その制度の有無と是非を鑑別するというもう一つの目的もあって。
 クラリスは、奴隷制度自体には反対ではない。ないが皇女という身分も相まって、奴隷と接触する機会というのは皆無に等しかった。なお選民意識というものが希薄なので、奴隷だからといって必要以上に驕り高ぶる態度は取らないクラリスだ。
「こんにちは、私はクラリス・カ……いえ、クラリスと申す者。来訪の予約を入れてあると思うのですが」
 さすがに、皇女としての名前は名乗りたくない。奴隷という身分の層からすれば、権力者として一番上にいる自分のような存在は面白くないと思ったから。
 その三毛猫柄の猫獣人のメイドはクスッと笑って、
「私のような下賤な者に、敬語は不要です殿下。ただ、あいにくと来訪の報告は受けておりますがソラ師マスター・ソラは留守にしております」
「え?」
 驚くクラリスだが、肩に留まっているデュラをチラッと見やって。
「(この時間に予約を入れてたのではないですか?)」
『空いてる時間を訊いただけだ。行くとは言ったが、逢ってくれるとは言わなかったなそういや』
「……⁉」
 クラリスは、わけがわからないでいる。
 普通、行くと言って都合を訊いて返答をもらえたならば、それは会うという約束にはならないのだろうかと。
「そう、ですか」
 すっかり困惑するクラリスの肩の上で、デュラは開いた扉からチラと上を見やる。もちろんそこには、天井しかないのだけど……デュラのスキルである『射貫く眼ソニック・アイ』を飛ばして。そして高さ五十メートルほど上に位置する最上階の居室で、黒いフード付きのローブを身に纏った魔女――ソラがお茶を飲みながらくつろいでいるのを視認。
 フード部分は後ろに落としていて、強めのウェーブがかかった漆黒の長い髪が、膝裏近くまで伸びている。艶のあるオニキスを思わせる瞳は、陽光や灯りを反射して瞳孔に天使の輪が映って見えるのがミステリアスだ。
『(いるじゃねーか)』
 と思う間もなく、デュラのソレに気づいたのだろう。ソラは下を向くと地面に向かって、笑顔で手を振った。
 傍から見ると、それは床に向かって手を振っているだけにしか見えない。だがその視線の先をずーっとたどっていくと……ソラは、デュラに対して手を振っているということになる。
『(ムカつく!)』
 一瞬憤ったデュラだったが、
『なるほどな、もう試練は始まってるってわけか』
「え? デュラ、それはどういうことでしょう」
『ソラに会うために、試練をクリアしろってことじゃないか?』
 だがクラリスは困惑の表情を隠せず、
「と言いましても……来訪しても逢っていただけないとあっては、試練というのが何を指しているのかわからないではありませんか」
『さっき、あったろ。何かを示唆してるような状況が』
 ハッとして、クラリスは玄関前にあった穴を振り返る。
 そして三毛猫のメイドはデュラのその言葉を受けて少し険しい表情で、
デュラ師マスター・デュラ、殿下へ過度に助言することのないようにとご主人様からの伝言を承っております」
『へーい、気をつけますよ』
 そして玄関扉は閉じられた。クラリスは脱兎のごとく、再び穴を覗き込むのだけど。
「料理、ですよねぇ?」
『あぁ、料理だな』
 訝しがりながらも、クラリスは料理皿の隣に置いてあるメモ用紙を手に取った。
『何が書いてあるんだ?』
「ええと、『料理に手を付けるな』とだけ……」
『へぇ?』
「言われなくても、こんなところに置いてある……しかも貧相な料理を食べようとは思わないのですが。これは何かの謎かけでしょうか?」
(貧相、ね)
 デュラはクラリスの表情を確認するが、特に他意があって言ったわけじゃなさそうだと察する。
(この料理すら、ご馳走だと思える生活をしている奴らもいるんだぜ?)
 そうは思ったが、口には出さず。 
『悪いが私は、ソラに釘を刺されちゃったからな。自分で考えてくれ』
「あうぅ~」
 クラリスは、頭を抱えた。
 その日は結局料理には手を付けずに、宿へ帰る。そして夜遅くまでひたすらその謎かけについて思案するも、とっかかりすら思い浮かばない。
「クラリス、もう夜も遅い。寝たらどうだ? 寝不足のままじゃ、明日以降も先が思いやられるぞ」
「はい、デュラ。でももう、何がなんだか……料理に手を付けるなとあったから、手を付けませんでした。これだけじゃダメなのでしょうか」
 あごに手をあてて、真剣な表情のクラリス。デュラは立ち上がってそんなクラリスの頭に手を置いて、
「一つだけ教えてやる」
「な、なんでしょうか‼」
「あの料理とそのメモは」
「メモは⁉」
 思わず生唾をゴクリと呑み込むクラリスだったが、
「実は謎かけだ!」
 とデュラがドヤるもんだから、思いっきりずっこけてしまった。
「それはわかっているんです!」
 思わず不機嫌そうに返すクラリスだったが、
「じゃあお前、どこでそれを謎かけだと判断したんだ?」
 デュラにそう言われて、クラリスは思わずハッと顔を上げた。
「あ、そうか……謎かけじゃない可能性もあるんですね。ありがとうございます、助かりました」
「ん」
 確かに、謎かけじゃない可能性も僅かながらあった。その場合、意味もないメモを見て無駄に思慮を重ねるところだったのだ。
 だから、謎かけであるということが確定しただけでもありがたい……とクラリスは思ったものの。
「つまり、一歩下がって一歩進んだみたいな」
 要は、最初に戻ってしまっただけだった。
「とりあえず、まだ中には入れてもらえないようです。一旦帰りましょう、デュラ」
 クラリスは踵を返す。一度だけ立ち止まって振り返り、その穴をもう一度遠目で凝視するのだけど。
(わからない……)
 そして宿屋への帰途、『仲間の死体を食べていた少年』がいた細い路地の前を通る。そして何気なく、ふと目をやって。
(まだありますね)
 あの死体は、同じ場所にまだあった。だがクラリスは、そのシルエットに違和感を覚える。
「ちょっと行ってきます」
「お、おいおい! 皇女様が足を踏み入れるようなところじゃ……」
 止めようとするデュラを振り切り、クラリスは現場へ駆け寄っていく。
「まだ死体が放っておかれてるなんて、役人は何をしているんでしょう⁉」
 そんなことを忌々しげにつぶやきながら、クラリスはその死体の前で足を止める。
「これは⁉」
 その死体に折り重なるようにして、別の少年の死体が。その新しい死体は、最初の――こちらも少年の死体と、手をつないで事切れていた。
「最初に食ってた奴だろうな」
「えっ?」
「死んだ奴が許可したかどうか知らねえが、友人の遺体の肉を食ってたんだ」
 かつての親友を思い出し、デュラの表情が曇る。
「死体なんて不衛生な物を食ったせいか、それとも……飢餓状態にある身で高カロリーの物を食べたせいかもしれない。持たなかったんだろうな、その身体が」
 リフィーディング症候群――飢餓状態にある状態で高カロリーの食品をいきなり摂取した場合、高い確率で意識障害もしくは心不全に陥る。
「そんな……そんなことって……」
 友人の遺体とはいえ、それが『久しぶりのご馳走』になると同時に『最後の晩餐』になってしまった皮肉。そして手を繋いだままこの場で果てた少年の気持ちを思って、クラリスの両目から涙が溢れ出て止まらない。
「身体が飢餓状態にある場合、重湯とか胃に優しい低カロリー食から身体を慣らしていかないと、こういうことになるんだ。クラリスも皇女として『高貴なる者の責任と義務ノブレス・オブリージュ』とか言って、貧困層に皇室として食べ物を恵んでやる機会があったと思う」
「はい、ありました」
 涙声で、クラリスが頷く。慈善事業として、孤児院めぐりなどを行っていたのだ。
「そのとき、こうなる可能性を少しでも考えたか? クラリスが恵んでやった食べ物は、そういうことに配慮していたか?」
「⁉ 私はっ、私は知らなかったのです!」
「そうかそうか、知らなかったか。それじゃもしそれで死んでしまっても、『仕方ない』な?」
 デュラのその言葉に、思わずムカッとして立ち上がるクラリスだったが……真っ直ぐに自分を見つめるデュラの真紅の瞳に、思わず目を逸してしまった。
「意地悪な言い方をして済まねぇ」
 デュラはそう言ってクラリスの頭をポンと軽く叩いて、
「でも、無辜の民からしちゃ『知らなかった』で殺されちゃ、たまんねぇよ。為政者として無知は罪だが、これから知っていけばいい」
「はい……はい……」
「じゃあ行くぜ」
 そしてデュラは踵を返すが、クラリスは二人の少年の遺体を前に立ち止まったまま動かないでいる。
「クラリス?」
「このままにはしておけません。教会で埋葬してもらいます」
「おいおい……飢餓で死んでるのは、こいつらだけじゃない。そこらへんを歩き回ってみろよ。まだあるかも知れないぜ? 全部の遺体を教会に運び込むのか?」
 だが毅然とした表情でクラリスは振り向くと、
「九十九を助けられないからと言って、一を放置するのはそれこそ偽善です。私のほうが偽善というなら、それでもよいです。でも私は次期皇帝として……国民の遺体を前に無言で立ち去る人間には……」
 感極まって、クラリスの言葉が続かない。声が、揺れて震える。
「……わかった。じゃあ私はその下の奴を持つから、クラリスは上の奴な。まぁ触りたくないなら、教会なり衛兵なりに」
「大丈夫です。それより、デュラはよいのですか?」
 チラと、下になっているほうの少年の遺体にクラリスは目をやる。もう腐敗が進んでいて、蛆虫が湧いていた。
(私が下の少年のほうを担当するべきだろうか)
 言い出したのは自分だ。まだ新しい遺体である上の少年のほうを、デュラに任せるべきではないだろうか。
 だがそう思いつつも、クラリスは二の足を踏んでしまう。あの遺体を触ること、背負うことに皇女として大切に育てられた身では、どうしても抵抗のほうが勝る。
「大丈夫だ、任せろ。『初心者』のクラリスにしては、上の奴に触れることができるだけでも立派だよ。それに……」
「それに?」
 デュラは一瞬だけ黙って、己の下唇を噛み締める。
「私に血をくれたあいつ、その末路は似たようなもんだったからな」
「あっ‼」
 デュラを生かすために自らの血を捧げた親友は、発見されるまでに七日も落盤のあった洞窟内で野晒しにされていたのだ。七日感ずっとずっと、デュラの横で。
 そしてなんとか近くの老朽化して今にも崩れそうな小さな教会に遺体を預けると、再び二人は宿へ向かって歩き出す。その間、クラリスはずっと無言で。
「ねぇ、デュラ。先ほどの話なのですが」
「その前に」
「え?」
「私ら、臭いが酷い。このままじゃ宿に入れてもらえないだろうから、その川で汚れ落としていくぞ!」
「あ、はい!」
 そして二人は川べりへたどりつく。デュラは遠慮なくぽんぽんと服を脱いで全裸になるが、クラリスはポカーンとして立ち尽くしたままだ。
「どうした、クラリス」
「あの、全部脱ぐのですか⁉」
 幸いにしてこちらの岸は人気ひとけがないものの、対岸では小さく複数の人の姿が見える。男性もいるようだ。
「そうしないと、汚れが全部落ちないだろ?」
 そう言うが否や、デュラは川に入っていく。
「うひょーっ、冷たくて気持ちいいぜ! クラリスも早く来なよ」
「で、でも……」
 こんなところで全裸になるなんてと、クラリスはさすがにドン引きである。だが次の瞬間、デュラから怒気迫る言葉が発せられた。
「お前の裸に何の価値もねーよ」
「⁉ 私を侮辱するのですか!」
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだよ」
 顔を真っ赤にして抗議するクラリスの前で、デュラが少しトーンダウンして困ったような表情を向ける。
「クラリスだって高価な服と鎧を脱いで裸になったら、そこらにいる領民と何ら変わらないんだ。ヘソがあって、ケツの穴があるのも一緒。それとも何か?」
 デュラはずかずかと全裸のままクラリスの元へ歩みよると、
「お前の裸は特別なのか? 皇女の裸は、国民のそれより何倍も価値があるわけだ? ハッ、ご立派だな」
 そして心底呆れたように、クラリスに背を向けて川に戻っていく。
「デュラ……」
 そういう問題じゃないと言いたかったクラリスだが、上手い返しが見つからない。
(確かに、一糸まとわぬ私はただの少女だ……)
 そしてクラリスはゆっくりと鎧に手をかけると、静かに一つずつ身から剥いでいく。そして全裸になると、川に足を踏み入れてデュラに近づいて。
「勉強、させてもらいました」
「……うん」
 デュラは優しく笑って、指でクラリスの乳房をツンと突いた。
「結構スタイルいいのな、クラリス」
「デュラほどじゃありません。それに……」
「それに?」
「栄養が満ち足りているが故の、この身体です」
 そう言うクラリスの表情は、険しい。
「クラリス……上出来だ。もし今私がクラリスの血を吸ったら、ほかの人間のそれに比べて『美味しい』と思うだろうよ」
「デュラ?」
「いいもん食ってて健康的な身体には、その血液も美味いのさ」
「……」
「だけど、いいもん食って健康的な身体の他人の血と比べたら、どっちがクラリスの血かわからないと思う。片方は皇女なのにな?」
 シュンとして、うつむくクラリス。だがデュラは笑って、
「まぁご褒美ってわけじゃないが、一つだけ教えてやる。ソラの塔に入るためのヒント、ここまでで出てるぜ?」
「え? それはどういう」
 だがデュラはそれには応えず、川の水で自らの腕を撫でながら無言で汚れを落とすのみで。
「ここまでの間に、ヒントが?」
「それは宿でゆっくり考えろ。それよりさっさと済ませて服着ないと、風邪ひくぜ? あ、鎧と服も洗うの忘れんなよ。身体の汚れを落とした意味がなくなるからな」
 そう言ってデュラは、畳んでいた背中の羽を左右に思いっきり広げる。水しぶきが舞ったその後には、小さな虹ができていた。


「うぅ、見られたかもしれません」
「何を?」
「裸をですっ‼」
「誰に?」
「誰にって……」
 宿で二人、すっかり陽も暮れて夕食ができるのを待つ頃合い。二人はベッドに腰かけて、おしゃべりで時間を潰す。
「私たちが全裸で水浴みをしていたときに、対岸に人がいたではありませんか」
「あぁ、いたね何人か。ずっと見てる男もいたな」
「……っ‼」
 デュラはあっけらかんとそう言ってみせるが、対してクラリスはそのときのことを思い出して顔が真っ赤になってしまう。
「うぅ、お城の者以外には見せたことがなかったのに……」
「ふーん」
「ふーん、て!」
 デュラは特に興味もなさそうだが、不意に真剣シリアスな表情になる。
「なぁ、お城でクラリスの傍近くに仕える奴ら。多分だけど、全員……クラリスに会う前に全裸で身体検査を受けてるぜ?」
「……健康をチェックするため、ということですか?」
「それは『健康診断』だっ‼」
 デュラの鉄拳が、クラリスの脳天に落ちる。
いった~い!」
「身体検査だ、身体検査。皇女であるあんたの傍に仕えるんだ、武器を隠して持ってないか、毒を隠し持ってないか」
「そんな者は近くに置きません!」
「最後まで聞け。まぁクラリスはそう思っていても、周囲としては万全の対策を取らなくちゃいけない。だから男女問わず、検査官の前で全裸になって武器も毒も持ってないことを証明しなくちゃいけない」
「……そんなの、聞いたこともないですが」
「わざわざ言わねぇだけだろ。当然ながらクラリス、お前のヘソから下には穴が三つあるな?」
「デュラ、いきなり何を……下品です!」
 だがデュラはそんなクラリスを、冷たく一瞥する。
「ケツの穴も性器も。自分でやるのか検査官がやるのか知らないが、広げて中を見るんだ」
「そんなこと……するわけが」
「するのさ。実際、そこに暗器を仕込む奴もいれば、薬を仕込んで密輸入する輩もいるんだ。ちゃんとこれは、新聞で報道されてっぜ?」
 クラリスは新聞は読むが、タイミング悪くその記事を目にしたことは無かった。
「つまり『イケナイコト』をするには、それは常套手段なんだ。クラリスの近くに仕えるメイドや女騎士、身分が低い者は軒並み『身体検査』を受けてるだろうな」
「本当に……⁉」
 クラリスは信じられないことを聴いたとばかりに、唇を震わせる。
「実際私も、過去にディオーレ……お前のかーちゃんに会いに城に馳せ参じたことがある。呼んだのはディオーレなのに、別室に連れていかれて服を脱げとか言われたが?」
「……それで、どうしたのですか?」
「そりゃ気に食わなかったが、そうしないと会わせてもらえないんだ。仕方ないから脱いで、自分で穴を広げて証明したよ」
 だが実際に、このことを後で知ったディオーレはデュラに平謝り。検査官は罰せられたのだけど、それはあえて秘すデュラである。
「デュラが失神した私を帝都に送り返すとき、城門の前に投げ捨てていったのは……」
「……まぁ、そういうことだな」
 デュラはただめんどくさかっただけなのだが、ここは乗っかることにした。
「申し訳ありませんでした」
 そうとも知らずクラリスは、深々と頭を下げる。少なくとも、母・ディオーレとデュラが交友の有った時代にそういうことがあったのは事実だ。
(まぁディオーレに借りを作るために、あえて大人しく従ってやったんだけどね)
 実際にディオーレは今も、それをデュラに対する借りだと心に留め置いている。
「私が皇帝になったら、その悪習は絶とうと思います」
「それは賛成できないな。皇帝になったら、今以上に命を狙われるだろうよ」
「覚悟の上です。実際、私の毒見役はこれまでに何人か死んでますから」
「へぇ……」
 クラリスが静かに、そして思いっきり握った拳は、真っ赤になってパンパンに膨れ上がっている。
「だから私は、強くならないといけません。心身ともに……」
(私の思っている以上に、厳しい環境にあるようだな)
 デュラはクラリスに、そう思いを馳せる。この帝国では、皇太子とて盤石なポジションではない。
 何より現皇帝の血筋を引いてなくても、『より相応しい』と判断されたらいつだって帝国を構成する七ヶ国のいずれかから新皇帝が選ばれる。実際に現皇帝のディオーレは、ここフェクダ王国の元王女であったのだ。
「ま、それはそれとしてソラの試練……いや、試練じゃないな」
「試練じゃない、とは? どういうことでしょうか」
「塔に入れてもらえるかどうかの試験てことだ。塔に入って、初めて試練が言い渡されるだろうよ」
 クラリスは絶望した。てっきり、この課題が試練だと思っていたからだ。
「呪いで近づけないのをクリアして、なおかつあの料理の謎も解いて初めて……スタートラインに立つということですか?」
 クラリスは暗鬱そうな表情で、力弱くつぶやくものの。
「じゃね? ディオーレんときも、確かそうだったはずだ」
 デュラのその言葉に、俄かに色めき立った。
「母もクリアしたのですか。ならば私も、やってみせます!」
「その意気だ。で、何か掴めそうか?」
「デュラはここまでにヒントが出ていると言いましたが……デュラは答えを知っているのですか?」
「いや?」
 何の悪びれもせずにそう言ってのけるデュラに、クラリスは思わずずっこける。
「デュラ⁉」
「いや、ディオーレんときも塔に入るための試練はあった。だが今回のそれとは違う内容だったし。ただ今回のそれは、私の勘が当たってればそうじゃないかなってのがある」
「むぅ……」
 ということは、もしデュラの勘が外れている場合。ここまでにヒントがあったというデュラの言葉も疑ってかからないといけない。
「要は振り出しじゃないですか、もうっ」
 それにしても、あの料理に『手を付けない』ことにくわえて何をすればいいのだろう。少なくとも、あの場で何かをするというのは確実だと思うクラリスだ。
「まぁ、そうだろうな。それは合ってると思う」
「ですよね!」
 だとすると何を? クラリスは頭を抱え込む。
(うーん、料理に手を付けない。付けないで、さらに何か、何を?)
 考えれば考えるほど、ドツボにはまる。
「悩め悩め、ははは」
「他人事だと思って、もうっ!」
「それより、そろそろじゃないか? 飯食いに降りようぜ」
 ここは、食事は宿泊客が共同で食堂で摂る。クラリスも初日は、『何故部屋に運んでこないのか?』と不思議がってデュラを呆れさせたものだ。
 食事を運んでくれる宿なんて、お金持ちしか泊まれない。その事実に、クラリスはカルチャーショックを覚えていたものの。
「楽しみですね、今日の日替わりメニューはなんでしょうか!」
 とそんな感じで、今ではすっかり順応していた。
 そして食堂のある一階への階段を下りて、カウンター席へ。外部から自由に出入りできる食堂ではないので、メニューというものは存在しない。
 宿の主人が決めた食事が出るのみで、それもまたクラリスには新鮮だった。何が出てくるかお楽しみ、というのがクラリスの感想だったが……。
「貧乏な宿屋ってのは、できるだけ材料を安く買おうとする。で、どれが安いかってのは相場ってもんがあるからな。今日はコレが安いからアレを作ろう、それの繰り返しだ」
 デュラのその説明で、ちょっと複雑な心境になってしまうものの。
(それでもやっぱり、何が出てくるかわからないのは楽しんじゃダメだろうか)
 もちろん、それはそれで構わないとデュラは言っただろうけど。
「こういう私のズレた齟齬、感覚というのも正していかなくてはいけませんね」
「飯ぐらい、肩ひじ張らずに好きに食えよ。鬱陶しい……」
 デュラは、本当に面倒くさそうに吐き捨てる。
「デュラ、冷たいです」
「知るか」
 とまぁ二人がそんなやり取りをやっていると、目の前に料理が置かれた。
「……?」
 クラリスは、それを見て訝し気だ。添えられたスプーンにも手を付けずに。
「クラリス、どうした?」
「これ、なんでしょう?」
 クラリスが指さすのは、目の前の料理。もちろん、これはこの食堂にいる全員共通の夕食だ。
「あぁ、雑穀粥だな。疲れた胃には染みわたるぜ?」
 そう言ってデュラは、美味しそうに口にする。だがクラリスはどうにも、手を付けることができないでいた。
 粥を知らないクラリスではないが、水分が多めで煮られた穀物は皿の半分ほどしかない。そしてそれ以外の具は、探さなければ見つからなさそうで。
「こんな、こんな……まるでゲ○みたいな!」
 思わず声が高くなってしまい、食堂の全員が一斉に振り向いた。その視線は明らかにクラリスに対する『敵意』を見せている。
 そしてそれはもちろん、デュラからも発せられていて。そしてもう一人、宿屋の主人も同様だった。
「食事の場で何てこと言うんだい、この子は! 食いたくなければ出て行っておくれ!」
 そう言って、クラリスの目の前の皿を取り上げて厨房に引っ込んでしまった。
「あ、あの!」
 困惑した表情でそれを力なく見送るクラリス、それを意に介さず食事に没頭するデュラ。そして周囲からクラリスに浴びせられる、嫌悪の視線……。
 クラリスはどうしていいかわからず、ポツーンと俯くことしかできなかった。デュラはそんなクラリスに興味ないとばかりに粥を腹に掻っ込み、
「親父! おかわりあるか?」
 と厨房に呼びかける。厨房から宿屋の主人が出てきて、
「すまねぇな、お客さん。今日は人数分の材料を揃えるだけで手いっぱいなんだ……」
「そっか、残念。でも旨かったぜ、ご馳走様!」
「あいよ!」
 宿屋の主人は嬉しそうに笑って、再び厨房へ戻っていく。クラリスには、見向きもせずに。
「どうやら私は、食べ損ねたようです……」
 クラリスは力無く小さくそう呟くと、一人で食堂を出て行った。そのクラリスの背中に、『おう出て行け!』『戻ってくんなよ!』とヤジが飛ぶ。
(……なんでそんなことを言われなきゃいけないの!)
 クラリスにとって、今日の献立はソラの塔で課された試練の料理と似通っていた。ゆえに、人が食べる物としてはいささか?と疑問に思っていたのだけど、何かに気づいてふと立ち止まる。
「私が忌避した料理を……宿の宿泊客たちは美味しそうに食べていた。だとすれば、間違ってるのは私のほう?」
 部屋に一人で戻ったクラリスは、しばし考え込む。ほどなくしてデュラが戻ってきたが、クラリスを見る目つきはシビアだ。
「あ、おかえりなさい」
「……」
 デュラからの返事は、無かった。こちらに、顔を向けてもくれない。
 よくよく考えてみれば、食事中のデュラに『それはゲ○みたい』と言ってしまったのだ。そしてそれは、周囲の客にも大ダメージだったに違いない。
 少ない予算をやりくりして作ってくれた宿屋の主人をも、侮辱してしまったのではないだろうか……クラリスは今さらながらに、自分のしでかしたことの大きさを知って青ざめてしまう。
「デュラ、さっきはすいませんでした」
「……クラリスと仲間だと思われちゃたまらないからな。明日からは部屋をわけよう」
「‼」
 デュラはもう、心底あきれ果てているようにクラリスには見えた。そして部屋を分けようというのも本気だろう。
(今は、どんな言葉を投げかけても失った信用は取り戻せないだろうな)
 クラリスは、意を決する。そして立ち上がると、
「その必要はありません。私が宿を出て行きます」
「クラリスッ⁉」
(ちょっといじめすぎたか?)
 とは思ったが、部屋を別にする手続きは本当に済ませてしまっている。
「宿を出てどうするんだ」
「やっと口を利いてくれましたね。そうですね、何も考えていませんが……私はあまりにも世間知らずだと思うのです」
「うん、そうだな」
 まぁ否定してほしかったわけではないが、ストレートに肯定されてしまうほど自分はズレているのだろうとクラリスは改めて自覚して。
「野営します」
「……どこで?」
 クラリスはSSランクハンターではあるが、それらはすべて『強さ』によるもののみの判定であって。テントを張り火を起こして、硬いパンを無理して食べたり水源を探してといったサバイバルには慣れていない。
 慣れていないというよりは、常にロイヤルマネーで宿泊場所も食事もなんとかしてきたのだ。この世間知らずのお嬢ちゃんに、野営なんかができるはずがないとデュラは渋面を作る。
「なぁ、とりあえず頭を冷やせ?」
「いえ冷えているからこその、決断なんです」
「はぁ……」
 デュラはあきれ果ててもう何も言えなくなってしまったが、クラリスのこの決断がソラの塔に入る試練を打破するきっかけになるとは、このときはまだ知る由もなく――。


「もう一週間か……」
 蝶よ花よと育てられた皇女、いや、SSランクハンターになるぐらいだから本人も皇女としてはわりと苛烈な人生を歩んでいるのかもしれない。だが、皇女いや次期皇帝となる身としては『飢え』とは無関係の生活を送ってきただろう。
「ま、『飢え』を減らす為政者の立場ではあるけど」
 デュラの放った眷属の蝙蝠が常にクラリスを監視しているとはいえ、眷属を通じて伝えられるクラリスの現況は皇女でなくとも厳しいものだった。
「飲まずで三日、食わずで三週間。ここが生死のボーダーラインよ。まだ救いの手は差し伸べないの?」
 宿屋の一室、デュラの隣でそう言葉を投げかけるのはソラだ。クラリスが野営宣言をして出ていってから一週間、デュラはクラリスを監視しつつ手助けはしないというスタンスを保っている。
「まぁ、クラリスは水は飲んでるよ。と言っても不衛生な川の水を飲んでは、都度腹を壊してるけどな」
「皇女としては、未知の経験でしょうね」
「はっきり言って、予定外なんだよなぁ」
 腐っても皇女だ、財布に金はたんまりある。野営なんてかっこつけてたが、背に腹は変えられない。
「だからお腹が空いたら飯屋に入ればいいし、外が寒けりゃ宿屋に泊まるだろう……って思うじゃんか?」
 少し困ったように弁解するデュラだったが、
「それで初日、財布をスられちゃ世話ないと思うんだけど?」
 そうなのだ。クラリスは宿屋を飛び出してすぐに幼いストリートチルドレンと出会い頭にぶつかり、その隙に財布をスられて文無しになってしまった。
 食べ物を買う金もなく、宿屋に泊まる金もない。あてもなく街なかを彷徨うものの、何が解決するわけでもなし。
「仮にも次期皇帝がフェクダの街なかで餓死なんて、下手すりゃ戦争ものだわ。デュラは責任が取れるの?」
「そういじめんなよ。まぁそろそろ迎えに行くべきかとは思ってる」
 普通?ならば、残飯を漁り物盗りにでも身をやつしてでも生き延びようとするのが人間の本能なのだ。だが次期皇帝として育てられたクラリスの矜持プライドが、それを邪魔する。
「川の水を飲んでは腹を壊し、ただあてもなく彷徨う。見ていられねーな」
「見ていられないなら助けに行けば?」
「それなんだよなぁ」
 宿屋を出て行く際、クラリスはデュラに向かって言い放った。
『絶対に私を助けないでください。ソラさんの試練を、なんとか自力で解き明かしたいのです!』
 ただのその台詞も、懐に財布があったからこそのものだとデュラは思う。文無しになって今や生ける屍も同然のクラリスに、そのときと同じ気宇が残っているかどうか。
「あ、やりやがった!」
「何を?」
 眷属の目と耳から伝えられる映像と音声は、デュラに対しては超音波で伝達されるもののソラには伝えられない。ここまですべて、デュラの口伝によって知るのみであった。
「露店のリンゴを一個、店主の目をかすめて持っていきやがったよ」
「とうとう盗みを働きましたか……」
 デュラは、ちょっと楽しそうだ。対照的に、ソラは呆れた表情を隠せない。
「クラリスを軽蔑したか?」
「デュラ、あなたに軽蔑してるのよ」
「解せぬ……」
 そしてデュラの視覚に伝えられるクラリスの映像……なんとかバレずにその場をあとにすることができたクラリスが、手に持ったリンゴを凝視しつつ大粒の涙を流していた。
「まぁ、お腹空いてちゃしょうがない」
「うん……」
 クラリスはここ一週間、水しか口にしていないのだ。そして雨風を凌げる場所で寝られてもいない。
「まぁ花の盛りだけあって、何度か『そういう』ことが目的の野郎に襲われてんだがそこはSSランクハンターだ。都度、見事に返り討ちにしてるんだよな」
 幸いにして、クラリスは帯刀していた。もっともクラリスなら、素手でもそれは可能だっただろう。
「でもそれも、体力あってのことでしょ」
「そうだけど。リンゴ一個ぐらいは大目に見るさ」
 ソラは嘆息すると、
「デュラが決めることじゃないから、それ」
 そしてもう一度大げさに、デュラの前で溜め息をついてみせる。
「あれ? なかなか食わねぇな?」
「どういうこと?」
「リンゴに齧りつこうとする度に、慌てて口から遠ざける……なんてのを繰り返してるや」
「ふーん。心の中で戦ってる、てわけか」
 この場合、何が正解なのかデュラもソラも計りかねていた。クラリスが次期皇帝となる身だけあって、それは絶対にやってほしくないというのと同時に……飢えで苦しむ領民の現状を知ってほしいとも。
「あれ?」
「どうしたの? 食べた?」
「いや、露店のほうへ向かってるんだ」
 クラリスは、リンゴを握りしめて露店に向かう。そして店主の前で両膝をついてリンゴを差し出しながら。
「申し訳有りません。お腹が空いて我慢できず……盗ってしまいました」
 大粒の涙を流しながら、そう言って。
「クラリス……お人好しすぎるぜ」
 そう言うデュラの瞳は、心做こころなしか潤んでいる。
「そうかもしれないけど、もし店主が衛兵に突き出したらことよ⁉ 次期皇帝が、皇女が盗みで捕まったなんて‼」
 顔面蒼白になるソラとは対照的に、デュラの表情は穏やかだ。
「捨てる神あれば拾う神有り、かな。店主はクラリスの正直ぶりに感動してるよ。あ、リンゴをカゴごとクラリスに渡してるや」
「え?」
「クラリス、何か断ってんな。そこは頂いとけよ!」
 結局クラリスは、空腹に勝てなかったのだろう。泣きながら何度も店主に頭を下げ、リンゴが六個ほど入った小さなカゴを抱えて露店を後にする。
 これから後、そう遠くない未来に。クラリスは皇帝として即位することになる。
 そして皇帝の手がけた政策でここフェクダに本拠を構える青果を扱う大きな商会が発足の運びとなるのだが、皇帝直々に会頭に指名されたのはその露店の主人であった。


「……おかえり」
「ただいま帰りました」
 それから三日。宿に帰ってきたクラリスは、ボロボロだった。
 頬はやせこけ、衣服は泥だらけ。ずっと風呂に入っていないせいか、酸っぱい異臭が漂う。
「答え、出たか?」
「……いえ」
 この三日間、クラリスは露天の主人からもらった一カゴのリンゴを大事に食べながら過ごしてきた。そして最後の一個を食べ終えて、デュラの元に戻ってきたのだ。
「野営、ギブアップか?」
 少しからかうようにデュラは口にしたのだが、クラリスはいたって真面目な表情で。
「はい、降参です」
「え?」
「もうお腹が空いて空いて、たまらないのです」
 クラリスがどういう気持ちでその言葉を発しているのか、デュラには計りかねていた。ただ、
「そうか……」
 と応えるのが精いっぱいで。
「宿の主人に重湯でも作ってもらえるようお願いしてくるから、まずはシャワーでも浴びてきな」
 そう言ってデュラは踵を返すのだけど、クラリスによってガシッと後ろ手を掴まれてしまう。
「それにはおよびません。私はもうこの宿を、チェックアウトしています」
「そんなこと言ってる場合か!」
 仮にも帝国の皇太子が、餓死寸前にも近い状態なのだ。それ以前に、デュラは大事な妹分であるクラリスの体調が心配でたまらなかった。
「今の私の身体は、極度の飢餓状態にあります。デュラは言いましたよね?
『身体が飢餓状態にある場合、重湯とか胃に優しい低カロリー食から身体を慣らしていかないといけない』
 って」
「あぁ。だから重湯をだな」
「でも、ここのお宿からいただくわけにはいかないのです」
「意地を張ってる場合か! ルールを守るのは結構だがな? それで死んじゃあ元も子もねーんだよ‼」
 デュラは苛立ちを隠せず、ついつい口調も荒くなる。だがクラリスも譲らない。
「どうせ見ていたのでしょう? 露店の商品を泥棒する私の姿を。返しに行って、泣きながら詫びる無様な私の姿を」
「……」
「生きたい、死にたくない。この極限状態に於いて……ソラさんから出された塔に入るための試練を思い出したのです」
 デュラは、クラリスに握られている自分の手首をチラリと見やる。
(ほとんど握力がないな……腕の筋肉もかなり落ちてる)
「今から、天璣の塔に向かいます。ついてきてくださいますか?」
「そりゃ構わねえけどよ……とりあえず、水の一杯でも口にしてだな」
「それにはおよびません」
 クラリスはそう言うや否や、そのまま前に進みデュラの手首を引っ張る形で先導する。
「お、おい⁉」
 これが餓死寸前の人間、いや少女なのかと疑わしいくらいクラリスは強い意志を秘めた表情を見せるのだけど……。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 百メートル近く歩いては、ぜぇぜぇと大きく息をしながら立ち止まる。その度に心配してデュラが声をかけては歩みを再開する、そんなことを何度か繰り返して。
「着いたぞ、どうするつもりだ?」
「先ほど言ったことを、訂正します」
「どれのことだ?」
 クラリスはそれには答えずにつかつかと『例の穴』に歩みより、そこにまだ料理があることを確認する。料理というよりは、ほとんどが水分の重湯みたいなものだ。
「ソラさんは、毎日料理を取り換えてくれてるようですね」
 それはすっかり冷え切っていたが、どう見ても一日以内には置かれたと思われる新鮮さが見てとれた。
「さっき言ったことの訂正てなんだ?」
「『ソラさんから出された塔に入るための試練を思い出した』との私の発言です。正しくは、思い出したのは『試練』ではなく『料理』のほうです」
「うん?」
 デュラは、さっぱりわけがわからない。だがクラリスは構わずにしゃがみ込むと、料理皿の横にある紙切れを拾い上げて。
「『料理に手を付けるな』、ですか」
 そう小さく呟くと、メモをビリビリと破り始める。
「クラリス⁉」
 心配そうにクラリスの背中に声をかけるデュラだったが、クラリスはまるで憑かれたかのようにメモを破り続けて。
 そしてクラリスはメモを風に乗せて四散させると、デュラに振り向いた。そして涙目で、
「手を付けるな、なんて……できるわけないじゃないですか‼ 私は……私はお腹が空いているんです!」
 そう言ってクラリスは両膝を付き、料理に視線を落としてはゴクリと生唾を呑み込む。そしておもむろに穴の中に両手を入れて……まるでサルがそうするように、夢中で重湯をむさぼり続けた。
 そこには、皇女として淑女教育を受けて育てられたクラリスの姿は どこにもなく――。
「クラリス……」
 どう声をかけていいかわからないで、デュラは困惑を隠せない。だがクラリスは無我夢中で、重湯の中の穀物を右手で左手で掴んでは、口の中に放り込んでいく。
「あぁ、美味しい……美味しい……」
 今クラリスの頬を伝う涙は、まるで動物のように食べ物を貪ってる自分の惨めな姿に対しての涙ではなく。五臓六腑に染み渡る料理の美味しさに、涙を流していたのだった。
 普段のクラリスならば、これを美味しいと思うことはなかっただろう。だがこの十日ほど、クラリスは汚れた水と数個のリンゴしか口にしていない。
「この料理は、こんなにもありがたいものだったのですね!」
 そう言って最後に、スープ皿を両手で持ち上げると残った水分をゴクゴクと飲み干した。
「ぷはーっ‼ 生き返ります!」
 今クラリスの口の周りは、飛び散った重湯でベトベトだ。直接手づかみで食べたものだから、両手もドロッと汚れている有様で。
 デュラは逡巡する。
(『手を付けるな』という指示を破ったことになるが……)
 クラリスのこの行為はそれを勘案してのことか、それともただ重湯がここにあるのを思い出してやってきたのか。するとそのとき、玄関扉が開いた。
「クラリス様、ソラ師マスター・ソラに会う前にまずはお風呂に入っていただきます。こちらへどうぞ」
 そう言って猫の手で塔内に入るよう促したのは、最初にここでクラリスたちに対応した三毛の猫獣人だった。
「えぇっ?」
「えぇって……」
 何故中に入れてもらえるのか、わからないといった風のクラリス。そして、試練に対する答えとして『手を付ける』という手段を選んだのだと思ってたデュラ。
 クラリスは現在の状況に、デュラはクラリスの態度に面食らってしまっていた。
「あの、私は料理に手を付けてしまったのですが⁉」
「そうですね。でもご主人様がお呼びですので」
 不安そうにデュラを見やるクラリスだったが、デュラが無言で頷くのを見て心を決める。
「では、お邪魔いたします」
 塔の中に入り、クラリスは浴室へ案内された。十人ほどの猫のメイドによってクラリスは鎧も衣服も脱がされ、バスタブへ。
 そして十人がかりで顔、身体、髪を洗われていく。さすが皇女というか、そうされることは慣れっこのクラリスは慌てる様子もなく。
 それが終わると、やはり十人がかりで手早く身体を拭き髪を乾かしていく。衣服は洗濯中のようで、代わりに用意されたのは白いワンピース。
「ご主人様とほぼ身長も体形も同じようですね」
 メイドたちが互いにそんなことを言いながら、安堵の表情を見せた。その光景を部屋のすみで立って眺めていたデュラは、何やら考え込んでいる様子だ。
(スプーンもフォークも用意されていなかった。だから『手を付けるな』というのは『手』を付けなきゃいいわけで、犬のように食えばセーフ……だと思ってたんだが)
 だがクラリスは両手を使い、まるでサルのように貪り食った。
「ま、あとでソラから説明があるだろ」
 そしてほどなくしてクラリスの用意が終わり、メイドに促されるまま二人は魔導昇降機エレベーターに乗り込む。
「これより、ご主人様の元へご案内いたします」
 そう言ってメイドはボタンを押すと、昇降機が上昇し始めた。
「なぁ、クラリス」
「はい」
「何故、手を付けた?」
「そんなの決まってるじゃないですか、お腹が空いてたからです」
「……」
 あっけらかんとそう言ってのけるクラリスに、デュラは複雑な感情を覚える。そう自分もかつては、空腹に耐えきれず親友の血を――。
 だがクラリスがそうしたことで、扉は開かれた。果たしてソラが定めた『正解』は、なんであったのか。
(食ったら正解、とか?)
 デュラは、さっぱり見当がつかないでいた。やがて昇降機が留まり、扉が開く。
「ようこそ、クラリス殿下。……と、おまけの蝙蝠」
「誰がおまけだ!」
 そこに立っていたのは、黒いローブを羽織った黒髪黒瞳の妖艶な魔女……ソラであった。


「あの、私のことは呼び捨てで構いません!」
「そう? じゃあそうさせていただくわ」
 最上階より一階下のゲストルーム。クラリスは、ソラにお茶をご馳走になっていた。
「それでね、クラリス。あなたに一つ、お詫びしなければいけないのだけど」
「お詫び、ですか」
 少しソラが、申し訳なさそうに部屋の隅で控えている白猫のメイドをチラ見する。
「あのね、あの子……リトルスノウっていうんだけど、スプーンを用意し忘れちゃったみたいで」
 その白猫のメイドが、申し訳なさそうに無言で何度も頭をペコペコと下げてみせた。
「スプーン、ですか?」
 クラリスはチラリとテーブル上を見やるが、ちゃんとティーカップの数だけスプーンがある。
(何のことだろう?)
「あ、まさかソラ。あの重湯の皿のことか⁉」
 デュラがハッと気づいたように声をあげた。ソラが、無言で頷く。
「えーっと……スプ、え?」
 クラリスは、イマイチ状況把握ができないでいる。デュラはソラをジト目でチラリと一瞥するとクラリスに向き直り、
「だからあの玄関外の料理皿、本当はスプーンがあるはずだったらしい」
「はぁ……」
 だがスプーンの有無は空腹の極限にいたクラリスにとっては些末なことだったのもあり、反応に困る。
「いや、それは全然構わないのですが……それよりもあの料理、どうするのが正解だったのですか? 『料理に手を付けるな』という指示がありましたが」
 もっぱらクラリスが知りたいのは、その一点だった。今こうして塔の中に入れてもらえているのは、正解だったからなのかそれとも?
「特に大したことじゃないわ。食べれば正解ね」
「ふーん。で、その真意は?」
 デュラが胡散臭そうにソラを見ながら、割って入る。
「それを話す前にまず、うちの塔にいる十人のメイド。彼女たちは皆、奴隷環をしている……つまりは奴隷で、私がご主人様なわけだけど」
 ソラが言うには、こういうことだった。
 ここフェクダでは、帝国七ヶ国中で唯一奴隷の売買が合法となっている。だが奴隷だからと言って、決して『物』ではない。
「『準人権』、てのが与えられてるわ」
 人権に準ずる権利、つまり人間とペットの中間ぐらいの立ち位置だ。当然ながら、虐待や理不尽な命令を下すことは法律で禁止されている。
「ただ、禁止されてはいてもね。『従わせる者』と『従わざるを得ない者』の立場にわかれると、それぞれがそれぞれの役目を果たそうとする……まぁ心理学サイコロジーでは結構知られた話なんだけど」(※スタンフォード監獄実験が有名)
「何が言いたい?」
「まぁ要は、『暴走しちゃう』ってことね。ご主人様のほうが」
 そして結果として、理不尽にその生命や尊厳を蹂躙させられてしまう。
「それは買われてからだけじゃなく、奴隷商の元で『商品』として鎮座している間も例外じゃないの」
 実際に数十年前のこと、家事を代わりにやってくれるメイドを募集しようとソラが街まで出たときだ。偶然にも奴隷商のキャラバンを、ソラは目にする。
「ひどいものだったわ。お風呂に入れてもらえないのはもちろん、小さなお皿に入れられた少量の水が渡されるだけ。その水を身体を拭くのに使い、なおかつ喉が乾いたらこれを飲めっていうね」
 だがその水は腐っていて、とてもじゃないが口にできたものではなかった。だがそれでも、死にたくないという本能がその水を口に運ぶ。
「結果として、腹をくだせばいいほう。病気になって医者にも診てもらえないまま、檻の中で死んでいく……見てられなくてね」
「ひどい……」
 クラリスは皇女として、身分制度ヒエラルキーの頂点に立っている。なのでその身分のどれをも否定はしないものの、人として扱われないというのは論外という考えだ。
「不当に奴隷を扱っている奴隷商は一つや二つじゃない。私は各地を巡って、そんな理不尽な目に遭ってる奴隷たちを買い集めたの」
「それがここのメイドさんたちですか?」
 ソラが無言で頷く。クラリスはソラの周囲で甲斐甲斐しく働くメイドを、一人一人観察してみるも。
(誰もが肉付きもよくて毛艶も綺麗。清潔な制服に身を包んで、身体からは石鹸のいい匂いがする)
 何より、楽しそうに働いているのが印象的だった。
(あれ?)
 先ほど、かの重湯の皿を用意する際にスプーンを忘れていたという白猫の――リトルスノウが、申し訳なさそうに俯いたままだ。
「あの、リトルスノウ……でしたっけ。私は気にしてないので、そちらもお気になさらないでくださいな」
 クラリスはそう声をかけるのだけど、リトルスノウは俯いたまま無言で首を振るばかり。困ったようにソラを見やるクラリスだったが、
「先ほどの話に戻るけど、奴隷商にしてもご主人様にしても奴隷に食事を毎日与えないなんて非道な輩も少なくなくて。三日に一度もらえればいいほうだった子もいる。その三日に一度出る食事を再現したのがあの料理なの」
「え……」
 クラリスは、愕然とした。餓死寸前の空腹状態だったからこそはらわたに染み入るほど美味しいと思ったそれも、普段のクラリスの生活では絶対に口にしない貧相な食事だ。
(いや、食事のカテゴリーにすら入らない……まだ家畜のほうがいい物を食べている気がする)
「ちなみにリトルスノウは一旦、奴隷として売られた子でね。そこでのご主人様とやらがとんでもない奴で。もちろん、スプーンなんてしゃれたものは出てこない。だからリトルスノウも奴隷時代を思い出して、ついつい忘れちゃったのね」
 リトルスノウは目に涙を溜めて、何度も無言で頷いていた。クラリスは立ち上がりリトルスノウに歩みよると、ハンカチを差し出して。
「これ、使ってください」
「え、殿下⁉ 私のような下賤な者にそういうことは……」
 仮にも次期皇帝となる皇女にそんなことをされて、リトルスノウは助けを求めるかのように困惑の表情をソラに向ける。だがそんなリトルスノウに、ソラはニッコリと笑って頷いてみせて。
「ここはいただいておきなさい、リトルスノウ」
「はい……はいっ……」
 とうとう涙がボロボロこぼれてしまうリトルスノウ、うやうやしく両手でハンカチを受け取りそれを目に当てる。リトルスノウの肩に優しく手を置くと、クラリスは踵を返して再びソファに戻ってきた。
「あの、ソラさん。これでリトルスノウが、ソラさんに処罰されるなんてことは……」
「もちろん、そんなことはしません。奴隷の不始末はご主人様の責任ですからね。むしろ皇女として、何らか含むところがあるならばそれは私に」
「私もないです‼」
「それは良かったわ」
 良かったのは、クラリスだろう。いくら大陸に二人しかいないSSランクハンターとは云えど、それはハンターギルドに登録されている中でのランクだ。
 塔の六賢者の力、クラリスを遥かに超越する人外の存在である。ソラに限らず、六賢者を敵に回すことは帝国の滅亡をも意味するといっても大げさではないのだ。
「そういうわけですからね、あの重湯ですらご馳走だって思える層がいることを知ってほしかった。そして知ってもらえたら、改めて試練を出すつもりだったのだけど」
「はい、お願いします!」
 クラリスは毅然な表情を浮かべ、背筋を伸ばしてピンッと立ち上がる。
「その必要はないと判断したわ。試練、合格ってことね」
「え?」
「本当は、あれでも口にしたい思えるほどに空腹状態に追い詰めて……最後に重湯を与えてみるってのを考えていたのだけど、自分でそれをやってくるんだもの」
「偶然にも、てわけか」
 デュラが苦笑いをしながら、口をはさむ。
「そういうことね。しかも泣きながら手づかみで貪り、美味しい美味しいって。フフ、本当にびっくりしたわ!」
 そう言ってソラは楽し気に、そして優しい表情でクラリスに微笑みかけた。
「とりあえずクラリス、油断は禁物よ。普通の料理を口にできる程度には体調を回復させないと、あなたはこのままじゃ倒れちゃう。それまでしばらくは、この塔に滞在なさい」
「え、でも⁉」
「次、メグレズ王国は天権の塔のアルテ姉のところね。大丈夫、彼女は私たち六人の中で一番の長寿さんなの。
『時間というのは、人が誕生する前から流れている。そして人が滅んでも流れていくだろう。その大きな奔流の中で齷齪あくせくして生きるなんてもったいない、歩くぐらいの速さでちょうどいいのさ』
 というのが彼女の口癖ね。何ごとも焦らないことよ?」
 メグレズ王国は天権の塔を守護するのは、ハイエルフのアルテだ。賢者中では一番の古参で、その年齢は一万と五千を超える。
アルテ師マスター・アルテ、アルテさんか。どんなお方なんだろう?)
 クラリスはそう心が逸りながらも、
「わかりました。体調が戻るまでお世話になります」
「えぇ、自分の家だと思ってご遠慮なく。あ、デュラは私の家だってことをくれぐれも念頭にね⁉」
 厳しい表情で、言い聞かせるように念を押すソラである。
「どういう意味だよ‼」
 デュラは何やら、不本意そうではあるけれども。
(うーん……デュラ、過去にここで何やらかしたんだろう?)


「ここだな、クラリス」
「ええ、ここですね」
 立ち止まった二人の前に高くそびえるは、もうもうと黒煙を吐く巨大な煙突。
 フェクダ王国からポラリス山脈を右に見ながら南下すると、メグレズ王国。そしてこの国には、六賢者が一人・アルテが住まう天権の塔がある。
「アルテさんは、六人の中ではリーダー格なんだとか」
「まぁ世間からのイメージはそうだろうな。私ら的には、一番上のお姉さんぐらいだ」
 齢一万五千歳を超えるハイエルフで、デュラ曰く『エルフは亜人だが、ハイエルフは精霊だ』とのこと。そして『女神直属の精霊が天使』という。
「ということは、アルテさんは女神直属でない精霊ということでしょうか」
「っていうと語弊があるな。精霊のトップは女神だが、女神のそばで働いている精霊が天使ってこった」
 この大陸には、民の七割以上が『シマノゥ教』を信奉している。そのシマノゥ教が崇める創造神が女神ロード様。
 対して冥府の番人がクロス様で、冥府の番人と言っても悪魔みたいな存在ではなく。
「生と死、光と闇が表裏一体であるように、ロード様とクロス様は仲いいよ」
「それは知っていますが、まるでお知り合いのような物言いですね?」
 シマノゥ教では己の死後、クロス様のお力でロード様のられる天に召し上げてもらうというのが基本的な考え方だ。だが生前に悪いことをしていれば、クロス様は相手にしてくれないとされている。
 クロス様に認められなかった場合、認めてもらうために贖罪の日々を冥府で送る……いわゆる『地獄』と呼ばれる場所で。
「知り合いつーか、会ったことあるしな」
「どなたにですか?」
「ロード様だよ」
「……はい?」
 二人、とある目的により馬車ではなくしばらくは徒歩での旅路だ。そのクラリスの足が、デュラの思いがけない発言で止まる。
「あの、今? ロード様に会ったことがあるみたいな言い方をしました?」
「みたいなつーか、会ったんだっつの。まぁアルテ姉に紹介してもらって、私ら六人と天界みたいな場所でお茶をゴチになったぐらいだけどな」
「私はデュラが何を言っているのかわかりません」
 創造の女神が? お茶? 六賢者の皆さまと?
(デュラは『真祖の吸血鬼トゥルーヴァンパイア』、アルテ師マスター・アルテがハイエルフ……精霊。そしてイチマル師マスター・イチマルが九尾の妖狐で、ターニー師マスター・ターニーが『原初のエルダー・ドワーフ』。ティア師マスター・ティアが『始まりの妖精イニティウム・フェアリー』だから、そりゃ神々と親交があっても不思議じゃないかもしれないけど)
 だがそもそも、神とは地上の生物の前に顕現する存在ではない。せいぜいがとこ、神話でそういう話があるぐらいで。
「私はなんだか、とんでもない人と知り合いになっちゃったのですね……」
「何の話だ?」
「いえ……でもそうすると、ソラさんというのはいったい?」
 ソラを指して、人々が言うには。『呪術師』『魔女(魔導士)』『大商会の会頭』など、人によってその在り方が違う。でもそのどれも『肩書き』のようなものであって、種族としてのそれではない。
 ソラが住まう天璣の塔にて、あの三毛のメイドから聞かされた話をクラリスは思い出していた。ソラが不在時に、暇そうにしていたクラリスとデュラに教えてくれたソラの昔話。
 天璣の塔のメイドは総勢十人、身分は奴隷民である。そして種族としては、妖猫族と呼ばれる猫獣人だ。
 通常の猫獣人は手足に被毛が有り、猫のように肉球状となっていたりいなかったりとさまざまで。共通しているのは頭頂部に猫の耳があること、尻尾があること。
 だが妖猫族は見た目がそのものズバリの猫だ。猫が服を着て、二足歩行で歩く。
「存在は知っていましたが……」
「あぁ、隠れるように生きてるからな普通は。珍しい存在だから、闇の奴隷商人に攫われたり迫害されたりと散々だ」
 ゆえにソラは奴隷として売り飛ばされた彼女たちを買い取り、自らの塔に住まわせて大事に保護している。塔のあるガンマの街では、ソラの奴隷を虐げたらソラから呪われるという『恐怖』が彼女たちを目に見えぬ壁となって守っているのだ。
 全員が、同じ赤銅色の奴隷環を首に装着している。これらは『ソラの奴隷』というアピールも兼ねていて、街の人たちからすれば下手に手を出せない印として役立っていた。
 だが最初から、この奴隷環だったわけではない。当初は、奴隷商または奴隷としての奉公先で装着していた奴隷環のままだったという。
 そして事件は起きた。ソラの元で幸せに働き始めた妖猫族のメイド二人が、街へ買い出しにでかけたときのことだった。
 運悪く二人は、街でも有名なチンピラ数人に囲まれてしまう。
「おいおい、奴隷がいるぜ!」
「しかも妖猫族じゃねーか‼」
「いい値がつくんじゃね?」
 その当時はすでに『ソラの奴隷に手を出すべからず』という不文律は知れ渡っていたものの、誰が『そう』なのかはわからない人にはわからない。
 二人は拉致されそうになり、思いっきり抵抗した。そしてそれが男たちの逆鱗に触れたのだろう。
 男たちは拉致を諦め、『痛めつける』という方向に方針を転換する。猫獣人であるがゆえに最初は善戦していた二人も、戦闘に長けているわけでもなく多勢に無勢では防戦一方となり。
 そして男たちが、
「けっ、俺らに逆らうからだバーカ」
「獣風情が堂々と街歩いてんじゃねぇよ!」
「あー奴隷狩り、楽しーっ‼」
 めいめいがそんな不遜な言葉を吐きながら去ったその場には……撲殺された二人の遺骸が、無残な姿を晒していた。
 棒などで殴られまくった顔はその原型を留めておらず、手足はありえない方向に折れ曲がっている。買ったばかりの食材が散乱し、周囲には夥しい返り血。
 報告を受けてソラとメイドたちが駆け付けたときに、最初に目にした光景だ。
「サビィ! シィル!」
 血相を変えてソラは二人の元に駆け寄ったが、もうすでに心肺は完全に停止していた。それどころか、肋骨すら粉々になっている有様だった。
 ソラの呪術により、犯人たちはすぐに判明する。ソラは犯人たちを塔の地下にある牢に押し込めて、サビィとシィルの葬式の場で。
 二人の墓前でソラを先頭にして、当時在籍していた妖猫族のメイドたち。
「サビィ、シィル……」
 黒いローブを身に纏ったソラは涙をボロボロとこぼしながら、二つの小さな墓の前で両膝をつく。そして嗚咽の声を漏らしながら両手も地について……そのまま、額も土に埋めるかのように顔を地につけた。
 そして、まるでカエルのように地に這いつくばって。
「ごめんなさい……人間がごめんなさい……本当にごめんなさい」
 そんな言葉を、嗚咽を漏らしながら念仏のように繰り返す。何度も、何度も。
 当時からすでにメイド長だった三毛柄のメイド・ミーケは、
「ご主人様、ご主人様は何も悪くないじゃないですか! お顔をあげてください‼」
 墓前にて土下座をしているソラに、ミーケだけではなくその場にいた全員が心配そうに声をかけるのだけど。
「ご主人様は、憑かれたように謝罪の言葉を繰り返すばかりで……」
 当時を思い出して、ミーケの瞳に涙が浮かぶ。
「朝まで降り続いた雨で、地面はぬかるんでいて。それでご主人様の御髪おぐしが、お衣装が泥水を吸い上げて……どんどん泥だらけになっていくのに、お顔を上げてくださらなくてっ」
 そう血を吐くように言葉を絞りだすミーケの頬に、大量の涙粒が伝う。
「ご主人様は悪くない全然悪くないって何度言っても、人間としての謝罪の言葉を繰り返すばかりでお顔を上げてくださらなくて。私たちはとても困ってしまって……とても困ってしまったのですよ」
 そう言ってミーケは両膝から崩れ落ち、両手で顔を覆い泣き出してしまった。その嗚咽が己が言葉をかき消して、もう声が声にならないでいる。
 これは百年ほど前の出来事らしく、当時から在籍していたであろうほかのメイド数人もつられて泣き出した。
 ミーケが落ち着くまで、二人は待った。しばし泣き続けたミーケだったが、涙を拭ってやおら立ち上がると。
 窓の外遠くに見える小さな煙突を指さして、淡々と言葉を紡ぐ。
「あれが何かご存じですか?」
 小さく見える煙突からは、黒煙がもうもうと吹き出していた。それはクラリスたちがフェクダ入りしてからずっと、途絶えることはなく。
「この街のごみ処理場の煙突です。かの炎は消されることなく、何百年も稼働し続けているのですが」
 この出来事は、ソラを盛大に怒り狂わせた。まずソラは犯人たちに『不死』アンデッドの呪を施すと、
「ここで私がいいと言うまで、あの二人に詫び続けなさい」
 そう言って、ゴミ処理場の高温で燃え盛る炉の中に放り投げたのだ。不死となった犯人たちは逃げることもできず、死ぬことも叶わず。
「彼らは今も贖罪の言葉を泣き叫びながら、ここ百年ほどゴミと一緒に燃え続けているのです」
 その壮絶な話に、クラリスは息を呑む。デュラはこの話を知っていたようで、無言だ。
 この出来事を機にソラはメイドたちの奴隷環を自らの呪で解呪して外すと、新たに赤銅色の奴隷環を装着する。そして街の人々に、こう言い放った。
「この赤銅の奴隷環をした者に危害を加えた場合、あなた方は念願の・・・『不死』を手に入れることができます」
 もちろん、不死霊体となってゴミと一緒に燃え続けろという脅しである。
「それからというもの、街の人たちの私たちに対する見方が変わりました。蔑まれることも、理不尽な目に遭うこともなく」
 そう言ってミーケはリトルスノウに目をやる。
「一部のお店には奴隷や獣人が入れないというルールは法律で保護されておりますので、それは街の人も私たちも守らざるを得ませんでしたが……彼女の加入によって、それも解決したんです」
 ミーケがそう言うと同時に、リトルスノウは自らの奴隷環を取り外した。真っ白な光がリトルスノウから放たれ、その光が治まったそこには。
「え、人間⁉」
 さっきまでいた白毛の妖猫ではなく、ソラと同じく黒髪黒瞳の人間の少女。
「彼女は人間ですが、まだ幼いころにここに保護されまして。私たちと同じくメイドとしての仕事に携わることになったのですが、『先輩たちと同じがいい、奴隷環をつけたい猫がいい』と泣いてわがままを申しましてね?」
 苦笑いを浮かべるミーケとは対照的に、リトルスノウだったその妖猫族の少女――本当の名をコユキという十代半ばほどに見えるその人間の少女は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「彼女の奴隷環にはご主人様の手により認識阻害の呪法が施されていまして、装着時には妖猫族に見えてしまうのです」
 そしてミーケはニコリと笑うと、
「そういうわけで、奴隷や獣人の立ち入りが禁止されているお店へのお使いはリトルスノウ、いえコユキに一任しているんですね。普段は奴隷環を装着して妖猫の姿ですが、外すと人間の姿に戻るわけです」
 そう言いながらミーケは自らの奴隷環に手をかけて、ロックを解除して外してみせる。
「もちろん、私たちもこの奴隷環をいつでも自由に外せるんです。首を洗うときに不便だろうからと、ご主人様が」
 そこまでして、ソラは彼女たちを影日向を問わず守護している。クラリスは感銘のあまり、目頭が熱くなるのを感じた。
(守る、というのはこういうことなんだ……)
 クラリスは、次期皇帝として歩む際の心構えとして胸に刻む。
 そしてソラを別れを告げて、二人は『とある場所』へ徒歩で歩を進める。
「ソラさんは、『人間』として亡くなられたお二人に謝罪されていたそうですが……ソラさんは人間なのですか?」
 だがそうだとすると、一つ説明のつかない事実がある。
「今は五千歳を超えるとか」
「そうだな。私より二千年ぐらい年上だ。まぁそんな人間いないわな」
「ですよね……だとしたら、どういう存在なのでしょうか」
「さぁな」
 そう言ってデュラは足を止めて、
「でもソラは、自分のことを人間だって言ってる。だったらそれでいいじゃないか? それとも否定したい何かがクラリスにあるのか?」
「いえ、それはないのですが」
 そのまま無言で歩くことしばし、二人はゴミ処理場の煙突の前で足を止めた。
「ここだな、クラリス」
「ええ、ここですね」
 その巨大な煙突は、近くに寄っただけでも高温の熱気で肌が焼かれる心地だ。そして遥か上空の煙突の穴からは、もうもうと上がる黒煙と同時に――。
「聴こえるか?」
「はい、聴こえます」
 己が罪を悔やみ泣き叫ぶ、罪人たちの赦しを乞う悲嘆の言霊ことば。それは言葉のように聴こえたり、そうでなかったり。
「今も彼らは、己を罰する断罪の炎で燃え続けているのですね」
「だな」
 彼らがソラに赦される日は来るのだろうか? そんなことを思いながら、二人はその場を後にする。
 次なる目的地は六賢者が一人であるハイエルフのアルテが住まう、メグレズ王国は天権の塔――クラリスは、次なる試練に向かって歩みを始めた。
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