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第一章・塔の賢者たち
第一話『天旋の塔・デュラ』
しおりを挟む「おお、聖騎士・クラリス!
おめおめと逃げ帰るとは情けない……。
仕方のない奴だな、そなたにもう一度機会を与えよう!」
いや、いらないし。
クラリスは、ふてくされて横を向く。
──ここ、カリスト帝国の帝都・ドゥーベ市国に、皇帝の居城がある。その玉座での一幕だ。
クラリス・カリスト、十六歳。カリスト帝国の第一皇女にして、カリスト皇帝唯一の嫡子だ。
皇女と言いつつも全身に鎧を纏った騎士の身なりでいることが多く、実際に帝国で数名しかいない聖騎士の一人である。ちなみに聖騎士とは、聖魔法を触媒とした魔法剣士を指す。
背中の半ばあたりまで伸びた、ゆるフワの淡いアッシュブラウンの髪がハーフアップにまとめられている。美しくも若干の幼さを残した勝気そうで精悍な表情には、紫水晶を思わせる美しい澄んだ紫の瞳が特徴的だ。
なお、この瞳の色は皇族特有の色とされていて、貴族平民を問わず皇族以外からこの瞳は誕生しない。
「聖騎士・クラリスよ、聴いておるのか?」
「聖騎士、ね……」
クラリスは溜め息を吐く。
「そもそも母上、私は」
と言いかけるが、
「聖騎士・クラリスよ。玉座の前にては『皇帝』と呼べといつも申しておるだろう⁉」
クラリスはイラッとしながらも、
「申し訳ありませんでした、皇帝陛下」
そう言って、憮然としたまま頭を垂れる……や否や、
「それではせっかく頂いた機会、今度こそ必ずや!」
踵を返して、颯爽とその場を後にするクラリス。後ろから『まだ話は終わっ』とか聴こえてきたが、聴こえなかったフリをしておいた。
憤懣やるかたないといった風で、ズカズカと不機嫌そうに自分の部屋へ向かう。
(まったくもう! 私が望んだのはこういうことではなくて!)
自室に帰って来てから、数人の侍女に手伝ってもらって鎧を外すと、
「このままお風呂に入るわ。服もお願い」
そう言って両手を水平に上げて、服も脱がせてもらう。
一七〇センチはこの国の女性では高身長というわけではないが、鍛え上げられた肉体とバランスのいい頭身で、実際の身長よりも高く見える。
その鍛え上げられた肉体は、あちこちが打撲痕や咬傷だらけで赤黒く腫れ上がっていた。
「ヒエッ!」
侍女たちが、一斉に息を呑んだ。気の弱い侍女の一人が、その凄まじい有様に失神してしまう。
それほどまでに、クラリスの裸体はまるで集団で殴打でも受けたかのような悲惨な有様であった。
「ひっ、姫殿下! だだだだ、大丈……すぐに宮廷医をお呼びいたしますので、しばらくそのままでお待ちください!」
クラリスは侍女が宮廷医を呼びに行かせようとするのをやんわりと制止すると、
「あぁ、いーのいーの。母上に同情させようとしてわざと治さなかったんだから。効果無かったけどねっ、フンッ!」
効果も何も、謁見の間ではフルアーマー姿だったから気づいてもらえなかったのだが。
クラリスとしては、大怪我をしているんだからもう無茶をさせないだろうという目論みがったのだが、それは脆くも崩れ去ってしまった。本当に脳筋ババアは、質が悪い。
「『祝福の聖光』!」
クラリスが両手を水平に掲げてそう詠唱すると、キラキラと無数の光の粒が両の手のひらから顕現し、やがてそれは渦を巻きながらクラリスの体躯を包み込む。
その光の眩しさに侍女たちが思わず顔を背けてしまうが、やがてそれも一時のこと。光の粒が少しずつ消えていき、そこに或るのは大理石の石像のような艶やかで傷一つ無い白い裸体。それが侍女たちを、安堵させる。
「自己治癒したいの我慢して帰って来たのに、あのババアッ‼」
クラリスはギリッと下唇を噛むが、
「姫殿下、皇帝陛下のことをそのように悪しざまに申すものではありません。たとえ皇女といえども、処罰の対象になることもあり得るのですよ」
年配の侍女が嗜めるように説教するのを、
「あり得ーらなーい!」
面白くなさそうにそう言って、浴槽に乱暴に浸かるのだった。
「本当に……私が思ってたのと違う……」
ぶつくさ言いながら城外に出て、小さな旅路を急ぐクラリス。再び北へ、隣国メラクへ。
クラリスは、カリスト皇帝唯一の嫡子だ。皇帝位は基本的には世襲制であるものの、帝国を構成する七ヶ国でより相応しい者がいたら、そちらに皇位が簡単に移る。
(現に、母上だってフェクダ王国の王女だったしね)
クラリスが皇帝として相応しいかどうかは、帝国で政務に携わる者にとって評価が二分していた。彼女としては、嫡子である自分を差し置いて他国の者が皇帝になることは、どうしても承認できない。
だからこそ、この『試練』はある意味で皇帝に立位する為の重要な試金石なのだ。
──あれは半年前、最初の旅立ち前夜。ディナーの席でのことだった。
「クラリスよ、お前はいくつになった?」
この帝国の皇帝にして母であるディオーレ・カリストが、クラリスにそう問いかけた。
(母親ならば娘の年齢ぐらい把握しておきなさいよ……)
とは思ったが、偉大なる皇帝からすれば皇女なぞ国の礎となる為の道具であり、親子の情なんてどうでもいいのだろう。
「今年で十七歳になります」
「そうか……」
ふと、ディオーレは思案気に考え込む。
「? 母上、どうかいたしましたか?」
つられて、クラリスの食事の所作も止まる。
「私が亡き先代から皇帝の座を継承したのも、十七歳のときだった」
(何か始まったよ……てか『も』て何。今年で十七歳になるってだけでまだ十六歳だし)
クラリスは、興味無さそうに食事を再開する。
「私が皇帝の座を継ぐにあたり、先代よりとある試練を課せられた」
「試練、ですか」
何かめんどくさそうな予感がして、内心『ウヘァ……』となるものの顔には出さない。
「そう。それまで皇女であった私は、平民のように自由に城外を出歩くような生活はさせてもらえず、単身で城外へ出るには皇城政府の許可が必要だった。もちろん、許可なんてまず出ないが……」
それは、現・皇女であるクラリスも同様だ。城の外のどこに行くときも複数の近衛兵が、ガッチリと周囲を固める。
その外出ですら皇女としての皇室行事などに限定されており、自由に行きたい場所に行けるわけではなかった。
「『塔の賢者』は知っておるな?」
「はい。カリスト帝国を構成するここ『ドゥーベ市国』を除く六つの国にいらっしゃる、六人の賢者の方々でしょう? 悠久の時空を生き、人でありながら人でなく神でありながら神ではない全知全能の存在……その方たちの力は一人一人が『望めば大陸を統べることができる』ほどだとか」
ディオーレは無言で頷くと、
「先代は私にこう言った。『皇帝位を継承するにあたり、六人の賢者より承諾を得て参れ!』とな」
何かめんどくさそうな感じ。クラリスの頬が、わずかに引き攣る。
そのわずかな一瞬を見逃さなかったディオーレだが、片方の口角を上げてニヤッと笑うと。
「そこで私はたった一人で旅に出たのだ」
……んん? クラリスの瞳に、歓喜の小さな光が宿り始める。これはもしかしてもしかする?
「このカリスト帝国は、横に細長い巨大な大陸だ。そしてここ、帝都・ドゥーベ市国は大陸の西端に位置しておる。東側にそびえるポラリス山脈を時計廻りに迂回して、北にメラク王国、北東に我が兄・アルカスが統治するフェクダ王国、そのまま南下してメグレズ王国。東方へアリオト王国、ミザール王国と続き大陸最東端はベネトナシュ王国……この合計七ヶ国で『カリスト帝国』を構成しておる」
「はい」
ディオーレが次に何を言うのか、クラリスは急かしたいのを我慢しながらジッと待つ。
「大陸最東端のベネトナシュまで、果てしない旅であった」
「お一人で、でしょうか」
「うむ。それまで一人で城を出たことのない私が、生まれ育った国すらも単身で飛び出したのだ。皇宮に暮らす身としては、見るもの触るもの……すべてが初めてで。それは時に困難に遭遇する旅路であったとはいえ、自分の足で山野を駆けめぐるのはかけがえのない愉快な経験であった」
もう、クラリスは食事どころではなくなっていた。
「『かわいい子には旅をさせよ』と偉大なる先人もおっしゃっておる。どうだ、クラリ」
「行きますっっ‼」
ディオーレに最後まで言わせず、バッと挙手しながら全力で立ち上がるクラリス。座ってた椅子が後ろに吹っ飛んだ。
「まぁ落ち着け、クラリス。話は最後まで聞くのだ」
クラリスはニマニマとしてしまいそうな嬉しさを噛み殺しながら、『はい』と小さく返事をして侍女がセッティングしてれた椅子に座り直す。
「……」
「母上?」
不意に暗い表情で黙りこくるディオーレを、クラリスは訝しむ。
「クラリス、よく聞きなさい」
ディオーレは厳しい表情で俯いて考え込んでいたが、キッと顔をあげてクラリスを見やって。
「まずこの旅は、身一つで出立すること。必要とあらば途中でパーティなぞ組んでもよいが、原則は一人だ」
「はい」
クラリスは皇女とは云えど、皇軍では名うての聖騎士である。またハンターギルドに皇族の身ながら登録していて、SSランクハンターの称号も得ている女丈夫だ。
ゆえに、そんなのは覚悟の上だ。今はむしろ、自由に城をそして国を出ていける嬉しさのほうが勝る。
「皇族だろうと平民だろうと、命はひとしく一つのみ。そしてその命が旅の空で果てたとて、それはあなたの運命であると私は考える」
世界各地を回って賢者たちに逢い、皇帝位を継ぐことの許可を得る……ただそれだけのことに、何故命がどうとかいう話になるのだろうか。
「合点のいかぬ、といった風だな」
思わず怪訝な表情になってしまったクラリスに、ディオーレは静かに諭す。
「メラク王国・天璇の塔、フェクダ王国・天璣の塔、メグレズ王国・天権の塔、アリオト王国・玉衡の塔、ミザール王国・開陽の塔、そして最後にベネトナシュ王国・揺光の塔。いずれも人外の神力を持つ賢者たちが住まう塔ぞ。簡単に行けない場所に塔があることもあれば、行くは易しくても入るのが困難な塔、容易に入れるが賢者に逢うまでが困難な塔、すぐに逢えるが帰るのが命がけの塔……私も皇帝位を継ぐにあたり各地の賢者たちと相まみえたものだが、幾人からかは『闘って倒したら合格』という条件も有ったのだ」
「……賢者たちは脳筋なのですか?」
クラリスは半ば呆れたようにディオーレに問うたが、
「そうとしか言えないのが、幾人か居るな。何度殺されかけたやら……」
「えっ⁉」
かつてディオーレは、母国で最強を誇った聖騎士だ。『一騎億万の兵』なんて二つ名もあったくらいで、実際に国を襲った災害級の古代竜を単騎で討伐したのは、まだ若かりし王女だったころの武勇伝である。
ディオーレはフェクダ王国の第一王女だった。王の嫡子は七人いたが、その末娘にして唯一の王女であったのだ。
本来ならば兄王子の立位と同時に臣籍に降下。女大公として王室を支えるというのが、あらかじめ敷かれていたレールだった。
だが、この武勲をきっかけにディオーレとの『後継者争い』が勃発する。ディオーレ自身は女王になる気などさらさらなかったが、出世争いに出遅れた貴族たちが傀儡にしようと暗躍を始めたのだ。
このままでは、王国を二分する内乱になってしまうのは時間の問題だった。そのフェクダ王国の分断を危惧した先代皇帝がディオーレを養女として引き取り、自らの後継者に指名した経緯がある。
「かつては帝国中にその猛名を轟かせた母上であっても、勝つのが容易くなかったと?」
クラリスは震えあがった。それほどまでに、若かりしころの母の勇猛ぶりはよく知っていたからだ。
かのディオーレも老いた。なので自分は、このドゥーベでは今は最強を誇ると自負している。しているのだが……ディオーレの返事は、クラリスをさらに震え上がらせるものだった。
「何を言っておる。私は賢者たちに勝ったとは言っておらぬ」
「へっ?」
思わず声が裏返ってしまうクラリスだ。
「何度も挑んでは負け、挑んでは負け……精神が折れなかったということで、渋々ながら認めてもらった次第だ。情けない話だが」
「……」
そんなバケモノ相手にどうしろというのか。皇帝に立位する前に、社会見学で各地を旅行もとい視察するという話ではなかったか?(※誰もそんなことは言っていない)
「ちなみに皇家の歴史上、数千年ほど前の代に於いては末弟皇子を残して全員が死亡したという言い伝えがある。だが私は、あなたなら必ず試練を乗り越えてみせると信じておる」
(その死亡する側に、可愛い愛娘が入るとは思わないのだろうか?)
これって、『かわいい子には旅をさせよ』ではなく『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』というアレでは? なんだかとっても理不尽で納得がいかない。
とは言え、自由に国の外に出れる千載一遇の機会であることに変わりはない。ならば――。
「かしこまりました、母上。必ずや多分、賢者たちに皇帝位継承の許可をいただいて凱旋してまいります」
「うむ、うむ! ……今、『多分』て言ったか?」
「いえ?」
とまぁそんな会話があって、若干十六歳のクラリス皇女。聖剣を携えて一路、北方の王国・メラクへ一人旅立った……わけなのだが。
「頼もーうっ!」
天璇の塔の前に仁王立ちするクラリス、塔に向けて『いつものように』声を張り上げる。やがて塔の最上階付近から一羽の蝙蝠が羽音も立てずに降りてきて、クラリスの前で人型に顕現した。
身長はクラリスより少し低いだろうか、イチョウの葉を逆さにしたような末広がりの金髪ショート、勝ち気そうな目元。唇からは、二本の牙が見え隠れしている。そして何より、その背中には大きな蝙蝠の羽の少女。
「また来たの? ウザッ!」
メラク王国は天璇の塔に住まう、真祖の吸血鬼のデュラだ。
「今度こそ、勝たせてもらいま」
クラリスがそこまで言いかけたとき、デュラの鉄拳がクラリスの顔面に埋まる。吹っ飛んでしまったクラリスだが、すぐさまバッと立ち上がり。
「いきなり殴るとは卑怯ぞ!」
「……手加減はしたけど、なんで立ち上がれるんだよあんた?」
呆れたように嘆息するデュラだ。これでも腕力には自身がある、というか自分より腕力に勝る存在を知らない。
「もうめんどくさいなぁ。めんどくささはお前の母親以上だよ」
そう言ってデュラは再び蝙蝠の姿に変化し、
「試練、合格ってことでいいから。さっさとフェクダの天璣の塔に行きな? じゃね!」
そう言って、羽音を立てながら塔の最上階へと上昇していく。
「ちょっ、待って!」
おもむろにクラリス、レッグホルダーからナイフを数本引き抜くと。
「いっけぇ~っ‼」
とはるか上空を飛翔する蝙蝠に向けて投てき。すぐさま、
「『追尾する混沌』!」
と叫び、自分の投げたナイフに向かって光の粒を乱射。その光の粒はたちまちのうちにナイフに追いついたかと思うと……ナイフはさらに速度を上昇させる。
ナイフは蝙蝠に追いついたものの、そこは巧みにかわされてしまうのだけど。
「え?」
蝙蝠形態のデュラ、思わず変な声が出てしまった。
なんとかわしたはずのナイフが空中でUターンして、こちらに向かってくるではないか。さすがに油断したというか、クラリスが投げたナイフ五本のうち三本がその蝙蝠の体躯に突き刺さる。
「痛―‼」
まるで撃墜された飛行機のように、ヘロヘロと落下していく蝙蝠。あわや地面に激突する寸前で再び人型に戻ると。
「このクソ皇女‼ 殺す気か!」
「逃げるからです!」
「ほぅ、逃げたら殺していいと?」
次の瞬間、デュラの背後を蝙蝠が一匹二匹……十匹、百匹、二百匹、五百匹。もう向こう側が見えないほどの漆黒の壁を形成する。
「『みんな』、おやつの時間だ‼」
デュラが忌々し気にそう叫んだかと思うと、それらがすべてクラリスに襲いかかってきた。
「卑怯!」
と言いつつクラリス、スパッと抜刀すると蝙蝠をたちまちのうちに討伐していく……ものの、そこは多勢に無勢。やがて一匹、そして二匹とクラリスの鎧の隙間から肌に噛みつき、『血のおやつ』を貪りはじめた。
「あああああっ‼ すっ、吸わないでえぇっ‼」
次々と蝙蝠がまとわりつき、そこにあるのはもはや黒い塊。クラリスの身体はもうどこにも見えないくらい無数の蝙蝠が、その身体に何重にもコーティングしている。
どれぐらい時間が経っただろうか。クラリスが目覚めたのは……塔内にあるデュラのベッドだ。悔しい話だが、『見慣れた天井』である。
(また負けたのか……)
ガチャリと扉が開いて、すっごく不機嫌そうな顔でデュラが入ってきた。
「目が覚めたなら出ていってくんね? あんたのおかげで、ポーションやら包帯やらで無駄な出費だ」
母・カリスト皇帝が言うには、
『そしてその命が旅の空で果てたとて、それはあなたの運命である』
とのことで、クラリスだってとっくに覚悟はできている。いるのだが、デュラに何度挑んでも惨敗敗走の連続。
たまに今回のようにデュラの前で果てたときは、こうして介抱してもらえる。
「デュラ師、毎度のことながら忝い」
申し訳なさそうに、しょんぼりと項垂れてしまうクラリスである。
「だからさぁ? 私からは合格でいいって言ってんじゃん?」
「デュラ師はそうおっしゃるが、それでは私の気が済まぬ!」
非常にめんどくさそうに、デュラが嘆息する。
「仮に次のフェクダ王国・天璣の塔の賢者に謁見が叶ったとて、デュラ師のお目こぼしをいただきましたなどと……恥ずかしくて言えませぬ!」
「あー、じゃあ私から『あいつ』に言っておくよ。めんどくさいのが来るから、『試練は合格』ってことにして次に回せと」
明らかに小馬鹿にしたような提案だったが、しばし考え込んでしまうクラリスだ。
(もともと私の目的は、城から飛び出して観光旅行……じゃなかった。見聞を広げること、ならばこの提案に乗るのは得策なのでは?)
「お、考え込んだ?」
デュラは、少し嬉しそうな表情を浮かべる。本当にクラリスは鬱陶しかったので、自分を諦めてくれるならなんでもよかったのだ。
「いや、いかんいかん。これでメラク、フェクダとスルーできてもメグレズは? アリオト、ミザールは? ベネトナシュでもスルーしてもらえるとは限らない。よって、」
クラリス、ベッドからバッと飛び出して。
「もう一度勝負だ、デ」
とまで言いかけた瞬間に、デュラの渾身の右ストレートをくらい吹っ飛んでしまった。
(はぁ、めんどくさい……)
そしてデュラは失神したクラリスを抱きかかえるようにして、窓の外に羽音を立てて飛び立っていく。そして皇城の門の前まで来ると、無造作にクラリスを投げ捨てて帰って行った。
「おお、聖騎士・クラリス!
おめおめと逃げ帰るとは情けない……。
仕方のない奴だな、そなたにもう一度機会を与えよう!」
いや、逃げてきたわけじゃないし。運ばれただけだし。
皇帝の玉座の前でクラリスは、ふてくされて横を向く。
「母う……皇帝陛下にお訊きします。陛下は、かのデュラ師の試練はどのようにして乗り越えたのですか⁉」
「それを聞いてなんとする?」
「かのバケモノ、私の手には負えませぬ。いったいどのような打開策があるやも、検討が付かず……」
このような言い訳じみたことは言いたくはなかったが、そこはあえて堪える。
クラリスとしては、城から飛び出して自由に動いてみたいというのが本音だ。しかし皇女としてもまた、その務めをなんとしてでも果たしたいというのもあったからだ。
それにここまでボコボコにされて、お目こぼしをもらって次に行くなぞできない。そんな未来の皇帝に、誰もついてきてはくれないだろう。
「デュラ師か……」
ディオーレは、かつて若き皇女だったころのデュラとの邂逅を思い出す。
『試練は合格ってことでいいから、さっさと次行け次!』
『え、マジ? ラッキー‼』
……とてもじゃないが、これをクラリスに明かすわけにはいかない。
というかデュラにもまた口留めしておかなくては。ディオーレは、震えた。
「デュラ師は吸血鬼ぞ。吸血鬼には、吸血鬼の弱点というものがある」
「と言いますと?」
確かに吸血鬼には弱点がある……とされる。古い文献や、子供向けの物語。それらには確かに、吸血鬼の弱点なるものは記されてはいるが。
「たとえば『日光に弱い』とかだな」
「私、真昼間に闘って負けておるのですが?」
憮然として答えるクラリス。
「ふむ。ニンニクに弱い、とか」
「大好物だそうです」
実際デュラの塔で介抱されているときに、ニンニクがたっぷり入った粥を出されたことがあった。そして毒が入っているんじゃないかと懸念するクラリスに、
『毒なんざ入ってねーよ‼』
と言って美味しそうに食べてみせたのだ。
「ぎ、銀の武器にも弱いらしいぞ?」
「私の剣は、ミスリル銀にございます」
打てば響くように帰ってくるクラリスの返事に、ディオーレは言葉に詰まってしまう。
「し、心臓に杭を打たれるとだな、」
「誰だって死にますよ、そんなことされたら」
クラリス、本当に母・ディオーレがデュラを倒したのかどうか懐疑的になってしまう。いや母曰く、
『何度も挑んでは負け、挑んでは負け……精神が折れなかったということで、渋々ながら認めてもらった次第だ』
とのことだったから、少なくともデュラにはそれを認めてもらったのだろうと邪推する。
だがクラリスは、もう心が折れかけていたのだ。デュラは、
『試練、合格ってことでいいから。さっさとフェクダの天璣の塔に行きな?』
とは言ってくれたが、それは認めてもらったということではない。匙を投げられたに等しい。
そんなことでフェクダに向かったとて、どんな顔をしてフェクダの賢者に会えばいいのか。ここドゥーベに凱旋すればいいのか。
「ふむぅ……では、パーティなぞ組んでみては?」
「複数で挑めと?」
クラリス的には論外だったが、何よりディオーレからお墨付きが出たともいえる。複数で挑むのは卑怯ではないのか、いやでも一人ならば永遠に勝てそうにもない。
その葛藤で、クラリスの心は激しく揺れ動く。
「……考えてみます」
そう言ってクラリスは、皇城をあとにした。
「複数で、ねぇ?」
「そうなのだ。私としては、そのような……卑怯な手は使いたくない」
ここ、天璇の塔にクラリスとデュラ。クラリスはいても立ってもいられず、再び参上したのだ。
「うげっ、また来た!」
とドン引きするデュラに、
「相談があるのだ!」
となんとか話を聞いてもらうべく、初めて頭を下げたのだ。らしくないクラリスに対し、油断させる作戦ではないかと警戒しつつもデュラは塔にあげてくれた。
そして母との会話、なんとしてでも認めてもらいたいこと。だが母の言うように複数でデュラに挑むのは抵抗があること、それらを包み隠さず話して。
「デュラ師は、」
「待った」
「?」
「呼び捨て、『デュラ』でいい。あんた将来の皇帝なんだから、そうやたらむやみに自分の上に人を置くな」
「……わかった」
「それとその変な言葉遣いもやめろ。あんたは誰にでも、そんなしゃべり方なのか?」
お茶を淹れてくれながら、デュラが不思議そうに訊ねる。
「そ、そんなわけではないのだが……わ、わかった。善処します」
「そうしてくれ」
そう言ってデュラは、ティーカップをクラリスの前に置いて。
「お前のかーちゃん、私に対してどうしたか言ってた?」
「デュラ師の……デュラの、弱点を攻めたらどうかって」
「弱点、ね。たとえば?」
これは面白そうだと、ニヤニヤしながらデュラは自分のカップに口を付ける。
「えと、日光……」
「確かに日焼けしようとしたら肌が赤くはなるけど、そんなん人間にもたくさんいるだろ?」
「うん」
「ほかには?」
「えっと、ニンニク?」
呆れたような表情で、デュラは嘆息してみせる。
「なんでニンニクが怖いのさ? そりゃ嫌いな吸血鬼もいるかもしれないけど、そもそもあれはクセが強いから人間だって苦手な奴いるだろ?」
「ごもっともです……デュラは好きだもんね?」
「まぁね」
デュラは、ちょっと楽しくなってきていた。『師』呼びを禁止して普通の言葉遣いで話すようにしてもらったら、こいつ結構可愛い奴じゃね?と。
塔の六賢者の中では、デュラは一番新参である。年齢も二千歳は超してはいるものの、一番若いのだ。
ゆえに自身が妹分的な立場ではあっても、自分にとってのそれがいなかった。
(妹ってのがいたら、こんな感じなのかね?)
「デュラのニンニク粥、すごく美味しかったよ!」
「ありがとよ。で、ほかには?」
クラリス、しばし考え込んで。
「ホーンディアの照り焼きも美味しかった!」
デュラ、勢いよくお茶を吹いてしまう。
「そっちの話じゃねぇっ‼」
「あ、弱点の話でしたっけ。ごめんごめん……えっと、銀の武器に弱いとか」
「銀だろうが鉄だろうが、武器で攻撃されたら痛いだろ」
そう言って呆れた視線を投げかけるデュラだが、
「そうなんですよね。でも銀だけ特別って、どっから出たんでしょうか?」
それは気にしないクラリスだ。
「銀食器は毒に反応するから、あんたみたいな王家とかじゃそれ使ってるだろ? 毒が入ってないかどうかの物差しとしてさ」
「うん」
「そっから色々とねじ曲がって、私みたいな存在は銀が弱いとかになったんじゃね」
「デュラみたいな存在てのの意味がわからないです」
キョトンとするクラリスに、
「いや、禍々しい存在だろ。吸血鬼は?」
「その根拠はなんです?」
「え……それはだな」
考え込むデュラだったが、ふとシリアスな表情になって。
「いや、ホント。それ本心か?」
「???」
どうやら本心らしく、クラリスはサッパリわけがわからないといった風で戸惑っている。デュラは……ちょっとだけ優しい表情を浮かべると、
「あんたみたいなのが皇帝になるの、ちょっと楽しみになってきたかな」
と小さく呟いた。
クラリスは皇女でありながら、選民意識が希薄のようだ。
偏見で恐れられるデュラのような種族や、抑圧される種族。そして身分もある中でそれは、帝国の未来にとって明るい材料かもしれない。
(こいつのこと、結構好きかもな私)
デュラはそう感じ始めていた。
「え?」
「いや、なんでもない。それで弱点の話だ、ほかには?」
「あ、うん。心臓に杭を……」
「……それされて、死なない種族っているのか?」
「ですよねー。それ、母にも言いました」
もはやこの場では、姉妹のような会話になってしまっている。会話の内容は、デュラの倒し方なのだけれども。
「んー、私も自分の弱点とか知らないんだよね。あんたさえ良ければ、私に張り付いてそれを見つけてみるかい?」
「え、でも迷惑じゃないですか?」
「……あんた、本当にクラリスなのか?」
つい数時間までウザ絡みしてたクラリスと、目の前にいるクラリスとが結びつかなくてデュラは困惑する。言葉遣いが変わると、心持ちも変化するのだろうか?
「まぁ面白そうだしさ。城から通うのは大変だから、客間一つ貸してやるよ。好きなだけ寝泊まりしていくといい」
「うん、そうする! ありがとう、デュラ」
こうして吸血鬼と皇女の、奇妙な同居生活が始まったのであった。
「では、お願いします!」
「おう、かかってきな」
抜刀と同時にデュラに襲いかかるクラリス。彼女の持つSSランクというのは、ハンターギルドでは最高峰のランクだ。そしてこれは母国ドゥーベのみならず、帝国内にも二人しか存在しない珠玉の存在。
要は『ハンターギルドに登録されているハンターの中では』という但し書きがあるものの、『帝国最強』といっても過言ではないのだ。
その剣速は音速にも匹敵し、その胆力は岩をも穿つ。だがそんなクラリスであっても、『人にして人に非ず、神にして神に非ず』とされる塔の賢者は、どれだけ追いかけてもその背中は見えてこない遠い存在だった。
皇女でありながらその皇城を出奔同様に飛び出し、デュラのいる天璇の塔での同居生活ももう半年が過ぎて――クラリスは、十七歳になっていた。
「クッ‼ ハッ!」
どれだけ音速の剣を振るっても、その切っ先はデュラを掠めることすらできないでいる。剣を薙ぎ払いながら、焦りだけが募っていく。
クラリスは自身の力に溺れて、己惚れているつもりは毛頭なかった。だがここまで力の差を見せつけられると、心も折れそうになるというものだ。
「ほら、隙ありだ」
対してデュラは丸腰で。剣を振りぬいたクラリスの足元を近くにしゃがみ込み、そのまま回転しながらクラリスの足を払う。
「痛!」
自身の振り下ろした剣の遠心力をその身に受けて、地面に叩きつけられてしまうクラリス。呆然としたまま大の字で、もう起き上がる気力もないように……デュラには見えた。
「降参するかい?」
デュラがすっかり油断してしまったとみて、クラリスは左手を鎧の隙間に入れて……。
「これでも喰らえ‼」
と叫びながら飛び起きると、手に握った薬の包み紙を片手で器用に解きながら中の粉末をデュラにぶっかけた。……つもりだった。
「その手は喰うかよ」
そう言ってデュラは、蝙蝠の羽を一閃。クラリスが投げた粉末は、向かい風を受けてそのままクラリスに跳ね返ってくる。そしてそれを吸い込んだクラリス、
「くぁwせdrftgyふじこlp⁉」
ガッと鼻と口を抑え、その場にぶっ倒れて七転八倒だ。目を真っ赤にして涙をポロポロこぼしながら、耐え難い激痛に言葉も出ないでいた。
「何投げたんだ?」
床で悶絶しているクラリスをスルーして、デュラは自分の羽に少しついたその粉末をペロリと舐めて……。
「!?!?! 何じゃこれっ‼」
口を慌てて押さえ、すぐそばの湖まで疾走。ガブガブと浴びるように水を飲み干し、荒い息ながらなんとか正気に返る。
「おい、何投げた⁉」
少し半ギレのデュラ、憤懣やるかたない様子で倒れているクラリスの元に戻ってくるも……。
「失神してやがる」
呆れて、嘆息しか出てこないデュラだった。そしてその日の晩――。
「あれ、何投げたんだ?」
「あー……私の知り合いつか友人に、同じSSランクハンターがいまして」
「うん」
「その子の必殺技なんです」
「というと?」
今日の夕食当番はクラリスだ。クラリスが調理をしていて、デュラは椅子に座ってできあがるのを待っているのだけど。
かの粉末の威力なのか、クラリスの目はまだ赤い。というか目の周りと鼻が腫れあがってしまっている。さらに言うと、声も少しおかしい。
「この大陸で、最凶最悪とも称される唐辛子『女郎鬼』のパウダーに『ビンカンダケ』を混ぜたものですね」
「ビンカンダケって毒キノコだろ? 粘膜に張り付いたら痛覚が十倍以上になってしまうやつ。胞子だっけ?」
「ですね」
(そんなもん投げつけてきたのか……)
ピクピクと口角が引きつるデュラではあったが、結果的にクラリスのほうが目と鼻、喉に直撃をくらった。自業自得もいいところなので、ここは怒りの矛を収める。
「確かに私でもそんなんくらったら、弱点といえなくもないけど。自分が吸引しちまったら意味ないだろ?」
「うまくいくと思ったんです!」
デュラの弱点を見つけたいクラリスと見つけさせてやりたいデュラの奇妙な関係は、相変わらず続いていた。
「相変わらずデュラの料理は美味しいですね!」
「太るぞ、ポンコツ」
「誰がポンコツですか⁉」
今日も今日とてデュラの弱点探し。ありとあらゆる手を使っては、あっさりと迎撃されてジ・エンドがクラリスの日課と化していた。
そしていつもどおりデュラの手料理で英気を養うクラリス、先ほどからフォークとナイフを持った手が止まらないでいる。
(確かに太っちゃうかも……)
自分はマズメシ、というか皇女ゆえに料理など作ったことはない。常に専属シェフがいて、毒見役がいて。
「はぁ、私デュラの妹になりたい……」
「は?」
「娘でもいいです」
デュラ、まんざらでもなさそうな表情ではあるけど。
「どうせ料理目当てなんだろ?」
「ですよ?」
「この食いしん坊め!」
「仕方ないじゃないですか」
思わず食べるのを中断、唇を尖らせて抗議するクラリスだ。
「こんなに美味しいんですもの!」
本当に幸せそうな笑顔でそう言ってみせるもんだから、デュラもそれ以上はからかう気になれなかった。
「王様だって貧乏人だってさ、美味しいものを食べてるときはひとしく幸せなんだ」
「ですね! あ、おかわりいただけますか?」
「勝手に自分でよそってこい!」
言葉遣いは丁寧だが、クラリスはデュラになんでもやってもらいたがろうとする傾向にあった。皇女ゆえに仕方がないのかもしれないけど、そこはデュラを苛立たせる。
おかわりの皿にクラリスがよそっていると、後ろからデュラの言葉。
「そして逆にさ、お腹が空くと皆哀しいんだ。王様だって貧乏人だって……誰だってさ」
(デュラ?)
いつもと違うデュラの声音に、怪訝そうにクラリスが振り返る。
(……泣いてる?)
デュラの目が潤んでいる。そしてその視線の先には……赤ワインが入ったワイングラス。
「デュラ、どうかしましたか? 何か私が怒らせるようなことを……」
「それはいつもだから気にしなくていい」
「どういう意味ですか!」
それでもいつものデュラの軽口が出て、クラリスはホッとする。だけど、さっきの様子はなんだったんだろうか。クラリスの知らないデュラが、確かにそこにいた。
「そういえばデュラってば、」
席に戻りながらテーブルを見渡しつつ、
「血は飲まないのですか?」
クラリスとしては本当に何気のない疑問、質問だった。
ここ天璇の塔に来てからはデュラの眷属である蝙蝠に血を吸われたことがあったが、デュラからはそうされたことがない。そしてまた、デュラが血液を飲んでいるところも見たことがなかった。
(むしろ、美味しそうな料理を食べてばっかりだよね)
食べてばっかりなのはクラリスで、デュラは『作ってばかり』なのだがそれは置いといて。
だがデュラは急に強張った表情になると、
「血なんて美味しくない!」
そう叫んで、両の拳をドンッとテーブルに叩きつけた。皿が揺れ、ワイングラスが倒れる。倒れたワイングラスからこぼれた赤ワインが、テーブルクロスを真紅に染めていく。
「そ、そうなのですか?」
デュラのあまりの剣幕に、クラリスは震え上がった。『賢者の本気』の殺気に、戦慄したのだ。
(何か悪いことを訊いちゃった?)
それはそれとしてデュラがそのままの姿勢で動かないものだから、倒れたワイングラスを直してこぼれたワインを拭き取るクラリス。
「これは、拭き取るだけじゃダメみたいですね。洗濯しないと……」
赤い染みが広がったテーブルクロスを見下ろしながら、クラリスが嘆息する。本来なら吸い上げるようにするのが正解で、クラリスがやったのは『塗り広げる』行為になってしまっていたのだが、皇女ゆえにそこらへんの常識は足りていなかった。
そして、チラッとデュラを見やったのだけど。
「デュラ?」
広がった赤い染みを、デュラが凝視している。その表情は、クラリスにも心当たりがあった。
(あれは、悔悟の表情だ)
デュラの過去に、何かあったのだろうか。吸血鬼でありながら、吸血を否定するような口ぶりで?
「何か……あったのですか?」
「え?」
「私みたいなポンコツでよければ、お話を聴くぐらいはできます」
「自分で言ってやんの」
そういうデュラの表情は暗い。いつものように、からかうように言ってくれてもいいのに……クラリスは、つられて自分のテンションも下がってしまう。
「そうだな、これは誰にも……言ったことなかったかな」
「はい」
「血はさ」
そこまで言って、デュラは口を閉ざす。クラリスは急かすことなく、続きを待った。
「……哀しい味がするんだ」
「哀しい味、ですか」
「ん」
「私は、さ。今みたいに最初から強かったわけじゃない。そりゃ吸血鬼としては常に最上位にいたかもしれないが、そりゃ周囲が弱かっただけでね」
「はい」
「昔は吸血鬼なんて畏怖の対象で、吸血鬼に出会ったら『逃げる』か『排除する』の二択だったんだぜ?」
クラリスは、デュラが何を言っているのかわからなかった。
(排除する???)
畏怖はわかる。だが何故、吸血鬼というだけで排除しなければいけないのか? クラリスは、本気でわからなかった。
「吸血鬼だってことを隠して暮らしてた時期があった。そしてそんな私にも、友人といえる存在ができた。人間のね」
デュラには、仲間といえる『塔の賢者たち』が五人いる。だがそれらはデュラも含めいずれも『人ならざる』存在であり、同じ人外の『仲間』であって『友達』ではなかった。
「そいつ、ハンター業やっててさ。私と二人でパーティを組んでいたんだ」
「デュラが、ですか」
クラリスは、ハンターギルドに所属するSSランクハンターだ。自分と同じSSランクハンターはここメラクの隣国であるフェクダにもう一人いるが、SSランクは最高位。
事実上、クラリス含む二人のSSランクハンターが大陸最強といってもいい。だから、デュラがハンターをやっていたというのがピンとこなかった。
自分よりもはるかに勝るデュラがハンターをやっていたなら、自分の耳にも当然入っているはずだからだ。
「私が生まれる前の話でしょうか」
「だね。千年以上前さ」
だからか、とクラリスは納得する。
「ある日、洞窟内に住み着いてる魔物を倒す依頼を受けてね。二人で中に入った。そして最奥でそいつと戦って、やっつけたまではよかったんだけど」
「はい」
「洞窟が崩落を始めてね。私も彼女も逃げ遅れた」
デュラが、拳を握りしめてギリッと下唇を噛む。多分だけど、ここから先にデュラから聞かされる話は決して楽しいものじゃないだろう。
「私と彼女の周囲は、かろうじて二人で座り込むだけの空間ができてね。大人しく救助を待っていたんだ」
「はい」
「だけど、何日経っても誰も私たちに気づいてくれなかった。食料は底をつき、互いの尿まで飲んでさ」
「……‼」
皇女であるクラリスにとっては、他人の排泄物を飲むという概念は一切なくて。ただただその壮絶さに、打ち震える。
「もう二人とも、餓死寸前までいって……覚悟を決めたんだけどね。最後の最後であいつ、上を脱いで髪を背中側に回してさ。首筋がよく見えるようにして……言ったんだ。
『ねぇ、デュラ。私たちのどちらか一人だけでも生き延びよう。だから私の血、吸っていいよ?』
って。私は彼女に、吸血鬼であることは内緒にしていた。だから、死ぬほど驚いた」
「そんな‼」
デュラの両目から、大粒の涙がこぼれ始める。そして先ほどデュラが、血を吐く思いで叫んだ言葉がクラリスの中でリフレインした。
『お腹が空くと皆哀しいんだ。王様だって貧乏人だって……誰だってさ』
そして、
『血なんて美味しくない!』
この言葉の意味するものは一つしかない。でもその予想が外れてほしいと、クラリスは切に願うのだけど。
「その方の血を……吸ったのですか?」
デュラは、無言で頷いた。
「そんなつもりはなかった。友人を殺して自分が生き延びるよりは、二人で死んだほうがマシだ。だけど……」
涙の止まらないデュラに、クラリスは黙ってハンカチを差し出す。デュラもそれを無言で受け取って。
「我慢できなかった。私の中の、吸血鬼としての性なのか……飢えの乾きを潤してくれるものを、渇望する本能だったのか」
『私ね、知ってたよ。デュラが吸血鬼だってこと、フフ』
そう言って彼女は笑っていた。そして、ずずいっとデュラの背中に両手を回して。
『いいよ?』
二人とも、もう何日も風呂に入っていない。だから汗の匂い肌の匂い垢の匂いと、いろんなものが入り混じった……それは餓死寸前のデュラにとって暴力的ともいえる、そのむせ返るような甘美な生命の芳醇な香りに理性が瓦解した。
無我夢中で彼女の首筋に噛みつき、その血液を余すところなく貪るように吸い続ける。
吸って吸って吸って、腹が満たされたデュラが正気に返ったとき……血液のほとんどを抜き取られた彼女は、すでに絶命していたのだ。
「そんな、そんなことって……」
クラリスの両目からも、涙が止まらない。
「酷いもんだろ? それ以来、私は人間の血は吸ってない。あれは、美味しいものじゃないんだ」
デュラの涙はすでに止まっているが、その眼は真っ赤で。
「結局、私が救助されたのはその七日後のことだ。もし彼女が血液をくれなかったら、私は死んでた。……彼女もだけどな」
両手で鼻と口を覆って二の句が告げずにいるクラリスだ。その七日間、デュラは親友の遺体と一緒にいたのだ。自らの『罪の証』を横目に、ずっとずっと。
「そんな……デュラは、デュラは悪くない! 悪くない!」
どう言って慰めていいかわからず、そう言って泣きわめくクラリスにデュラは優しく微笑みかける。
「私の、弱点だっけ。強いていうなら、それかな。ここぞっていうときにさ? 『人殺し!』って叫んでみるといい。多分、動揺して隙ができるぜ?」
そう言ってデュラは笑ってみせるのだけど、クラリスは涙をボロボロこぼしながら黙って首を振る。何度も、何度も。
「そんなこと、できるわけ……ないじゃないですか」
「皇帝になるための試練、だっけね。クラリスが皇帝になるまで、そしてなってからもさまざまな選択肢に悩むときがくるだろう。そして、心を鬼にしなきゃいけない機会があるかもしれない。だから私から試練を与えるなら、そうだな……私に『どんな手段を使ってもいいから勝て』ってところかねぇ?」
そう言ってデュラは、空になったワイングラスに赤ワインを注ぎ直す。それを見つめるクラリスの瞳は、まるでそんなデュラを責めるかのような視線で。
「お断りします」
「え?」
「私は、正々堂々と勝つ! 人の心の傷を抉らないと皇帝になれないというのなら、私はそうしなくてもいい皇帝になる!」
「クラリス……」
「絶対になる‼」
そう言うがいなや、クラリスはデュラが持っていたワインボトルを強引に奪うと直に口をつけてグビグビとラッパ飲みし始めた。
「お、おいおいっ⁉」
戸惑うデュラを後目に一気呑みしてボトルを空けて、それをドンッとテーブルに置く。口角から垂れるワインの雫を、無造作にグイッと自らの袖で拭き取って。
「私は、デュラが言ったように……王様も貧乏人も、皆笑顔で料理が美味しいって笑える国を造る! 絶対に……」
「あぁ、そうしてくれ」
そう言ってデュラは、自らのワイングラスをクラリスが握っているワインボトルにカチンと合わせて鳴らしてみせたのだった。
「あの、デュラ。前から気になってたのですが」
「あぁ⁉」
「……なんで私、恫喝されているんでしょうか?」
今日は朝からデュラが不機嫌だった。夢見が悪くてよく眠れなかったとデュラは言っていたが、少々納得いかないながらも質問を続ける。
「デュラは魔法が使えるのですか?」
そう言ってクラリスは、部屋の中央を見やって。
ここ、『天璇の塔』の最上階。ほぼ真円に近いこの居室の中央、そこには大きな魔法陣が描かれていたのだ。
「あぁ、アレね。あれはほかの五人との連絡用。魔法陣を描いたのは私じゃねぇ、ソラだ」
「ソラさん、ですか」
クラリスも、名前だけは知っていた。
「あ、ソラ師でしたね! 間違えました‼」
隣国フェクダ王国は天璣の塔の賢者、ソラ。本来ならデュラからの試練をクリアして、次に向かうべき塔の賢者だ。
「あん? 別にいいよ呼び方なんて。言ったろ? むやみやたらに自分の上に人を置くなと」
と、そのときだった。魔法陣の中央にある紋様がペカペカと薄い点滅を始める。
「めんどくせぇなぁ。誰だ?」
ぶつくさ言いながら、デュラはスタスタと魔法陣に歩み寄って。
クラリスの位置からはデュラの背中が死角になっていたのでよく見えなかったが、魔法陣にしゃがみこんで何やらやっている様子のデュラ。
何やってるんだろうとクラリスが思う間もなく、いきなり女性の声が魔法陣から聴こえてきた。
『おはようございます、ソラです。みなさん、変な夢を見ませんでしたか?』
(これは誰の声?)
そう言えばさっきデュラが、『ほかの五人との連絡用』と言っていた。
「じゃあこれはソラ師の声⁉」
クラリスも魔法は使えるが、攻撃魔法と治癒魔法のみ。遠隔地の相手と直接通信する魔法なんて、『存在』は知っていたが見るのは初めてだ。
「あん? 何アレ、ソラの仕業なの?」
『違うわよ!』
声はすれども姿は見えないのだが、デュラを見る限りは『何かが見えている』ような様子。
(デュラには何かが見えている?)
そして、
『デュラ、久しぶり!』
さきほどとは違う、ちょっと幼い感じの少女の声。
「あれ、ティア姉? ソラのところにいるんだ?」
デュラの視線が、さきほど会話をしていた場所と少しずれた。やっぱり何かが見えているようだとクラリスは確信する。
(ん? ティア? どっかで聞いたような……あ‼)
ここポラリス大陸全土を支配するカリスト帝国の、西端にあるのがクラリスの住む皇城のあるドゥーベ市国。対して東端にあるのが、ベネトナシュ王国だ。
(そのベネトナシュは揺光の塔の賢者が、確かティア師……)
まさか自分が逢いに行く予定の賢者に、声だけではあってもソラとティアの声を確認できたことでクラリスは自然と気分が高揚してしまう。
「ねね、デュラ! これってあのソラ師と繋がっているのですか⁉」
ついつい会話に割り込んでしまったクラリスに、デュラは鬱陶しそうな表情で振り返って。
「こらこら、ひっこんでろポンコツ姫!」
片手でシッシッと追い払う仕草をされ、さすがにこれは失礼だったかと反省するクラリス。シュンとして、部屋を出ていってしまった。
居住エリアである最上階の一階下には浴室やトイレ、そしてクラリスが寝泊まりしている客間がある。とりあえず客間に戻ったクラリス、お茶を淹れながらふと思う。
(デュラには全然叶わない。このままだと、最終目的地であるベネトナシュ以前に隣国フェクダ行きもいつになることやら?)
そしてティーカップに注いだお湯をスプーンでかき混ぜつつ、
「自分でお茶を淹れるのにも慣れちゃったなぁ」
これまでは、召使いが全部やってくれていた。服を脱ぐのも着るのも、何から何まで。
「そういや最初のころ、デュラにお茶を淹れてもらおうとして怒られたっけ」
ついつい城にいた『お姫様』の感覚でいて、頭にデュラからのゲンコツをくらっていたのを思い出して。
そしてティーカップに口をつけながら思い出すのは、昨晩デュラが漏らしたこの言葉。
「お腹が空くと皆哀しい、か」
デュラはどんな思いで、自らが手をかけて物言わぬ躯となった親友の隣にいたのだろう。救助がもう少し早ければ、あんな悲劇は起こらなかったはずだ。
そして救助が遅れた責任は最終的には国に、権力者にある。だからこそ自分は、間違えない皇帝にならなければいけない。
クラリスは、改めてその思いを強くする。
(デュラにもお茶、持っていこう)
トレーにティーカップとポットを乗せて、階上へと続く階段を昇る。もう何の声も聴こえてこないので、『通話』は終わったと判断してクラリスは中に入り――。
「デュラ?」
ソファーでデュラは、静かに寝息を立てていた。
(よく眠れなかったって言ってたもんね)
今のデュラになら勝てるだろうか? いやいや、寝込みを襲うのは卑怯者のやることだ。
(でも、こんなときぐらいしか勝てないかもしれない)
クラリスは静かにトレーを足元に置き、そろそろと壁に立てかけてある箒に近寄るとそれを手にする。
(どうせ私の殺気に疾うに気づいているんだろうな)
だが寝たふりをしていたとしても、それはそれでチャンスだ。クラリスは思いっきり箒を振り上げると、
「隙有り‼」
と叫びながら(叫んだら意味がないのだが)、箒の柄の部分を思いっきりデュラの顔面に振り下ろした……のだけど。
そして今クラリスは、泣きべそをかきながら必死で走っている。少しでも塔から遠ざからないと……そんな思いで。
(まさかまさかまさか! 本当に寝ていたなんて⁉)
突然、箒の柄で寝ているところに顔面を棒で殴打されたデュラ。呻きながらソファーから転がり落ちた。思わず心配して駆け寄ろうとしたクラリスだったけど、
(……あ、私まずい。殺される‼)
と思い直し、無我夢中で塔を飛び出したのだ。
「とっ、とりあえずデュラの頭が冷えるまでしばらくは離れていよう!」
完全なる暴行犯でありながらこの言いようである。そしてそんなクラリスを空中で追尾していたのは、一匹の蝙蝠だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……逃げ切れた、かな?」
もう小一時間ぐらい走っただろうか。天璇の塔も遠目に小さく見える距離まで遠ざかった。
全力で走ってきたせいで息も絶え絶えで、玉のような汗が吹き出て止まらない。
「水飲むか?」
「あ、ありがとう。ちょうど喉が乾いてたんだ」
クラリスはお礼を言って、デュラから水筒を受け取って勢いよくそれを喉に流し込む。
「はぁ~、生き返った!」
水筒を返そうとして、クラリスはハッと気づく。今私は、誰にお水をもらった⁉
「そうか、それは何よりだよクラリス」
ギギギ……そんな音でもしそうな感じで、青ざめた表情のクラリスが振り返った先。そこには鼻に血で染まったティッシュを詰めているデュラが、口角を引きつらせながら腕を組んで仁王立ちしていたのだった。
「保留、ですか?」
「あぁ」
天璇の塔の庭に、大きな木がある。そしてそこに無数の蝙蝠――デュラの眷属が逆さの状態で留まっており、遠目には黒い木に見えてしまうほどだ。
その木の根元付近に、ガーデンテーブルとガーデンベンチがある。
ちょうど木々の枝で強い日差しが遮られることから、吸血鬼ゆえにデュラはここでティータイムをするのが日課となっていた。
といって、日光を浴びたら消滅するわけではない。ただ皮膚が赤くなって痛くなるぐらいで、そこらへんは日焼けが苦手な人間とさほど変わらなかった。
「仮にクラリスが私の試練を突破したとしても、もう一人か二人。同じ試練を寄越しそうな脳筋がいるんだよなぁ」
「はぁ」
「で、私の試練にクラリスが突破できなくてそいつのを突破できた場合、あるいはその逆も。正直、突破されたほうは面白くないだろ?」
「まぁわかりますね、はい」
「だから、とりあえず私からの試練は保留。このまま天璣の塔、ソラのところに行こう」
「行こう、とは? ついてきてくださるのですか?」
「あぁ。クラリスが、ほかの賢者の試練をどう突破するか興味があるんでね」
「……で、私はいつまでこの状態なのでしょうか?」
クラリス、ぐるぐるにロープで巻かれて木の枝に逆さで吊るされている。右目は殴られた痕があり、鼻腔には乾いた鼻血がこびりついていた。
「ん? もうちょっとだけな」
「あなたがた賢者の『もうちょっと』って、どのくらいなんですかね?」
塔の賢者六人衆、いずれも『悠久の時空を生きる賢者』なんて云われている。たとえばメグレズにある天権の塔のアルテは一万五千歳を、ベネトナシュは揺光の塔のティアは一万歳を超える。
一番若いデュラでさえ二千歳を超しており、クラリスはデュラとの会話の中で時間を示唆する表現に大きな乖離をしばしば感じていた。たとえば、
『この前あった話なんだけどさ』
で始まるそれは約五百年前の話だったし、
『天璣の塔、ソラのとこ? すぐそこだよ』
隣国フェクダには、馬車だと四泊五日はかかってしまう。ゆえに、デュラの『もうちょっとだけ』に戦慄した。
「あのですね、デュラ?」
「うん?」
「吸血鬼であるあなたは平気でしょうが、人間は長く逆さに吊られると死んでしまうのです」
「ふーん」
「ふーん、て……」
クラリスは、心の底から絶望する。
あれからデュラにふるぼっこにされ、こうして逆さで木に吊るされてもう半日以上だろうか。頭がクラクラするし、目もよく見えなくなってきた。※絶対に真似をしないでください。
「あの、許していただくわけには?」
「お前は寝てるところをいきなり顔面を棒でしばかれて、許せるのか?」
それを言われては、クラリスも二の句が告げない。そして姫故の傲慢さが出てしまったことを、クラリスは後で後悔することになる。
「かの大賢者と云えど、寝てるときは不用心なのですね?」
言ってから『しまった!』と思ったが、後の祭りだ。
「クラリスと一緒だから、心を許してたんだよなぁ」
「あ……」
「まさか、あんな目に遭うとはね? もう人間信用しちゃいけないって学んだよ」
「あ、いや、違……」
デュラはまるで汚物でも見るかのようにクラリスを一瞥すると、美味しそうにティーカップに口をつける。
「まぁこれはマジな話だけどさ。ベネトナシュは揺光の塔のティア姉、あれはかなり人間嫌いだ。現に、これから天璣の塔に向かうってソラに伝えたんだけど」
「はい」
「ソラのとこにティア姉いるらしくて。なんかクラリスに会いたくなさそうで、さっさと出ちゃったってよ」
「……」
ティアがクラリスに会いたくない理由は別にあったのだが、あえてそれを利用するデュラだ。
「ティア姉の気持ちわかるかもなぁ。人間て本当にクソだわ」
「あうぅ……大変、申し訳ありませんでした」
「反省してるか?」
「してますしてます! もう二度と不意打ちはしません‼」
「そうしてくれ」
デュラは指をパチンと鳴らす。それに反応して、枝に結んでいたロープがスルッとほどけて……クラリスはぐるぐる巻きにされているもんだから、脳天から地面に落ちてしまった。
そしてゴンッっていう鈍い音とともに、星が散って。
「あぅ?」
そしてそのまま、アへ顔で無事失神してしまう。
「ソラはこのポンコツに、どんな試練を課すのやら?」
デュラは倒れているクラリスを見やりながら、二杯目のお茶に口を付けたのだった。
――そして翌日。
フェクダ王国の首都ベータの郊外に、デュラの住まう天璇の塔がある。デュラとクラリスの二人はその塔を後にして、一路寝台付き馬車で隣国フェクダを目指す。
二人の行先は、フェクダの首都ガンマにある天璣の塔。大陸随一の魔女にして呪術師と呼ばれる、六賢者が一人・ソラが住まう塔だ。
馬車の中にはデュラとクラリスの二人のみ。この馬車は、クラリスが手配したのだけど……。
「皇女という立場を離れ、こうして平民の馬車に揺られる……こういう経験も、これからいっぱいしていかないといけません」
「……」
「にしても、平民の馬車とはこのように揺れるものですね。皇家の馬車とは勝手が違って……ちょっと馬車酔いしそうです」
「……」
「でも何ごとも『経験』、ですね!」
城から離れた生活という意味では、デュラの元で一年にも満たないものの過ごした経験はある。天璇の塔とて隣国なのだから、そこまでの往路は皇女としてはそれなりに新鮮な旅の経験ではあったけれど。
だがこうして、クラリスいうところの『平民の馬車で旅』は初めての経験であった。
「デュラ、さっきから無言ですね?」
「だってそりゃお前……」
ずっと皇女だったから仕方がないとはいえ、こうもクラリスが世間知らずであるのはほっとくべきなのか、それとも……いや、今後のことを考えると。
「真剣に言ってるみたいだし、ツッコミ待ちじゃなさそうだからあえて言うが」
「はい?」
「確かに平民が使う馬車かもしれん。だがこのクラスの馬車を手配できる平民なんて、少なくともあんたの母国じゃ百人もいないぞ?」
「??? 桁を間違えていませんか? 帝都の人口のうち、平民位は約五千万人とされていますが?」
「間違えてねーよっ! その五千万だかのうちの百人くらいしか、こんな『豪華』な馬車には乗れないっつーてんだ」
「豪華……どこらへんがでしょう?」
デュラは、めんどくさそうにため息をついた。
「まず、私とクラリスだけの利用。云わば貸切だ。これは特別料金が発生する」
「そうなのですか」
イラッとしたが、なんとかそこは抑えるデュラ。
「そして寝台付き。平民が普通に乗る馬車には、寝台なんて付いていない」
「なるほど、宿屋に泊まりながら進むのですね」
「そうじゃねぇっ!」
いや、そういう乗合馬車もあるが説明が長くなるのでここは省略して……もうこいつ殴ってやろうか? さっきからデュラは、そんな誘惑と戦っている。
「椅子に座って寝るんだ。さっきの話に戻るが、貸切じゃないから知らない人と並んで椅子に座って寝るんだよ。夜通し朝までな」
「椅子はベッドじゃありませんよ?」
クラリスは椅子に座ってうたたねぐらいはしたことあるが、朝まで椅子に座って寝るという感覚が理解できないでいるようで。
「誰もがベッドで寝ていられると思うな」
デュラはもう爆発寸前だ。
「ベッドどころか、座席しかねーんだ。この馬車みたいにトイレも無ければ、荷室もねぇ」
それを聴いてクラリスは、全然想像ができないようでポカーンとしている。
「トイレはどうするのですか?」
「止めてもらうんだよ。しっこするから止めてくれ、うんこするから止めてくれって皆の前でお願いしてな」
「……それは、人の尊厳というものが」
青い顔で呆然としながらつぶやくクラリスに、
「で、訊かれる前に言うが……停めたところに、必ずしもトイレがあるわけじゃない。むしろ、ないほうが普通だ。だから木の陰やら、草むらに隠れてそこでやるんだ。お前、外で用を足したことないだろ?」
「はい……」
「うら若い女性がさ? いつ誰が来るともわからない恐怖と抱き合いながら、お日様の下でお尻出してんだよ。しかも、トイレに行くために馬車を止めてもらって」
デュラはクラリスを改めて一瞥すると、
「それが本当の『平民の馬車』だ。翻ってお前の言う平民の馬車、つまりこのクラスの馬車な。こいつに乗るには、平均的な平民の年収の半分は軽く吹っ飛ぶ」
「そっ……うなのですか」
シュンとして俯いてしまうクラリス。デュラはちょっと責めすぎたかなと思いつつも、ここは心を鬼にする。
「お城を飛び出して、念願の『平民の生活』ができて良かったなぁ? おい?」
デュラは思い出していた。クラリスはデュラの元で、天璇の塔で十七歳の誕生日を迎えたのだが……本来なら、母国で盛大に祝われたはずだった。国民の前でお披露目、パレード、そしてご馳走。
だが今はこの塔に二人きり、使用人もいなければご馳走もない。せめてもと思い街の肉屋まで遠出して、一番高い霜降りのステーキ肉を買ってきた日のこと。
「このサンダルの底みたいなお肉も、なかなかいけてますね!」
本気でそう言ってたもんだから、怒りを通り越して空しくなったものだ。なので、嫌味の一つでも言わなければ気が済まなかったのだけど――。
「え、クラリス?」
クラリスは両の拳をギュっと握りしめて……歯を食いしばってホロホロと涙を落している。
(ヤバ、言いすぎた?)
とデュラは少し後悔する。でもクラリスは涙を袖で拭うと、キッと顔を上げて。
「デュラ」
「あ?」
「お願いです。今後もこのように、私が浮足立った発言や行動をしたら諫めてほしいのです」
しばしの沈黙のあと、デュラは少し優しく微笑みながらクラリスの頭に手を置く。
「そうだな、引き受けた。ただ今のは『知らなかった』だけだ、浮足だったわけじゃない」
そう優しく諭すデュラに、クラリスの表情は真剣だ。
「知らなかったなら知ればいい。そして誰かが助けを求めていたら、手を貸してやんな。それが力を持つ者の……義務とまでは言わないが」
「いえ、義務です! 少なくとも、私にとっては!」
そう、『高貴なる者の責任と義務』。王侯貴族ならば、誰もが幼少のときから諭される心構えだ。
だがそれを守れている王侯貴族は、どのくらいいるのか。少なくともそう多くないことをデュラは知っていたし、多くの平民も感じとっているだろう。
「そうか。忘れないでくれよ」
「はい、もちろんです。だから、私の目を覚まさせてください!」
そう言ってクラリスは、目をギュッとつぶって左頬を差し出してみせた。
「……何しろと? キスでもすりゃいいのか?」
本気でデュラはわからなかったのだが、
「からかわないでください! これより私が一つミスをする度に、頬を打ってほしいのです」
「いや、殴るほどのことでは」
さっきまで殴り飛ばしたい情動と戦っていたデュラだったが、
「わかってくれればそれでいいんだ」
今はそんな気もすっかり治まっていた。だがクラリスは、頑として引き下がらない。
「私の気が済まないのです! お願いです!」
(はぁ~、めんどくさい)
「殴られたその痛みの一つ一つを、我が身に刻みつけたいのです!」
だが未来の皇帝であるクラリスのその姿勢に、デュラの頬も少し緩む。上が誤ればそのツケは下が払わされるのは、この世の常だったからだ。
(そうしたくないのが、こいつの目指す『皇帝像』なんだっけな)
「わかったよ、クラリスのその覚悟は買ってやる。歯ぁ、食いしばりな」
「はい、お願いします!」
ギュッと目を、そして歯を食いしばるクラリス。そして――。
『ドゴォッ‼』
凄まじい音がして、馬車の扉が吹っ飛んだ。そして馬車の外に放り出され地面に叩きつけられたクラリスの左頬には、真っ赤な手形が。
「やべっ!」
デュラは慌てて自分も馬車を飛び降りて、クラリスを抱き上げて具合を確認するものの……。
「おいクラリス⁉ クラリス‼」
残念ながら、クラリスの頭にはピヨピヨ鳥が旋回している。両の鼻の穴からは鼻血が噴出していた。
「返事がない……ただの屍のようだ」
今度からはちゃんと手加減しよう、デュラはそう心の底から誓ったのだった。
気絶したままのクラリスを再度馬車に放り込んで、隣国フェクダへ向かう道すがら。デュラはうたた寝をしていた。
そしてそこは、真っ白の世界。前も後ろも、右も左も、上も下も。
「また、ここか」
デュラは、呆れたようにため息をつく。
これは夢だ、と自分でもわかっている。そして、初めて見る夢でもない。
(うぜぇ『明晰夢』だ。『奴』もまた、出演するのかねぇ?)
呆れたような表情で、とりあえずその場であぐらで座る。もしクラリスがここにいたら、女の子らしくないと説教の一つでも飛ばしてきたかもしれない。
座っているのに、座っている気がしない。お尻に床の感触がない。
かといって、浮いているわけでもなさそうで……ただ俯瞰で見たら、そう見えるのかもしれないけれど。
ここ数百年ほど、たまに見る夢だ。そしていつもいつも、『奴』が出てきて終わる。
(来たな……)
足音もしない。気配もしない。だけどいきなり登場する『それ』に、何故か驚かない自分がいる。
今座り込んでいるデュラの目前、十メートルほど前方にどこから現れたとかそんなのじゃなしに……いつのまにか、一人の少女が立っていた。
本当にいつのまにかで、でもそれを普通に受け入れている自分がいる。
「よぉ!」
気さくに片手を挙げて声をかけてみるが、その少女は困ったように小さく笑うだけ。
「私はデュラってんだ。あんたは?」
この問いかけにも、その少女は沈黙を守る。ただただずっと、デュラを見つめている。
(ま、返事がないことはわかってんだ。そろそろ私、起きるかな?)
毎回毎回毎回、ずっとこう。どこまでも永遠に白が続くこの場所で、『よぉ!』と声をかけて『私はデュラ。あんたは?』ってもう何度言っただろうか。
そしてこのタイミングで、目が覚めるのだ。
別に不快な夢でもなし、特に意味もなさそうだし興味もないので、特に誰かに相談したりはしていなかったけれど。
(……おかしい)
これまでに幾度と見たこの夢では、『ここから先』がなかった。
(ふむ、ちょっと動いてみるか)
そう思って立ち上がり、スタスタスタとその少女に歩み寄ったら――。
「いやっ、ちょっと待って!」
その少女が凄く狼狽した顔で、両手の平をこちらに突き出してストップのジェスチャー。
(お? しゃべった)
とりあえずリクエストどおり、立ち止まってはみるものの。
「あんた、そんな声してたんだな」
「……っ‼ いや普通、私のことを訝しんで用心したりとかするでしょ⁉」
「普通って言われてもな」
なんだかめんどくさそうな予兆を、デュラは感じ取る。
「で、あんた誰だ?」
「……リリィ」
「リリィ、リリィか。私はデュラだ。よろしくな?」
リリィは無言のまま、頷く。
「しっかしお前、変な恰好してんな?」
「リリィ‼」
「あ、そうかすまんすまん。リリィ」
自己紹介の直後にお前呼ばわりは、ちょっとやっちゃいけなかったかなとデュラは自省する。
しかし実際、デュラの言うように『リリィ』はこの世界ではどこで見かけるのか不明な、奇抜な衣装をしていた。
まずリリィは臀部近くまである長いストレートの黒髪。そして象牙色の白い顔肌と、黒い瞳。
身長は一六五センチのデュラと同じくらいだろうか? 黒いチューブトップのトップスは下端がレースになっていて、尺が臍のすぐ上までしかない。なので、可愛いおへそと白いお腹がこんにちはをしている。
腕には、上腕半ばまである長いロングの黒皮手袋。そしてヒラヒラふわふわしている黒いレースが彩る黒いミニスカートは、ややもすれば下着が見えそうだ。
(というか見えてないか?)
デュラから見えているそれが下着ならば、下着も黒ということになるだろう。足の白い肌が透けて見える低デニールの黒いストッキングに、くるぶしを隠す程度の高さしかない黒皮のブーツ。
そして右手に握られている魔法の杖もまた、黒いのだ。
もうとにかく、頭の先から手足の爪の先まで全部黒。露出している肩と腹、顔を除けばだが。
「葬式でも行くのか?」
茶化すようにそう問うデュラに、リリィは黙って首を振る。ちょっとイラついているようにも見えた。
「まぁ、そんな痴女みたいな恰好で葬式行ったら怒られるよな」
「誰が痴女よ‼ 魔法少女って言って!」
「魔法少女、ねぇ?」
デュラはニヤニヤしつつも、脳内では別のことに思いを巡らせていた。
(『リリィ』、そして『魔法少女』か。ソラが言ってたのはコイツのことだったのか?)
できるだけこの少女の情報を把握しておきたい、なのでデュラは引き延ばすべく時間を稼ごうと思ったのだが……。
「時は、来たのかもしれない」
リリィがそう小さく呟くと、目の前の光景がまるで割れた鏡のように瓦解していく。
「待ってくれ! まだ訊きたいことがあるんだ!」
慌てて追いかけようとするも、
「私に訊きたいことですか? なんでしょう?」
「え? クラリス?」
ハッとして周囲を見回すデュラ、そこが馬車の中であったことを思い出す。いつの間にか目が覚めたのか、正面にクラリスが座っていた。
(夢……?)
「あの、デュラ?」
「あ、あぁ。なんだ?」
「なんだって……デュラが言ったのですよ? 『訊きたいことがある』って」
呆れたような表情で偉そうに諭すクラリスだが、その左頬はデュラの手形で真っ赤に晴れているので恰好がつかない。
「あぁ、クラリスにじゃねーよ。バカか?」
「何故⁉」
とっても理不尽な返しを受けて、面食らうクラリス。だがそれを意にも介さずに、デュラはひじを窓の下について思案に耽る。
(私にまでコンタクトを取ってきやがった……)
メラク王国は天璇の塔の守護者、デュラ。そしてこれから向かう、フェクダ王国は天璣の塔のソラ、南下してメグレズ王国は天権の塔のアルテ。そこから東へ順に、アリオト帝国は玉衡の塔のイチマル、ミザール王国は開陽の塔のターニー、ベネトナシュ王国は揺光の塔のティア。
この六人はそれぞれ種族が違うものの仲が良く、定期的に情報交換を行っていた。
そして最近になって、ティアから『リリィの夢を見たことがあるか』との疑問提起が全員になされ、ソラ・アルテ・イチマル・ターニーの全員が心当たりがあることが判明したのだ。
デュラが言うところの、『葬式に行けない痴女のような黒い奇抜な衣装』という条件も合致している。
「だけど、『時が来た』だぁ?」
車窓に流れる外の風景を流し見しながら、思わずつぶやいてしまうデュラ。
(そんなこと言われたって情報、来てねぇぞ。私だけか?)
「何の時が来たのですか?」
不思議そうにクラリスが訊いてきたが、
「お前に言ってねぇよ!」
クラリスに、またもやぞんざいな返しをするデュラである。
「だったら黙っててくださいよぅ!」
唇を尖らせて抗議するクラリス、その理不尽な扱いに納得がいかない。だけどそこは気を取り直して――。
「ところで、ソラ師……ソラさんて、どんな方なのですか?」
(ソラに相談してみっか……)
デュラは、クラリスの言葉が耳に入っていないようだ。イラつきを隠せないクラリス、
(もうっ! 何を言っても上の空なの、許せませんっ)
そう思って、思いっ切ったチャレンジを試みる。
「デュラの母ちゃん、でーべーそー‼ 運動会で死―んだっ♪」
天璇の塔に来る道すがらで聴いた、平民の子どもがお友達をからかうときに歌っていたのを拝借。どうせこれも聴いてないんでしょ?と、したり顔のクラリスである。。
そして――。
『ドゴォッ‼』
馬車の扉が吹っ飛び、またもやクラリスが馬車から転げ落ちたのだった。
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