10 / 28
5-2.魔法薬
しおりを挟む
「……とにかく、ありがとう、フィラス」
「ううん。どういたしまして。また何かあったら、僕に頼んでよ。エステルの役に立てると思うから」
「それは……でも、申し訳無いから」
「もう。エステル。遠慮もされすぎると、なんだか線を引かれているように思っちゃうよ」
フィラスがエステルの背を撫でる。すりすり、と背筋を撫でられて、エステルの息が一瞬詰まった。
なんだか、こんな風に触れられる感覚を、ずっと前から知っているような気がする。喉の奥がひくひくと震えて、吐息が甘く濁る。
「んっ、……?」
「エステル。今日はもう一緒にずっと過ごそうか。二人でこうやって、ぎゅうって抱きしめ合って、一日を過ごすなんて、素敵じゃないかな」
フィラスの提案に、エステルは笑う。どこまでも朗らかで、てらいの無い声だ。その提案は魅力的に見える。
「凄く嬉しい申し出だけれど、やることがあるから」
「――少しだけ。ね。駄目?」
フィラスが首を傾げる。自分の美しさを完全に理解しているのだろう人の動作は、一つ一つの破壊力が凄い。フィラスが聞いたら、駄目なことも駄目じゃなくなってしまうようだ。
エステルはそっと息を吐いて、それからフィラスを見つめた。
「……少しだけ、だよ」
「うん。ありがとう。エステル。大好きだよ」
てらい無く紡がれる言葉に、鼓動がとくん、と跳ねる。――犬や猫に向けるもの。そう理解していても、やっぱり、どうしても、嬉しくなってしまうのは、もう仕方無いものだろう。
「――そういえば、少し前もこういうことがあったね」
「こういうこと?」
「そう。エステルが僕のお腹の上に乗って、眠ったこと」
「……それは少し前っていうか、結構前な気がする」
それこそ、子どもの頃の話だ。エステルはフィラスと約束してからずっと、フィラスの朝を起こす役回りを担っているのだが、最初の内、フィラスは起こしてもすぐに二度寝してしまうことがあった。ベッドから出ても、リビングのソファーに横になって、いつのまにか眠りについてしまう。
だから、そう言うとき、エステルはフィラスをもう一度起こすべく、奮闘したものである。
ただ、エステルもその頃は子どもで――だから、起こそうとしているのに、陽光の温かさや、目の前ですやすやと眠るフィラスに誘われるようにして、エステル自身も眠りについてしまうことがあった。その時、フィラスのお腹や胸の辺りを枕にすることが多かったので、そのことを言っているのだろう。
「最初の頃は、ほら、子どもだったから。今は無いでしょ」
「そうだね。だから、僕がベッドに引きずり込んで、一緒に寝ようって言わないと、寝てくれなくなった」
「ベッドに引きずりこむの、本当にやめてほしいんだけど」
「どうして? 髪が乱れてしまうから?」
「……わかってるなら尚更だよ」
フィラスが喉を鳴らすようにして笑う。指先が、優しくエステルの髪を梳くように動く。
「どんなエステルも可愛いよ。寝癖があるエステルも、寝癖がないエステルも」
あまりにもそつの無い言葉に、エステルは少しだけ唇を尖らせる。女性の扱いに慣れすぎている。
「……フィラスって、本当に恋人とか、いたことないの?」
「どうしたの、急に。ふふ。昔は沢山聞いてきたよね、僕に、結婚しているのか、とか、恋人がいるのか、とか」
白金色の目が細くなる。眦が朱を佩いたように赤く染まり、その表情が柔らかく綻んだ。恐らく、昔のことを思い出しているのだろう。
昔の……子どもの頃は、恥とか外聞とか、そういったものなんて一切関係無く、自分の聞きたいことをそのまま尋ねていたが、今にしてそれを掘り返されると、なんとも言えない恥ずかしさを覚える。
「前も答えたけれど、結婚はしていないし、恋人もいないよ。作ろうと思ったことがなかったから。――だって、ほら、僕は神に愛された隣人、だからね」
「それって関係ある……?」
「あるよ。でも、どうしてだろう、最近になって、その考えが無くなってしまって。誰かが、僕と結婚したい、って言うから」
どう考えてもエステルのことを指しているのだろう。エステルはまた、と怒ろうとして、喉の奥に言葉を押し込んでしまう。
それはフィラスが、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていたからに他ならない。花が咲き誇る前、柔らかな花弁をそっと押し開くような――柔らかく、繊細な表情。まるで一幅の絵画のような美しい風景を前に、声を差し込むことが、エステルには出来なかった。
「だから、欲が出てしまった。付き合わされるエステルには、申し訳無いけれど」
「……私?」
「そう。ごめんね。好きになってしまって。でも、大丈夫だよ。ずっと傍に居るから」
フィラスの言葉は抽象的だ。きっと、伝えることを目的としていないのだろう。言葉の選び方も、遠大で、エステルには上手く理解が出来ない。
言葉を言い終えて、フィラスがエステルの目元にそっとキスをする。唐突な行動に、エステルは一瞬呆けて、それからすぐ声を上げた。
「え!? い、今、今!」
「あ。ああ、ごめん。いつもの癖で……」
「いつもの癖!?」
「ふふ。ごめん。エステル――忘れて」
忘れて、と言われても忘れられない。こんな風に優しく触れられて、愛おしいものを見るような目で見つめられて――その上、ぎゅうっと抱きしめられている状況でキスをされて、それを忘れられることが出来る人なんて居ないだろう。
というか、いつもの癖って、なんなのだろう。誰かにしたことがあるかのような口ぶりだ。――誰に?
問いかけようとして、エステルはすんでのところで言葉を飲み込む。
ただ、――沢山の言葉の代わりに、ぼす、とフィラスの胸を叩くと、くすぐったそうな笑い声が聞こえてきて、なんだかもう、それで良いような気がした。
「ううん。どういたしまして。また何かあったら、僕に頼んでよ。エステルの役に立てると思うから」
「それは……でも、申し訳無いから」
「もう。エステル。遠慮もされすぎると、なんだか線を引かれているように思っちゃうよ」
フィラスがエステルの背を撫でる。すりすり、と背筋を撫でられて、エステルの息が一瞬詰まった。
なんだか、こんな風に触れられる感覚を、ずっと前から知っているような気がする。喉の奥がひくひくと震えて、吐息が甘く濁る。
「んっ、……?」
「エステル。今日はもう一緒にずっと過ごそうか。二人でこうやって、ぎゅうって抱きしめ合って、一日を過ごすなんて、素敵じゃないかな」
フィラスの提案に、エステルは笑う。どこまでも朗らかで、てらいの無い声だ。その提案は魅力的に見える。
「凄く嬉しい申し出だけれど、やることがあるから」
「――少しだけ。ね。駄目?」
フィラスが首を傾げる。自分の美しさを完全に理解しているのだろう人の動作は、一つ一つの破壊力が凄い。フィラスが聞いたら、駄目なことも駄目じゃなくなってしまうようだ。
エステルはそっと息を吐いて、それからフィラスを見つめた。
「……少しだけ、だよ」
「うん。ありがとう。エステル。大好きだよ」
てらい無く紡がれる言葉に、鼓動がとくん、と跳ねる。――犬や猫に向けるもの。そう理解していても、やっぱり、どうしても、嬉しくなってしまうのは、もう仕方無いものだろう。
「――そういえば、少し前もこういうことがあったね」
「こういうこと?」
「そう。エステルが僕のお腹の上に乗って、眠ったこと」
「……それは少し前っていうか、結構前な気がする」
それこそ、子どもの頃の話だ。エステルはフィラスと約束してからずっと、フィラスの朝を起こす役回りを担っているのだが、最初の内、フィラスは起こしてもすぐに二度寝してしまうことがあった。ベッドから出ても、リビングのソファーに横になって、いつのまにか眠りについてしまう。
だから、そう言うとき、エステルはフィラスをもう一度起こすべく、奮闘したものである。
ただ、エステルもその頃は子どもで――だから、起こそうとしているのに、陽光の温かさや、目の前ですやすやと眠るフィラスに誘われるようにして、エステル自身も眠りについてしまうことがあった。その時、フィラスのお腹や胸の辺りを枕にすることが多かったので、そのことを言っているのだろう。
「最初の頃は、ほら、子どもだったから。今は無いでしょ」
「そうだね。だから、僕がベッドに引きずり込んで、一緒に寝ようって言わないと、寝てくれなくなった」
「ベッドに引きずりこむの、本当にやめてほしいんだけど」
「どうして? 髪が乱れてしまうから?」
「……わかってるなら尚更だよ」
フィラスが喉を鳴らすようにして笑う。指先が、優しくエステルの髪を梳くように動く。
「どんなエステルも可愛いよ。寝癖があるエステルも、寝癖がないエステルも」
あまりにもそつの無い言葉に、エステルは少しだけ唇を尖らせる。女性の扱いに慣れすぎている。
「……フィラスって、本当に恋人とか、いたことないの?」
「どうしたの、急に。ふふ。昔は沢山聞いてきたよね、僕に、結婚しているのか、とか、恋人がいるのか、とか」
白金色の目が細くなる。眦が朱を佩いたように赤く染まり、その表情が柔らかく綻んだ。恐らく、昔のことを思い出しているのだろう。
昔の……子どもの頃は、恥とか外聞とか、そういったものなんて一切関係無く、自分の聞きたいことをそのまま尋ねていたが、今にしてそれを掘り返されると、なんとも言えない恥ずかしさを覚える。
「前も答えたけれど、結婚はしていないし、恋人もいないよ。作ろうと思ったことがなかったから。――だって、ほら、僕は神に愛された隣人、だからね」
「それって関係ある……?」
「あるよ。でも、どうしてだろう、最近になって、その考えが無くなってしまって。誰かが、僕と結婚したい、って言うから」
どう考えてもエステルのことを指しているのだろう。エステルはまた、と怒ろうとして、喉の奥に言葉を押し込んでしまう。
それはフィラスが、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていたからに他ならない。花が咲き誇る前、柔らかな花弁をそっと押し開くような――柔らかく、繊細な表情。まるで一幅の絵画のような美しい風景を前に、声を差し込むことが、エステルには出来なかった。
「だから、欲が出てしまった。付き合わされるエステルには、申し訳無いけれど」
「……私?」
「そう。ごめんね。好きになってしまって。でも、大丈夫だよ。ずっと傍に居るから」
フィラスの言葉は抽象的だ。きっと、伝えることを目的としていないのだろう。言葉の選び方も、遠大で、エステルには上手く理解が出来ない。
言葉を言い終えて、フィラスがエステルの目元にそっとキスをする。唐突な行動に、エステルは一瞬呆けて、それからすぐ声を上げた。
「え!? い、今、今!」
「あ。ああ、ごめん。いつもの癖で……」
「いつもの癖!?」
「ふふ。ごめん。エステル――忘れて」
忘れて、と言われても忘れられない。こんな風に優しく触れられて、愛おしいものを見るような目で見つめられて――その上、ぎゅうっと抱きしめられている状況でキスをされて、それを忘れられることが出来る人なんて居ないだろう。
というか、いつもの癖って、なんなのだろう。誰かにしたことがあるかのような口ぶりだ。――誰に?
問いかけようとして、エステルはすんでのところで言葉を飲み込む。
ただ、――沢山の言葉の代わりに、ぼす、とフィラスの胸を叩くと、くすぐったそうな笑い声が聞こえてきて、なんだかもう、それで良いような気がした。
52
お気に入りに追加
567
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?
ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない
斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。
襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……!
この人本当に旦那さま?
って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!
悪役令嬢の生産ライフ
星宮歌
恋愛
コツコツとレベルを上げて、生産していくゲームが好きなしがない女子大生、田中雪は、その日、妹に頼まれて手に入れたゲームを片手に通り魔に刺される。
女神『はい、あなた、転生ね』
雪『へっ?』
これは、生産ゲームの世界に転生したかった雪が、別のゲーム世界に転生して、コツコツと生産するお話である。
雪『世界観が壊れる? 知ったこっちゃないわっ!』
無事に完結しました!
続編は『悪役令嬢の神様ライフ』です。
よければ、そちらもよろしくお願いしますm(_ _)m
ヤンデレ幼馴染が帰ってきたので大人しく溺愛されます
下菊みこと
恋愛
私はブーゼ・ターフェルルンデ。侯爵令嬢。公爵令息で幼馴染、婚約者のベゼッセンハイト・ザンクトゥアーリウムにうっとおしいほど溺愛されています。ここ数年はハイトが留学に行ってくれていたのでやっと離れられて落ち着いていたのですが、とうとうハイトが帰ってきてしまいました。まあ、仕方がないので大人しく溺愛されておきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる