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6-1.神に愛されし隣人
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「寂しくない?」
唇から言葉が零れて、エステルは瞬く。目の前には、呆けた表情のフィラスが居た。
これは、知っている。そう考えた瞬間、夢だ、とエステルは気付いた。幼い頃の夢――そう、フィラスと親しくなった時に、ふと問いかけた時の夢だ。
あの頃のエステルは幼くて、だからこそ、フィラスがずっと一人で居て、部屋からあまり出ようともしないのが不思議だった。外に出たら沢山の人と出会えて、沢山の友人が出来る。エステルが今、フィラスをほとんど独占しているのが不思議に思えるくらい、フィラスは魅力に溢れているのだ。それなのに、フィラスはあまり外に出ようとしない。
それどころか、エステル以外とはあまり交友を深めようともしていないのが不思議で、――だから、静かに窓辺で本を読むフィラスを見て、そう言ってしまった。
子どもらしい傲慢さと、自身の価値観に重きを置いた発言だ。
だが、フィラスはさして気にした様子もなく、本を閉じると、考え込むように眉根を寄せた。
「寂しい……か。それ、よく聞かれるんだけど、エステルは一人だと寂しいの?」
「私……私は、一人だったら……、寂しいな」
唇が勝手に動いて、思い出の言葉をなぞる。エステルは唇を押さえた。夢だ、とわかっているのに、体は自分の思うようにならない。
このままでは、――エステルが忘れ去りたい、と思っている『あの言葉』を、もう一度口に出すことになってしまう。
「そっか。エステルは寂しがり屋さんなんだね。大丈夫、君の周囲には沢山の人達がいて、君を愛してくれている。君が一人になることはないよ」
「……フィラスは?」
「僕? 僕はほら、――『神に愛されし隣人』だからね。神に愛されているのだから、神を愛し返さないと」
まるで冗談を口にするような言葉だった。フィラスは目を細めて、エステルを見つめる。暖かくて、柔らかな眼差しだ。幼い子どもを見守る、そんな温度に満ちた視線に、エステルは息を飲む。
その笑みがあまりにも綺麗で、――それと同じくらい、寂しそうに見えた。だから、エステルは、思わず、言ってしまったのだ。
「なら、私が結婚してあげる!」
唇が動く。止めよう、と思っても、止める暇も無く、そんな機会すら与えられず、エステルはフィラスに向かって宣言をした。
夢なのだから、少しくらい自分の思う通りに動いて欲しいものだが、どうもそうはいかないらしい。エステルは、目の前で繰り広げられる事象を、ただ眺めることしか出来ないようだ。
フィラスはエステルの言葉を聞いて、目を見開く。そうしてから「なら? 君が? 誰と?」と調子の外れた声を上げた。エステルは頷く。胸を張った。
「私が、フィラスと!」
「……僕と?」
「そう! 私が、フィラスのこと沢山愛して、沢山傍に居るよ」
「さっき、僕の言っていたこと、聞いていた?」
「聞いてた! でも、神様に愛されているからって、他の人を愛したらいけないわけでもないでしょ? 私が、フィラスの傍に居たいの」
フィラスは視線を揺らす。一瞬泣きそうな顔になって、けれどそれは笑顔に塗り替えられる。
「……エステルは唐突だね。僕のことを毎日起こしに来るのもそうだし、結婚の約束だってそうだ。突然で、君と居ると、いつも驚かされてばかりだ」
「私と居ると退屈しないってこと?」
「そう。……そうだね。そういうことだ。でも、エステル。――僕で良いの?」
「フィラスが良いの!」
「そっか。……結婚をしよう、だなんて言われたのは初めてだな。皆僕のことを『隣人』だからと避けていくのに」
フィラスは静かに息を吐いて、ゆっくりと瞬く。白金色の瞳に優しい色を乗せて、エステルを見つめた。
「どうして隣人だから避けるの?」
「……神に愛されているから、かな」
フィラスは冗談めいた口調で言う。エステルは首を傾げた。神に愛されているから、なんだというのだろう。そんなことはフィラスには関係無いだろう。
「も、もしかして、フィラスのことを好きになると、神様から天罰が下ったりするの……!?」
「さあ、どうだろう」
「ええ!」
「もしそうだったとして、エステルは僕と結婚をするの、止めてしまうの?」
「や、やめ……やめない……!」
神様から与えられる罰は想像もつかないし、怖くないと言えば嘘になる。だが、それでも、止めたくはない。寂しそうに、「神様に愛されているから」と他人を愛することを止めてしまうフィラスの手を取って、自分はフィラスを愛しているのだと伝えたかった。
子どもとの約束。恐らく大人になれば忘れてしまうであろうそれを、大切に抱きしめるような、そんな手つきでエステルに触れてくる。
「可愛いなあ。本気なの?」
「本気だよ!」
「――わかった。じゃあ、エステルが大人になったら、結婚しようか」
「うん。ずっと一緒よ、フィラス」
エステルは頷く。不意に、思考が淀むような感覚がした。目の前の風景が解けて消えていくような感覚。
夢から覚めるのだ、となんとなく思う。それと同時に、エステルの意識がずるり、と現実に引き戻されるような感覚があった。
光が目を差し、エステルはぎゅうっと眉根を寄せる。ぼやけていた思考が少しずつ鮮明になり、それと同時に意識がふっと浮上する。目を開くと、僅かに混濁した視界で一杯になる。瞬きの内に、室内の輪郭がゆっくりと線を結ぶのを眺めながら、エステルは細く息を吐いた。
幼い頃の夢を見てしまった。しかも、出来れば、忘れたいと思っている夢を。
……エステルにとって、フィラスに結婚の申し込みをした思い出は、出来れば幼い頃の柔らかな思い出として、時々手に取って眺めるのはまだしも、頻回に取りだして見たいと思うほどのものではない。
あの頃のエステルは本当に――なんというか、子どもだった。子どもだから仕方無いと言われたらそれはそうなのだが、とにかく、もう、フィラスのことが好きで好きでたまらなかったのだ。
それはもう、真っ直ぐに、てらいなく、フィラスに好意を伝えていた。それは今日の夢の、あの一回だけに収まらない。あの後、ことある毎にフィラスは私と結婚するんだからね、と言っていた。
その度にフィラスは嬉しそうに頷いて、そうだね、エステルと結婚するよ、と返してくれたのだから、エステルは本当に幸せだったのを覚えている。
恋が終わりを迎えたのは、エステル自身が少しずつ常識というものを身につけ始めてから、に思う。
年を経るにつれて、エステルは自分がいかに凡人であるかを悟った。フィラスのように魔法の才に目覚めるわけでもなく、身体的に目覚ましい部分があるわけでもない。言うなれば、エステルはフィラスとは『違う』のだ。寿命も、何もかも、全て。
――そう思ったとき、フィラスの優しさが、対等な人間に向けるものではなく、あくまで庇護下の人間に向けるものであることに、気付いた。
優しさの上によって成り立っていた恋は、そこでぱきり、と割れてしまった。
それから、エステルは結婚をしよう、とフィラスに言わなくなった。フィラスは自分とは違う、これから先もずっと長い時間を生きていく人だ。だからせめて、フィラスの周りに人が増えていくことを祈りながら、フィラスは良い人なのだと手を引いて街へ連れ出した。
子どもの頃、エステルはフィラスの特別になりたかった。――けれど、今は、フィラスの友人の中の一人、になれたらいい、と思っている。
特別じゃなくても、フィラスを囲う輪の中に、居られたら、それだけで良い。
考えている内に、意識が明瞭になっていく。軽く欠伸を零してから、エステルは外を眺めた。
窓の外には雲間が広がっていた。ぽつぽつと雨が窓を叩くのが見えて、エステルは静かに吐息を零す。
唇から言葉が零れて、エステルは瞬く。目の前には、呆けた表情のフィラスが居た。
これは、知っている。そう考えた瞬間、夢だ、とエステルは気付いた。幼い頃の夢――そう、フィラスと親しくなった時に、ふと問いかけた時の夢だ。
あの頃のエステルは幼くて、だからこそ、フィラスがずっと一人で居て、部屋からあまり出ようともしないのが不思議だった。外に出たら沢山の人と出会えて、沢山の友人が出来る。エステルが今、フィラスをほとんど独占しているのが不思議に思えるくらい、フィラスは魅力に溢れているのだ。それなのに、フィラスはあまり外に出ようとしない。
それどころか、エステル以外とはあまり交友を深めようともしていないのが不思議で、――だから、静かに窓辺で本を読むフィラスを見て、そう言ってしまった。
子どもらしい傲慢さと、自身の価値観に重きを置いた発言だ。
だが、フィラスはさして気にした様子もなく、本を閉じると、考え込むように眉根を寄せた。
「寂しい……か。それ、よく聞かれるんだけど、エステルは一人だと寂しいの?」
「私……私は、一人だったら……、寂しいな」
唇が勝手に動いて、思い出の言葉をなぞる。エステルは唇を押さえた。夢だ、とわかっているのに、体は自分の思うようにならない。
このままでは、――エステルが忘れ去りたい、と思っている『あの言葉』を、もう一度口に出すことになってしまう。
「そっか。エステルは寂しがり屋さんなんだね。大丈夫、君の周囲には沢山の人達がいて、君を愛してくれている。君が一人になることはないよ」
「……フィラスは?」
「僕? 僕はほら、――『神に愛されし隣人』だからね。神に愛されているのだから、神を愛し返さないと」
まるで冗談を口にするような言葉だった。フィラスは目を細めて、エステルを見つめる。暖かくて、柔らかな眼差しだ。幼い子どもを見守る、そんな温度に満ちた視線に、エステルは息を飲む。
その笑みがあまりにも綺麗で、――それと同じくらい、寂しそうに見えた。だから、エステルは、思わず、言ってしまったのだ。
「なら、私が結婚してあげる!」
唇が動く。止めよう、と思っても、止める暇も無く、そんな機会すら与えられず、エステルはフィラスに向かって宣言をした。
夢なのだから、少しくらい自分の思う通りに動いて欲しいものだが、どうもそうはいかないらしい。エステルは、目の前で繰り広げられる事象を、ただ眺めることしか出来ないようだ。
フィラスはエステルの言葉を聞いて、目を見開く。そうしてから「なら? 君が? 誰と?」と調子の外れた声を上げた。エステルは頷く。胸を張った。
「私が、フィラスと!」
「……僕と?」
「そう! 私が、フィラスのこと沢山愛して、沢山傍に居るよ」
「さっき、僕の言っていたこと、聞いていた?」
「聞いてた! でも、神様に愛されているからって、他の人を愛したらいけないわけでもないでしょ? 私が、フィラスの傍に居たいの」
フィラスは視線を揺らす。一瞬泣きそうな顔になって、けれどそれは笑顔に塗り替えられる。
「……エステルは唐突だね。僕のことを毎日起こしに来るのもそうだし、結婚の約束だってそうだ。突然で、君と居ると、いつも驚かされてばかりだ」
「私と居ると退屈しないってこと?」
「そう。……そうだね。そういうことだ。でも、エステル。――僕で良いの?」
「フィラスが良いの!」
「そっか。……結婚をしよう、だなんて言われたのは初めてだな。皆僕のことを『隣人』だからと避けていくのに」
フィラスは静かに息を吐いて、ゆっくりと瞬く。白金色の瞳に優しい色を乗せて、エステルを見つめた。
「どうして隣人だから避けるの?」
「……神に愛されているから、かな」
フィラスは冗談めいた口調で言う。エステルは首を傾げた。神に愛されているから、なんだというのだろう。そんなことはフィラスには関係無いだろう。
「も、もしかして、フィラスのことを好きになると、神様から天罰が下ったりするの……!?」
「さあ、どうだろう」
「ええ!」
「もしそうだったとして、エステルは僕と結婚をするの、止めてしまうの?」
「や、やめ……やめない……!」
神様から与えられる罰は想像もつかないし、怖くないと言えば嘘になる。だが、それでも、止めたくはない。寂しそうに、「神様に愛されているから」と他人を愛することを止めてしまうフィラスの手を取って、自分はフィラスを愛しているのだと伝えたかった。
子どもとの約束。恐らく大人になれば忘れてしまうであろうそれを、大切に抱きしめるような、そんな手つきでエステルに触れてくる。
「可愛いなあ。本気なの?」
「本気だよ!」
「――わかった。じゃあ、エステルが大人になったら、結婚しようか」
「うん。ずっと一緒よ、フィラス」
エステルは頷く。不意に、思考が淀むような感覚がした。目の前の風景が解けて消えていくような感覚。
夢から覚めるのだ、となんとなく思う。それと同時に、エステルの意識がずるり、と現実に引き戻されるような感覚があった。
光が目を差し、エステルはぎゅうっと眉根を寄せる。ぼやけていた思考が少しずつ鮮明になり、それと同時に意識がふっと浮上する。目を開くと、僅かに混濁した視界で一杯になる。瞬きの内に、室内の輪郭がゆっくりと線を結ぶのを眺めながら、エステルは細く息を吐いた。
幼い頃の夢を見てしまった。しかも、出来れば、忘れたいと思っている夢を。
……エステルにとって、フィラスに結婚の申し込みをした思い出は、出来れば幼い頃の柔らかな思い出として、時々手に取って眺めるのはまだしも、頻回に取りだして見たいと思うほどのものではない。
あの頃のエステルは本当に――なんというか、子どもだった。子どもだから仕方無いと言われたらそれはそうなのだが、とにかく、もう、フィラスのことが好きで好きでたまらなかったのだ。
それはもう、真っ直ぐに、てらいなく、フィラスに好意を伝えていた。それは今日の夢の、あの一回だけに収まらない。あの後、ことある毎にフィラスは私と結婚するんだからね、と言っていた。
その度にフィラスは嬉しそうに頷いて、そうだね、エステルと結婚するよ、と返してくれたのだから、エステルは本当に幸せだったのを覚えている。
恋が終わりを迎えたのは、エステル自身が少しずつ常識というものを身につけ始めてから、に思う。
年を経るにつれて、エステルは自分がいかに凡人であるかを悟った。フィラスのように魔法の才に目覚めるわけでもなく、身体的に目覚ましい部分があるわけでもない。言うなれば、エステルはフィラスとは『違う』のだ。寿命も、何もかも、全て。
――そう思ったとき、フィラスの優しさが、対等な人間に向けるものではなく、あくまで庇護下の人間に向けるものであることに、気付いた。
優しさの上によって成り立っていた恋は、そこでぱきり、と割れてしまった。
それから、エステルは結婚をしよう、とフィラスに言わなくなった。フィラスは自分とは違う、これから先もずっと長い時間を生きていく人だ。だからせめて、フィラスの周りに人が増えていくことを祈りながら、フィラスは良い人なのだと手を引いて街へ連れ出した。
子どもの頃、エステルはフィラスの特別になりたかった。――けれど、今は、フィラスの友人の中の一人、になれたらいい、と思っている。
特別じゃなくても、フィラスを囲う輪の中に、居られたら、それだけで良い。
考えている内に、意識が明瞭になっていく。軽く欠伸を零してから、エステルは外を眺めた。
窓の外には雲間が広がっていた。ぽつぽつと雨が窓を叩くのが見えて、エステルは静かに吐息を零す。
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