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第四部 第三章 民意が悲劇を生むまで
84話 バケモノ同士①
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フリッカ・コロンナの墓がある墓地からバナルトゥスシティまでの道は舗装されているとは言い難かった。
馬や馬車、人々の往来によって作られた自然の道である。
その踏み固められた土の道を、シグルズはゆっくりと歩いていた。
ゲオルグと来たときには馬車を使っていたのでそれほどの距離とは感じなかったが、徒歩となると話は別だ。しかも今の自分の体力では満足に歩くこともできない。
時折道から逸れ、ふらつきながらもバナヘイム首都を目指す。
「これで野盗にでも襲われたら、命はないな……」
自虐に顔を歪めながらまた一歩前に進んだ。
帝国の英雄たる“白銀の騎士”がひどいザマだ。
いや、もう己がシグルズ・フォン・ヴェルスングかどうかも怪しいのだ。“白銀の騎士”すら虚構かもしれない。
自分の記憶が信用ならない。
これまで信じていたものが悉く崩れていく。
しかし考えてみれば、虚構かもしれないこの自分も両親に捨てられた平民の子どもだったのだ。
身分が全てを支配するミドガルズ帝国では、平民にはほとんど存在価値はない。
シグルズという人間が本当にいたにせよ虚構だったにせよ、空っぽなことには変わりはなかった。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になる。
傍に生える大木に手を添えて、また一歩進む。
『―――お前は『自分には何もない』ってよく泣いてたけど、自分が気付いていないだけで、全部、持ってたよ』
ヴィテゲ。
お前は全てを知っていてなお、嘘で固めた優しい言葉を俺にくれたのだろうか。
それとも何も知らずにそう言ったのだろうか。
考え事をしていたせいで伸びた草に足をとられた。転倒する。
「くそっ……」
シグルズは両腕に力を込めて起き上がろうとするがうまくいかなかった。
前に進まなければ。
例え自分が変異体だろうと、空っぽだろうと。俺はネフィリムを守らなければいけないんだ。
俺が愛したネフィリム。
俺を愛してくれたネフィリム。
離れないと言ってくれたネフィリム。
俺の存在意義は、ネフィリムを守ることにある。
俺はネフィリムの騎士だから。
ネフィリム、どこにいる。
まだ要塞にいるのか。
それとも首都に戻ったのだろうか。
それも分からない。
でも、前に進まなければ。
シグルズの意に反して、腕の力が抜けていく。
視界がぼやける。
体が自由にならない。
「まいったな」
わずかに口の端を上げる。
「こんなところで死ぬのは格好がつかない」
最後まで皮肉を言わないとやっていられない自分もらしいと言えばらしいが。
大きく息を吐いて、シグルズは目を閉じた。
頬にくすぐったさを感じた。
サラサラした感触を皮膚が知覚する。
そしてその後に独特のざらつきが粘膜を伴ってシグルズの頬を撫でていった。
「う、」
目を開き頭を上げたシグルズは、視界いっぱいに広がる黒色の毛を瞳に映した。
それは、子どもの頃から見慣れた全身黒毛の勇ましい馬。
「グラム……」
グラムの目は普段よりも厚い水膜に覆われていた。鼻頭を飼い主に擦りつける。その仕草に言葉はなくとも溢れんばかりの愛しさが感じられた。
シグルズはその横顔に手を伸ばす。
「どうしてここが……?」
グラムはこれまでにも、不可思議な行動を取ることがあった。
グルヴェイグのときもそうだった。厩につないであったグラムは、誰の指示も受けずにシグルズの場所を見つけ出して駆け付けた。
普通の馬にはそんなことができるはずはない。
それでもグラムは、シグルズに危機が訪れると必ず傍にやってくる。
「そうか。そうなのか」
シグルズは唐突に理解した。
「お前も俺と同じなんだな」
真っ黒な馬。
15年前、森の竜が帝国に現れたときに生き残ったのはシグルズとグラムだけ。
帝国中のどの馬よりも速く走るこの馬は、ジークフリードを除けばシグルズにしか懐かなかった。
「お前も、化け物なんだな」
おぞましい言葉とは裏腹に、シグルズの声は優しさに満ちていた。
グラムがシグルズに寄り添う。シグルズはグラムの頭に自身の頬を寄せた。
「グラム、頼みがある」
馬は耳を震わせた。
宝石のように透き通った大きな黒目は主だけを見ている。
「俺はネフィリムがどこにいるのか分からない。だが、今すぐ彼のところに行きたい。―――お前ならば、連れていってくれるだろうか? 俺を、ネフィリムのもとへ」
グラムは天を仰いでひとたび鳴いた。
それは主の願いを叶えることを決意した黒馬のいななきだった。
ありがとう、 グラム。
意識を失う直前に、シグルズの耳元で誰かが囁く声がした。
あなたは 私が 死なせません
馬や馬車、人々の往来によって作られた自然の道である。
その踏み固められた土の道を、シグルズはゆっくりと歩いていた。
ゲオルグと来たときには馬車を使っていたのでそれほどの距離とは感じなかったが、徒歩となると話は別だ。しかも今の自分の体力では満足に歩くこともできない。
時折道から逸れ、ふらつきながらもバナヘイム首都を目指す。
「これで野盗にでも襲われたら、命はないな……」
自虐に顔を歪めながらまた一歩前に進んだ。
帝国の英雄たる“白銀の騎士”がひどいザマだ。
いや、もう己がシグルズ・フォン・ヴェルスングかどうかも怪しいのだ。“白銀の騎士”すら虚構かもしれない。
自分の記憶が信用ならない。
これまで信じていたものが悉く崩れていく。
しかし考えてみれば、虚構かもしれないこの自分も両親に捨てられた平民の子どもだったのだ。
身分が全てを支配するミドガルズ帝国では、平民にはほとんど存在価値はない。
シグルズという人間が本当にいたにせよ虚構だったにせよ、空っぽなことには変わりはなかった。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になる。
傍に生える大木に手を添えて、また一歩進む。
『―――お前は『自分には何もない』ってよく泣いてたけど、自分が気付いていないだけで、全部、持ってたよ』
ヴィテゲ。
お前は全てを知っていてなお、嘘で固めた優しい言葉を俺にくれたのだろうか。
それとも何も知らずにそう言ったのだろうか。
考え事をしていたせいで伸びた草に足をとられた。転倒する。
「くそっ……」
シグルズは両腕に力を込めて起き上がろうとするがうまくいかなかった。
前に進まなければ。
例え自分が変異体だろうと、空っぽだろうと。俺はネフィリムを守らなければいけないんだ。
俺が愛したネフィリム。
俺を愛してくれたネフィリム。
離れないと言ってくれたネフィリム。
俺の存在意義は、ネフィリムを守ることにある。
俺はネフィリムの騎士だから。
ネフィリム、どこにいる。
まだ要塞にいるのか。
それとも首都に戻ったのだろうか。
それも分からない。
でも、前に進まなければ。
シグルズの意に反して、腕の力が抜けていく。
視界がぼやける。
体が自由にならない。
「まいったな」
わずかに口の端を上げる。
「こんなところで死ぬのは格好がつかない」
最後まで皮肉を言わないとやっていられない自分もらしいと言えばらしいが。
大きく息を吐いて、シグルズは目を閉じた。
頬にくすぐったさを感じた。
サラサラした感触を皮膚が知覚する。
そしてその後に独特のざらつきが粘膜を伴ってシグルズの頬を撫でていった。
「う、」
目を開き頭を上げたシグルズは、視界いっぱいに広がる黒色の毛を瞳に映した。
それは、子どもの頃から見慣れた全身黒毛の勇ましい馬。
「グラム……」
グラムの目は普段よりも厚い水膜に覆われていた。鼻頭を飼い主に擦りつける。その仕草に言葉はなくとも溢れんばかりの愛しさが感じられた。
シグルズはその横顔に手を伸ばす。
「どうしてここが……?」
グラムはこれまでにも、不可思議な行動を取ることがあった。
グルヴェイグのときもそうだった。厩につないであったグラムは、誰の指示も受けずにシグルズの場所を見つけ出して駆け付けた。
普通の馬にはそんなことができるはずはない。
それでもグラムは、シグルズに危機が訪れると必ず傍にやってくる。
「そうか。そうなのか」
シグルズは唐突に理解した。
「お前も俺と同じなんだな」
真っ黒な馬。
15年前、森の竜が帝国に現れたときに生き残ったのはシグルズとグラムだけ。
帝国中のどの馬よりも速く走るこの馬は、ジークフリードを除けばシグルズにしか懐かなかった。
「お前も、化け物なんだな」
おぞましい言葉とは裏腹に、シグルズの声は優しさに満ちていた。
グラムがシグルズに寄り添う。シグルズはグラムの頭に自身の頬を寄せた。
「グラム、頼みがある」
馬は耳を震わせた。
宝石のように透き通った大きな黒目は主だけを見ている。
「俺はネフィリムがどこにいるのか分からない。だが、今すぐ彼のところに行きたい。―――お前ならば、連れていってくれるだろうか? 俺を、ネフィリムのもとへ」
グラムは天を仰いでひとたび鳴いた。
それは主の願いを叶えることを決意した黒馬のいななきだった。
ありがとう、 グラム。
意識を失う直前に、シグルズの耳元で誰かが囁く声がした。
あなたは 私が 死なせません
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