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第四部 第二章 思惑に翻弄されるまで
79話 タンホイザー①
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ネフィリム視点です。
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要塞の廊下を歩いていたネフィリムは、突如何かに呼ばれた気がしてバナルトゥスシティのほうを振り返った。
「……何だ?」
変異体の気配とは違う。
それでいて心に不快感をそっと残していくような不穏さ。
何も聞こえないし何も見えないが、ネフィリムはその感覚が単なる思い過ごしではないことを確信していた。
「―――ネフィリム様。どうなさいました?」
隣を歩くベヌウがネフィリムの異変に気付く。そう聞かれたところで言語化するのは難しい。
「いや………。シグルズはどうしているのかなと思って」
今一番気になっている人物の名前を挙げた。
きっと首都中心部でバナヘイム要人と会談をしている頃のはずだ。
「心配ですか?」
ベヌウはネフィリムの顔を覗き込んだ。
心優しい巨漢は、ほんのわずか離れただけで不安をこぼす自分を笑ったりはしない。むしろ心の翳りに寄り添って優しい言葉をかけてくれる。
「……ああ」
「タンホイザー元帥との会談が終われば、また会えますよ。シグルズ様もネフィリム様に早く会いたいと思っているでしょう」
前を向いて頷く。先を歩く兄に追いつくべく、ネフィリムは早足になった。
3人がいるのは、東側の隣国・エインヘリヤルとの国境沿いにあるラヴィーン要塞だ。
バナヘイムとエインヘリヤルの国境南東には堕ちた森につながる“黒の渓谷”という底の見えない大地の亀裂が走っている。
石造りの要塞はその亀裂を見下ろす、宗教国家との戦いの最先端の地に建っている。
ここ数十年の間に両国の衝突はなかったが、以前は頻繁に小競り合いを繰り返していたという。
首都から馬を走らせて今は夜。
暗くなった要塞の中を激しく燃える松明が照らす。
セルリアンブルーの軍服を纏ったバナヘイム軍の兵たちが要塞の中を慌ただしく動いているのは、戦いのためではなく、近々人員や物資の多くがこの要塞から別の地へ移動する準備のためである。
要塞内に通されたトールとネフィリムは、元帥副官兼参謀に道案内をされて内部の視察をしていた。トールがタンホイザー元帥に要望し快諾されたのだ。
「現在この要塞にいる兵士はおよそ1万人。そのうち半数が明日にはグルヴェイグ側の要塞に移動するでしょう」
要塞の要所に関する説明を聞きながら歩く途中で、エリーザベト中将はそう言った。
「失礼を承知で申し上げるが、バナヘイム軍は馬鹿なのか?」
トールの発言は本当に失礼だった。
「暴動でボロボロになったグルヴェイグの国境に兵力を割いてどうする。ただの無駄遣いだ。俺がエインヘリヤルの大神官ならこの機に乗じて乗り込むぞ」
「トール宰相、お忘れですか。我が国は共和制ですよ。議会で決まったことは絶対です」
中将は兄の言葉に気を悪くした様子は微塵も見せず、逆にその理由を説明してくれた。
現在、親エインヘリヤル派の政治家や参議会員が融和政策を訴え、それに対する支持が集まっている。
明日の本会議ではラヴィーン要塞の兵力をグルヴェイグ国境側に移す法案の審議がなされ、賛成多数の見通しなのだそうだ。
「議会で決まったことが民意です。軍人が口を出すわけには参りません」
エリーザベト・クリュイタンス中将は切れ長の目に理知的な光を宿す落ち着いた女性だった。
トールやネフィリムよりも高齢だが、背筋はまっすぐに伸び、わずかに顎を引いた立ち姿は堂々たるものである。
要塞を視察すると、バナヘイム軍の軍備の厚さ、士気の高さなどが伺えた。接近戦の兵よりも遠距離攻撃の兵や武器を充実させている。ネフィリムは全てを瞳の中に記憶した。
「剣や槍、斧兵の配置が少なく感じますが何か理由が?」
ネフィリムが問う。エリーザベトは軽く目を見開く。驚いたようだ。
「慧眼ですね。………エインヘリヤル軍は遠距離攻撃が脅威だからです。詳細は元帥が説明されるでしょう」
一通り建物の中を巡り、エリーザベト中将に連れられた3人は要塞中心部にある司令官室に戻った。
タンホイザー元帥は、短い白髪の頭を掻きながら部下と何やら話し合っているようだった。
トールたちが戻ったのを視界の隅で確認すると、部下に地図を手渡して「明日もう一度哨戒を出してくれ。その後報告を頼む」と言って下がらせた。
「トール。戻ったか。久しぶりに見たバナヘイム軍はどうだ?」
バナヘイム軍総司令官のヨーゼフ・タンホイザーは快活に笑った。
この国の“英雄”が明るくて気のいい将軍として慕われているのも頷ける。
タンホイザー元帥は、バナヘイムが都市連邦になる以前に存在していた3つの都市国家のひとつ「タンホイザ」の国家元首の血を受け継ぐ家系の人間だ。
そのせいか南側出身の国民からの人気が絶大で、これまでエインヘリヤルとの衝突もうまくおさめてきた功績と合わせて英雄視される向きが強い。
が、本人はそういう扱いを嫌っている。
かつてトールがバナヘイムに留学したとき、政治も戦争も分からない子どものような兄にさまざまな知識を伝授したのはタンホイザーだ。当時の彼は中将だった。
「さすがだな。ニーベルンゲン軍をここまで増強するには10年かかる」
「はっはっは。建国20年の国にたった10年で追いつかれてはたまったものではないな」
仮にも大陸で最強と謳われる軍だ。10年で辿りつくことは難しいだろう。
だが、兄は常に強気な発言をし、それを死に物狂いで現実にしようとするタイプの人間だった。だからきっと本心で言っているに違いない。
「……信仰国家ニーベルンゲン。まさか20年でまがりなりにも国家として立つとは思いもしなかった」
「中身は赤子だ。課題は山積している」
「それでも、だよ。この大陸で国家を樹立しようとして失敗していった共同体は山ほどある。君と……ワーグナーの手腕がなければ成し得なかっただろう」
ワーグナー。
かつてバナヘイムの政治家だったニーベルンゲン初代国王の名前。
ネフィリムとトールの父でもある。
タンホイザーと父・ワーグナーは友人だった。
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要塞の廊下を歩いていたネフィリムは、突如何かに呼ばれた気がしてバナルトゥスシティのほうを振り返った。
「……何だ?」
変異体の気配とは違う。
それでいて心に不快感をそっと残していくような不穏さ。
何も聞こえないし何も見えないが、ネフィリムはその感覚が単なる思い過ごしではないことを確信していた。
「―――ネフィリム様。どうなさいました?」
隣を歩くベヌウがネフィリムの異変に気付く。そう聞かれたところで言語化するのは難しい。
「いや………。シグルズはどうしているのかなと思って」
今一番気になっている人物の名前を挙げた。
きっと首都中心部でバナヘイム要人と会談をしている頃のはずだ。
「心配ですか?」
ベヌウはネフィリムの顔を覗き込んだ。
心優しい巨漢は、ほんのわずか離れただけで不安をこぼす自分を笑ったりはしない。むしろ心の翳りに寄り添って優しい言葉をかけてくれる。
「……ああ」
「タンホイザー元帥との会談が終われば、また会えますよ。シグルズ様もネフィリム様に早く会いたいと思っているでしょう」
前を向いて頷く。先を歩く兄に追いつくべく、ネフィリムは早足になった。
3人がいるのは、東側の隣国・エインヘリヤルとの国境沿いにあるラヴィーン要塞だ。
バナヘイムとエインヘリヤルの国境南東には堕ちた森につながる“黒の渓谷”という底の見えない大地の亀裂が走っている。
石造りの要塞はその亀裂を見下ろす、宗教国家との戦いの最先端の地に建っている。
ここ数十年の間に両国の衝突はなかったが、以前は頻繁に小競り合いを繰り返していたという。
首都から馬を走らせて今は夜。
暗くなった要塞の中を激しく燃える松明が照らす。
セルリアンブルーの軍服を纏ったバナヘイム軍の兵たちが要塞の中を慌ただしく動いているのは、戦いのためではなく、近々人員や物資の多くがこの要塞から別の地へ移動する準備のためである。
要塞内に通されたトールとネフィリムは、元帥副官兼参謀に道案内をされて内部の視察をしていた。トールがタンホイザー元帥に要望し快諾されたのだ。
「現在この要塞にいる兵士はおよそ1万人。そのうち半数が明日にはグルヴェイグ側の要塞に移動するでしょう」
要塞の要所に関する説明を聞きながら歩く途中で、エリーザベト中将はそう言った。
「失礼を承知で申し上げるが、バナヘイム軍は馬鹿なのか?」
トールの発言は本当に失礼だった。
「暴動でボロボロになったグルヴェイグの国境に兵力を割いてどうする。ただの無駄遣いだ。俺がエインヘリヤルの大神官ならこの機に乗じて乗り込むぞ」
「トール宰相、お忘れですか。我が国は共和制ですよ。議会で決まったことは絶対です」
中将は兄の言葉に気を悪くした様子は微塵も見せず、逆にその理由を説明してくれた。
現在、親エインヘリヤル派の政治家や参議会員が融和政策を訴え、それに対する支持が集まっている。
明日の本会議ではラヴィーン要塞の兵力をグルヴェイグ国境側に移す法案の審議がなされ、賛成多数の見通しなのだそうだ。
「議会で決まったことが民意です。軍人が口を出すわけには参りません」
エリーザベト・クリュイタンス中将は切れ長の目に理知的な光を宿す落ち着いた女性だった。
トールやネフィリムよりも高齢だが、背筋はまっすぐに伸び、わずかに顎を引いた立ち姿は堂々たるものである。
要塞を視察すると、バナヘイム軍の軍備の厚さ、士気の高さなどが伺えた。接近戦の兵よりも遠距離攻撃の兵や武器を充実させている。ネフィリムは全てを瞳の中に記憶した。
「剣や槍、斧兵の配置が少なく感じますが何か理由が?」
ネフィリムが問う。エリーザベトは軽く目を見開く。驚いたようだ。
「慧眼ですね。………エインヘリヤル軍は遠距離攻撃が脅威だからです。詳細は元帥が説明されるでしょう」
一通り建物の中を巡り、エリーザベト中将に連れられた3人は要塞中心部にある司令官室に戻った。
タンホイザー元帥は、短い白髪の頭を掻きながら部下と何やら話し合っているようだった。
トールたちが戻ったのを視界の隅で確認すると、部下に地図を手渡して「明日もう一度哨戒を出してくれ。その後報告を頼む」と言って下がらせた。
「トール。戻ったか。久しぶりに見たバナヘイム軍はどうだ?」
バナヘイム軍総司令官のヨーゼフ・タンホイザーは快活に笑った。
この国の“英雄”が明るくて気のいい将軍として慕われているのも頷ける。
タンホイザー元帥は、バナヘイムが都市連邦になる以前に存在していた3つの都市国家のひとつ「タンホイザ」の国家元首の血を受け継ぐ家系の人間だ。
そのせいか南側出身の国民からの人気が絶大で、これまでエインヘリヤルとの衝突もうまくおさめてきた功績と合わせて英雄視される向きが強い。
が、本人はそういう扱いを嫌っている。
かつてトールがバナヘイムに留学したとき、政治も戦争も分からない子どものような兄にさまざまな知識を伝授したのはタンホイザーだ。当時の彼は中将だった。
「さすがだな。ニーベルンゲン軍をここまで増強するには10年かかる」
「はっはっは。建国20年の国にたった10年で追いつかれてはたまったものではないな」
仮にも大陸で最強と謳われる軍だ。10年で辿りつくことは難しいだろう。
だが、兄は常に強気な発言をし、それを死に物狂いで現実にしようとするタイプの人間だった。だからきっと本心で言っているに違いない。
「……信仰国家ニーベルンゲン。まさか20年でまがりなりにも国家として立つとは思いもしなかった」
「中身は赤子だ。課題は山積している」
「それでも、だよ。この大陸で国家を樹立しようとして失敗していった共同体は山ほどある。君と……ワーグナーの手腕がなければ成し得なかっただろう」
ワーグナー。
かつてバナヘイムの政治家だったニーベルンゲン初代国王の名前。
ネフィリムとトールの父でもある。
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