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第三部 第一章 経済国家グルヴェイグに赴くまで
52話 禁書
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この話から第三部のスタートです。よろしくお願いします。
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ミドガルズ大帝国ヴェルスング邸。
シグルズの私室では、帝都アースガルズの帝国図書館から訪れた職員2人がテーブルを介してシグルズと向き合っていた。
帝国図書館のトップ、図書館総裁のマルケは初老の男。その秘書兼司書のブランゲーネはまだ若い女性だった。ただ、2人とも表情は固かった。
「陛下からも解読を急げと命を受けましてな。おかげで専従の司書たちはほとんど休む時間もありませんでした。まあ……これほど貴重な資料を前に睡眠を惜しむ研究者もおりませんが」
一生に一度出会えるかどうかですよ。マルケが言った。
テーブルの上に置かれているのは、ニーベルンゲンの宰相トールから預かった禁書だ。
宗教国家・エインヘリヤルの古代書。
ページが破れていたり文字が擦れていたりはするものの、ほとんどが読めることのできる状態で保存されている。歴史的にも価値の高い一冊と言っていい。
「解読した私たちも内容に衝撃を受けておりますが、一言一句そのまま伝えよとの皇帝陛下の命令でございます。……少し長くなりますがよろしいでしょうか、シグルズ様」
「ああ、ぜひお願いしたいところなのだが……少し待ってくれるか」
シグルズは立ち上がると窓辺に近寄り、部屋の隅に丸くたたまれている重厚なモスグリーンのカーテンを持ち上げる。
と、
ネフィリムがいた。
体を丸くして縮こまっている。
「――……」
「今朝から姿を見かけないと思ったら、こんなところに隠れていたのか」
「………、やはり騎士は気配を見抜くのが早いな」
そういう問題ではないのだが、シグルズはため息を吐きながらこの試みの理由を聞いた。
「兄上がシグルズに禁書を預けたのはなんとなく分かっていた。おそらく私に無用な心配をさせたくないとの配慮からだろうが……これは私の問題なのだ。やはり避けて通ることはできない」
と、息巻いている。
「君がそう思うのならば一緒に聞けばいい」
ただ、おそらく聞いていて気持ちのいい話ではないだろうと予想はできる。特に、戦乙女であるネフィリムにとっては。
「ありがとう、シグルズ。覚悟はできている」
改めてシグルズとネフィリムが着席した。
総裁に代わり、ブランゲーネが凛とした声で話し始める。
「これはエインヘリヤルの宗教上の口伝を古代文字で書き起こしたものです。書かれた時期は不明。読み上げます」
◆
空・海・大陸を総称して『星』と呼ぶ。“かつて”を知るニブルヘイムたちは『ワクセイ』とも呼ぶ。
星の内部にはエネルギーの流れがある。
誰も知らない時代、大きなトネリコの木が生えていた。世界樹という。星の内部を巡ったエネルギーは世界樹から発され、星を生きるものたちに恩恵を与える。
生き物たちはそのエネルギーを浴びて命をつないだ。
誰もしらない時代、世界樹が枯れた。
生き物たちは命の循環に触れられなくなった。ほとんどが死に絶えた。
しかし枯れた世界樹の根っこは大地に広がっていて、地中に埋まっている。
その根っこには未だにエネルギーが残っている。それを動脈という。
動脈はトネリコの木が枯れ落ちたところに露出している。露出した部分は光っている。
残った生き物たちはエネルギーを求めて光る動脈に触れた。
しかし星のエネルギーは直接触れるには強大すぎた。やはりほとんどが死に絶えた。
だが、その一部はエネルギーを受け止めることに成功し、変異し、進化して生き残った。
そのひとつの種がヒトである。
動脈のエネルギーは、ヒトの体を急激に変化させる。
(追記:粒子および電磁波の作用であろうか。生体内のデオキシリボ核酸に対し直接・間接作用を及ぼす。ただそのエネルギーが強大すぎるため通常は人体組織を構成する細胞が機能停止する)
ほとんどのヒトは死ぬ。死ぬ以外だと、形がかわる、消える、腐る、全く違うものに変容する、進化する者がいる。
進化とは適合のこと。
滅多にないが、適合したヒトはヒトではなく「変異体」の扱いになる。
変異体の能力は未知数だ。
現在確認できる変異体は大陸に2人。
我が国の大神官と、わが国から逃げ出した黒い髪の巫女。
大神官は、人体の時間を変容させるという。
巫女は、周囲の人間を変容させるという。
我が国はトネリコが枯れ落ちた場所に何度も調査隊をおくった。だが誰も帰ってこない。
◇
「確かにスリュムの言っていた通りの内容だ」
シグルズは腕組みしながら話を聞いていた。ネフィリムは下を向いて考え込んでいる。
「この動脈とやらの存在を知っているのはエインヘリヤルだけではなく、ニブルヘイムもなのだろう? 何故、変異体はエインヘリヤルにしかいないのだろうな」
「そこは分かりません。この書物を書いた人間がエインヘリヤルの者だとすれば、自国の情報しかなかった可能性もあります。ただ……」
ブランゲーネが禁書の一文を指す。
「“かつて”を知るニブルヘイムは『ワクセイ』とも呼ぶ―――。この一説は、エインヘリヤルさえ知らない知識をニブルヘイムが把握している可能性を示しています。そしてこの薄い灰色のペンで追記されたところ」
「『粒子および電磁波の~』の部分か。未知の言葉が多すぎて全然分からないが」
シグルズが苦笑すると、司書は真面目な顔で頷き返した。
「この部分だけ情報がとても詳細に書かれています。意味は分かりませんが、おそらく、この『エネルギー』に関する見立てなのでしょう。これはエインヘリヤルの古代文字ではありません」
「私が見る限り、スルトやニブルヘイムで使用されている文字に近いですね」
ブランゲーネの言葉を継ぎ、図書館総裁のマルケが重々しく述べた。
エッシェンバッハが戦場でカドモスの将イムセティと短時間だけ会話をした際、カドモスにとっての脅威はニブルヘイムだと語っていたという。
エインヘリヤルにニブルヘイム、スルト……。
やはり脅威は北東にあるのか。
マルケは禁書を手に取った。
「本文はここで終わりなのです。ですが、」
巻末の白紙のページを開き、シグルズとネフィリムの眼前に示した。
そこには、先ほどの“追記”と同じ筆跡の灰色の文字が乱暴に書きつけてある。
「この巻末のページにニブルヘイムの文字で書いてあります。“儀式”についてです」
息が止まる。
ネフィリムも目を見開いていた。
◆
『儀式について』
適合の条件は未だ見出せておらず、ほとんどの人間は細胞を破壊されて死ぬ。
まさに神の気まぐれと言えよう。
効率的に変異体を生み出す代替法として、儀式の遂行が必須である。
動脈の影響を受けた人体同士が変容した人体の構成要素を交換し合うことで、変異体と同じ状態になる事例が発見された。
先日新たに変異体になった―――………
◆
門前にて、総裁と司書の2人が馬車で遠くなっていくのをシグルズとネフィリムは見送っていた。
すでに日も落ちかけている。
「『動脈の影響を受けた者同士』。つまり、“儀式”とは変容した者同士で体液を交換し合う行為だったわけか」
ネフィリムが確認をするように呟く。少し疲れたような笑い方をしていた。
「私がこれまで誰彼構わず跨ってきたことには何の意味もなかったんだな」
「ネフィル。そういう言い方はやめろ」
「母上も、あんな無残な死に方を……する必要なんて……」
シグルズは無言でネフィリムを抱き寄せた。
さらりと流れる黒髪をゆっくりと撫でる。
「なあ、ネフィル」
呼べば、わずかに赤くなった目をシグルズに向ける。
「今日、久しぶりにしようか」
「……何、を?」
「儀式だよ」
ネフィリムは「えっ」と言って固まった。
「お、お前……さっきの話を聞いていたか?」
「ああ。聞いていた」
「私もお前も、動脈とは何の関係もないだろう!? そそそんな儀式なんて」
「俺はそういう意図を持って君と儀式に興じたことはない。 いうなれば戦乙女に人の営みの素晴らしさを教える……前にもそう言わなかったか?」
「いや、確かにそう聞いたが、でも……」
ネフィリムの顎につつつ、と指を這わせる。
「ひっ」
「それとも俺とするのは嫌か? 俺は君の騎士だ。主の嫌がることはしない」
「――――…………」
湯気を発しながらネフィリムが何かをぶつぶつ言っている。湯気がシューシュー言っているので聞こえない。
「何?」
「……………」
「ネフィル、その頭から湧いてる湯気を止めてくれ」
「…………したい」
シグルズは満足そうに顔をほころばせ、ネフィリムに手を差し伸べた。ネフィリムは恥ずかしそうにその手を取った。
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ミドガルズ大帝国ヴェルスング邸。
シグルズの私室では、帝都アースガルズの帝国図書館から訪れた職員2人がテーブルを介してシグルズと向き合っていた。
帝国図書館のトップ、図書館総裁のマルケは初老の男。その秘書兼司書のブランゲーネはまだ若い女性だった。ただ、2人とも表情は固かった。
「陛下からも解読を急げと命を受けましてな。おかげで専従の司書たちはほとんど休む時間もありませんでした。まあ……これほど貴重な資料を前に睡眠を惜しむ研究者もおりませんが」
一生に一度出会えるかどうかですよ。マルケが言った。
テーブルの上に置かれているのは、ニーベルンゲンの宰相トールから預かった禁書だ。
宗教国家・エインヘリヤルの古代書。
ページが破れていたり文字が擦れていたりはするものの、ほとんどが読めることのできる状態で保存されている。歴史的にも価値の高い一冊と言っていい。
「解読した私たちも内容に衝撃を受けておりますが、一言一句そのまま伝えよとの皇帝陛下の命令でございます。……少し長くなりますがよろしいでしょうか、シグルズ様」
「ああ、ぜひお願いしたいところなのだが……少し待ってくれるか」
シグルズは立ち上がると窓辺に近寄り、部屋の隅に丸くたたまれている重厚なモスグリーンのカーテンを持ち上げる。
と、
ネフィリムがいた。
体を丸くして縮こまっている。
「――……」
「今朝から姿を見かけないと思ったら、こんなところに隠れていたのか」
「………、やはり騎士は気配を見抜くのが早いな」
そういう問題ではないのだが、シグルズはため息を吐きながらこの試みの理由を聞いた。
「兄上がシグルズに禁書を預けたのはなんとなく分かっていた。おそらく私に無用な心配をさせたくないとの配慮からだろうが……これは私の問題なのだ。やはり避けて通ることはできない」
と、息巻いている。
「君がそう思うのならば一緒に聞けばいい」
ただ、おそらく聞いていて気持ちのいい話ではないだろうと予想はできる。特に、戦乙女であるネフィリムにとっては。
「ありがとう、シグルズ。覚悟はできている」
改めてシグルズとネフィリムが着席した。
総裁に代わり、ブランゲーネが凛とした声で話し始める。
「これはエインヘリヤルの宗教上の口伝を古代文字で書き起こしたものです。書かれた時期は不明。読み上げます」
◆
空・海・大陸を総称して『星』と呼ぶ。“かつて”を知るニブルヘイムたちは『ワクセイ』とも呼ぶ。
星の内部にはエネルギーの流れがある。
誰も知らない時代、大きなトネリコの木が生えていた。世界樹という。星の内部を巡ったエネルギーは世界樹から発され、星を生きるものたちに恩恵を与える。
生き物たちはそのエネルギーを浴びて命をつないだ。
誰もしらない時代、世界樹が枯れた。
生き物たちは命の循環に触れられなくなった。ほとんどが死に絶えた。
しかし枯れた世界樹の根っこは大地に広がっていて、地中に埋まっている。
その根っこには未だにエネルギーが残っている。それを動脈という。
動脈はトネリコの木が枯れ落ちたところに露出している。露出した部分は光っている。
残った生き物たちはエネルギーを求めて光る動脈に触れた。
しかし星のエネルギーは直接触れるには強大すぎた。やはりほとんどが死に絶えた。
だが、その一部はエネルギーを受け止めることに成功し、変異し、進化して生き残った。
そのひとつの種がヒトである。
動脈のエネルギーは、ヒトの体を急激に変化させる。
(追記:粒子および電磁波の作用であろうか。生体内のデオキシリボ核酸に対し直接・間接作用を及ぼす。ただそのエネルギーが強大すぎるため通常は人体組織を構成する細胞が機能停止する)
ほとんどのヒトは死ぬ。死ぬ以外だと、形がかわる、消える、腐る、全く違うものに変容する、進化する者がいる。
進化とは適合のこと。
滅多にないが、適合したヒトはヒトではなく「変異体」の扱いになる。
変異体の能力は未知数だ。
現在確認できる変異体は大陸に2人。
我が国の大神官と、わが国から逃げ出した黒い髪の巫女。
大神官は、人体の時間を変容させるという。
巫女は、周囲の人間を変容させるという。
我が国はトネリコが枯れ落ちた場所に何度も調査隊をおくった。だが誰も帰ってこない。
◇
「確かにスリュムの言っていた通りの内容だ」
シグルズは腕組みしながら話を聞いていた。ネフィリムは下を向いて考え込んでいる。
「この動脈とやらの存在を知っているのはエインヘリヤルだけではなく、ニブルヘイムもなのだろう? 何故、変異体はエインヘリヤルにしかいないのだろうな」
「そこは分かりません。この書物を書いた人間がエインヘリヤルの者だとすれば、自国の情報しかなかった可能性もあります。ただ……」
ブランゲーネが禁書の一文を指す。
「“かつて”を知るニブルヘイムは『ワクセイ』とも呼ぶ―――。この一説は、エインヘリヤルさえ知らない知識をニブルヘイムが把握している可能性を示しています。そしてこの薄い灰色のペンで追記されたところ」
「『粒子および電磁波の~』の部分か。未知の言葉が多すぎて全然分からないが」
シグルズが苦笑すると、司書は真面目な顔で頷き返した。
「この部分だけ情報がとても詳細に書かれています。意味は分かりませんが、おそらく、この『エネルギー』に関する見立てなのでしょう。これはエインヘリヤルの古代文字ではありません」
「私が見る限り、スルトやニブルヘイムで使用されている文字に近いですね」
ブランゲーネの言葉を継ぎ、図書館総裁のマルケが重々しく述べた。
エッシェンバッハが戦場でカドモスの将イムセティと短時間だけ会話をした際、カドモスにとっての脅威はニブルヘイムだと語っていたという。
エインヘリヤルにニブルヘイム、スルト……。
やはり脅威は北東にあるのか。
マルケは禁書を手に取った。
「本文はここで終わりなのです。ですが、」
巻末の白紙のページを開き、シグルズとネフィリムの眼前に示した。
そこには、先ほどの“追記”と同じ筆跡の灰色の文字が乱暴に書きつけてある。
「この巻末のページにニブルヘイムの文字で書いてあります。“儀式”についてです」
息が止まる。
ネフィリムも目を見開いていた。
◆
『儀式について』
適合の条件は未だ見出せておらず、ほとんどの人間は細胞を破壊されて死ぬ。
まさに神の気まぐれと言えよう。
効率的に変異体を生み出す代替法として、儀式の遂行が必須である。
動脈の影響を受けた人体同士が変容した人体の構成要素を交換し合うことで、変異体と同じ状態になる事例が発見された。
先日新たに変異体になった―――………
◆
門前にて、総裁と司書の2人が馬車で遠くなっていくのをシグルズとネフィリムは見送っていた。
すでに日も落ちかけている。
「『動脈の影響を受けた者同士』。つまり、“儀式”とは変容した者同士で体液を交換し合う行為だったわけか」
ネフィリムが確認をするように呟く。少し疲れたような笑い方をしていた。
「私がこれまで誰彼構わず跨ってきたことには何の意味もなかったんだな」
「ネフィル。そういう言い方はやめろ」
「母上も、あんな無残な死に方を……する必要なんて……」
シグルズは無言でネフィリムを抱き寄せた。
さらりと流れる黒髪をゆっくりと撫でる。
「なあ、ネフィル」
呼べば、わずかに赤くなった目をシグルズに向ける。
「今日、久しぶりにしようか」
「……何、を?」
「儀式だよ」
ネフィリムは「えっ」と言って固まった。
「お、お前……さっきの話を聞いていたか?」
「ああ。聞いていた」
「私もお前も、動脈とは何の関係もないだろう!? そそそんな儀式なんて」
「俺はそういう意図を持って君と儀式に興じたことはない。 いうなれば戦乙女に人の営みの素晴らしさを教える……前にもそう言わなかったか?」
「いや、確かにそう聞いたが、でも……」
ネフィリムの顎につつつ、と指を這わせる。
「ひっ」
「それとも俺とするのは嫌か? 俺は君の騎士だ。主の嫌がることはしない」
「――――…………」
湯気を発しながらネフィリムが何かをぶつぶつ言っている。湯気がシューシュー言っているので聞こえない。
「何?」
「……………」
「ネフィル、その頭から湧いてる湯気を止めてくれ」
「…………したい」
シグルズは満足そうに顔をほころばせ、ネフィリムに手を差し伸べた。ネフィリムは恥ずかしそうにその手を取った。
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