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第一部 第二章 戦乙女を救い出すまで
10話 塔からの救出②
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◇
湯から上がり、女中らによって貫頭衣状の薄い寝着を身に着けるころには意識もぼんやりし、体も火照っていた。
「い、う、ぅん……」
ネフィリムはベッドの上で身をよじってなんとかやり過ごそうとするが、部屋の空気と浴場の湯によって長時間摂取している薬が全身を巡っている。もはや欲求に抵抗するのも難しい。
自我がドロドロと溶けていく。自然と手が下腹部に向かう。
大切な記憶も、戦いに必要な軍略や学んだ知識も薄れて消えていく。
残るのは気持ちいいことを求めてしまう本能と、プライドを捨てたやましい自分の姿だけ。
気を抜けば変な声を出してしまう。ネフィリムは歯を食いしばった。
ギィ。
寝室のドアが開くのを視界の隅で確認した。
ファフニルがやってきたのだ。
今日もまた悪夢の時間が始まる。
あの白い手で全身を撫で回されて、唇や胸を吸われて、奉仕をしろと強要されて。
犬のように四つん這いにされた後は乱暴に貫かれる。
嫌だ、嫌だ嫌だ。
ここは戦場ではない。
私は「乙女」ではない。
なのに薬が理性を奪っていって、あの男の与える快楽に従順になってしまう自分が耐えられない。
助けて、誰か―――。
「助け、」
「大丈夫か」
え?
「なんだ、この服は……。まるで裸じゃないか。おい、聞こえているか」
顔を上げると、そこにいたのはファフニルではなかった。
銀の髪。
灰色の瞳が、眉を寄せてこちらを覗き込んでいる。
『お前のようなお飾りの人形が戦場に立つ資格はないと言っているんだ』
あの日、戦場で私を睨みつけたその瞳。
「———白銀の、騎士…?」
呟くと、相手は明らかにほっとした顔を見せた。
「覚えていたか。細かい話は後だ。ここを脱出するぞ」
「あ……?」
ベッドから降りようと立ち上がった。
寝着の裾に足を取られて転倒する。
頭から倒れ込みそうになったが、シグルズの腕がなんなく受け止めた。
「あまり体調も良くなさそうだが今は我慢してくれ。このまま抱えていく」
シグルズは胸の前で抱き止めたネフィリムをさっと横抱きにし、そのままマントで覆って姿を隠した。
「わっ……」
「走るぞ」
シグルズは勢いよく走り出した。
しかし音は立てない。かなりのスピードで走っているはずなのに、別塔の渡り廊下には音が響かないのだ。訓練された者の動きだった。
グン、と重力を感じたと思ったら、次の瞬間にはドンと振動が全身を襲う。吹き抜けの大階段を飛び降りたのだと分かった。
そのまま道を何度か曲がる。走り続けているシグルズがそっと呟いた。
「さすがに正面から抜けるのは危険だな。窓も……侵入の痕跡が見つかった可能性がある。脱出には使えんだろうな」
ネフィリムはその言葉を聞き、頭の中にテルラムント家別塔の地図を思い浮かべた。
まだこの塔での行動が制限される前、書庫の奥で見つけた古い蔵書の一ページだった。
読んだ本の内容はほとんど覚えている。
「キッチンの奥」
ネフィルは声を出した。
まともな言葉を話すのは久しぶりだったので、ちゃんと声が出てわずかに安堵した。
「何?」
「キッチン横の階段から地下食糧保存庫に降りることができる。そこの奥の部屋から地下水路に続く道が通じているはずだ」
「―――」
シグルズは無言になった。警戒しているに違いない。
「なぜそんなことを知っている?」
「書庫の本に書いてあった」
「この塔のか?」
「そうだ」
「書庫にある本の中のそんな情報を、囚われていたお前が覚えているのか」
妥当な疑問だった。
「この別塔が立てられた経緯が書いてあった。雪の多いこの地で、凍らずに水をくみ上げられるよう水脈を分岐させ、この塔の内部で直接くみ上げられるようにしたのだと。
今は領内にさらに大きな給水塔ができたからここの水路を埋めて滞在客用の塔としたが、熱源を保守・点検するための作業用水路は残っている。そこが現在使っている給水塔の地下水路に繋がっている」
簡潔に、だが今ここにいる2人の命をかけるに値する重要な情報を知っている理由。これをシグルズに伝えなければならない。
読んだ本の内容をそらんじた。全て頭の中に入っているのだと信用してもらうしかない。
シグルズはかすかに笑った。
「なるほど」
「……まだ信用できないか?」
シグルズは首を振る。先ほどよりも穏やかになった灰色がネフィリムを映した。
「いや。信用した。そもそも最初から信用すべきだった。お前はニーベルンゲンの軍師だったのだからな」
湯から上がり、女中らによって貫頭衣状の薄い寝着を身に着けるころには意識もぼんやりし、体も火照っていた。
「い、う、ぅん……」
ネフィリムはベッドの上で身をよじってなんとかやり過ごそうとするが、部屋の空気と浴場の湯によって長時間摂取している薬が全身を巡っている。もはや欲求に抵抗するのも難しい。
自我がドロドロと溶けていく。自然と手が下腹部に向かう。
大切な記憶も、戦いに必要な軍略や学んだ知識も薄れて消えていく。
残るのは気持ちいいことを求めてしまう本能と、プライドを捨てたやましい自分の姿だけ。
気を抜けば変な声を出してしまう。ネフィリムは歯を食いしばった。
ギィ。
寝室のドアが開くのを視界の隅で確認した。
ファフニルがやってきたのだ。
今日もまた悪夢の時間が始まる。
あの白い手で全身を撫で回されて、唇や胸を吸われて、奉仕をしろと強要されて。
犬のように四つん這いにされた後は乱暴に貫かれる。
嫌だ、嫌だ嫌だ。
ここは戦場ではない。
私は「乙女」ではない。
なのに薬が理性を奪っていって、あの男の与える快楽に従順になってしまう自分が耐えられない。
助けて、誰か―――。
「助け、」
「大丈夫か」
え?
「なんだ、この服は……。まるで裸じゃないか。おい、聞こえているか」
顔を上げると、そこにいたのはファフニルではなかった。
銀の髪。
灰色の瞳が、眉を寄せてこちらを覗き込んでいる。
『お前のようなお飾りの人形が戦場に立つ資格はないと言っているんだ』
あの日、戦場で私を睨みつけたその瞳。
「———白銀の、騎士…?」
呟くと、相手は明らかにほっとした顔を見せた。
「覚えていたか。細かい話は後だ。ここを脱出するぞ」
「あ……?」
ベッドから降りようと立ち上がった。
寝着の裾に足を取られて転倒する。
頭から倒れ込みそうになったが、シグルズの腕がなんなく受け止めた。
「あまり体調も良くなさそうだが今は我慢してくれ。このまま抱えていく」
シグルズは胸の前で抱き止めたネフィリムをさっと横抱きにし、そのままマントで覆って姿を隠した。
「わっ……」
「走るぞ」
シグルズは勢いよく走り出した。
しかし音は立てない。かなりのスピードで走っているはずなのに、別塔の渡り廊下には音が響かないのだ。訓練された者の動きだった。
グン、と重力を感じたと思ったら、次の瞬間にはドンと振動が全身を襲う。吹き抜けの大階段を飛び降りたのだと分かった。
そのまま道を何度か曲がる。走り続けているシグルズがそっと呟いた。
「さすがに正面から抜けるのは危険だな。窓も……侵入の痕跡が見つかった可能性がある。脱出には使えんだろうな」
ネフィリムはその言葉を聞き、頭の中にテルラムント家別塔の地図を思い浮かべた。
まだこの塔での行動が制限される前、書庫の奥で見つけた古い蔵書の一ページだった。
読んだ本の内容はほとんど覚えている。
「キッチンの奥」
ネフィルは声を出した。
まともな言葉を話すのは久しぶりだったので、ちゃんと声が出てわずかに安堵した。
「何?」
「キッチン横の階段から地下食糧保存庫に降りることができる。そこの奥の部屋から地下水路に続く道が通じているはずだ」
「―――」
シグルズは無言になった。警戒しているに違いない。
「なぜそんなことを知っている?」
「書庫の本に書いてあった」
「この塔のか?」
「そうだ」
「書庫にある本の中のそんな情報を、囚われていたお前が覚えているのか」
妥当な疑問だった。
「この別塔が立てられた経緯が書いてあった。雪の多いこの地で、凍らずに水をくみ上げられるよう水脈を分岐させ、この塔の内部で直接くみ上げられるようにしたのだと。
今は領内にさらに大きな給水塔ができたからここの水路を埋めて滞在客用の塔としたが、熱源を保守・点検するための作業用水路は残っている。そこが現在使っている給水塔の地下水路に繋がっている」
簡潔に、だが今ここにいる2人の命をかけるに値する重要な情報を知っている理由。これをシグルズに伝えなければならない。
読んだ本の内容をそらんじた。全て頭の中に入っているのだと信用してもらうしかない。
シグルズはかすかに笑った。
「なるほど」
「……まだ信用できないか?」
シグルズは首を振る。先ほどよりも穏やかになった灰色がネフィリムを映した。
「いや。信用した。そもそも最初から信用すべきだった。お前はニーベルンゲンの軍師だったのだからな」
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