アネモネの花

藤間留彦

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観月脩編

第三話 恋人ごっこ④

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 カップルの片方だけが生き残れるという点に気付いた男は、迫りくる幽霊を前に女を転倒させ、一人で車に乗り込んだ。悠々と森から逃げ果せる男。土にまみれ、傷だらけになりながら「置いていかないで」と泣く女を幽霊が見下ろす。しかし悲しげで憐みさえ抱いているような表情を見せ、女の幽霊は静かに森の奥に消えていった。

 山道を走行しながら、喜々として新しい恋人に電話を掛ける男。カーブに差し掛かった時、男はハンドルを切りながら絶望する。ブレーキが利かないのだ。そしてそのまま曲がり切れずに男を乗せた車はガードレールを突き破って、落ちていった。落ちた先は、あの湖だった。

 数か月後生まれた娘に、女は幽霊のかつての名前を付けた。娘があの幽霊のように美しい金の髪をしていたから。赤ちゃんを抱きながら女はログハウスの湖のほとりに花を供え、「ありがとう」と呟き去っていった。

 この日、初めて俺はホラー映画を物語としてちゃんと見られたと思う。思ったより話が練られていたので驚いた。

 明るくなってすぐ手を離して、氷で薄まってしまっているコーラを飲む。立ち上がった先生の後をついて映画館を出たところで、

「大丈夫でしたか? 苦手なのに付き合わせてしまって、すみませんでした」

 と先生が俺を気遣うように顔を覗き込んできたので、慌てて顔を背ける。手を繋いだという事実をようやく受け入れた俺は、まともに顔を見られなかった。

「い、いえ……」

 「平気」と言おうとして言葉が詰まる。冒頭で怖くなって先生に助けを求めた人間の口からはとても言えない。しかし、先生が少し気落ちしているように見えて、何か言わなければと考えを巡らす。

「怖かった、ですが……芳慈さんが、手を握っててくれたので……」

 何を言っているんだ、俺は。自分で言った台詞に恥ずかしくなって、顔を真っ赤にする。まるで自分で埋めた地雷を踏んで、自分で掘った墓穴に入るようなものだ。

「私も嬉しかったですよ。君が、私に心を許してくれたのだと思って」

 優しく微笑むその表情に、どくんと心臓が脈打つ。ああ、駄目だ、降参だ、と脳内で冷静さをギリギリで保っていた存在が白旗を振った。

 と、芳慈さんが時計を見る。もしかして、ここで解散とか言わないよな、と焦る。

「バイトまでまだ時間ある、ので……どっかでお茶、とか……」

 拒絶されるのが、嫌だと言われるのが怖い。それでも、尻すぼみになりながら、自分の気持ちを、我儘を言ってみる。

「はい、そうしましょう。どこかいいところ知っていますか?」
「カフェバーなら。結構コーヒー美味しいらしいので」

 ケンが行きつけの店で、たまに行くバーなのだが、カフェタイム以外でも出しているコーヒーとカレーが美味しいのでたまに食べていると話しているのを思い出した。

「それは楽しみです」

 先生が嬉しそうに笑うのを見て、つられて笑いそうになる。研究室にコーヒーメーカーを置いていたし、本当にコーヒーが好きなのだなと、昼間歩くのが少し不思議な気持ちになりながら、行き慣れた店への道程を、先生と肩を並べて歩いた。

 店に入ると予想外に混んでいたので、バーカウンターで横並びになって座った。コーヒーを飲みながら、映画の感想を言い合う。

「後半は幽霊よりも、男の陰謀の方が恐ろしかったかも」
「私もそう思います」

 話していると先生と感性が合うなと思うところがあって、それが妙にくすぐったくて嬉しい。

「女の幽霊も幽霊になった理由が悲惨ですし……よっぽど人間の方が怖いっていうか」
「ええ。あの映画の監督は、人間の内側にある狂気を描くのが得意なんですよ。私はそういう強い感情に憧れます」
「……憧れる?」

 意外な言葉に先生の方を向く。先生はどこか悲しげに、空を見詰めている。

「あの幽霊は、男に裏切られた憎しみと悲しみの末に幽霊にまでなったのです。それはつまり、彼女が深く男を愛していた証拠でもある。私が今までの交際相手に愛情を疑われたのは、きっとそれほど強く誰かを想い、愛したことがないからなのだと思うのです。そして、それ故に深く愛されることもない」

 誰かに深く愛されたいと思う。愛したい、と思う。そんなことを、今まで考えたことも無かった。そんな「誰か」が現れるなんて、想像もしていなかったから。

「……すみません、変な話をしてしまいましたね」

 そう困ったように笑う先生を見詰めながら、思う。俺が、先生にとっての「誰か」になれたら、と。

 ――自分だけに許されたものが、欲しかった。

 俺だけに傷付くことを厭わずに、心の奥の柔らかい場所を曝け出してくれるような、そんな無条件の何かを、俺は求めていた。そして俺自身も、同じように自分の全てを差し出せるような相手を――許し、許される存在を欲していた。

「そろそろバイトの時間ではないですか?」

 そう言われて、携帯の画面を見ると、勤務時間の三十分前だった。こんなにバイトに行きたくないと思ったことはない。
 先生がさらっと会計を済まし、その後ろをついて店を出た。

「次は、どうしましょうか」

 肩を落としていたところに、降ってきた言葉に、俺は顔を上げる。先生は手帳を取り出し、予定を確認しているようだ。一瞬見えたページにはびっちりと文字が書かれていて、俺が想像しているよりも大学の教授は忙しいらしい。

「俺は、バイトが終わった後か、学校が休みの日の昼間なら大体暇です」

 いっそ先生が空いている日に合わせてシフトを組んでも良いくらいだが、そんなことを言うと重いと思われるだろう。だってこれは、先生にとっては「実証研究」でしかないのだから。

「では……次の土曜日のお昼はどうでしょうか」
「……大丈夫、です」

 今日が日曜日だから次会うのは六日後、と計算して「大丈夫」という言葉が詰まる。六日会えないのは、正直全く「大丈夫」ではないからだ。

「今日は有難うございました。また連絡します」
「はい、また……」

 去っていく先生の後姿を、人混みに紛れて見えなくなるまで見詰めていた。見えなくなったら、胸が苦しくなって、どうしようもない気分になって、俺は早足でバイト先へ向かった。

 ああ、これは、「恋」だ。俺は今、本当の恋を知ったのだ。

 高校時代好きだった奴の顔はもうほとんど思い出せないけれど、きっと十年後も先生を、この感情を思い出すだろうと思えた。

 ――好きだ。

 そう言えたら、どれだけ楽だろう。けれど、先生は俺のことを好きではないから。俺がそんなことを言えば、先生は俺の気持ちに応えようとして苦しむだろう。今までの相手に対しても、愛そうと努力して摩耗して、結局その関係は終わった。

 俺は、先生にとって実験のための材料だ。多くを望んではいけない。週に一回会って、デートという実験をする。それだけ。

 先生にとって、特別な存在になれたら。そんな我儘な希望を抱いてしまうほど、俺は鳥海芳慈という男に夢中だった。
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