アネモネの花

藤間留彦

文字の大きさ
上 下
26 / 75
観月脩編

第三話 恋人ごっこ⑤

しおりを挟む
 それから、毎週土曜か日曜の昼間に先生とデートをした。大体、どこかで食事をした後、映画か美術館か博物館か。俺の行きたい場所が無いからだが、先生の行きたい場所は、ごく普通の落ち着いた年齢の男女が行くデートの典型のような場所だった。

 しかしそれが退屈ということはなく、先生は知識が豊富なので俺の知らないことを丁寧に教えてくれるし、知らないことを恥ずかしいと思わせない言い方をしてくれる。それはまるで授業のようでもあったけれど、先生と二人だけの時間を共有しているという事実が、何よりも特別で、嬉しかった。

 先生の「恋人役」を始めて変わったのは、俺が夜遊びをしなくなったことだ。俺は自分が思うよりも一途だったようで――恋人が居ても遊んでいる奴は界隈には多い――、他の誰かと身体の関係を持つなどということが考えられなくなってしまった。

 それでも、二十歳の俺の身体は欲求不満だから、先生のことを考えては自分を慰めて、手の中の白濁を見る度に、虚しさと罪悪感を覚える日々。
 先生とデートする日、もしものことがあったらいけないから、と俺が毎回後ろを綺麗にしているのを、あの人は知らないだろう。まるで女みたいに、抱かれたいと思っていることも。

 ああ、なんて醜いんだろう。この邪な感情を持った自分が、先生の純粋さに寄り添おうというのだから、滑稽過ぎて笑える。

 週に一度しか会えなくても耐えられるのは、先生が毎日「恋人」の俺に「おはようございます」と「おやすみなさい」のメールを律儀に送ってくれるおかげだ。俺はこの「恋人ごっこ」に勘違いできたし、日に何度も読み返して満たされた気になれた。

 そんな不格好な片想いを続ける自分が嫌になりながら、精を排泄した倦怠感に苛まれて眠った。

 ただ、大学が始まって先生と学生という関係を再認識するようになると、段々とその魔法が解けていった。教壇の前に立つ先生は、「芳慈さん」ではない。俺と先生は、とても遠い。
 その距離感が虚しいと感じて、自分から研究室に行くことは無かったし、大学で話をすることは無かった。


 そんな日々がひと月経とうとしている頃だった。いつものように授業を終えて、授業と授業の間の空き時間をどう過ごそうかと思案していると、外の喫煙コーナーに人影が見えて立ち止まる。階段の段差に腰掛けて紫煙を燻らせながら、独り何処か遠くを見詰めているその人の横顔に見入ってしまった。

 気付くと煙草を吸ったことも無いのに、その人の隣に腰掛けていた。誰も居なければ、週末の一日のように話せると思ったからかもしれない。

「……観月君」

 一瞬間を置いて俺の苗字を呼んだ。ここは大学で、俺と先生は「恋人」じゃない。その事実を突き付けられたようで、胸の奥がひりつく。

「先生が煙草吸うって知らなかったです」
「しばらく辞めていましたから」

 立ち上がり白煙を空に吐き出して、煙草を灰皿に押し付ける。その仕草が妙に男らしく、色気があって見惚れた。

「考え事をする時や、煮詰まった時につい吸ってしまうんです」

 ――一体何を考えていたんですか。
 俺にはそう尋ねるだけの勇気はなかった。俺との関係を辞めようと思っている、なんて言われる気がして怖かった。

「ちょうど観月君に連絡しなければと思っていたところでした」
「えっ……」
「今週の土曜日なのですが、関西の講演会の方に御病気で欠席される先生の代わりに出ることになって、会うことができなくなってしまいました」

 一瞬肝が冷えたが、最悪では無いけど、どのみちあまり良い報告では無かったので微妙に気落ちする。

「それで申し訳ないんですけど、金曜日の夜、授業が終わった後会えませんか。アルバイトの予定が入っているでしょうか」
「いえ、全然大丈夫です。ちょうど空いていました」

 嘘です。シフト入ってます。でも空けます。心の中で忙しい金曜シフトを変わってもらうであろう先輩に謝罪する。

「良かった。後でまた連絡しますね」

 微笑む先生を見詰め、一日早く会えることへの喜びを噛み締める。と、先生が持っていた煙草の箱を胸ポケットに仕舞うのを見て、どんな味のものを吸っているのだろうと興味が湧いた。

「それ一本ください」
「え? 観月君は吸わないでしょう?」
「吸ってみたいんです。どんな感じかなって」

 「PARLIAMENT」と書かれたパッケージ。箱の蓋を開けて差し出される。そこから一本取り口に咥えると、先生がジッポーで火を点けてくれた。

 一気に肺に空気を入れるように吸うと、酷く苦い味が口の中に広がり、ごほごほと咳き込む。先生は俺の背を撫でながら「大丈夫ですか」と心配そうに声を掛ける。

「……大丈夫です」

 涙目で煙草を持っている俺に、先生は「嘘が下手ですね」と困ったように笑った。煙草の味は分からなかったけれど、先生の好きな物の味を知れるのは、嬉しかった。

 その日の夜、いつものおやすみメールに金曜日の待ち合わせの時間と場所が書かれていた。

「ぎ、銀座……?」

 不意に独り言が飛び出すほどの衝撃だった。昼間のデートが無い分、高級レストランに連れて行ってあげよう的な気遣いだろうか。だがしかし、そんなレストランに入れるような服は一着も持っていないのだが。

 焦ったものの、もしそうだとしたら先生のことだ。ちゃんとメールに「フォーマルな格好で」と書いてくれるはずだ。俺に金が無いことも、そんな服を持っていないだろうことも分かっているだろうし。

 銀座と一口に言っても、ラフな格好で入れる店も多い。気にし過ぎだろう、とそう思うけれど、一応ちょっとは小奇麗に見えるようにしていこうと、クローゼットの中を探った。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

狼さんは許さない

ホラー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:25

その香り。その瞳。

BL / 連載中 24h.ポイント:106pt お気に入り:1,248

太宰治

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

エデンの花園

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:7

アレの眠る孤塔

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:9

SランクPTを追放された最強土魔術師、農業で無双する

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:1,280

放課後教室

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:156

神々の間では異世界転移がブームらしいです。

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:2,334

【完結】悪役令嬢とヒロインと王子の婚約破棄騒動茶番劇

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:578

処理中です...