ヤクザのせいで結婚できない!

山吹

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81. 『ジェラルド』とか『一柳慧介』とか

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 そこはシャワールームだった。ゆったりとした脱衣スペースで、壁に埋め込まれた大きな鏡は曇りひとつない。

「何やってんだろ、あたし……」

 ぼやきながら手早くワンピースに着替える。ファスナーを閉めた瞬間にタイミングよくノックされた。

「どう、着替えられた? 手伝おうか」
「結構です、終わりました!」

 ドアを開けると、お医者さんは軽く口笛を吹いた。

「素敵だ、良く似合ってるよ」
「……ありがとうございます、お借りします」
「貸すなんてとんでもない。差し上げますよ、お嬢さん」
「でもこれ、誰かへのプレゼントなんじゃ……」

 お医者さんは肩をすくめた。転がっていた箱と包み紙はもう片付けられている。

「ヘアスタイルがいまいちだな。そこに座って、アレンジしてあげるよ」
「出来るんですか」
「当然。さ、どうぞ」

 もうどうにでもなれって気持ちで鏡の前の椅子に座ると、お医者さんは慣れた様子であたしの髪をいじり始めた。言うだけあって、確かに手つきは慣れたものだ。
 何だか、朱虎にやってもらってるみたいな錯覚に陥りそうになる。 

「サイド編み込みにしようか。似合うと思うよ」
「あ、編み込みは頭痛くなるから好きじゃない……じゃ、なくて」

 うっかり気が緩みかけている自分に気が付いて、あたしは慌てて気を引き締めた。
 駄目だ、ほんとに何やってるんだあたしは。今からでもしっかりしないと。

「じゃ、緩い三つ編みにするかな。ピンはあったっけ……」

 口笛でも吹きそうな雰囲気で引き出しを開けるお医者さんに、あたしは口を開いた。

「あの」
「うん?」
「何で、助けてくれたんですか」

 軽い笑い声が弾けた。

「君が真っ青で今にも泣きそうだったから、つい。可愛い子のピンチは助けなきゃねえ……どう、ときめいた?」

 からかうような響きは無視して、あたしは続けた。

「ここ、マフィアの船ですよね。あの美少女が持ち主で、イタリアのなんとかってマフィアの娘だって聞きました」

 焦るな、と思いながらもつい早口になってしまう。背後で軽く口笛が聞こえて、髪の上をブラシが滑り始めた。

「よくご存じで。というか、そこまでわかっててよく忍び込んできたねえ、君。さすがヤクザの娘ってことなのかな」
「あなたはいったい何者なの」

 髪をいじる手が止まった。

「バーや病院では『一柳慧介』って名前で働いてたんですよね。……でも、倉庫では『ジェラルド』って名乗ってた」
「ああ、……うん」
「どっちが本当の名前なの? あの美少女と兄妹って言ってたってことは、偽名で生活してたってこと?」

 蓮司さんも潜入調査のために偽名で生活していた。お医者さんも本当の身分を隠して、紛れ込んでいたんだろうか? 何のために?

「……あなたも、マフィアなの?」

 恐る恐る投げた問いに、小さく息を吐く気配が返ってきた。

「いや、僕はマフィアじゃない。ファミリーにいたことはあるけど、とっくに縁を切った」

 思わず振り返る。お医者さんは小さく笑った。

「本当だよ。ここにいるのは、バイトみたいなもんなんだ」
「ば、バイト?」
「そう」

 影が差した瞳はやっぱりどこか朱虎に似ていた。

「僕の母はイタリアで僕を産んだ。父親はマフィアのボスだ。母は彼の多くいる愛人の一人だった」

 前を向いて、と優しく促される。言われるがままに座りなおすと、お医者さんは再び手を動かし始めた。

「と言っても、子供のころはごく普通に母と二人暮らしをしていたよ。ときどき訪ねてくる『父親』がマフィアのボスだと知ったのは、母が体調を崩して一緒に暮らせなくなって、本宅に引き取られた時だった」
「本宅に引き取られたって、跡取りってこと?」
「まさか! 親父の息子は既に何人もいたよ。僕は本宅では単なる居候みたいなものだった。で、ちょうど生まれたばかりの『妹』の面倒を見ることになったんだ。――それがサンドラだ」

 静かな語りの合間に髪が梳かれて、分けられて、編まれていく。

「サンドラの母親は華やかな性質で、子供の世話なんてまっぴらごめんってタイプだったからね。ミルクやおしめの面倒まで僕が見た」

 どこかで聞いたような話だ。でも朱虎がうちに来た時、あたしは5歳だったから、さすがにおしめやミルクの必要はなかった。こっちのほうが筋金入りって感じ。

「それでも、それなりに不自由なく暮らしていたんだけどね。――18の時、母が病気で亡くなったんだ」

 華やかなリボンが引き出しの中から取り出されて、あたしの髪に巻き付けられた。

「それをきっかけになって僕はファミリーを抜けた。イタリアを離れて母の故郷だった日本へやってきて『ジェラルド=ロッソ』から『一柳慧介』って名前も変えた。で、バイトしながら医者の卵をやっていた……んだけど」

 ブラシを置いたお医者さんは、ふう、と息を吐いた。

「ひと月ほど前に突然サンドラが現れてね。日本での『用事』が済むまで彼女の観光ガイドをしろって言うんだ」
「えっ? でも、ファミリーは抜けたんじゃ」

 ヤクザの世界では、いったん組と縁を切って堅気に戻った人間にコンタクトを取るのはご法度だ。マフィアだって似たようなものじゃないんだろうか。
 お医者さんはまた苦笑した。

「そんなの自分の知ったことじゃない、と言うんでね。そういう子なんだ、言い出したら聞かない。……ま、報酬も魅力的だったから引き受けたんだよ。割のいいバイトってことで」

 何しろまだペーペーで金がなくてね、とのんびり言うお医者さんをあたしは見上げた。
 嘘を言ってるようには見えない。仮に嘘が混じっていたとしても、あたしを助けてくれたのは事実だ。

「……あの。さっきも……倉庫でも、あ、あと、バーでも助けてくれて……ありがとうございます、一柳さん」

 お医者さんは少し目を見開いてから肩をすくめた。

「そこは慧介さんって呼ぶとこでしょ」
「け……慧介さん」
「素直だねえ。で、このまま告白とかされちゃう流れ? OK、いいよ」
「そんな流れないです」
 あたしがきっぱりと首を振ると、お医者さん――慧介さんは短く笑った。
「冗談だよ。……さて、じゃあ行こうか」
「えっ?」

 促されて反射的に立ち上がりながら、あたしは瞬いた。

「船の外まで送るよ。だから、もう帰りなさい」
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