34 / 74
第二章
6-3.
しおりを挟む
6-3.
「離せ!会わせろっつってんだろ!」
ヴィアンカの個室へと続く廊下、引き留めようとする副官を力付くで振り払う。
結局、シャドウウルフを殲滅させ、城壁の外の魔物も粗方片付けたはいいが、討伐の責任者として城塞を離れることはできなかった。
彼女の元に増援を送った後は、じりじりとした気持ちでその帰還を待つしかなく。戦闘の後処理に追われる中、届いた『帰還したヴィアンカが怪我をおっている』という報告。
その場で指揮を秘書官に押し付けて彼女の元へと走った。居るはずの医務室にたどり着いても、そこに彼女の姿はなく、副官から告げられたのは―
「落ち着いて下さい!ヴィアンカ様はお部屋で安静にさせたいと!ホーンから報告がありました!」
「怪我してんだろーが!何で医務室で治療受けてねえんだよ!?」
胸を焦燥がこがす。一目彼女を見て、その無事を確認しなければ。息さえ上手く出来ない。
「ヘインズが治療するそうです!だから、回復するまでは部屋に籠るので、近づかないで欲しいと!」
「何でだよ!?無事か確かめるだけだろが!」
怒鳴りつけ、ダグストアを振り払ってたどり着いた部屋の扉の前、異変を感知する。
「結界?」
部屋への侵入を拒むそれに、怒りが膨れ上がる。
「っざけやがって!」
感情のまま、膨れ上がった魔力の奔流を叩きつける。解除の技巧も何もなく、ただ力任せに結界を砕いた。手を伸ばし、扉を開く―
「!」
目の前の光景に息をのんだ。思考が追い付かずに、ただ茫然と立ちすくむ。
ベッドの上、上掛けの下に横たわるヴィアンカ。その蒼白い顔を抱え込むようにして横になっているのは―ヘインズ?―その肩まで露になっている少年。二人は、何も身に纏っていないようで―
「ヂアーチ大隊長」
ベッドの横、椅子に腰掛け、ヴィアンカの手を握っていた男が近づいて来る。ヴィアンカから目を離せずにいると、視界をその体で遮られた。
「ヴィアンカ様は大丈夫です。ヘインズが治療しますから」
「…何故、軍医に診せねえ?」
「…」
普段から口数の多くない男が押し黙る。
「…どんな魔術かは知んねえが、あれで治療になんのか?軍医に診せて、」
「あんたが言ったんだろ?」
高さのほとんど変わらない視線が、真っ直ぐに見据える。
「ヴィアは絶対に死なせない」
「!」
「だから、黙って見守ってて欲しい」
そう言って頭を下げる男に、拳を握りしめる。この男達も己と同じ、彼女の身を案じ、護ろうとしている。悔しいが、彼女を一番知っている彼らが、最良の手段だと言っているのだ。
「…ヴィアンカの目が覚めたら報告しろ。…覚めなくても明日の朝には一度俺の所へ来い」
「了解しました」
返事を聞いて、部屋を出た。律儀に控えていた副官を連れて、執務へと戻る。何か言いたげな部下に、しかし口を開けばこの胸に煮えたぎる苛立ちをぶつけてしまいそうで。
自室の窓から空が白むのを眺める。
ヴィアンカの部屋を追い出された後、執務室に戻ってがむしゃらに仕事を続けた。大攻勢の後始末、仕事はいくらでも降って来たが、何も考えたくない身には、却って有り難い。それでも日が落ち、月が高く上がる頃にはその執務室も追い出されてしまった。
身体は疲れているはずなのに、一向に眠りが訪れない。朝焼けの中、ぼんやりと浮かぶのは、血の気の引いたヴィアンカの顔で、同時に彼女を抱いていた男までも思い出す。
当然の権利のように彼女に触れる男。それが治療行為なのだとしても―ギリギリと胸が締め付けられ、男への嫉妬に怒りが爆発しそうになる。
―嫉妬。認めてしまえばこんなにも明白な感情。他の男が彼女に近づくことが許せない。己の近づけない彼女に―
いつかも感じた独占欲。彼女に、ヴィアンカに触れるのは、俺だけでいい―
朝焼けに染まる部屋に、ノックの音が響く。
「入れ」
「失礼します」
返ってきた声に、上着を引っ掻けて扉に向かった。開いた扉に現れた男を外へと促して、廊下を歩き出す。
「目ぇ覚ましたか?」
「いえ、未だです」
ホーンの返事に焦燥が募る。ヴィアンカが意識を失ってどれくらいだ?
「まだヘインズが治療続けてんのか?」
「いえ、あいつももう魔力切れなので。魔力が戻るまでは自然治癒に任せるつもりです」
「…それで大丈夫なのか?」
躊躇った末、男から返事が返ることはないまま、ヴィアンカの私室へと着く。寝ている彼女を思い、そっと扉を開いた。
部屋の中、変わらず血の気の失せたままのヴィアンカ。意識の無い彼女の手を、今はベッド脇の椅子に座るヘインズが握っていた。振り向いた少年の視線と睨み合う。
「…リュク、何でその男をつれて来た」
「レイ、お前はもう休め」
「嫌だ」
フイと視線を反らした少年は、ヴィアンカの手を両手で握りしめている。意識の無い顔を不安気に覗き込み、唇を噛む。
「このままでは、お前も倒れる。それに、今の俺とお前ではヴィアの助けにはならん」
「っわかってるけど!」
手を離すのは恐いんだ。そう言って一層、握りしめる手に力が籠る。
「…ヂアーチ大隊長、貴方に頼みがある」
「何だ?」
少年の説得を諦めたホーンが、今度はこちらを振り返った。
「何も聞かずに、ヴィアンカ様の手を握っててくれませんか?」
「!?リュク!」
ヘインズの抗議の声を無視して、ホーンが頭を下げた。
「それだけでいいのか?」
「!誰が貴様などに、ヴィアンカ様に触れさせるか!」
手を握る、それだけで何になるというのかは正直わからない。だが、それが彼女のためになる、そして、それが己に可能なことだと言うのなら―
「どけ、ヘインズ」
「ふざけるな!」
彼女の守護者たらんとする男に腹が立つ。
「どけよ、くそがき。俺は、ヴィアンカを護る立場を他の野郎にくれてやるつもりはねえんだよ。そこは、俺の場所だ」
「何を言っている!貴様に何が出来ると!」
指をくわえて見てるだけなんてのは、もうごめんだ。
「何だってしてやるよ。俺に出来ることがあんだろ?必要だってんなら、命だってくれてやる」
「!?」
見開かれた目が、じっと己の目の中に何かを探す。
「…レイ」
ホーンに促されて、ヘインズが今度は大人しく立ち上がった。
「ヂアーチ大隊長、違和感があるかもしれないが、なるべくヴィアの手を離さずにいて欲しい。俺かレイの魔力が回復したら戻る」
「わかった。マイワットかダグストアに俺がここに居ると伝えといてくれ」
頷くホーン。何度もこちらを振り返るヘインズの背を押しながら、部屋を出ていった。
静寂に包まれた空間、カーテンの閉ざされた室内は薄暗く、ベッド脇に置かれた照明の灯りが微かに揺れている
ベッド脇の椅子に腰掛け、上掛けの上に置かれた細い手を持ち上げた。ヒヤリとした温度に不安を覚え、両手で包み込んで熱を与える。
意識の無い人形のような顔を見つめれば、次々と後悔が押し寄せる。このまま、目を覚まさなかったら。何故、あの時行かせてしまったのか。魔人に対する備えをもっと何か。
当然のように飛び出していったヴィアンカ。命を投げ出すような決断を平然と下した彼女に恐くなる。この女は、簡単に死んでしまうのではないか?
己には、彼女を止める力も、彼女を護る権利も無い。二人の間には、何かを成せる、そんな関係など何もないのだから―
「…早く、戻ってこいよ」
握った手を、己の額に押し付ける。無くしたくない温もり。その手のひらに唇を押し付ける。閉じたままの目蓋に、冷たい頬に、血の気の失せた唇に。還ってこい―思いを込めて、口づけを落とす。
結局、その日一日をヴィアンカの部屋で過ごすことになった。執れる政務はダクストアを使って片手で行い、後は、様子を見に来るホーンに短い時間その場を譲ってこなすことで、何とか一日を終えようという頃。
どういう仕組みかはわからないが、いつの間にかヴィアンカの治療に消費していたらしい己の魔力が尽きかけ、ホーンが交代のヘインズを呼びに行ったところで―
「!」
わずかに震えた目蓋。覚醒の気配を感じて、その表情を見守る。一度、二度、睫毛の向こう、薄く覗いた紅玉が瞬いて―
呼び掛けようとして、開こうとした唇が震える。頬を温かいものが流れた―
「…よお、ヴィア。お前、ちょっと寝過ぎじゃねえか?」
ヴィアンカが目を覚ましてからわずか1日。直ぐに立って歩けるまでに回復した彼女は、その任務の終了を告げて、帰還の途へ就こうとしていた。
「世話になったな」
結局、あの後部屋に飛び込んできてせっせと彼女の世話を焼き始めたヘインズのせいで、ヴィアンカと二人になることは出来なかった。
転移の間、別れを告げて、さっさと飛んでいこうとするヴィアンカに伝えたいことは山ほどあるというのに。彼女の潔さ、名残惜しさなど微塵も感じられないその態度に何も言えず。結局、ただ別れの言葉を返す。
「ヂアーチ大隊長」
「…何だ」
最後まで番犬のようにヴィアンカにへばりついていたヘインズに話しかけられる。
「ヴィアンカ様の回復が想定より大幅に早かった。貴方、ヴィアンカ様に、手を握る以外のことはしていないでしょうね?」
「…」
鋭い視線は真実を知っているように見えるが、ヴィアンカの前で認めることは出来ない。
「まぁ、いいでしょう。回復が早かったのは重畳。今回は不問にしておきましょう」
最後まで生意気な態度に、さっさと行けと、少年を手で払う。転移陣の上、ヴィアンカの隣に並んだヘインズが振り向いた。
「ああ、そうそう。貴方、勘違いしていたようですから、一つだけ訂正を」
ニヤリと浮かぶ、人の悪い笑顔。
「私は『野郎』ではありません。女です」
「!?」
言いっぱなしで空間の向こうに消えた姿を唖然と見送る。慌てて背後を振り返れば、ダグストアが呆れたように肩をすくめる。
「まあ、薄々は。声も高かったですし。男所帯だから性別隠してるのかな、と」
横では秘書官が同意を示して頷いている。
―では、何か?俺は、女に嫉妬してあんな無様な真似を
あまりの羞恥に頭を抱える。己の所業を思い出して身悶えていると、副官の声がかかる。
「それで、ラギアス様はどうするつもりなんですか?」
「…決まってんだろ」
これで、終わりではない。居なくなるというのなら、追いかければいい。まだ、終わりにはさせない。
「とりあえず、とっとと後始末終わらせて、帰んぞ」
己の責務は果たす。帝都への報告が済んだその後は、そう、休暇を取るのも悪くない。ずっと続いた連続任務の後だ、多少の我が儘は許されるだろう。まあ、一部、迷惑をかけることになるかもしれないが。ダグストアに視線を送る。
「何すか?」
「…いや」
頼れる副官もいることだ、何とかなる、してみせる。あの時のように、簡単に去って行けると思うな。今度は、逃がさない―
「離せ!会わせろっつってんだろ!」
ヴィアンカの個室へと続く廊下、引き留めようとする副官を力付くで振り払う。
結局、シャドウウルフを殲滅させ、城壁の外の魔物も粗方片付けたはいいが、討伐の責任者として城塞を離れることはできなかった。
彼女の元に増援を送った後は、じりじりとした気持ちでその帰還を待つしかなく。戦闘の後処理に追われる中、届いた『帰還したヴィアンカが怪我をおっている』という報告。
その場で指揮を秘書官に押し付けて彼女の元へと走った。居るはずの医務室にたどり着いても、そこに彼女の姿はなく、副官から告げられたのは―
「落ち着いて下さい!ヴィアンカ様はお部屋で安静にさせたいと!ホーンから報告がありました!」
「怪我してんだろーが!何で医務室で治療受けてねえんだよ!?」
胸を焦燥がこがす。一目彼女を見て、その無事を確認しなければ。息さえ上手く出来ない。
「ヘインズが治療するそうです!だから、回復するまでは部屋に籠るので、近づかないで欲しいと!」
「何でだよ!?無事か確かめるだけだろが!」
怒鳴りつけ、ダグストアを振り払ってたどり着いた部屋の扉の前、異変を感知する。
「結界?」
部屋への侵入を拒むそれに、怒りが膨れ上がる。
「っざけやがって!」
感情のまま、膨れ上がった魔力の奔流を叩きつける。解除の技巧も何もなく、ただ力任せに結界を砕いた。手を伸ばし、扉を開く―
「!」
目の前の光景に息をのんだ。思考が追い付かずに、ただ茫然と立ちすくむ。
ベッドの上、上掛けの下に横たわるヴィアンカ。その蒼白い顔を抱え込むようにして横になっているのは―ヘインズ?―その肩まで露になっている少年。二人は、何も身に纏っていないようで―
「ヂアーチ大隊長」
ベッドの横、椅子に腰掛け、ヴィアンカの手を握っていた男が近づいて来る。ヴィアンカから目を離せずにいると、視界をその体で遮られた。
「ヴィアンカ様は大丈夫です。ヘインズが治療しますから」
「…何故、軍医に診せねえ?」
「…」
普段から口数の多くない男が押し黙る。
「…どんな魔術かは知んねえが、あれで治療になんのか?軍医に診せて、」
「あんたが言ったんだろ?」
高さのほとんど変わらない視線が、真っ直ぐに見据える。
「ヴィアは絶対に死なせない」
「!」
「だから、黙って見守ってて欲しい」
そう言って頭を下げる男に、拳を握りしめる。この男達も己と同じ、彼女の身を案じ、護ろうとしている。悔しいが、彼女を一番知っている彼らが、最良の手段だと言っているのだ。
「…ヴィアンカの目が覚めたら報告しろ。…覚めなくても明日の朝には一度俺の所へ来い」
「了解しました」
返事を聞いて、部屋を出た。律儀に控えていた副官を連れて、執務へと戻る。何か言いたげな部下に、しかし口を開けばこの胸に煮えたぎる苛立ちをぶつけてしまいそうで。
自室の窓から空が白むのを眺める。
ヴィアンカの部屋を追い出された後、執務室に戻ってがむしゃらに仕事を続けた。大攻勢の後始末、仕事はいくらでも降って来たが、何も考えたくない身には、却って有り難い。それでも日が落ち、月が高く上がる頃にはその執務室も追い出されてしまった。
身体は疲れているはずなのに、一向に眠りが訪れない。朝焼けの中、ぼんやりと浮かぶのは、血の気の引いたヴィアンカの顔で、同時に彼女を抱いていた男までも思い出す。
当然の権利のように彼女に触れる男。それが治療行為なのだとしても―ギリギリと胸が締め付けられ、男への嫉妬に怒りが爆発しそうになる。
―嫉妬。認めてしまえばこんなにも明白な感情。他の男が彼女に近づくことが許せない。己の近づけない彼女に―
いつかも感じた独占欲。彼女に、ヴィアンカに触れるのは、俺だけでいい―
朝焼けに染まる部屋に、ノックの音が響く。
「入れ」
「失礼します」
返ってきた声に、上着を引っ掻けて扉に向かった。開いた扉に現れた男を外へと促して、廊下を歩き出す。
「目ぇ覚ましたか?」
「いえ、未だです」
ホーンの返事に焦燥が募る。ヴィアンカが意識を失ってどれくらいだ?
「まだヘインズが治療続けてんのか?」
「いえ、あいつももう魔力切れなので。魔力が戻るまでは自然治癒に任せるつもりです」
「…それで大丈夫なのか?」
躊躇った末、男から返事が返ることはないまま、ヴィアンカの私室へと着く。寝ている彼女を思い、そっと扉を開いた。
部屋の中、変わらず血の気の失せたままのヴィアンカ。意識の無い彼女の手を、今はベッド脇の椅子に座るヘインズが握っていた。振り向いた少年の視線と睨み合う。
「…リュク、何でその男をつれて来た」
「レイ、お前はもう休め」
「嫌だ」
フイと視線を反らした少年は、ヴィアンカの手を両手で握りしめている。意識の無い顔を不安気に覗き込み、唇を噛む。
「このままでは、お前も倒れる。それに、今の俺とお前ではヴィアの助けにはならん」
「っわかってるけど!」
手を離すのは恐いんだ。そう言って一層、握りしめる手に力が籠る。
「…ヂアーチ大隊長、貴方に頼みがある」
「何だ?」
少年の説得を諦めたホーンが、今度はこちらを振り返った。
「何も聞かずに、ヴィアンカ様の手を握っててくれませんか?」
「!?リュク!」
ヘインズの抗議の声を無視して、ホーンが頭を下げた。
「それだけでいいのか?」
「!誰が貴様などに、ヴィアンカ様に触れさせるか!」
手を握る、それだけで何になるというのかは正直わからない。だが、それが彼女のためになる、そして、それが己に可能なことだと言うのなら―
「どけ、ヘインズ」
「ふざけるな!」
彼女の守護者たらんとする男に腹が立つ。
「どけよ、くそがき。俺は、ヴィアンカを護る立場を他の野郎にくれてやるつもりはねえんだよ。そこは、俺の場所だ」
「何を言っている!貴様に何が出来ると!」
指をくわえて見てるだけなんてのは、もうごめんだ。
「何だってしてやるよ。俺に出来ることがあんだろ?必要だってんなら、命だってくれてやる」
「!?」
見開かれた目が、じっと己の目の中に何かを探す。
「…レイ」
ホーンに促されて、ヘインズが今度は大人しく立ち上がった。
「ヂアーチ大隊長、違和感があるかもしれないが、なるべくヴィアの手を離さずにいて欲しい。俺かレイの魔力が回復したら戻る」
「わかった。マイワットかダグストアに俺がここに居ると伝えといてくれ」
頷くホーン。何度もこちらを振り返るヘインズの背を押しながら、部屋を出ていった。
静寂に包まれた空間、カーテンの閉ざされた室内は薄暗く、ベッド脇に置かれた照明の灯りが微かに揺れている
ベッド脇の椅子に腰掛け、上掛けの上に置かれた細い手を持ち上げた。ヒヤリとした温度に不安を覚え、両手で包み込んで熱を与える。
意識の無い人形のような顔を見つめれば、次々と後悔が押し寄せる。このまま、目を覚まさなかったら。何故、あの時行かせてしまったのか。魔人に対する備えをもっと何か。
当然のように飛び出していったヴィアンカ。命を投げ出すような決断を平然と下した彼女に恐くなる。この女は、簡単に死んでしまうのではないか?
己には、彼女を止める力も、彼女を護る権利も無い。二人の間には、何かを成せる、そんな関係など何もないのだから―
「…早く、戻ってこいよ」
握った手を、己の額に押し付ける。無くしたくない温もり。その手のひらに唇を押し付ける。閉じたままの目蓋に、冷たい頬に、血の気の失せた唇に。還ってこい―思いを込めて、口づけを落とす。
結局、その日一日をヴィアンカの部屋で過ごすことになった。執れる政務はダクストアを使って片手で行い、後は、様子を見に来るホーンに短い時間その場を譲ってこなすことで、何とか一日を終えようという頃。
どういう仕組みかはわからないが、いつの間にかヴィアンカの治療に消費していたらしい己の魔力が尽きかけ、ホーンが交代のヘインズを呼びに行ったところで―
「!」
わずかに震えた目蓋。覚醒の気配を感じて、その表情を見守る。一度、二度、睫毛の向こう、薄く覗いた紅玉が瞬いて―
呼び掛けようとして、開こうとした唇が震える。頬を温かいものが流れた―
「…よお、ヴィア。お前、ちょっと寝過ぎじゃねえか?」
ヴィアンカが目を覚ましてからわずか1日。直ぐに立って歩けるまでに回復した彼女は、その任務の終了を告げて、帰還の途へ就こうとしていた。
「世話になったな」
結局、あの後部屋に飛び込んできてせっせと彼女の世話を焼き始めたヘインズのせいで、ヴィアンカと二人になることは出来なかった。
転移の間、別れを告げて、さっさと飛んでいこうとするヴィアンカに伝えたいことは山ほどあるというのに。彼女の潔さ、名残惜しさなど微塵も感じられないその態度に何も言えず。結局、ただ別れの言葉を返す。
「ヂアーチ大隊長」
「…何だ」
最後まで番犬のようにヴィアンカにへばりついていたヘインズに話しかけられる。
「ヴィアンカ様の回復が想定より大幅に早かった。貴方、ヴィアンカ様に、手を握る以外のことはしていないでしょうね?」
「…」
鋭い視線は真実を知っているように見えるが、ヴィアンカの前で認めることは出来ない。
「まぁ、いいでしょう。回復が早かったのは重畳。今回は不問にしておきましょう」
最後まで生意気な態度に、さっさと行けと、少年を手で払う。転移陣の上、ヴィアンカの隣に並んだヘインズが振り向いた。
「ああ、そうそう。貴方、勘違いしていたようですから、一つだけ訂正を」
ニヤリと浮かぶ、人の悪い笑顔。
「私は『野郎』ではありません。女です」
「!?」
言いっぱなしで空間の向こうに消えた姿を唖然と見送る。慌てて背後を振り返れば、ダグストアが呆れたように肩をすくめる。
「まあ、薄々は。声も高かったですし。男所帯だから性別隠してるのかな、と」
横では秘書官が同意を示して頷いている。
―では、何か?俺は、女に嫉妬してあんな無様な真似を
あまりの羞恥に頭を抱える。己の所業を思い出して身悶えていると、副官の声がかかる。
「それで、ラギアス様はどうするつもりなんですか?」
「…決まってんだろ」
これで、終わりではない。居なくなるというのなら、追いかければいい。まだ、終わりにはさせない。
「とりあえず、とっとと後始末終わらせて、帰んぞ」
己の責務は果たす。帝都への報告が済んだその後は、そう、休暇を取るのも悪くない。ずっと続いた連続任務の後だ、多少の我が儘は許されるだろう。まあ、一部、迷惑をかけることになるかもしれないが。ダグストアに視線を送る。
「何すか?」
「…いや」
頼れる副官もいることだ、何とかなる、してみせる。あの時のように、簡単に去って行けると思うな。今度は、逃がさない―
65
お気に入りに追加
1,910
あなたにおすすめの小説
【完結】傷モノ令嬢は冷徹辺境伯に溺愛される
中山紡希
恋愛
父の再婚後、絶世の美女と名高きアイリーンは意地悪な継母と義妹に虐げられる日々を送っていた。
実は、彼女の目元にはある事件をキッカケに痛々しい傷ができてしまった。
それ以来「傷モノ」として扱われ、屋敷に軟禁されて過ごしてきた。
ある日、ひょんなことから仮面舞踏会に参加することに。
目元の傷を隠して参加するアイリーンだが、義妹のソニアによって仮面が剥がされてしまう。
すると、なぜか冷徹辺境伯と呼ばれているエドガーが跪まずき、アイリーンに「結婚してください」と求婚する。
抜群の容姿の良さで社交界で人気のあるエドガーだが、実はある重要な秘密を抱えていて……?
傷モノになったアイリーンが冷徹辺境伯のエドガーに
たっぷり愛され甘やかされるお話。
このお話は書き終えていますので、最後までお楽しみ頂けます。
修正をしながら順次更新していきます。
また、この作品は全年齢ですが、私の他の作品はRシーンありのものがあります。
もし御覧頂けた際にはご注意ください。
※注意※他サイトにも別名義で投稿しています。
異世界で王城生活~陛下の隣で~
遥
恋愛
女子大生の友梨香はキャンピングカーで一人旅の途中にトラックと衝突して、谷底へ転落し死亡した。けれど、気が付けば異世界に車ごと飛ばされ王城に落ちていた。神様の計らいでキャンピングカーの内部は電気も食料も永久に賄えるられる事になった。
グランティア王国の人達は異世界人の友梨香を客人として迎え入れてくれて。なぜか保護者となった国陛下シリウスはやたらと構ってくる。一度死んだ命だもん、これからは楽しく生きさせて頂きます!
※キャンピングカー、魔石効果などなどご都合主義です。
※のんびり更新。他サイトにも投稿しております。
溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。
疲れきった退職前女教師がある日突然、異世界のどうしようもない貴族令嬢に転生。こっちの世界でも子供たちの幸せは第一優先です!
ミミリン
恋愛
小学校教師として長年勤めた独身の皐月(さつき)。
退職間近で突然異世界に転生してしまった。転生先では醜いどうしようもない貴族令嬢リリア・アルバになっていた!
私を陥れようとする兄から逃れ、
不器用な大人たちに助けられ、少しずつ現世とのギャップを埋め合わせる。
逃れた先で出会った訳ありの美青年は何かとからかってくるけど、気がついたら成長して私を支えてくれる大切な男性になっていた。こ、これは恋?
異世界で繰り広げられるそれぞれの奮闘ストーリー。
この世界で新たに自分の人生を切り開けるか!?
転生したら乙女ゲームの主人公の友達になったんですが、なぜか私がモテてるんですが?
rita
恋愛
田舎に住むごく普通のアラサー社畜の私は車で帰宅中に、
飛び出してきた猫かたぬきを避けようとしてトラックにぶつかりお陀仏したらしく、
気付くと、最近ハマっていた乙女ゲームの世界の『主人公の友達』に転生していたんだけど、
まぁ、友達でも二次元女子高生になれたし、
推しキャラやイケメンキャラやイケオジも見れるし!楽しく過ごそう!と、
思ってたらなぜか主人公を押し退け、
攻略対象キャラや攻略不可キャラからも、モテまくる事態に・・・・
ちょ、え、これどうしたらいいの!!!嬉しいけど!!!
我儘令嬢なんて無理だったので小心者令嬢になったらみんなに甘やかされました。
たぬきち25番
恋愛
「ここはどこですか?私はだれですか?」目を覚ましたら全く知らない場所にいました。
しかも以前の私は、かなり我儘令嬢だったそうです。
そんなマイナスからのスタートですが、文句はいえません。
ずっと冷たかった周りの目が、なんだか最近優しい気がします。
というか、甘やかされてません?
これって、どういうことでしょう?
※後日談は激甘です。
激甘が苦手な方は後日談以外をお楽しみ下さい。
※小説家になろう様にも公開させて頂いております。
ただあちらは、マルチエンディングではございませんので、その関係でこちらとは、内容が大幅に異なります。ご了承下さい。
タイトルも違います。タイトル:異世界、訳アリ令嬢の恋の行方は?!~あの時、もしあなたを選ばなければ~
公爵令嬢になった私は、魔法学園の学園長である義兄に溺愛されているようです。
木山楽斗
恋愛
弱小貴族で、平民同然の暮らしをしていたルリアは、両親の死によって、遠縁の公爵家であるフォリシス家に引き取られることになった。位の高い貴族に引き取られることになり、怯えるルリアだったが、フォリシス家の人々はとても良くしてくれ、そんな家族をルリアは深く愛し、尊敬するようになっていた。その中でも、義兄であるリクルド・フォリシスには、特別である。気高く強い彼に、ルリアは強い憧れを抱いていくようになっていたのだ。
時は流れ、ルリアは十六歳になっていた。彼女の暮らす国では、その年で魔法学校に通うようになっている。そこで、ルリアは、兄の学園に通いたいと願っていた。しかし、リクルドはそれを認めてくれないのだ。なんとか理由を聞き、納得したルリアだったが、そこで義妹のレティが口を挟んできた。
「お兄様は、お姉様を共学の学園に通わせたくないだけです!」
「ほう?」
これは、ルリアと義理の家族の物語。
※基本的に主人公の視点で進みますが、時々視点が変わります。視点が変わる話には、()で誰視点かを記しています。
※同じ話を別視点でしている場合があります。
継母の嫌がらせで冷酷な辺境伯の元に嫁がされましたが、噂と違って優しい彼から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
侯爵令嬢であるアーティアは、継母に冷酷無慈悲と噂されるフレイグ・メーカム辺境伯の元に嫁ぐように言い渡された。
継母は、アーティアが苦しい生活を送ると思い、そんな辺境伯の元に嫁がせることに決めたようだ。
しかし、そんな彼女の意図とは裏腹にアーティアは楽しい毎日を送っていた。辺境伯のフレイグは、噂のような人物ではなかったのである。
彼は、多少無口で不愛想な所はあるが優しい人物だった。そんな彼とアーティアは不思議と気が合い、やがてお互いに惹かれるようになっていく。
2022/03/04 改題しました。(旧題:不器用な辺境伯の不器用な愛し方 ~継母の嫌がらせで冷酷無慈悲な辺境伯の元に嫁がされましたが、溺愛されています~)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる