孤狼に愛の花束を

柚子季杏

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孤狼に愛の花束を (42)

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 『生涯唯一のパートナー』だなんて。
 オレがその言葉を反芻している間に、凍った地面を踏みしめた銀さんの足が、一歩豊川へと近づく。

 銀さんから立ち昇る怒りのオーラに、豊川は唸りながら後退した。
『……あなたも見る目が無い……がっかりですよ。可愛さ余って、とはこういう感情を表しているんでしょうかね――』
『お前にどう思われようが俺には関係ない。さっさとこの場を立ち去れ。そして二度と俺達の前に顔を出すな』
『おや、随分とお優しいこと。お咎めは無しですか? まさかとは思いますが、狼の癖に怖気づきましたか?』
 意外な台詞を聞いたとばかりに、豊川が嘲るように笑う。その眼は相変わらず暗く淀み、恨みと憎しみに支配されたような濁った色をしていた。
 豊川なんかに銀さんが馬鹿にされていることが許せなくて、オレは逆毛を立てながら豊川に向かって牙を剥いた。
『銀さんはそんな弱虫じゃない!』
『コタの言う通りだ。この場所で、コイツの前で血が流れるような真似をしたくないってだけだ……コイツに感謝するんだな』
 話は終わったとばかりに、銀さんは豊川から視線を外してオレを振り返る。
 数歩離れた距離から、オレのところへ戻って来ようとした時だった。
『ハッ……そうですね、感謝しますよ……私のプライドを傷付けた報いを受けさせてやれる機会をくれたことにね!』
『銀さんっ!』

 一瞬のことだった。銀さんの首筋へと、飛び掛って来た豊川が噛み付いたのだ。
 脇に避ければ避けられたはずの豊川を、そうしてしまえば正面に向き合う型になるオレが危害を受けると思ったのだろう。銀さんは身動ぎすることなく豊川を受け止めた。
『……甘いな。その程度で俺を仕留めることが出来るとでも思ったか?』
『グッ! 一度で殺れるだなんて思ってませんよ!』
 蒼白になったオレへ大丈夫だと目線で告げた銀さんが、力を籠めて首を回し、豊川を振り払った。
 吹っ飛ばされた豊川も、先ほどとは違って受身を取ったらしい。あっという間に体勢を立て直すと、再び銀さんへ向かって来ようとした。
 大したダメージは受けていないらしい銀さんの様子にホッとしつつも、多分銀さん一人なら簡単に豊川を撃退出来るはずなのにと思えば、オレがここに居ることで足枷になっているのが悔しくて。
『あなたが無理なら、せめてソイツだけでも道連れにしてやるっ』
『豊川ぁぁあッ!』
 数度同じようなやり取りを繰り返した豊川の視線が、銀さんに庇われているオレへと向けられた。
 視線の流れに銀さんが気を取られた隙を突いて、豊川は一直線にオレに向かって来る。
(オレだって何か――そうだっ!)
 意表を突かれた銀さんの叫びが響く中で、オレにだって出来ることはあるはずだと頭を回転させる。そうして見付けた、目の前に転がっていた懐中電灯。
『銀さん今だ!』
『うわあっ! 見え…目がっ……グ、フッ!』
『……豊川……俺を本気で怒らせるなよ』
 足でスイッチを踏み付けて口に銜えたオレは、向かって来る豊川の眼を目掛けて懐中電灯の光を照らしてやった。

 月明かりがあるとはいえ、暗い夜の森の中だ。突如明るい光に正面から照らされれば、当然目が眩む。
 視界が利かなくなった豊川の動きが止まったところで懐中電灯を放り出せば、今度は銀さんが豊川の首へと噛み付き、怯んだところを組み敷いた。
『ヒッ……』
『このまま噛み殺してやろうか?』
 両前足で豊川の上半身を押さえ付けながら唸る銀さんの周囲に、殺気めいた空気が立ち込める。低く静かに発したその声は、冬の寒さに凍った大地を揺るがしながら響き渡った。
『グ、ぅ……あ……』
『それとも生きたままにその皮を剥いで、お前の好きな金に換えてやろうか? ご自慢の毛皮だ、高い値がつくかもしれないな』
 本気なのか冗談なのか分からないようなことを言いながら、銀さんの足には徐々に体重が乗せられていく。
 上半身を押さえられた状態で首筋には鋭い牙を宛がわれ、豊川は身動きを取ることも叶わずに、銀さんの下で震えながら目を見開いていた。
『ッ……わ、分かった――分かったから、助けてくれ……』
『助けてくれだと? 随分調子の良い話だな』
 掠れた小さな声を絞り出す豊川は、先ほどまでの彼とはまるで別人のようだった。憎しみと恨み、嫉妬の色に塗れて淀んでいた瞳には、今はもう恐怖以外の色は見当たらない。
 すっかり弱者になり下がり、震えながら許してくれと命乞いを始めた豊川に対して、銀さんは彼の態度を鼻先で笑い飛ばした。
『残念だが、狐の甘言に惑わされるほど、俺は純真じゃないんだよ』
『ひぃっ!』
 豊川見せつけるように、銀さんが大きく口を開いた。
 緊迫した空気がビリビリと伝わってくるようで、離れた場所にいるオレですら震えてしまいそうだった。けれど……。
『銀さん、駄目っ』
 声にならない豊川の叫びが聞こえたところで、オレは銀さんに声を掛けた。喉元すれすれに振り下ろした牙を止めた銀さんがゆっくりと顔を上げ、オレを振り返る。
『駄目だよ銀さん……銀さんは、沢山の人を幸せにする力を持ってるんだ。素敵な作品を生み出す手を、そんなヤツのために汚しちゃ駄目だ』
『小太郎――』
 オレを捉えた銀さんの瞳が、予想していたよりもずっと優しい。
(ああ、やっぱり……)
 その瞳を見た瞬間、そう思った。

 銀さんは初めから、豊川を傷付けようとはしていなかったのだ。
 お母さんの眠るこの場所で、オレの目の前で血を流したくないと言っていた言葉に、嘘は無かったのだ。

 往生際悪く仕掛けてくる豊川に対する怒りは本物だっただろう。
 けれど本気で彼を殺めるつもりであったなら、今頃もう豊川は生きていなかったはずだ。こんなヤツ相手に銀さんが苦戦するなんて、例えオレという足枷があったにせよ、普通だったら有り得ないことだから。
 野生から遠く離れて日々を過ごして来た狐ごときに、毎日自然の中で鍛えられている狼の銀さんが負けるはずなんてないのだ。
 本当に豊川を害するつもりがあったならば、向かって来る豊川を放り投げることを何度も繰り返すなんて、そんな面倒な事はせずに、最初の一撃で決着はついていたのだ。
『――どうする豊川? 俺のパートナーは優しいことを言ってくれているが?』
『っ、た、頼む! 悪かった、見逃してくれ!』
『最後のチャンスだ……二度と俺達の前に姿を現さないと誓うか?』
『誓う! 誓うから!』
『約束を違えてみろ……次は間違いなく、お前の命は無い』
 最後のとどめとばかりに銀さんが凄んで見せる。
 至近距離で睨み付けられ、死の恐怖を十二分に味わっただろう豊川は、『行け』と銀さんが足を退けた瞬間に、よろめきながらも人型へと戻ると、脱ぎ捨てた服を手に裸のまま、あっという間に暗闇へと姿を消した。

(すごい――綺麗だ……)
 静まり返った空間に、風になびく木々の調べが聞こえる。
 豊川の気配が完全に消え去るまで、銀さんは身動ぎもせずその場に立ち続けた。
 頭上に浮かぶ月の光が、銀さんの名前通りの毛並みを照らし出す。彼の周囲だけが鈍色の光を纏って煌いて、その凛とした佇まいは、正に森の王者の風格を醸し出していた。
『……帰るぞ……』
『あ、うんっ』
『――お前が無事で、良かった』
 静謐な空気を振り切り、ふっと息を吐いた銀さんがオレに近付いて来る。
 へたり込んでいたオレを鼻先で数度突き、ぽつりとひと言囁きを漏らす銀さんの声に、オレもやっと緊張を解くことが出来たのだった。


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