孤狼に愛の花束を

柚子季杏

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孤狼に愛の花束を (41)

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 数日前に降った雪が融け残ったままの森の中。
 土すらも凍る寒さですら、今のオレには感じる余裕が無かった。
(来るな……来るな……っ)
 狭い空洞の奥に丸まった状態で、呪文のように唱え続けるオレの耳に聞こえていた足音が、少し離れた場所で止まった。
「……坊や、風邪引いちゃうから出ておいでなさい」
 脱ぎ捨てて来た俺の服に気付いたのだろう。服を拾い上げた音と共に、先ほどとは打って変わった穏やかな声がする。
 少し離れた場所から届くその声は、あの男が出しているものとは思えないほどの、優しい猫撫で声だった。
(さすが狐。銀さんに正体聞いてなかったら、出て行っちゃうよな)
 ピクピクと耳を震わせながら、豊川がこの場所に気付きませんようにと、オレは必死で祈り続けた。
 火事場の馬鹿力じゃないけれど、半変化の状態であったからこそここまで一気に走って来れた。だけどもう、これ以上逃げ回れるだけの体力は、オレには残っていない。
 自分のことだから分かるんだ。
 例え立ち向かったとしても、一瞬でオレの方が伸されてしまうに違いないって。
「ッ、この近くにいるのは分かってるのに……私はね、人間として生きていく道を選んだんですよ? スタイリッシュに格好良く、贅沢に暮らすのが私には似合っている。獣姿には二度となるつもりがなかったのに」
 オレの服を放り投げたらしい音と、次いで耳に届いた舌打ち。
 ぶつぶつと呟き続ける声が不気味で仕方なかった。
(馬鹿なヤツ……お前なんか全然格好良くないっての! 着古したシャツとジーンズだって、贅沢な暮らしが出来なくたって、そんなことで人の価値は決まらない。銀さんみたいな人こそ、格好良いんだからっ)
 本当は直ぐにでも飛び出して行って怒鳴り付けてやりたかったけれど、そんなことをしたら豊川の思う壺だろう。
 ムカムカしながらも、豊川が早く何処かへ立ち去ってくれることを願っていたのに。

「まあでも、獣姿でも私は美しいんですけどね。彼も私の毛並みを見たら、心変わりするに違いない。そのためにも坊やの存在は邪魔でしかないんです。これだけ待ってあげても出てきませんか? 仕方ないですねえ。おチビちゃん、私の変化を解かせたことを、後悔させてあげますよ」

 一人で喋り続けていた豊川の声が止んだ。次の瞬間、バサバサと布が落下する音が響き渡る。
『……ああ嫌だ。足の裏が汚れるじゃないですか……』
 喋り声ではなく、思念に届くような声。豊川が人型の変化を解いたことが、それだけで分かる。
 あのまま諦めてくれれば良かったのに……狐は案外と鼻が利く。きっとすぐに、オレの隠れているこの場所も気付かれてしまう。
『……木? でもおチビちゃんの臭いは確かに――おや……ふふふ』
『ッ!』
 どうしよう、と考える間も無かった。
 鼻を蠢かせながらオレの臭いを辿って来た豊川が、小さく開いている空洞の入口を覗き込んでくる。
『見ぃつけた――さっさと出て来なさい。それとも引きずり出して欲しいのか?』
『……嫌だっ』
『まさかこんな小さな犬っころだったとは……ッ! こ、の……クソガキ!』
 穴の中へ入り込んで来ようとした豊川だったけれど、大人の狐が悠々と入って来れるだけの大きな隙間は空いていない。笑い混じりに前足を伸ばして来たところを、思い切り噛み付いてやった。
『なっ、何やって…やめ……痛ッ!』
『上が駄目なら下から広げてやるまで』
 グルルと牙を剥いた豊川は、穴の下の土を勢い良く掘り始めた。
この木の根元には銀さんのお母さんが眠っている。こんなヤツに荒らされるわけにはいかないと、思わず身を乗り出したところを、再び穴の中へと差し込まれた豊川の前足の爪に、思い切り引っ掻かれてしまう。
『大人しく待っていなさい、今直ぐにそこから引きずり出してあげますから……くそ、思ったより固いな……私の爪が傷付いてしまうじゃないか』
 辺りはすっかり日も落ちて、月明かりがだけが照らす中、豊川が取り憑かれたように凍った土を掘り続ける。
 ざくざくと土を掻く音に身震いしながら、それでも少しでも彼から距離を取ろうと、オレは空洞の奥ギリギリまで下がった。
 掘り進められた穴が徐々に大きさを増していき、入口下には空間が広がっていく。
『……あと、もう少し――楽しみだねえ、おチビちゃん』
『ッ』
 ニンマリと笑う豊川の不気味さに、オレの震えは増すばかりだった。
 あの鼻っ面に噛み付いてやれば、ここから逃げ出すことは出来るかもしれない。だけどここから出たところで、すぐに捕まってしまうんじゃ意味がない。
『ビデオ出演の前に、私が特別に犯してあげましょうか? ふふ……それもいいかもしれませんね。泣き叫ぶ貴方を見れば、私の溜飲も少しは下がるというものだ』
『い、嫌だ! 誰がお前なんかに……』

 あと数掻きもすれば、豊川の身体が潜り込める位の空間が出来てしまう。
(銀さん……銀さん、助けてっ)
 身体全てが入り切らなくても、顔と前足さえ中に入れ込むことが出来れば、オレを引き出すことなんて簡単に出来てしまうだろう。
『ふぅ――このくらいでしょうかね……さあ、おチビちゃん、お遊びの時間は終わりです』
『ひッ、ヤダッ、来るな! 銀さんっ、銀さぁんっ!』
『煩い子だ。これだからガキは嫌いなんだ――ほらっ、さっさと出て来――ッ!』
 心の中でもう何度呼び続けたか分からない人の名前を叫んだ時だった。
 穴の中へ上半身を突っ込んできた豊川の、俺の後ろ首を銜えていたはずの身体が消えた。

『いっ、たぁ……』
 奥の方へ逃げ込んでいたおかげで、甘噛みされていた程度だったことが功を奏した。
 勢い良く穴から引きずり出された衝撃で牙は外れ、気付いた時にはオレの身体は豊川が掘った窪みへと転がり落ちていた。

『確かに遊びは終わりだな』

 耳に届いた声に慌てて窪みから這い出せば、そこには悠然として立つ狼姿の銀さんがいた。鋭い視線の先には、投げ飛ばされたらしい豊川が、よたよたと身を起こすところで。
『っ……銀、さん』
『遅くなって悪かった、途中でお前の光を見失った』
『銀さん……』
『良く頑張ったな』
 ちらりと俺を振り返った銀さんが、豊川に引っ掻かれた鼻の辺りをペロリと舐めてくれる。
 途中で光を……逃げながら所々で空に翳していた懐中電灯の小さな灯りに、銀さんは気付いてくれたんだ。木々に遮られて小屋からじゃ殆ど見えなかったに違いない、そんな小さな灯りを頼りに、オレを探してくれていた。
『くっ――もう少しだったっていうのに……あなたにはそんな子供よりも、私のような相手の方が似合ってる。私の美貌が引き立つのも、あなたのような男が隣にいてこそ。贅沢な暮らしだって出来るっていうのに、なぜそれが分からないんです……』
『お前こそなぜ分からない? 俺がお前とだって? 天地が引っ繰り返っても有り得ん』
『ッ、そのガキなら良いって言うのか?』
『そうだ……コイツは俺にとって、たった一人のパートナーだ』
 何とか立ち上がった豊川が、唸りながら銀さんを睨み付ける。正確には、銀さんの背後に守られているオレを。
 相変わらず自己中心的な言葉を吐き続ける豊川を、銀さんがばっさりと切り捨てる。そしてその言葉を聞いた瞬間、こんな状況にも拘らず、オレはビックリして固まってしまった。
(たった一人の……パートナー……オレが? 銀さんの?)
 オレが想いを寄せるのと同じ想いを、銀さんもオレに抱いてくれていた。そのことが飛び上がるほどに嬉しくて。
 聞き間違いかもしれないと、頬っぺたを抓ろうとしたけれど空振りする。残念ながら今のオレは犬の姿だったんだよな、忘れていた。
 だけど聞き間違いじゃなかったことは、その後に続いた銀さんの言葉で証明される。

『俺が生涯唯一のパートナーと決めたコイツに……お前は何をしようとした?』


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