孤狼に愛の花束を

柚子季杏

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孤狼に愛の花束を (2)

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 獣人は基本人型で出産を行なう。当然生まれてくる子供の殆どは人型で生まれる。中には生まれた時には獣姿の子供もいるようだけれど、そういった子供は極少数だ。

 俺が初めて完全系に変化をしたのは、まだ2歳か3歳か、そのくらいの歳だったはずだ。
 二本の足で立っていた筈なのに、気付けば両手両足で地面の上に立っていた。今まで見ていた景色とは違う、低い位置から見上げる世の中は不思議に満ちていて。くんと鳴らした鼻から感じる匂いの強さに戸惑った。
 初めての変化は、どきどきわくわくといった高揚感と同じくらい、心細いような不安を感じた事を覚えている。
 戸惑う俺とは違って、両親は初めて狼の姿に変化した俺を見て喜んだ。人として暮らしていた両親だけれど、人間界での暮らしは彼らには合わなかったらしい。かといって、獣人達の暮らす集落へも行きたくはない。
 夫婦二人であれば気ままに森で暮らすことも可能だったけれど、幼く人型のままであった俺を連れて森へは行けないと、随分葛藤したのだそうだ。

「銀、よく聞きなさい。私達は人の姿、狼の姿、どちらの姿でも生きて行ける。けれど父さんは、狼である自分に誇りを持っているんだ。今じゃこの日本に、狼としての姿で生きる仲間はいない。だからこそ父さんは、最後の瞬間まで狼として生きたいんだ」

 幼い俺には言われた言葉の意味の半分も分からなかったけれど、父が狼として生きたいと断言した時の、凛とした姿は薄っすらと記憶に残っている。
 俺が獣姿に慣れた頃を見計らい、父と母は俺を連れてこの森へとやって来た。4歳の誕生日を過ぎた頃だったように思う。
 アスファルトの地面しか知らなかった俺にとって、森での暮らしは見る物触れる物全てが新鮮で、初めての自然の中で生きる生活は楽しさに溢れていた。
 虫を追い駆け、綺麗な川で水浴びし、太陽の光を受けながら駆け回る。
 優しい母と強い父と一緒に過ごす日々の中、そんな時間が長くは続かないなんて、幼い俺は思うはずも無かった。



「銀、銀、起きなさい」
 顎の下を鼻先で擽られ、丸くなって寝ていた俺は、眠い目を擦りながら傍らに感じた温もりにすり添った。
「まだねむい……」
「銀、よく聞いて……お父さんはもう帰って来ない」
「え?」
 眠さでうつらうつらとしていた意識が、その瞬間覚醒した。
 目の前には悲壮な顔をした母の姿。父がもう帰って来ないと告げた母の身体からも、あちらこちらから血が流れ出ていた。
「母さん? どうしたの? 父さんは?」
 俺の問いに母は苦しげに唸るだけだった。
「……危なくなったら、人型に変化しなさい」
「どういうこと? ねえ、母さん!」
「ここも危ない、移動するわよ」
 訳も分からないまま首筋を母に銜えられ、寝床にしていた洞穴を後にした。外に飛び出た瞬間、それまで感じることの出来なかった匂いが、俺の鼻先を掠めて行く。血と硝煙の匂い……そして、その中に感じた父の匂い。
「っ、か……母さ……」
 足を止めること無く一頻り走り抜けた母が、草の生い茂る場所まで来ると、俺をそっと地面に下ろした。
「母さん……」
「猟師が近くまで来ていた事は分かっていたのに、父さん、獲物を仕留めようとして飛び出してしまってね……助けたかったけれど、近寄ることも出来なかった……」
 母の言葉を理解したくは無くても、父はもう、俺達のもとには帰って来ない……その事実だけは、はっきりと伝わってくる。腹ばいに寝そべる母の悲痛な声を止めたくて、俺は必死で鼻先をすり寄せた。
 柔らかく温かな胸元の毛に自身を寄り添わせ、身体全体で慰める。
「ごめんね銀……あなたは危ないと思ったら、人型におなりなさい。同じ型をしていれば、人間はきっと親切にしてくれる。母さんとの約束よ」
 荒い呼吸の合間にぺろりと俺を舐める仕草には、母の愛が溢れていた。父を殺した人間と同じ姿に……幼いながら、その事に理不尽さを感じながらも、見つめる瞳の真剣さに頷くより他になかった。

 それは、俺が爺さんと出会う、ほんの少し前の記憶だ――――。


 俺を助けてくれた爺さんは、あの時言っていた通り一人暮らしだった。
 この森の麓にある家で、炭を作ったり陶器を焼いたりしながらの生活。家の前にある小さな畑で野菜を自給自足し、陶器を売った金で必要最低限の買い物をする毎日。
 最初こそ懐かない俺に手を焼いていたようだったけれど、そんな可愛げの無いガキを構うのも面倒になったのだろう。俺が自力で歩き回れる程度に回復した後は、有無を言わさず仕事を手伝わされた。
 箸の持ち方さえろくに知らなかった俺に、厳しいほどの躾をしながら、徹底的に家事も畑仕事も、窯仕事さえも教え込んだ。

「いたいっ」
「そんな持ち方で食ったら、美味いもんも不味くなる。座り方も、ちゃんと正座しろ」
 そう言って何度箸を持つ手を叩かれたか分からない。向かい合わせで座る爺さんの箸の痕が、くっきりと手の甲についたことを覚えている。
「俺達に命があるようになあ、こうやって口に入れる物にも、皿や花瓶にも、全部に命がある。それに感謝も出来ねえような大人にはなるな」

 働かざる者食うべからずだと、爺さんから厳しく仕込まれたあれこれ。
 今思えば、先がそう長く無い爺さんが、後に一人残される俺のために世話を焼いてくれたのだろうと思う。
 厳しかったし、会話というよりは爺さんの独り言のような言葉が飛び交う日々だったけれど、爺さんとの暮らしは悪いものじゃなかった。
 失敗をしたとしても、本気で取り組んだ結果の失敗であれば、闇雲に叱られることも無かった。その代わり手抜きやサボリは躊躇無く怒られる。まだ幼かった俺はその度に不貞腐れていたけれど。

 ひとつひとつ家事を覚え、仕事を覚え、上手く出来れば誉めてもくれた。
 両親の事を思い出して夜中に泣きながら飛び起きれば、朝まで抱いて寝てくれた。
 約束通り、母の眠る場所へも、月に一度は連れて行ってくれた。

 文字の読み方も計算の仕方も、少ない金銭収入の中から爺さんが教材を買い与えてくれたおかげで、生きて行ける程度の学力もついた。人間世界のルール、人として生きる術の殆どは、爺さんが教えてくれたのだ。
 変化すら上手くコントロール出来なかった子供はもういない。身体つきも狼の名に恥じないくらいに育った。

 そうやって変わり映えのない毎日を積み重ねる内、いつの間にか時間は流れていて。
 足腰の弱った爺さんの代わりに、仕事も家のことも全てを引き継いで、唯一苦手だった商品の納めも、何とかこなせるようになった頃……。
「爺さん、朝飯――――爺さん?」
 奇しくも両親が亡くなったのと同じ初秋に、爺さんも俺を置いて呆気なく逝っちまった。
 釜の近くに爺さんの墓を作り、一人で見送った。特に連絡を取るような親戚もいなけりゃ、派手な葬式は必要ないと、生前に爺さんが何度も俺に言っていたから。

『俺が死んだら、施設長に報告だけはしてくれ。この手紙を渡してくれるだけでいい』

 これも何度も言われていたから、日に数度結界を越えて運行する定期便の運転手に、頼まれていた手紙を預けた。
 その日の夜遅くに、施設長の代理だという男が、爺さんのために香典を携えて線香を上げに来たけれど、それだけだ。思えば爺さんも寂しいヤツだったのかもしれない。俺がいなければ、旅立ちさえ見送ってくれる者はいなかったのだから。
「……俺も、同じ運命だろうけどな」
 守役としての仕事と同じく、日課にしている爺さんの墓への朝の挨拶を終えたところで、俺の一日はようやく始まる。
 自分のペースでただ黙々と作業をこなし、腹が減ったら飯を食い、日が暮れれば風呂に入って寝る。月に一度納めの業者に会い、週に一度買い出しに街に出る。それ以外はずっとこの場所を離れることも無く、一人で過ごす日々。
 それは俺にとっては普通のことで、当たり前の日々だった。
 極力人とは触れ合いたくもなかったし、自由気ままに過ごせる毎日に、不満も無ければ疑問を抱くことも無かったのだ。


◇◆◇


「はぁ……いいなぁ、早く行ってみたい」
 橙色の夕暮れに染まる室内で一冊の本を眺めながら、オレ、柴山シバヤマ小太郎コタロウはうっとりと溜息を吐いた。
 見ていたのは何度も読み返してボロボロになった一冊の絵本。柔らかで温かみを感じるイラストに、ひと目見た瞬間ものすごく惹かれたことを覚えてる。

 あれはオレがまだ小さかった時。
 人間世界でいえば幼稚園児の年頃だった。

『ね、じいちゃっ、これっ、これほしい!』
『何だ? 絵本か……おもちゃを強請られるよりはマシか。お前はいつも我慢してるからなあ……今回だけだぞ?』
 じいちゃんの散歩に付き合って、ふらりと入った本屋。七色に輝く虹のイラストが綺麗な表紙は、幼かったオレの心をグッと捉えた。
 オレは兄弟も多くいるから、いつだって兄ちゃん達のお下がりばっかりで。新品のおもちゃも服も、滅多に買ってなんてもらえなかった。
 その日も駄目だと却下されるのを覚悟で、子供なりに必死の思いでじいちゃんを見上げたことを覚えてる。両手でしっかりと絵本を抱き締めながら……。


 オレが暮らす集落は……というより、オレ達は、普通の人間とはちょっと違う。
 普通の人間にはフサフサとした耳や尻尾が生えることも無ければ、変化することも出来ないらしいと知ったのも、絵本と出会ったのと同じ日だった。
 絵本に描かれていた『 人 』には、オレや周囲の人間には当たり前にあるはずの耳や尻尾が無かったのだ。驚かないはずが無かった。

『タロちゃん、なんでコイツ、オレとちがうの?』
『何だよコタ、お前知らねえの? 俺たちは獣人、この絵はただの人間』
『オレ、にんげんじゃないの?』
『俺たちは変化出来るけど、普通の人間は動物にはなれねぇんだよ』
『ジロちゃん……』
『お前も学校入ったら習うよ。街の端っこにあるトンネルを抜けると、人間の世界があるんだぜ。ただの人間は、神様のお許しが無いとこっちには来れないんだってさ』
『サンちゃんオレは? オレはそっちにいけるの?』
『お前がもっとでっかくなったらだな。あっちの世界で生きて行けるだけの知恵と根性がついたら、いつかは行けるかもしれないよ』
『シロちゃん……そっか、じゃあオレ、ぜったいいくっ』

 自分とは違う型をした 『 人間 』 の絵。
 そのイラストから受けた衝撃は半端じゃなかった。驚いて質問しまくったオレに、兄達が教えてくれたこと……その時の決意を、未だにオレは胸に抱いているのだ。
 三つ子の魂百までって諺は、オレにピッタリかもしれない。まだ文字なんて読めなかった頃にした決意を、大きくなった今でも忘れちゃいないんだから。

 兄達の買うマンガも読んだことが無ければ、母ちゃんの買うファッション誌も、父ちゃんの買う可愛い女の子が載ってる雑誌も、捲ってみることすらしたことがなかった。
 同じ年頃の友達は、変化のコントールもまだ上手く出来なかった。家にいる時はいつもは隠している耳も尻尾も、窮屈だからと皆が出しっ放しの状態だ。
 獣姿に変化していれば気持ち的には楽だけれど、その状態を保つのは結構疲れる。『動物』の状態でいる時と、 『 人間 』 とでは時間の流れも違うらしい。寿命ってやつが五倍は違うんだって。もちろん 『 人間 』の方が長生き。長生きする分、力を必要最低限にしか使わなくて済むように出来てるんだって。これはオレが学校に入ってから知ったこと。

「本当だったら、今頃は人間界で暮らしてたはずなのになあ」
「そういうことは公共の場で耳と尻尾を隠していられるようになってから言うんだな」
「っ! びっくりしたぁ、脅かさないでよゴローちゃん」
 うっとりと絵本を見ていたオレの頭上から、突然降って来た声。驚きの余り、座っていた椅子の上で器用にもビクリと飛び跳ねてしまった。
「逆毛立ってる……」
「う、うっさいなっ!」
「全く小太郎と来たら……耳出してるくせに物音にも気付かなきゃ、僕の匂いも感じないなんて……情けないったらありゃしない」
「うぅ――――」
「まあ、そんなところも可愛くて甘やかしちゃう僕も悪いんだけど」
 見上げれば軽く腕を組んだ状態でオレを見下ろしている、見知った顔……というより、オレとそっくりな顔をした男が、呆れた様子でそこにいた。


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