孤狼に愛の花束を

柚子季杏

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孤狼に愛の花束を (1)

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 あの日の事を、俺は一生忘れない――――。


 冬が間近に迫っていた。青々と茂っていた木々は徐々に葉を落とし、地面にはふかふかな落ち葉が敷き詰められていた。
 クンッと鼻を鳴らせば、微かに香る雪の匂い。冬はもうすぐ、そこまで来ていた。


「……何だ? お前、こいつはお前の母ちゃんなのか? そうか……可哀想になあ――――そう警戒すんな、悪いようにはしねえさ」

 冷たく、動かなくなった母の傍らに寄り添ったまま、幾日過ぎたのだろうか。
 俺の体力もそろそろ限界が見え始めた頃、そいつは現れた。

 白髪頭を短く刈り込み、汚れた服を身に付けた爺さん。
 彼の匂いを感じた俺は、母との約束を守ろうと人型に姿を変えたけれど、体力の落ちていた幼い俺には、完全な人型になることは難しくて。
 耳と尻尾が出たままの姿で、母を守るようにその上に身体を投げ出していた俺を、爺さんは軽々と脇に放り出す。
「やめろっ! 母さんに何すんだ!」
「こらっ、人間の姿でも噛まれちゃ痛えんだぞ? いいかボウズ、このまま母ちゃんを放っておいたら、他の動物に食われて骨すら残らねえ。ちゃんと埋めてやって、成仏させてやるのが残されたお前の役目だ」
 爺さんはそう言うと母さんを持ち上げ、でかい木の根元に向かう。
 俺の母さんがどこかにか連れて行かれてしまう。母さんがいなくなったら、俺は一人ぼっちだ……そんなことは許さない、許すもんか。
 俺は自分が人型になっていることも忘れて、彼の足に噛み付いた。もっとも、ズボンが邪魔して、怪我を負わせるにも至らなかったのだけれど。
 そんな俺には構いもせず、母さんを下ろした爺さんは土に穴を掘り出した。冬の訪れの早い肌寒い森の中、額に汗を浮かべながら穴を掘り続け、木の根元にはぽっかりと大きな空間が作られた。
「いやだ……母さんといっしょにいる……」
 地面に下ろされた母の亡骸に縋り付いてぐずる俺を見た爺さんが、辛そうに眉を顰める。
「なあボウズ、ここならいつでも母ちゃんに会いに来れるだろう? こんだけの深さを掘りゃ、ちょっとやそっとじゃ掘り起こされることもねえ」
 ゆっくり休ませてやりなと諭す声に、縋り付いていた母の身体からそっと身を起こした。

 分かってる、母さんはもう、動く事は無い。
 あの優しい声で、俺を呼んでくれる事は二度と無いのだ。

 穴に入れられる直前、母さんの柔らかかった毛をそっと撫でる。涙を堪える俺の頭を、汚れた手でぐしゃりと掻き混ぜた爺さんが、優しい仕草で母さんを持ち上げる。静かに穴の中へ納められた母さんの上に土が盛られていく様を、俺はただただ、じっと見ていた。

「お前、行くとこねえんだろ? 俺んとこに来るか? 何、気にする事はねえ、どうせ一人暮らしだ。お前一人食わせる位なら何とでもなる」
 盛り上がった木の根元に向かい手を合わせてくれた爺さんが、そう言って俺を抱き上げる。動かなくなった母の側を離れることもせず、飲まず食わずでいた俺にはもう、反抗する力も残っていなかった。
 爺さんが上着を脱いで、裸だった俺の身体を包み込み歩き出す。俺は爺さんの肩越しに、母さんが根元に埋められた木が見えなくなるまで、目を凝らして見つめていた。




「……夢か」

 鳥のさえずる声に瞳を開ければ、カーテンの隙間から朝の光が部屋の中へと入り込んでいた。ベッドサイドの時計は、いつもの起床時間よりも少し早い時間を示している。
「久々に、見たな――――」
 遠い幼い頃の記憶。
 俺が今ここにこうしている要因になった出来事。

 俺の名は森下モリシタ ギン
 人の年齢で言えば、25~26歳といったところだろうか。
 あの日俺を助けてくれた爺さんは、数年前に亡くなった。爺さんの残してくれたこの家で、今俺は一人で暮らしている。

「少し早いが、行って来るか」
 ベッドから起き上がり、手近にあった服を身に付けて外へと向かう。
 家を出ればすぐに目に入る古びた木造りの鳥居。周囲を森の緑に囲まれた中で、鳥居からは不思議な力が発せられているのを感じ取ることが出来る。

 鳥居は人の世と、獣人だけが行ける世界とを繋ぐ結界、境目なのだ。
 最もただの人間にはその力を感じることも不可能だろう。普通の人間が鳥居を潜ったところで、結界に守られ何も見えない。その奥に広がる光景に気付く人はいないのだ。
 全く、爺さんもこんな面倒な仕事まで残してくれなくても良いものを。
 思いながらも助けてもらった恩がある。
 人間とは極力付き合いを避けたい俺としては、ここでの暮らしは性に合っているから、仕方なく役目を引き継いだ。結界を見張るという、その役目を。


 爽やかな朝には不似合いな溜息を吐きながら、車一台が通れるかどうかの細い道を跨ぐように立つ鳥居の奥へと歩を進める。
 少し歩けば見えてくるのが、古い石造りのトンネルだ。このトンネルを進んだ先に、獣人達の暮らす小さな集落と、全国各地から集まった獣人の子供達が通う学校のような施設がある。
 集落では人間界に馴染めなかった獣人達が、それでも人間と同じような暮らしぶりを求めて生活している。動物の姿から人型へと変化出来ることや、それぞれの特色に焦点を当てさえしなければ、普段の生活は人と何ら変わりは無い。
 施設では小学生から高校生までの年頃の生徒が通う学び舎と、外の世界でいうところの専門学校のような場所がある。そこで子供達は人間界で生活していくために必要な知識や所作、人間達と同等の学力を身に付けるべく授業を受けているらしい。

 そんな獣人達の生活を守るための結界は、この森を取り囲むようにぐるりと張り巡らされていて、出入りするための道というのが、トンネルから鳥居を潜る一本道になるのだ。
 その道が何かの影響で崩れていたり、結界が緩みそうになっていないかを毎朝確認する。
 一日の始めに必ず行なう、守役としての唯一の仕事がそれだ。


 俺を助け育ててくれた爺さんも、実は獣人だった。耳や尻尾が出たままの中途半端な変化をしていた俺を見ても、驚かなかったのはそういうことだ。
 爺さんのもとの型態は猿だった。代々この結界の守役を司ってきた家系らしい。本来であれば爺さんもツガイを見つけて子を成し、その子に守役の役目を託すという使命があった。けれど爺さんは、伴侶として見初めた女性との間に子を儲ける事は出来なかった。子を生す前に、女性が爺さんの元を去ったのだ。
 動物の世界ではより強い雄に雌が惹かれるのは当然のこと。端的に言ってしまえば、爺さんは女を掛けた勝負に負けたのだ。

『まあ守役なんてもんがおらんでも、結界が解けることは無いんだ。ただな、この森の権利を人間に買われてしまって、下手に手を入れられてしまう恐れを回避するために、俺らみてえな守役が必要なんだよ』

 俺を守役としての後釜に据える覚悟を決めた爺さんから、生前聞かされた言葉だ。
 今では俺名義に変えられている森の土地。税金などの維持に掛かる費用は、気付けば口座に入金されている。爺さんが死ぬまでは爺さん名義の口座に。その翌年からは俺名義の口座に、キッチリと。
 施設関係のヤツの手が伸びているのか、集落での取り決めなのかは分からないが、多分前者だろうと思う。
 俺がトンネルの中へと足を踏み入れたのは、爺さんから守役の役目を引き継ぐ後釜になることを報告するために、施設長のところへ連れて行かれた幼い頃の一度きりだ。
 要は建前としての人間が外にいて、見張りの役目を果たす。それが大事なのだと、耳にタコが出来るほど聞かされた。
 他に行くところがあるわけでもなく、やりたいことがあるわけでもない俺は、面倒に思いながらも役目をこなす毎日だ。


 今日も昨日と変わらないトンネルの様子を確認した後は、頭を振って耳だけを露出させ、ぐるりと周囲を見回し異常が無いかを探る。
 爺さんは毎日歩いて確認していたらしいけれど、俺には優れた聴覚と嗅覚がある。この場に立ったままでも、意識さえ集中させれば十分役目は果たせるのだ。
「……父さん達も、結界さえ越えなきゃ死ぬこともなかったのにな――」
 視線を動かせば、母の亡骸が根元に埋まる、ひと際背の高い大木の天辺が目に入る。
 小さな呟きはすぐに、木々の葉の擦れ合う音に掻き消されていく。

 あの時は出たままだった耳や尻尾も、意図的に出したり引っ込めたりが出来るくらいに成長した。今では変化を自身の力でコントロール出来るようになった。
「近いうちに、墓参りに行くか……」
 今日の役目も終了だと来た道を引き返しながら、思い出すのは幼い日の記憶。苦い記憶に自然と眉根が寄るのは、自分ではどうしようもないことだった。


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