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137「子供っぽいから呼ばないようにしてたのに」

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「失礼します……」
 とんとん、と研究室の扉を叩く音が聞こえて、机に向かって特許申請書の確認をしていたスウェンは顔を上げる。
「おはようございます、スウェンさん」
 少しだけ開かれた扉から顔を覗かせたのはユランである。
「おはようございます、ユランくん」
「あの、先生は?」
 窓際の定位置にエイダールの姿が見えず、ユランは研究室を見回した。
「こっちだ」
 続き部屋で作業をしていたエイダールが、手招きする。
「二通とも届けてきました」
 ユランは報告する。
「そうか、お遣い御苦労さん。何か言ってたか?」
「えっと、隊長は『無理を言った、協力を感謝する』って。依頼料は迷惑料と相殺でって伝えたんですけど、後で酒でも持って行くって言ってました」
 相殺と言われても、はいそうですかで済まされないと思ったようだ。
「先生はお酒より甘いものの方が好きだって伝えようかどうか迷ったんですけど、朝の申し送りの時間になってたので伝え損ねました」
 そんなことで隊長を遅刻させる訳にはいかない。
「伝えなくていいぞ、別に酒も嫌いじゃないしな」
 何を贈られようと、そこに込められた感謝の気持ちを受け取ればいいのだ。


「ハルシエルさんのお父さんからは、丁寧にお礼を言われました。それで、もう少し聞きたいことがあるので、昼休みにこっちに伺っても構わないかって」
 どうなんでしょうか、とユランは尋ねる。
「昼休みか……長話にならないなら構わないが」
 他の研究室との打ち合わせは午後二時からだったよな、とエイダールは予定表を確かめる。
「じゃあ、そう伝えてきますね」
「ああ、伝え終わったらそのまま帰っていいからな」
 報告に来なくていいぞ、とエイダールは気を遣ったのだが。
「えー」
 帰っていいと言われて、ユランは不満げに唸る。
「えー、じゃないだろ、お前は今日は仕事休みなんだから、遊びに行くなりしっかり体を休めるなりしろよ」
 いつもと同じような時間に家を出て、警備隊詰所と研究所を行ったり来たりしているが、ユランは本日休みである。
「休日だからこそ、先生を日がな一日眺めていたいのに」
 休みが合わないって辛い、とユランは嘆く。
「朝と夕方に顔見りゃ充分だと思うんだが……」
 エイダールは、そこまでくっついていたいものなのか? と呆れる。同じ家で暮らし、毎日顔を合わせているのに、一日中眺める日まで必要とは思えない。
「足りません」
「……じゃあ昼に顔出せよ、飯くらいは一緒に食ってやるから」
 じいっと見詰められて、エイダールは折れた。


「はい! じゃあ行ってきますね!」
「あ、待ってくださいユランくん」
 部屋を出ようとしたユランをスウェンが呼び止める。
「訪ねていらっしゃる方のお名前を教えてください。受付に話を通しておかないといけませんから」
 訪問予約なしでも取次ぎはしてもらえるが、約束があることを伝えておけば、円滑に事が運ぶ。
「えっと、ハルシエルさんのお父さんで……」
 ユランは、ハルシエルの父親という認識が強いので、名前が咄嗟に思い出せない。先程エイダールからの手紙を届けた時も、まずハルシエルを探して、父親を呼んでもらった。
「ハルシエルさんとは?」
「警備隊で事務をしている人です。その人のお父さんも事務官で……名前が思い出せないんですけど」
 ユランは、スウェンに説明する。
「サフォーク・エクセターって人だ」
 見兼ねたエイダールが名前を告げる。
「そう、サフォークさんです! 先生、手紙を読んだだけなのによく覚えてますね」
 今月異動してきたばかりのサフォークとはいえ、何度か会って話もしたことがある自分が覚えていないのに、とユランは感心する。
「名前を情報として覚えるのは簡単だろう? 顔と名前を一致させるのには時間が掛かるが」
 文字情報はすぐに記憶できるエイダールだが、人の顔を覚えるのは苦手である。
「え、逆じゃないですか? この人知ってるとか会ったことあるっていうのはすぐ分かりますけど、名前はうろ覚えで」
 感覚から入るユランの場合は、名前を覚えるほうが難しい。二人を足すとちょうどいいかもしれない。


「とりあえず『ハルシエルさんのお父さん』って覚え方はやめろ」
 分かりやすいが、本人の名前を覚えられないという弊害がある。
「『誰かの○○』って言われるのを嫌う人間もいるしな」
 例えばサフォークは、確かにハルシエルの父親だが、他の立場もある。誰かの何かに属して安心感を感じる人もいれば、誰かの何かではなく個人として尊重されたい人もいる。
「はい、気を付けます……あ」
 反省したユランだが、エイダールを見て小さく叫ぶ。
「なんだよ」
「え、先生のこと、警備隊のみんなが『ユランの先生』って呼んでる気がするなあって思って」
 ユランがいつも『先生が、先生が』とエイダールのことを話すので、西区警備隊内ではそれで定着してしまっている。
「もしかして嫌だったりします?」
 もしもそうなら、責任を感じるユランである。
「そうだな、読み書き計算程度しか教えてないのにな、とは思うが、そう呼ばれること自体は気にならないかな」
 そもそも警備隊の人間と話すことが少ないので、ほとんど意識したこともない。
「それなら良かった。先生は先生だから、他の呼び方しなくちゃならないとなったら大変でした」
 ユランはほっとしたように息をつき、にこにことエイダールを見る。


「そんなに先生って呼び方が気に入ってたとは知らなかったな。好きな相手は名前や愛称で呼びたいもんじゃないのか」
 昔はおにいちゃんて呼んでたよな、と思いつつ、エイダールは尋ねる。どうしておにいちゃんから先生に呼び方が変わったのだろう。
「えっ、もしかして僕の愛を疑ってます?」
 先生という呼び方は堅苦しいかもしれないが、愛を疑われるのは心外である。
「いや、単純な疑問。まさか俺の名前を知らないなんてことはないよな?」
 自分の名前もうろ覚えなのだろうかと、エイダールは戦慄する。もしそうなら、愛を疑うなどという段階ではない。
「知らない訳ないでしょう!?」
「じゃあ言ってみろ」
 エイダールはユランに詰め寄る。
「…………エイダールおにいちゃん」
 小さい頃と同じ呼び方をしたユランは、恥ずかしそうに下を向く。
「何でおにいちゃんがつくんだ」
「名前呼びだとついちゃうんですよ! 子供っぽいから呼ばないようにしてたのに」
 ユランは、ああああっと両手で顔を覆う。いつまでもおにいちゃん呼びは恥ずかしいので、王都に来てからは封印していたらしい。今更、さん付けも他人行儀でおかしいし、呼び捨てにも出来ず、結果、先生呼びである。


「えっと、昼休みにいらっしゃるのはサフォーク・エクセターさんですね? 受付に連絡しておきます」
 目の前のじゃれ合いを見て見ぬ振りで、スウェンはサフォークの名前を紙に書きつけた。
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