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閑話1
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(あっこれ、ヤバいやつだ)
紅霞は即座に察した。
普段どおりの夕方の帰り道。空に不思議な光を見つけ、そちらへ、湖へとむかった。代わり映えしない日々に倦む心が、その背を押した。
はたして。
見つけたのは、夕闇に沈みゆく湖の畔で、明らかに性質の悪い男達に捕まった一人の女。
男達の声の大きい会話から、女が《四気神》の守護を持たない《無印》と知った。
紅霞は迷った。
捕まっている女は紅霞の家族でも友人でもなく、多少腕っぷしに自信があるとはいえ、紅霞自身は一度に五人を相手にできる実力でないことも自覚している。
見捨ててもしかたのないこと。そう、弁解することもできたが。
「くそ!」
舌打ちを一つ響かせ、紅霞は足元の石を拾い出した。
見捨てるには、女の状況は紅霞にとって、身に覚えのありすぎる類のものだった。
女の少ないこの世界で。女が欲しくても得られない男達の一部は、代用に男を求めるようになる。
紅霞や翠柳のような、線の細い女性的な顔立ちの少年や青年達は、そういった男達の格好の獲物なのだ。
紅霞も翠柳も、幼い頃から何度、その手の男達から気色の悪い視線を送られてきたことか。
視線だけならまだマシで、男達の中には幼い紅霞や翠柳相手に実行に移そうとする者も少なくなかった。
紅霞や翠柳の場合、危険な目に遭っても母の《四気神》に助けられたり、紅霞達自身が抵抗の術を学ぶことで事なきを得てきた。
しかし、あの女には《四気神》も誰もいないという。
彼女が今、どれほどの恐怖を感じていることか。
わずかでも考えてしまうと、とても見なかったふりはできなかった。
紅霞は幼い頃から培ってきた石投げの技で男達をけん制し、木立ちと夕闇にまぎれて、女を連れて逃げることに成功した。この辺りの林の地理が頭に入っていたことが幸いした。
際どい救出劇に内心(こいつの親はなにをやっているんだ)と怒りを覚えながら、「家は?」と訊ねれば、女は泣き出す。
この辺りから嫌な予感を覚えていたのだが、放り出すわけにもいかず、連れ帰って事情を聞くと、嫌な予感をさらに裏付けるような話を聞かされたのだった。
「帰り方がわからないんです」「他人に、つれて来られたんです。力を貸してほしい、と頼まれて…………」「ずっと意識を失っていて…………」「どこをどう移動してきたのか、まったくわかりません。私を連れてきた人とも、はぐれてしまって…………」
『透子』と名乗った女の話を聞いていて紅霞が考えていたのは、いつの時代も、どこかで誰かが語っている『だまされて連れて来られた女、もしくは男』の話だった。
「君にしかできない、頼めないことだ」「お礼ははずむ」
そんな台詞で誘い出される女や男の、なんと多いことか。
特に透子が《無印》と確認している紅霞は「さもありなん」と内心で深く納得していた。
紅霞が実際に《無印》と出会ったのは、今日が初めてだが、彼女らは総じて世間知らずだという。理由は単純で、実際にろくに外の世界を知ることができないからである。
《無印》の女性の人生は大別すると二つ。
実家で死ぬか、遊郭で死ぬか、だ。
なぜなら、この世界では女が少ない。少ないから、一人の女を大勢で奪い合う展開になる。
それでも女が平穏に暮らしていけるのは、《四気神》の守護があるからだ。
どんな力自慢の男も《四気神》にはかなわない(とされている)。
つまり、需要はあるが、力任せに奪うことはできない状態がつづいている。慢性的な供給不足なのだ。
そこに最大の障害である《四気神》の守護を持たない女が現れれば、どんな事態が起こるか。
理解や愛情や力のある親のもとに生まれれば、生涯を実家で過ごして死ぬことができる。
生涯を母親や姉妹の《四気神》に守られながら、婿をもらい、家庭を築き、死んでいく。
母親や姉妹が目を離した隙にさらわれる危険があるため、外に出る機会や範囲は限られてしまうが、それをのぞけば普通の女と大差ない人生と言えよう。
だが理解も愛情も力もない親のもとに生まれてしまうと悲惨だ。
娘の意思を無視して親の都合のいい婿を娶らされたり、最悪の場合は親の手で売られたりする。むろん、娘自身は監視下に置かれ、まともな外出は望めなくなる。
どちらにせよ外界との接触が限定され、都合のいい情報だけを聞かされるようになるという点で、《無印》の女性は世間知らずにならざるをえなかった。
なので紅霞も、目の前の女が明らかに怪しい話にのって「親元から引き離された」と聞いても納得こそすれ、驚きはなかった。
まして事情を聞けば、取引を持ちかけられたのは瀕死状態の時だと言う。
「だまされたほうが馬鹿だ」というのは簡単だが、それで済ますのは、いかにも思慮も配慮も足りなく思えた。
けっきょく、紅霞は透子を受け容れた。
話を聞く限り、彼女に行くあても今夜の宿もないのは明らかだったし、《四気神》の守護を持たない彼女を放り出すのは、いかにも無情に思えたからだ。
――――助けてあげようよ、紅兄――――
(翠柳がいたら、間違いなく、そう言っていただろうな――――)
湖でさらわれかけていた時も、連れ帰って事情を聞いた時も。迷わず、そう言い出すであろう伴侶の声も表情もささいな仕草さえも、紅霞はありありと思い描くことができる。
(まあ《四気神》がいないなら、なにかあっても俺一人でとり押えられるだろ。盗られるような物もないしな)
紅霞はそう結論付け、透子を泊めることに決めたのだ。
『眠い』と言ったのは、彼なりの気遣いのつもりだった。
紅霞は透子を客用の寝室に案内して、自分の――――自分と翠柳が使っていた、今は一人きりの寝室で靴や上着を脱ぐ。
(まあ…………明日以降はどうなるか、わかんねぇけどよ)
なにぶん、今の彼は慢性的に金銭不足がつづいている状態だ。
有益な見返り無しに際限なく滞在させつづけることは、血のつながった親戚でも難しい。
明日は、その辺をしっかり話し合わなければならない。
すっかり広さに慣れた寝台にもぐりながら、ふと、紅霞は思った。
(結婚式で嫁を捨てて逃げる、って。そんなもったいないことをする男が存在するんだな)
薄暗い灯りの中で見た限り、透子は充分、可愛らしい女に思えた。
やわらかい髪と白い肌、細いあごや細い首筋。肩はいかにも頼りなげで、一般的な男の庇護欲を刺激すると思う。目元もいかにもおっとりと優しげで、全体から素直さや人の好さがにじみ出て見えた。
二十歳という年齢はたしかに、艶梅国の基準では大台にのっているものの、男を伴侶に選んだ紅霞でさえ「可愛らしい」と感じたのだから、女が好きな男に好かれないはずはない。そう思うのだが。
(《無印》だからか? 相手の女がよほど美人で、金と強い《四気神》を持っていたとか…………透子だったら《無印》でも婿のなり手は多そうだけどな…………)
仕事の疲れと、危険な場面での緊張感から解放された精神は、あっという間に睡魔に捕らわれる。
(変なことになったみたいだぜ、翠柳…………)
すうっ、と意識が途切れて眠りに沈んだ。
紅霞は即座に察した。
普段どおりの夕方の帰り道。空に不思議な光を見つけ、そちらへ、湖へとむかった。代わり映えしない日々に倦む心が、その背を押した。
はたして。
見つけたのは、夕闇に沈みゆく湖の畔で、明らかに性質の悪い男達に捕まった一人の女。
男達の声の大きい会話から、女が《四気神》の守護を持たない《無印》と知った。
紅霞は迷った。
捕まっている女は紅霞の家族でも友人でもなく、多少腕っぷしに自信があるとはいえ、紅霞自身は一度に五人を相手にできる実力でないことも自覚している。
見捨ててもしかたのないこと。そう、弁解することもできたが。
「くそ!」
舌打ちを一つ響かせ、紅霞は足元の石を拾い出した。
見捨てるには、女の状況は紅霞にとって、身に覚えのありすぎる類のものだった。
女の少ないこの世界で。女が欲しくても得られない男達の一部は、代用に男を求めるようになる。
紅霞や翠柳のような、線の細い女性的な顔立ちの少年や青年達は、そういった男達の格好の獲物なのだ。
紅霞も翠柳も、幼い頃から何度、その手の男達から気色の悪い視線を送られてきたことか。
視線だけならまだマシで、男達の中には幼い紅霞や翠柳相手に実行に移そうとする者も少なくなかった。
紅霞や翠柳の場合、危険な目に遭っても母の《四気神》に助けられたり、紅霞達自身が抵抗の術を学ぶことで事なきを得てきた。
しかし、あの女には《四気神》も誰もいないという。
彼女が今、どれほどの恐怖を感じていることか。
わずかでも考えてしまうと、とても見なかったふりはできなかった。
紅霞は幼い頃から培ってきた石投げの技で男達をけん制し、木立ちと夕闇にまぎれて、女を連れて逃げることに成功した。この辺りの林の地理が頭に入っていたことが幸いした。
際どい救出劇に内心(こいつの親はなにをやっているんだ)と怒りを覚えながら、「家は?」と訊ねれば、女は泣き出す。
この辺りから嫌な予感を覚えていたのだが、放り出すわけにもいかず、連れ帰って事情を聞くと、嫌な予感をさらに裏付けるような話を聞かされたのだった。
「帰り方がわからないんです」「他人に、つれて来られたんです。力を貸してほしい、と頼まれて…………」「ずっと意識を失っていて…………」「どこをどう移動してきたのか、まったくわかりません。私を連れてきた人とも、はぐれてしまって…………」
『透子』と名乗った女の話を聞いていて紅霞が考えていたのは、いつの時代も、どこかで誰かが語っている『だまされて連れて来られた女、もしくは男』の話だった。
「君にしかできない、頼めないことだ」「お礼ははずむ」
そんな台詞で誘い出される女や男の、なんと多いことか。
特に透子が《無印》と確認している紅霞は「さもありなん」と内心で深く納得していた。
紅霞が実際に《無印》と出会ったのは、今日が初めてだが、彼女らは総じて世間知らずだという。理由は単純で、実際にろくに外の世界を知ることができないからである。
《無印》の女性の人生は大別すると二つ。
実家で死ぬか、遊郭で死ぬか、だ。
なぜなら、この世界では女が少ない。少ないから、一人の女を大勢で奪い合う展開になる。
それでも女が平穏に暮らしていけるのは、《四気神》の守護があるからだ。
どんな力自慢の男も《四気神》にはかなわない(とされている)。
つまり、需要はあるが、力任せに奪うことはできない状態がつづいている。慢性的な供給不足なのだ。
そこに最大の障害である《四気神》の守護を持たない女が現れれば、どんな事態が起こるか。
理解や愛情や力のある親のもとに生まれれば、生涯を実家で過ごして死ぬことができる。
生涯を母親や姉妹の《四気神》に守られながら、婿をもらい、家庭を築き、死んでいく。
母親や姉妹が目を離した隙にさらわれる危険があるため、外に出る機会や範囲は限られてしまうが、それをのぞけば普通の女と大差ない人生と言えよう。
だが理解も愛情も力もない親のもとに生まれてしまうと悲惨だ。
娘の意思を無視して親の都合のいい婿を娶らされたり、最悪の場合は親の手で売られたりする。むろん、娘自身は監視下に置かれ、まともな外出は望めなくなる。
どちらにせよ外界との接触が限定され、都合のいい情報だけを聞かされるようになるという点で、《無印》の女性は世間知らずにならざるをえなかった。
なので紅霞も、目の前の女が明らかに怪しい話にのって「親元から引き離された」と聞いても納得こそすれ、驚きはなかった。
まして事情を聞けば、取引を持ちかけられたのは瀕死状態の時だと言う。
「だまされたほうが馬鹿だ」というのは簡単だが、それで済ますのは、いかにも思慮も配慮も足りなく思えた。
けっきょく、紅霞は透子を受け容れた。
話を聞く限り、彼女に行くあても今夜の宿もないのは明らかだったし、《四気神》の守護を持たない彼女を放り出すのは、いかにも無情に思えたからだ。
――――助けてあげようよ、紅兄――――
(翠柳がいたら、間違いなく、そう言っていただろうな――――)
湖でさらわれかけていた時も、連れ帰って事情を聞いた時も。迷わず、そう言い出すであろう伴侶の声も表情もささいな仕草さえも、紅霞はありありと思い描くことができる。
(まあ《四気神》がいないなら、なにかあっても俺一人でとり押えられるだろ。盗られるような物もないしな)
紅霞はそう結論付け、透子を泊めることに決めたのだ。
『眠い』と言ったのは、彼なりの気遣いのつもりだった。
紅霞は透子を客用の寝室に案内して、自分の――――自分と翠柳が使っていた、今は一人きりの寝室で靴や上着を脱ぐ。
(まあ…………明日以降はどうなるか、わかんねぇけどよ)
なにぶん、今の彼は慢性的に金銭不足がつづいている状態だ。
有益な見返り無しに際限なく滞在させつづけることは、血のつながった親戚でも難しい。
明日は、その辺をしっかり話し合わなければならない。
すっかり広さに慣れた寝台にもぐりながら、ふと、紅霞は思った。
(結婚式で嫁を捨てて逃げる、って。そんなもったいないことをする男が存在するんだな)
薄暗い灯りの中で見た限り、透子は充分、可愛らしい女に思えた。
やわらかい髪と白い肌、細いあごや細い首筋。肩はいかにも頼りなげで、一般的な男の庇護欲を刺激すると思う。目元もいかにもおっとりと優しげで、全体から素直さや人の好さがにじみ出て見えた。
二十歳という年齢はたしかに、艶梅国の基準では大台にのっているものの、男を伴侶に選んだ紅霞でさえ「可愛らしい」と感じたのだから、女が好きな男に好かれないはずはない。そう思うのだが。
(《無印》だからか? 相手の女がよほど美人で、金と強い《四気神》を持っていたとか…………透子だったら《無印》でも婿のなり手は多そうだけどな…………)
仕事の疲れと、危険な場面での緊張感から解放された精神は、あっという間に睡魔に捕らわれる。
(変なことになったみたいだぜ、翠柳…………)
すうっ、と意識が途切れて眠りに沈んだ。
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