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 翌朝。目覚めた透子は、しばし状況がわからなかった。
 覚えのない天井と固いベッドの感触。
 慌てて身を起こし、殺風景な室内の光景と、サイドテーブルにたたんで置いた黄色の衣や帯が視界に入って、記憶がよみがえる。
 そうだ。自分はトラックに衝突されて死にかけ、『異世界の女神』を自称する女性に違う世界に連れて来られたのだ。そして良からぬ男達に誘拐されかけていたところを、紅霞という青年に助けてもらい、夕食と一夜の宿まで提供してもらったのだ。
 異世界は中華ファンタジー風の雰囲気で女性が圧倒的に少なく、そのうえ《四気神》と呼ばれる存在に守られているらしい…………。

(いけない)

 透子は窓を見た。木戸の隙間から細い陽光の筋がさし込んでいる。
 厚意で泊めてもらった他人の家で、長々と眠ってしまうなんて。

(今、何時? 時計かスマホがあればいいのに…………)

 透子はいそいで身支度を整える。昨夜は襦袢一枚で寝たので、その上に、あの紅霞という青年から借りた薄黄色の衣を重ね、帯をしめる。
 手で髪を梳き、(顔を洗いたいな)と思いながら客室を出た。
 記憶を頼りに、昨日、話していたダイニングらしき部屋に入ると、ちょうど長身長髪の青年が荷物片手に出て行こうとしている。

「起きたのか」

「あ、お、おはようございます。あの…………」

「悪い、俺はもう仕事にいく。話は帰ってからな」

 言いながら、テーブルの上を示す。

「朝飯だ。庭に生っていたやつだ、それで我慢してくれ。夕方前に帰ってくる。出て行くのはかまわないが、《無印》だと知られないようにしろよ。残ってもかまわないが、盗るような物はない。あと、俺の部屋には入るな。誰か来ても出なくていい。なにかあっても俺は責任とれないからな。ああ、水瓶はそこだ。じゃ」

 一方的に言うと、透子の返事を待たずに飛び出して行ってしまった。
 声をかけるどころか見送る暇もない。
 透子はあ然としたが、やがて「ひとまず朝食にしよう」と頭を切り替えた。
 テーブルに乗っていたのは果物だった。小ぶりの枇杷と蜜柑、そしてライチが甘い匂いを放ちながら小山を作っている。

(庭に生っていた、って言っていた…………わざわざ枝から採ってくれたの? 出勤前に?)

 そういえば、この家に残っていた食料は昨夜、透子が食べ尽くしてしまったはず。

(ああ…………)

 透子はいたたまれない羞恥に襲われた。とはいえ空腹なのも事実だ。
 ひとまず、ありがたく果物をいただくことにした。
 刃物の場所がわからないので、手で皮をむいていく。

(甘さはひかえめだけれど…………おいしい)

 透子は顔がほころんだ。

「飲み物は…………水瓶って言っていたっけ」

 そばに置かれていたカップを借り、柄杓《ひしゃく》で水を注いで喉を湿らせる。

(さて)

 朝食を済ませ、水瓶の水で手と顔を洗うと、ダイニングにぽつんと一人きりになった。
 一応『出て行ってもいい』と言われはしたけれど。

(もう少し話を聞かせてもらいたいし…………申し訳ないけれど、帰りを待たせてもらおう)

 幸い『残っていてもかまわない』とも言われている。

(なにか、できることはないかな。こういう時は掃除の一つもしておくべき? でも掃除道具の場所もわからないし…………)

「勝手に自分の物に触れられるだけで不愉快」という人種もいる。許しを得ていない以上、今は余計なことはしないほうがいいかもしれない。

(なにか時間を潰せる物はないかな。それか、こちらのことがわかるようなもの…………)

 室内をじっくり見渡すと、竈のそばにちょっと黄ばんだ紙の束が積みあげられている。
 ひろげてみると小さな文字がびっしり詰まった、新聞のようだった。

「ちょうどよかった」と透子は紙の束をテーブルに移動させ、広げる。時間つぶしとこちらの勉強にはもってこいだ。窓から射し込む午前の陽光の中、透子は文字を追いはじめた。

(…………北部で稲の病気が流行…………万博開催…………出品物は、輸入物のお香に乾物…………最新ミシンに、新型の布を織る機械…………布職人組合の組長が語る、『布織り機の改良は脅威だ、これ以上機械織りが発達すれば、昔ながらの手織り職人達の仕事がなくなってしまう…………』こっちは宣伝…………手洗い用石けんに…………皺とり美容クリーム?)

 字を追っていくうちに透子は楽しくなってきた。
 印刷されている内容は諸々の事件やイベント、求人、商品の宣伝など、の新聞と大差ないが、それがかえって『物語』を、『生活』を感じさせる。大勢の人々がたしかにこの世界で生きて、暮らしているのだ。

(古い新聞を読んで当時の世相とかを研究する人達って、こういう気分かな? ニュースを読むのは初めてじゃないのに…………なんだか面白い)

 透子は少し安堵した。
 どうやら異世界とはいえ、そこに住む人々の心や考え方は、もとの世界とそう大きく違ってはいないらしい。
 ついでにこの世界に対するイメージも固まってきた。

(ネット小説の異世界物だと、転生先は中世ヨーロッパ風世界が定番だけれど…………ここはたぶん、『中世』じゃない。物が多すぎる。機械もあるみたいだし…………)

『美しくなるクリーム』だの『万病に効く予防薬』だの、怪しげな物も混じっているが、『洗剤』や『風邪薬』『消毒薬』がチラシに載っているということは、それらが庶民に手に入る値段で浸透している証だろう。つまり物が豊富で、かつ、一般の間に「病気になったら薬を飲む」という常識が浸透している(怪しげな祈祷や儀式に頼らない)。さらには『消毒』の概念もあり、「病気や怪我の治療には、清潔に保つことが重要」という考えも浸透していると判断できる。
 ミシンや、布を織る機械のような複雑な機械が存在する以上、工学も発達しているようだ。

(新聞が存在するということは、識字率も高くて、一般庶民も字が読める程度の教育は受けているんじゃないかな? 中世ではありえなさそう…………なんとなく『ロー○・オブ・ザ・リン○』みたいな世界を予想していたけれど…………むしろ『近世』? 明治とか大正時代?」

 透子も歴史に詳しいわけではないので、正確なことは言えない。が、思い返せば、あの女神も「文化レベルは日本より二百年から百年遅れている」と言っていた記憶があるので、この予測はそう的外れでもないと思う。

「暮らしていくなら、現代にちかい時代のほうが楽だろうけれど。近世となると…………」

(『知識チート』は無理かな?)と思ってしまった。

 異世界転生モノでは「日本で暮らしていた時の知識を転生先の世界で活かして~」という展開が定番だが、近世となると、様々な技術や学術の発展が進んでいる。そこで知識チートするなら、専門家レベルの知識や技術が必要なのではないだろうか。
 少なくとも、一般的なOLの知識が活躍できる余地はないように思える。

(わたしの専門知識…………なんて、ある? 医者でもエンジニアでもないし、仮にエンジニアでも、パソコンまではこの世界にあるかどうか…………)

 ちょっと、がっかりしてしまった(そんな状況でもないのに)。
(二年で帰るなら、チートしてもしかたないのに。…………いえ、むしろ二年で帰るからこそ、チートくらい経験してみたかったような…………)

 そして透子は根本的な問題にぶつかる。

(とにかく、あの女神様と合流しないと)

 それが最優先にして最大の問題だった。
 あの女神は「透子の安全と生活は保証する」と言ったが、透子は昨日、放り出されたまま、一晩が経っても迎えや連絡がくる様子はない。

(好意的に解釈すれば、あちらもなんらかの事情があって、私のほうまで手が回らずにいる。もしくは、必死に探しているけれど見つからない状態。嫌な想像をすれば…………自分の用は済んだので、どうでもよくなった…………とか?)

 透子の表情がかたくなる。
 しかしすぐに否定した。
 あの女神は《世界樹》の《種》の《仮枝》を必要としており、その《仮枝》として透子に取引を持ちかけた。そして透子にはすでに《種》が宿っている。
 あの女神にとって《種》が重要なものである以上、その《種》を宿した透子を目の届かぬ状態で放置できるはずがない。
 やはり「迎えに来たくても、来られない状況にある」と考えるのが無難だろう。
 思い出すのは、《世界樹》のもとにいた時に襲ってきた黒い靄である。

(あの靄も…………なんだったんだろう? 片言だけれど、たしかにしゃべっていた…………あの靄に邪魔されて私の所に来られない、とか…………?)

 透子は沈思黙考し、やがてあきらめた。
 情報が少なすぎる。少なくとも今の透子は、この世界についても女神についても知らなさすぎて、判断の下しようがない。今どんな結論を出しても、無駄に焦るだけの気がする。

(とりあえず、これ新聞を読んでしまおう)

 少しでもこちらの情報を集めること。
 それが今の自分に必要で、かつ、自分にできる唯一の行動に思えた。
 一人きりの室内に紙がめくれる音だけが響く。
 新聞は数日分がたまっており、透子は家の主の帰宅まで、退屈せずに過ごした。

(あれ。これって…………)

 ある小さな欄に目がとまる。
 と、ガチャガチャと鍵が開く音が響いて、玄関の扉が開かれた。

「…………いたんだな」

「おかえりなさい」

 家の主の帰宅である。
 窓の外を見れば、いったんのぼった太陽はすでに降下をはじめている。
 紅霞は意外そうな困っているような表情をしていた。

「すみません、待たせてもらいました。もう少しお話をうかがいたかったので…………」

 透子は頭をさげた。

「別にいいけどな」と紅霞は持っていた紙袋をダイニングのテーブルに置き、ひろげられていた新聞紙とその山に目をとめる。

「新聞を読んでいたのか?」

「あ、勝手に読ませてもらいました。…………大丈夫ですか?」

「かまわねぇよ。仕事場で読み終わったやつを、焚き付け用にもらってきただけだしな」

(ああ、なるほど)と透子は納得した。
 竈を日常的に使用するなら、火をつける際によく燃える紙類があると便利なのだろう。
 紅霞は鉄瓶を火にかけて湯を沸かし、いったん自室に引っ込んで、上着を脱いで戻ってくる。

「少し早いが、夕飯にするか。腹、空いてるだろ? 適当に買ってきた」

 テーブルの上の紙袋からは食べ物の匂いがただよっている。

「なにからなにまで、すみません…………」

 ずっとお世話になりっぱなしだ。
 恐縮してちぢこまる透子に、紅霞は不思議なものを見る目つきになった。

「…………アンタはよく謝るな。アンタの国の女は、みんなそうなのか?」

「え? みんなというか…………お世話になっているんですから、お礼やお詫びは当然では?」

 紅霞はますます戸惑ったようだ。
 が、ひとまずは沸いた湯で茶を淹れ、夕食を優先する。
 紙袋からは饅頭四つに果物、春巻きっぽいものや竹の葉に包まれたちまきっぽいものなどが出てきて、皿にのせられてテーブルに並んだ。

「いただきます」

 透子は遠慮がちに饅頭を手にとる。

「大した食事でなくて悪いな。外に食べに行ければいいんだが、アンタは《無印》だからな」

「《無印》はそんなに危険ですか? 昨日が例外なのではなくて?」

「そりゃそうだ。女が欲しい男は、いくらでもいる。《四気神》がいるから手が出せないだけだ。男と結婚している男だって、嫁が見つからなかったからそうしただけで、可能なら今からでも嫁が欲しいって奴は多いんだ。アンタみたいな若くて可愛い女、《無印》と知られたら、その場で誘拐されるぞ。そのあとは嫁として売られるか、遊郭に『商品』として売られるか…………昨夜の奴らも、最終的にはそれが目的だったろうしな」

 透子はぞっとした。
 あらためて、昨夜の自分がいかに危険な状況だったか思い知る。
 そうして大事な事柄に気づいた。

「紅霞さんも…………私を売りたいですか?」

 助けてもらって部屋と食事を提供してもらって、すっかり信用していたが、目の前の彼が金欲しさに透子を売らない保証は、どこにもないのだ。
 だが紅霞は「あ゛?」と眉をつりあげてにらんできた。
 柄は良くないが、並外れた美貌はそんな表情でも様になる。

「売るなら、とっくにそうしてる。いちいち食事なんか買ってくるか!」

「そうですよね、すみません!」

 透子は即座に謝ったし、疑った自分に対して恥ずかしさがこみあげる。
 紅霞はさらに主張した。

「そもそも売ってたら、仕事なんざ行くか。女一人売るだけで、どれだけの金額になると思ってるんだ」

「え。どれくらい…………でしょう?」

「…………俺も相場は知らぇよ。まあ、二、三ヶ月は遊んで暮らせるんじゃないか?」

 単身者が三ヶ月間、遊んで暮らせる金額。六ケタ後半、いや、七ケタだろうか。

「遊郭なんて、どこもいつも人材不足だって聞くしな。《四気神》のいない《無印》なんて、お宝だろ。まして若くて可愛いとなれば」

『若くて可愛い』を連発され、透子はむず痒く感じた。
 褒められて悪い気はしないが、目の前の紅霞のような並外れた美形の口からとなると、また感想は違ってくる。
 透子は話題を変えた。

「あの。教えてほしい場所があるんですが」

「ん?」と紅霞が透子の真剣な顔を見た。
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